2017年10月20日金曜日

竹内昌彦(NPO法人 ヒカリカナタ基金)   ・アジアの子らにヒカリを

竹内昌彦(NPO法人 ヒカリカナタ基金)・アジアの子らにヒカリを
72歳、元岡山県立岡山盲学校の教頭で全盲です。
幼い頃目が見えないことで虐められら体験から命の大切さや障害者への理解をうったえる講演を全国各地で行いその回数は2300回を超えました。
講演の収益金を元にこれまででモンゴルやキルギスに、視覚障害者のための学校や施設を建てました。
又昨年11月にはアジアの子供たちに目の手術の費用を援助するNPO法人「ヒカリカナタ基金」を設立し、これまで70人を超える子供たちが光を取り戻しています。
竹内さんの活動を支えるのはどんな思いなのか伺いました。

視力のない子供たちに視力をプレゼントしたい、それを日本からはるか彼方へ送ると言う意味で「ヒカリカナタ基金」と言う名前にしました。
モンゴル、キルギス合わせて70人以上の子供の視力が改善したと聞いています。
きっかけはモンゴルで視覚障害の子供を盲学校にいかせたいとの運動が有り、遊牧民なので学校に行くには遠いので、行かせることはできないと言うことでお金を出して、グランバートルの盲学校に連れて行ったら、医者がちょっとした手術で視力が回復するから普通の学校に行けばいいと言われました。
15万円あれば2人見えるようになるがお金がないので、と言う電話がかかって来ました。
手術をして貰い、治ってその子たちは学校に行けるようになりました。
そのことで、できるだけ頑張って見えるようにしてやりたいと思いました。
開発途上国では視力の有る無しは道はないし点字ブロックはないし非常に厳しいので、学校を作るよりももっと大事だと思って目標をこれに切り替えました。

アジアにはちょっとした手術で目が見えるようになる人が大勢いる。
今年の12月にはネパールに行って、組織にお願いして目の見えない子供の手術をしたいと思っています。
昔から日本にはアジアなどに大規模に支援活動をしているグループが沢山あります。
そのグループに持ち込んで応援してくれないかと言えば、快く受け取ってくれる面が有り、ネパール、来年はミャンマー、事情さえ許せばタイ、フィリピン、カンボジア等多くの国の子供に注目したいと思っています。
2011年モンゴルに盲学校を建て、キリギスには2015年に視覚障害者のための施設を建てました。

きっかけとなったのは3つ有り
①現役のころから人権問題として、障害者理解を深めたいとの教育界の動きが始まりました。
障害者への差別問題も学校で教育の材料として取り上げたいと言うことで、障害者の話を1991年から私は講演の要請を受けるようになりました。
講演をすると御礼が出るが、臨時収入でよろこんでいていいのかという不安が有り、とりあえず貯金をしましたが、それが100万円を超えました。(何か出来そうな額になった)

②沖縄にアジアの国の視覚障害者のリーダーを集めて、視覚障害者でも日本にはマッサージという職業が有ると言うことをリーダーに教えて、目が見えなくても働けると言う種を蒔こうと言う計画が始まりました。
その教師団に私にも来いと言う話が持ちかけられました。
各国ではどうやってマッサージを皆のものにしていいかわからないと言うことで、私の貯金で学校を作れないかなあと思いました。

③モンゴルのガンズリグという若者が日本に来て、按摩、鍼、灸の国家試験を日本語で受けて資格を取って国に帰って、後輩たちに教えていると言うことが判ったが、学校がなくて苦労しながら教えていると言うことで、学校さえ作ってあげれば勉強しやすいと言うことでモンゴルに決めて話を進めました。
学校を作って寄宿舎、食堂を作って、コンピューターを習う部屋、英語を習う部屋も作って総合力の付いた卒業生を出そうと2011年に建て、300人卒業しました。
卒業生には、あなた方が今一番大事だと、あなた方がいい仕事をしたらモンゴルの国は認めてくれる、あなた方がいい加減な仕事をしたら目の見えない人にはマッサージは無理だという結論になるので頑張れとハッパをかけて、今病院とかマッサージ治療院などで一生懸命働いています。
NHKの取材が有り、TVに向かって自分は物乞いをしていたがマッサージを習って家も建てて、お嫁さんが来て、子供が出来、あのころを思うと本当に幸せになれたと言ってくれて実に気分のいい話でした。
キルギスにも広げました。

1945年生まれ、(中国の天津で生まれる)父が外務省がらみの仕事していたが、半年後に日本が負けて引き上げの時に、私は船の中で風邪をこじらせ肺炎になり40℃の熱が出て、右の眼を壊してしまい、左の眼は多少は見えて普通の小学校に行き来ました。
黒板もよく見えなくて、いじめられたりしました。
2年生の2月に網膜剥離を起こして完全に見えなくなってしまいました。
遊びなどについていけないことが悔しかったし、さびしかったりしました。
点字を覚えて、親はなんでもやらしてくれたのでそんなに辛いとは思いませんでした。
中学3年生の時には進路を決めなくてはいけないが、本来目が見えたら絵が好きで設計図を書くことがしたかった。
家は考えて妻に説明して方眼紙に書いて貰って、建築業者に見せたらこれはすぐ建ちますねと言われました。
子供時代はいじめにあい辛かったし、悲しかった。
性分としては気が強くて、彼らに仕返しをしたりもしました。
小学校2年生の時には凄くいい先生で物凄く私を大事にして褒めてくれました。

講演では自分の体験を正直に話します。
自分の生き方から何かヒントを見つけてくださいと言っていますが、いじめに依り自殺する人がいるのでやはり死ぬな、親がどれだけ悲しむか、辛かったら学校を休んでもいい、そのうちきっといい事が回って来るから辛い時にはねばれ、凌げ、とにかく死なずに待っているようにと、声を大にしていっています。
自分は親からこんなに大切にされていると言うことを知ったので、だから簡単に死ぬわけにはいかなかった、親を喜ばせたい安心させたいと言うのが生きる上で大きな原動力でした。
私の長男が重い脳性小児麻痺で寝たきりで、言葉も出なかった。
喜怒哀楽ははっきりしているが、言葉が出なくて、7つで亡くなりました。
あのときぐらい悲しいことはなかった、だから死ぬなと言いたい。
その時以来、お金に対する執着力が減ったと思います。

あの子のためにお金を残そうと思った、身体障害者手帳もある医者が早く作ってくれ、この子に一番味方になるのはお金です、この子のために貯金しなさいと言われて、お金に執着しましたが、長男が亡くなり何にも意味が無くなった。
結婚し24歳で小さな家も建て幸せの基礎が作れたと思った瞬間にあの子が生まれ、その後自分の求める幸せはあっという間に崩れる。
もっと確実な幸せは人が喜ぶことをしたい、人に幸せをあげられたらこれほど気分のいい事はないと思うようになりました。
あの子が命を捨てて我儘な私を叱り教えてくれました、それからの学校の仕事もそういう見方で頑張りましたが、生徒のためにと思っていろいろ提案しましたが回りからは嫌われました。
点字ブロックは岡山県で世界で初めて敷設されて今年50年で、点字ブロックの石碑をつくって、点字ブロックを守る会の代表をしています。
三宅精一という目の見える人が目の見えない人が、少しでも歩きやすいにと言うことで点字ブロックを作り、自分のお金で工事して反対される中をつないできた。
点字ブロックの石碑を作ったら、饅頭、せんべい、歌、キャラクターなどが出来て点字ブロックへの理解が広がりました。

自分の幸せを求めても小さい、大勢の人がよろこんでくれたら10人なら10倍です。
目の見えない子供の目を少しでも治してやりたい、ここに来た訳です。
ここまで来るのには色々苦労は有りましたが、モンゴルでは最初の学校は国が認めて国立になりました。
私は目さえ見えたらと日に何度も思いました、親からは本当に色々して貰ったが、私はあの子にしてやれなかったのは目が見えないからで、目さえ見えたらもっとしてやりたかった。
目が見えない不便さはどんどん良くなったが、目が見えない悲しみはいつになっても消えないと思う。
逆手にとって目が見える人にも出来ない人生をやってやろうではないかと思って、今の私の人生は目が見えないから出来上がった人生です。
妻には親に反対されて結婚して、長男を亡くした時には両親に悪いことをしたかなあと思いましたが、あとからよかったなあと思わせてやると言う気負いが私に有りました。
妻からはこんなに面白い亭主を持ったのはいない、あなたのおかげで色んな経験をして、面白かったかなあと言ってくれて、ちょっと気が楽になりました。
結婚48年を過ぎました
これからも健康を維持して今目標にしていることを投げ出さずに、「ヒカリカナタ基金」の活動を頑張って、講演も続けようと思っています。
組織を世界的に広げて私が死ぬまでに1000人にしたいと思います。