2017年9月16日土曜日

竹林ヨシミ(元宝塚歌劇団員)       ・いつの時も“すみれの花”咲かせて

竹林ヨシミ(元宝塚歌劇団員)   ・いつの時も“すみれの花”咲かせて
兵庫県宝塚市出身 90歳 1940年に宝塚音楽学校に入学、3年後卒業して初舞台を踏みました。
しかし、翌年、1944年太平洋戦争の激化とともに、宝塚大劇場は閉鎖、海軍に接収されました。
竹林さん達は象徴である緑色の袴を紺色の制服に着替え、移動隊として全国各地の兵舎を慰問して回りました。
戦後、ふたたび宝塚の舞台に立ち、1954年27歳で退団されるまで花組の娘役で副組長をつとめました。
3年前の宝塚歌劇団100周年の記念式典では最高齢の卒業生の一人として式典の開会宣言もしました。

学校に行って歌ったり踊ったりすることが楽しみでした。
宝塚歌劇団100周年の記念式典、歴代のトップスターが集まりました。
最高齢の卒業生の一人として式典の開会宣言もしました。
足腰が悪くてもステージに上がると足が自然に前に出ます。
その時だけ身体がしゃんとします。
2年先輩に淡島千景さん、4年後輩に八千草薫さんがいます。
お客さんを喜ばせると言うより、自分が楽しませてもらったと思います。
宝塚は私の心のふるさと、辛い時も楽しい時も母のような気持で宝塚を愛しています。

1927年横浜市生まれ、母を早く亡くして、父の仕事の関係で8歳のときに大阪に引っ越してきて、私たちは西宮市に引っ越してくる。
宝塚歌劇も見たことはありませんでしたが、担任の先生が宝塚ファンだったので、父に頼んだようで言われる通りに行きました。
歌う試験があり、何小節か楽譜を書くが、私は習っていなくて、前の方が歌う通りに歌ったら何とか歌えました。
黒い水着を着せられて、おおきな部屋に一人台の上に乗せられて、段々恥ずかしくなって赤くなって舞い上がってしまいました。
落ちると思っていたが入っていました。
父がよろこんでくれて、何もかもそろえてくれました。
学校に入って見学の時に行って、始めてみて余りの美しさにびっくりしました。
「すみれの花の咲く頃」美しく良い歌だと思います。

1940年の30期生でした。
朝一番電車で学校に行って、6時30分ごろ着いて当時掃除などは生徒はしませんでした。
ピアノが弾けて、バレエしてみたり、子供が遊んでいるのと同じ気持ちでした。
家庭訪問があり、学科は素晴らしいが実技の方がもう一つですと言われますが、私はやったことが無く、他の人たちは習った方が来るので出来るのは当たり前でした。
当時の体罰は当たり前でした、棒持っていて足を叩かれてみみずばれになる人もいましたが、でもやめないんです。
1943年首席で音楽学校を卒業。
櫻野美也子(さくらのみやこ)という名前になる。
戦争中なので派手な名前はつけられなくて、この名前を持っていったらこれにしなさいと言われました。
雪組で初舞台を踏む、「海軍」というステージでした。
アメリカの海軍の制服を着せられて点呼させられ、サーティーワンそれが私の番号で、それが初めてのセリフです。
ラインダンスも有りました。

昭和19年3月に戦況が悪化するなかで、宝塚歌劇大劇場は海軍に接収されて、移動隊として全国各地を慰問して回ることになりました。
日本ものが多かったです、人数は30人ぐらいでした。
早く戦争は終わってほしいと思いました。
鹿児島の知覧に淡島さんらと紺の制服をまとって汽車で行くんですが、満員で押し込まれて行きました。
娘道成寺を公演しますが、じーっと見ていました。(17,8歳の方たちでした)
終わると規則正しく敬礼して、白いマフラーが印象的でした。
結婚してから主人と知覧に旅行したことがありますが、若い元気な顔の写真がずらーっと飾ってあって思わず涙が出てしまいました。
皆、飛行機で自爆していったのかと思うと、言葉にならなかったです。

舞台の無い時は勤労報国隊として、軍服のボタンつけをしたりみんな頑張ってやりました。
B29が連なってきてそれが怖かったです。
足がすくんでしまって動けなかったが、青年が私を引っ張って家の壁にくっついて身を隠すようにしてくれました。
自分の身を守るだけで精一杯で、舞台に上がりたいなんて言うことは思いもしませんでした。
1945年8月15日、とにかく負けてもうれしかったです、電気が点いて明るいし、おびえないで済むし、舞台に出られるし、戦争が無くなったということは嬉しかったです。
学校の帰り、歩いていたら車に乗った米軍の兵隊がいきなり片手で担がれてしまって、製材所に連れて行かれて、食事をしていた人がいたが「助けて」と言っても助けてくれなかった。
私を降ろした瞬間に階段を降りて逃げました。
父からは坊主にしてズボンを履けと言われたが、それはできませんでした。

昭和21年4月22日に宝塚大劇場の公演が再開。
花組は夏の踊りと言う各地の民謡を集めた舞台で再開、阿波踊りをしました。
越路吹雪さんが「筏流し」を歌ったのが素敵でした。
戦争中は出し物が暗いし、観客も暗いが、華やかでみんなの笑顔が違います。
「源氏物語」で八千草さんが小紫、私が清少納言役でしたが、春日野八千代さんのお父さんが来るとの事で緊張してしまって、「姫君」と言わなければいけないところを「ひめみぎ」と言ってしまって、客席もワーッとわいてしまって、なんで笑っているのか判らなかった。
それが大失敗でした。
1954年、昭和29年27歳で結婚して退団しました。
後ろ髪を引かれる思いと、そろそろ身を固めた方がいいのではないかという事で、結果家庭に入ることにしました。
父からは「刺身につまがなかったらおいしくないだろう、つまあっての刺身だから、お前はつまでずーっと行ったらいいんだよ」と言われました。
退団の時は「すみれの花の咲く頃」を一人で歌うことが出来て、「櫻野美也子」と言って下さった方がいて本当にうれしかったです。
「戦争はいや」、その一言です。
「清く正しく美しく」 清く正しくは身にしみついていて、その通りにやってきていると思います。