2017年11月7日火曜日

佐佐木幸綱(歌人・日本ほろよい学会会長) ・酒は静かに飲むべかりけり 

佐佐木幸綱(歌人・日本ほろよい学会会長) ・酒は静かに飲むべかりけり
日本ほろよい学会とはどんな学会なのか伺いました。

「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」 若山牧水
白玉は歯に掛かるまくら言葉的に使われている。
白い歯に沁み透って行く秋に酒はワイワイみんなで騒いで飲むのではなく、一人で静かに味わいながら飲むべきだ、その方がしみじみと酒のうまさが判る、と言うような意味です。
11月頃に新しい酒が出来る。
若山牧水は360首位酒に関する歌を歌っている。
若山牧水のお墓がある沼津の千本山乗運寺の住職の林さんが牧水の酒の歌と言う本を出しました。
歌集に出したのは6900首です。(43歳で亡くなる)
長生きした人は2万位だしてます。
「人の世にたのしみ多し然れども酒なしにしてなにのたのしみ」 若山牧水
「それほどに うまきかと人の とひたらば なんと答へむ この酒の味」 若山牧水
おばあさん、両親が酒が好きだったようです。
早稲田の学生のころに人妻と恋愛するが、2年付き合うがうまくいかず、失恋前後から酒をよく飲むようになる。

一番多い時は朝2合、昼2合、夜6合飲んでいたようです。
朝酒はおいしいが身体には良くないようです。
2cm位のコウモリと柳の絵が描いてある盃を愛用して、亡くなった後に一緒に焼いたが、綺麗にに残っていたので、取っておくことになり、沼津の牧水記念館に陳列されています。
気ままに山里を歩く旅が好きで、夕方に集落があると泊めてもらうと言うような旅をしていたようです。
鳥、木、草、花の名前を沢山覚えた様です。
旅の歌は2300首です。
1674日 1/9旅をしていた、大学卒業後にすると1年のうちに1/5旅をしていた。
富士山が大好きで沼津に住む様になる。
「牧水」の牧はお母さんの名前が「牧」 牧水は「富士人」「旅人」と言う名前を息子に付けている。
亡くなる直前まで飲んでいた。
医者も最初は止めていたが、最後はもういいやと言うことになる。

9月に亡くなるが、暑い時期は傷んでしまうが、3日ぐらいは全然傷まなかった。
医者が生きたままアルコール浸けになるかな といって綺麗になっていたと言う話が残っています。
牧水を話題にしてNHKが番組を作ったが、酒豪、早稲田出身、歌人と言うことでその時に私が出演することになり、色々なところにロケに行ったりしました。
牧水よりも沢山酒の歌を作ろうと思って、牧水より超えましたが、向こうは43歳で亡くなっているので倍を作らないといけないと思っています。(79歳)
若山牧水賞 第二回目に貰う。
受賞者は若山牧水の研究をして地元の新聞に連載しないといけない。
授賞式後のパーティーにはお酒が一杯出ます。
女性では河野裕子さん、小島ゆかりさん、俵万智さんなどが受賞されています。

日本ほろよい学会、1999年秋田で日本デザイン会議が開かれて、当時の市長の石川錬治郎さんが早稲田の同級生だったのでこういうことをやろうと言うことで誘いかけられて誕生しました。
石川さんが酒、牧水が好きで、牧水の歌碑を建てて除幕式にも私も参加しました。
牧水会が有り、ほろよい学会と合流しました。
名誉会長、会長、「燗司」(お燗を司る)長を作って会則も決めました。
「酒および嗜好と言う人類固有の天寿の恵みを、四季折々の花鳥風月を愛でつつあくまでもほろよいのころあいでたしなむとともに、飄逸として清談を楽しむ、ほろ酔いの極意をあまねく伝えることにある。」これが目的です。
斎藤茂吉の長男で斎藤 茂太さんはそういうお酒です。
斎藤 茂太さんは他人に酒を勧めない、他人から勧められても受けない、酒は一人で自分で飲むんだと言う会の会長をやっていました。
会員には亡くなった佐々木久子さん、黒田桃子さん、西木正明さん、池田理代子さん、小島ゆかりさん、三枝成彰さん、林真理さん子、初代名誉会長は暉峻康隆(てるおかやすたか)先生(早稲田の名誉教授)
暉峻先生は「上等の酒を上品に常温で飲め」と言っています。
秋田、宮崎県(牧水生誕地)、沼津、東京、宇都宮等でもやっています。
兵庫県伊丹市(日本酒発祥の地と言われている)で伊藤一彦(牧水研究家)、宇多喜代子(俳人)さんとか集まって語ったりしています。

1938年東京の文京区で生まれる、私は出産のときに俳人で産婦人科医の水原秋桜子さんに取り上げてもらいました。
水原秋桜子さんはくぼたうつおの弟子で、僕が大学院の時に亡くなって、水原秋桜子さんはお通夜、葬式にも来て、俳句の人はあまりいませんでしたが、ずーっと何時間もいました。
佐佐木信綱、祖父で文化勲章をいただいた。
「ゆく秋の 大和の国の 薬師寺の 塔の上なる 一ひらの雲」
両親、兄も歌人です。
「心の花」来年創刊120年になります。
1898年(明治31年)に創刊(短歌の雑誌)してずーっと続いています。
「心の花」とは「歌はやがて人の心の花なり」から来た題名です。
小学校ぐらいからぼつぼつ短歌を作っていましたが、真面目に作ったのは父が亡くなってからです。
父親が50歳で亡くなりました。(私が20歳の時)
父親の命日と私の誕生日が同じです。(10月8日事故でなくなってしまいました)
短歌の追悼の歌を作りました。
31歳の時に「群黎(ぐんれい)」で現代歌人協会賞、若山牧水賞、第10回斎藤茂吉短歌文学賞、第50回芸術選奨・文部大臣賞、紫綬褒章・・・。

私の時代は男の時代の最後の時代だと思います。
三船敏郎、石原裕次郎の時代から段々ユニセックスの時代になる。
マリリンモンロー、ヘミングウエーが亡くなって女っぽい女と、男っぽい男の時代の最後の時代に短歌を作り始める。
ボクシング、ラグビーなどをやっていました。
「男を歌う」と言われました。
父と息子と言うことを一つのテーマにしてきました。
そういう角度から世界を見て行き、歌を作って来ました。
「父として幼き者は見上げ居りねがわくは金色の獅子とうつれよ」 佐佐木幸綱
「徳利の向こうは夜霧、大いなる闇よしとして秋の酒酌む」    佐佐木幸綱
「雨荒く降り来し夜更酔い果てて寝んとす友よ明日あらば明日」  佐佐木幸綱
「人肌の燗とはだれの人肌か こころに立たす一人あるべし」    佐佐木幸綱