2017年10月24日火曜日

仲川文江(手話通訳者)          ・ろう者の被爆 伝え続けて

仲川文江(手話通訳者)       ・ろう者の被爆 伝え続けて
77歳、広島に投下された原爆で被爆した耳の聞こえない人たちの体験を本にまとめたり、被爆者に代わって手話で伝えてきたりしました。
原爆が投下されてから72年、耳の聞こえない被爆者がいた証しを残そうという仲川さんにお聞きしました。

広島に投下された原爆で被爆した耳の聞こえない人たちは、戦後遅くなってから調査した関係で、はっきりしていないのですが、およそ200人ぐらいかなと言われています。
実際には200人よりはずっと多いと思います。
今も健在な方は4人です。
私が取材できる人は2人で、2人は県外です。
高齢なのでいつも面会できる訳ではなくて、元気で活動できる人は一人もいないので、今は最後のチャンスだと思っています。
耳に音とか言葉が残っている年齢から失聴された方は、音、言葉の記憶があるので自分で声を出すことが出来る。
音、言葉の記憶のない、先天性とか、耳に音とか言葉が残っていない年齢から失聴された方は手話でないと意志は伝わりません。
手話は顔の表情(喜怒哀楽)、スピード、強弱等あり、要素と言うものはものすごくたくさん有ります。
そういうものが全部出来て初めて通じると言うことになります。

手話から日本語の文章に変えることは結構大変です。
私の両親は耳が聞こえないが、兄弟は耳が聞こえたので幼い頃手話を習得しました。
私は手話を先に覚えたと思います。
祖父母、伯母等もいたので喋る言葉も自然と覚えました。
戦時中、灯火管制があるときには光が漏れないようにするが、そうすると両親とは意志が通じなくなるので、点けたままにしていましたが、最後には軍の方が来て電球を持って帰ってしまいました。
5歳の私を一緒に連れて行って、返してほしいと言ったが、拒否されてしまいました。
私がちゃんと電気消しますと言って、何とか電球を返して貰いました。
戦後広島市に移って、父が耳の聞こえない人達を含めた木工所を建てて、社宅には6家族の耳の聞こえない家族がいました。
そこはみんな手話でしたので、手話での通訳をしました。
耳の聞こえない人が病気になった時などは学校まで迎えに来て、授業を抜けて病院の方と手話で通訳をしたりしました。

沢山の耳の聞こえなくなった人たちの中で育ったので、私の持っている手話の力はその頃から培ってきたものだと思います。
40年ほど前に、広島県手話通訳問題研究会を立ち上げて、間もなく被爆した耳の聞こえない人達の体験の聞き取りを始めました。
私たちの親団体からの依頼で、聞こえない人達の戦争はどうだったかと言うことを全国的に集めたいと言うことでしたが、とんでもないことだと思いました。
音声言語と手話言語は根本的に違う。
断ったがしつこくお願いされて、とりあえずやってみようと思ったことと、今までの聞こえない人たちの生活はどう言うふうに残っているのかなと思って、調べてみたが聞こえない人の話はどこにも残っていなかった。
書くことの訓練はしていないので、発した言葉がどういう文字になるかということはおざなりになっていた。
自分の気持ちを文章に表せないので、聞こえない人の文化、歴史、生活も何にも残っていないので、聞こえない人がいなかったと一緒。
そういう状況を知ったので、ではやってみようと思いました。

最初は物凄く警戒されました。
雑談しているうちに、段々話してくれるようになりました。
被爆した体験のしんどさは一緒ですが、違うところは情報量の違いです。
原爆は特殊爆弾と言うことは理解しているが、放射能、被爆による体調の変化、体調の変化を理解するのに早い人で10年、判らない人は20年、30年もかかっています。
今の病気が放射能障害ではないか、そのためには手帳が無いといけないと判ったころには30年もたっている。
被爆したと言うことに対する証人も探すのも大変です。
被爆のせいだと判るのは20年も30年もたってしまっている。(被爆したという概念がない)
聞こえる親はほとんど手話はできないので、伝えることが出来ない。
「被爆障害」と言う言葉などは言えない、伝えられない。

情報が積み重なって、理解されるのに時間がかかる、終戦を知らなかった人も沢山います。
「そうだったのか」と諦めるしかないです。
聞こえないお嫁さん、お姑さん、聞こえる赤ちゃん3人が広島駅前で被爆して大やけどを負って、姉さんのところまでやっと歩いて行ったが、おぶっていた赤ちゃんは頭から大やけどを負っていて、自分は前が大やけどで重症で、一緒に寝ていたが3日目に赤ちゃんが亡くなるが、赤ちゃんを抱き締めたかったが出来なかったと、手話でおっしゃるわけです。
それがたった一つの手話で、抱けなかったことへの無念さ、悔しさ、情けなさ、不憫さなどがたった一つの手話で表現する訳です。(全身で表現する)
その時の顔、身体の動きが言葉にできない、それを文章にできない。
書いては消したり繰り返したが、どうしても「3日目に亡くなりました。」しか書けなかった。

一冊目の時は大変な反響でした。
文章にならない所っていっぱいあるんですよね。
見ることと、聞く言葉の違いの難しさを本当に苦しみました。
文章の限界を知り、疑問を感じ始めました。
広島市が被爆体験の伝承の事業を始めたと言うことを聞きました。
私たちも手話で残せばいいと思って、去年伝承班と言う形でスタートして育成と言うところから始めました。
被爆者の方からは、この活動に対してとっても喜んでくれています。
この夏に手話で体験を披露する機会が有ったが、会場はコトリとも音がしないで、じーっと食い入るように見ていて、終わっても会場は動きませんでした。
東京にもう一方いますが、取材をしたいがもうギリギリで、何故もうちょっと早くやらなかったのかと思っています。