2017年12月14日木曜日

湯原悦子(介護殺人”研究者)       ・大切な人を殺さないために!

湯原悦子(介護殺人”研究者)       ・大切な人を殺さないために!
介護に疲れて家族の命に手をかけてしまう介護殺人が後を立ちません。
20年にわたって介護殺人を研究している日本福祉大学准教授、湯原さん47歳に依ると、確認できるだけでも 年間40件ほど、その数は年々緩やかに増えていると言います。
湯原さんは精神障害者の母親の介護を経験し、福祉に付いて学ぼうと大学に再入学して研究を続けて来ました。
介護殺人を減らすにはケアマネージャー等の支援者が介護を担う人をどう支えるかが重要なポイントだと指摘しています。
大切な人を殺さないために何が必要なのか伺いました。

私が育った家には障害のある姉と病気の母が居ました。
介護は身近な問題でした。
それで研究者になりましたが、介護者自身の言葉を分析している研究が無くて、支援者側から見た事件や虐待の研究が多かった。
介護者はきっとこうは考えていないのではないかと思って、介護者自身の声を伝えていきたいと思ったのが研究のきっかけです。
OLをやっていたが、母の病気がひどくなって辞めました。
母は精神疾患だったのですが、ほんとうに困ったことが有って、我慢が出来ない、わたしを困らせないでと思ったときに、瓶を机で割ってかけらを掴んだ時に血が出て正気が保ったことが有って、10年傷が治らなかった。
瓶を持って向かって行ったら母も向かってきたかもしれず、介護殺人になってしまっていたかもしれない。

大切な母親だと思っているが、カッと来てしまって自分を押さえることが出来ないことがある事を実感しました。
母の行動にたいして近所の方から色々苦情が来て、地域の中でも孤立してしまい、なんとかしてほしいと言われて追い詰められました。
大学院に入ったのは1998年で、児童虐待が世間を騒がしていた状況でしたが、高齢者虐待についてはほとんど研究されていなくてそれをテーマにしました。
加害者にインタビューしたかったが、支援者にたいしての調査研究しかできなかった。
加害者はそうは考えていないのではないかと思いました。
法学部出だったので裁判例を使えばいいと思って、介護殺人の研究をしようと思うようになりました。
当時は誰も介護殺人を専門に研究する人はいませんでした。(いまでもあまりいないと思います。)

この問題は是非世の中に出して行かなくてはいけないと思いました。
法廷の場にも行きました。
裁判官から、あなたはこの事件を起こして反省しているかと問われて、「自分は何にたいして反省したらいいかよくわからない」と言った人がいました。
(夫が奥さんを殺してしまったと言う事例)
夫としては出来る限り一生懸命やって、痩せて夜も眠れない位してきた、問われた時に「自分は何にたいして反省したらいいかよくわからない」と答えたことは、凄く正直な気持ちとして私のなかに響きました。
「父は良くやっていたので父を責めるのなら私を責めてください」と、娘さんがいって、その光景は頭に焼きついています。
ぎりぎりまで追い詰められたけれど事件を起こさなかった人の手記を集めた本があるが、自分にたいして支援者が声をかけて、話を聞いて冷静になれたとか、手をかけた瞬間相手が反応して自分に気が付いたとか、そういうちょっとしたことで戻ってきた人もかなりいますので、声を掛けてあげるとかはまわりが出来ることかなと思います。

介護している方そのものが高齢だったり、自身病気だったり、障害を抱えていたり、介護する人がこんなに大変な介護を一人で背負わなければらないのかという状況が見られる。
これが一つの大きな要因だと思います。
介護者を支援する制度はほとんど無いんです。
介護者を支援する方法しかないと思います。
殺してしまった介護者、色んな事情から殺してしまった人をどうしたら事前に食い止められるかと思ったときに、介護者支援を本気で考えないといけないと思いました。
あるケースでは、介護者が重いうつ状態になり痩せて行きアルコールを飲み、気付けるはずだったが、まわりがその時に気づけば防げたと思います。
介護者自身が病気、あるいは85歳以上とか、が大変な介護をしなければいけないとかと思う場合もあるし、若い方で外部とのコミュニケーションが取れない方が親の介護をしなくてはいけなくなったときに、外部と交渉したりするには介護者としてやって行くのは難しと思います。

不適切な介護状況にあれば外部からの支援はあるが、それなりに介護している状況にあれば介護者に任せることになってしまう。
介護者支援はだれがやるのか、お金はどうするのかとなると、システム的に出来ていない以上無理をお願いすると言うことになってしまうと思いました。
海外に行ったときに介護をする人とされる人の両方が居ないと成り立たない行為、何故日本では介護を必要とする制度はあるが、介護をする人への支援は薄いのかと言われて、はっとして介護者支援は介護の両輪としてふたつが必要だと意識を変えています。
介護をするきっかけ、その人の守りたい生活などを聞きながら相談にのってくれるソーシャルワーカーが居て一緒に考えてくれる。
イギリスが一番先行していますし、社会的排除をしないようになっている。

南オーストラリアでの実践は衝撃的でした。
介護者の方々が自ら集まって、社会にたいしてどういうふうな存在で、どういうふうなことを求めているのかと言う事を自分たちでまとめた介護者憲章を作りました。
当事者が自分たちにたいしてどう見てほしい、どう支援してほしい、どういうふうなかかわりを持ってほしいと言うことで、力を感じましたし、重要だと思いました。
参考にして欲しいと憲章をプレゼントをされました。
日本でも作りましょうという事で、愛知県支部として介護者憲章を作りました。
介護者憲章を学会で報告しましたが賞を頂きました。
介護を代わってほしいと言うようなときにも、誰かが代わってくれると言うことがなくて、我慢して追い詰められてしまう介護者の現状があると思います。
代わって介護する為の手段として地域で考えて出来るといいですね。
愛知県ですと、認知症の人と家族の会等当事者の団体が自分たちも支援を求めていいんだということを確認しましょうと、希望、やれることを支援者に伝えるシートを作ってみたりとの取り組みはあります。
法制度は遅々として進まない。
実践は実践で進みつつあります。(介護支援者へのツールとか、勉強会)

誰が、予算は、と言うことに最終はなるので、法律のあるないは大きい。
虐待防止法はあり、介護者支援の視点が入っていて法的な枠組みの中で行うことが出来ていてネットワークはあるが、それ以外は出来ないこともあるので法律は是非作っていきたいと思います。
介護殺人を無くすためには介護者支援をするという発想と、介護者の方がどれぐらい介護を出来るかを見極めて出来ない部分を助けると言う発想が必要だと思います。
また事件を振り返って、その後気づいた点をサービスの充実に生かしてゆくことも必要だと思います。
「助けて」と周りに表現することも大事だと思います。
そして支援が出来るところに繋いで欲しいと思います。


















2017年12月13日水曜日

小林由佳(乳がんブラジャー製作者)    ・片胸が無くてもお洒落を諦めない!

小林由佳(乳がんブラジャー製作者)    ・片胸が無くてもお洒落を諦めない!
39歳 小林さんは3年前に乳がんが発覚、医師からは2,3年以内に再発、転移しやすいタイプのがんと伝えられ、右胸の全摘手術を受けます。
その後離婚を経験、闘病生活の中で鬱状態になった時もありましたが、乳がん患者だからわかると、乳がん患者専用のブラジャーを製作する会社を立ちあげます。
片胸がなくても胸を張って生きていこうと呼びかける小林さんに伺いました。

私自身右胸の全摘手術をして、その傷が当たっていたかったりとかあって、下着で困った経験からこういったブラジャーを作っています。
普通のブラジャーを付けるとパットを入れて生活するが、パットが徐々に飛び出してくるんです。
うちはレモン型のパットを作って患者さんに渡しています、パットはS,M,Lで展開していますが、それの中間もあるのでそれぞれに工夫もしています。
がんになっていない人は色々選べるが、乳がんになると地味な下着しか選べなくて、不公平だと思って自分で作るようになりました。

乳がんが判った時は、胸がブラジャーに収まらなくなってきて、右だけが大きくなって病院に行きました。
不思議だなと思ってから3カ月後に病院に行きました。
腫瘍が4cm位になっていました。
最初病院から良性と言われて、念の為細胞診をしたら病院から電話が来て悪性だと言われました。
頭が真っ白になってしまいました。
主人に報告しないといけないと思ったが、大事な会議があると言うことでラインで報告しました。
主人との関係がうまくいかなくなってしまって離婚しました。
片胸が無くなってしまったことで、女性であるのに女性で無くなったという自分自身にたいする自信が無くなったことが大きかったと思います。
抗がん剤を強めに打ってもらったことで、生理も止まってしまって、良い細胞も壊してしまって、卵巣の機能も低下してしまって子供を産めない状況になってしまいました。
そうなることになるとは判らず治療をしました。

医師に話したら抗がん剤の為に生理が止まっているとの話だった、それを前に聞いていれば卵子を凍結して取っておく方法も可能だったとは思います。
友人からは胸がなくても命があるから大丈夫と言われたが、でも胸は無いんだよなと、立場の違いを感じました。(友人には子供がいたし、自分は子供が産めない身体になってしまった)
離婚後実家に戻って、暫く引きこもりになってしまいました。
インターネットで乳がんの患者が集まるグループを見つけまして、そこに入ったのが変わるターニングポイントだったと思います。
グループには300人ぐらいいました。
好きな人ができたが、胸がないというハードルが出来てしまい、自分自身に自信が無くなってしまって、恋愛にたいして前向きにできないのだがどう思いますか、という内容を投稿しました。
もっと重い患者の人がいるのに、と言うような反感の内容もありました。

数人から温かいメッセージを頂き、凄い励みになりました。
或る方からは自分の命を日々燃やして生きていると言うような状況の中で、温かいメッセージを頂きました。(その方はそんなに重症だとは知らなかった。)
その方は私にメッセージを送った2カ月後に亡くなってしまいました。
悲しみに暮れましたが、私にしてくれたことを今度は私が何かしようと思いました。
下着に困ってしまっていて下着を調べて行くほど、機能はいいが可愛くないものが多いと言うことと、輝くことをあきらめてほしくないと言うことがありました。
結婚式の時のブライダルインナー、美に対してのこだわりがある。

カウンセリングをして、現状困っている事を全部話を聞かせていただいて、その方に合った下着を選んで着けてもらって、加工して出すようにしています。
患者さんに寄り添ってあげることが言葉をかけるのではなくて、そばにいてあげることだと思います。
乳がんの患者さんは胸をカバーしたいので、洋服の上に洋服をみたいな感じできたりしますが、Tシャツ1枚、シャツ1枚、身体のラインが出るドレスを着ることが嬉しいみたいなので、一つ一つ解決してきたのが良かったと思います。
乳がんブラジャーのファッションショーを今年の夏に札幌で開催。
私自身も参加して下着を付けて歩きました。
前向きに生きていることを見ていただきたくて、歩かせていただきました。
患者にとって希望の星だと言われて、先導して歩いていけるような存在になっていけたらいいなあと思います。
会社を立ち上げて両親が凄く応援してくれて、母は私が子供が産めなくなったことに対して、「あなたは今乳がんの患者さんのために下着を作ると言う仕事をやることに決めたのだから、あなたが社会に遺伝子を残しなさい」と言ってくれたのが励みになっています。












2017年12月12日火曜日

本田理沙(元アイドル・ストーカー被害者)  ・逃げる勇気を

本田理沙(元アイドル・ストーカー被害者)  ・逃げる勇気を
大分県中津市出身、17歳でアイドル歌手としてデビュー、雑誌のグラビア、TVドラマ、バラエティー番組など幅広く活動しました。
親元を離れ一人東京で暮らしていた間、たびたびファンに付きまとわれたり、見知らぬ男性に襲われたりする被害に悩まされました。
中には命の危険を感じる出来事もあったと言います。
度重なるストレスから、本田さんの身体には耳が聞こえなくなるなどと言う異変が現れ26歳で芸能界引退を余儀なくされました。
46歳になった今は故郷の大分で地元FMラジオ局のパーソナリティーやダンススクールの講師を勤めながら2人の娘と暮らしています。
本田さんの体験や女性が身を守るために必要な事などについて伺います。

絶対的なアイドルと言うよりは、時代が下がって放課後のアイドルとか、ちょっと距離が近くなった感じのアイドルの時代でした。
接点が多くなり、男の子だったら彼女みたいに思われていたんだろうなと言うことを感じることはありました。
ファンレターも内容が激しい感じのものもありました。
営業先で1泊することがありましたが、楽屋泥棒にあった時もありました。
関係者しか入れない様な場所だったが、下着、着替え、メーク等無くなってしまったことがありました。
後から手紙で実は僕が盗みましたと、独占欲が強くてというような内容のものでした。
必要なファンだけれど、紙一重的で、でも根はそんなに悪くない様な、微妙な状況でした。
警察沙汰になったのは、エレベーターで自宅に帰ろうエレベーターに乗ろうとしたら、一緒に男性が乗って来て、閉ったら急にはがいじめにされてしまいました。
身体を触られたりして、ナイフを持っているから騒ぐなと脅されました。
その時はGパンをはいていて良かったとその後では思いました。
刺されるれるよりはと思って無抵抗でいました。
ドアがあいたら、小学生がいたが、異常な雰囲気を察して逃げて行ってしまいましが、顔をみられたと思ったのか、犯人もその子を追いかけるように逃げて行きました。
警察に来てもらったが、自分では顔を見ていなくて判らないと答えるしかなかった。

その後エレベーターには乗らないようにしました。
ファンから家が見つからない様な工夫はしました。
ファンからのぬいぐるみには盗聴器がないか、注意しました。
プレゼントに電話を貰ったこともありました。
使い始めてしばらくした頃聞かれているのではないかと思うようになりました。
そのほかやはり盗聴されているのではないかと心配で友達とは筆談したりしました。
色々積み重なってそのうちファンを見ると具合が悪くなるようになりました。
夜の9,10時位に家に侵入されたこともありました。
引き戸が5cm位開いて、棒状の懐中電灯の赤いライトが見えて、恐怖のため耳鳴りのような感じがして音が一切遮断されて音が聞こえなくなり、その場を逃げてベランダで叫んでいたようです。
警察を呼ぶからという声がその時しました。
2階から飛び降りようとしたら、俳優の金山一彦さんと二人で自転車で来てくれて、「男がいる」と叫んだら、肩車をしてベランダから降ろしてくれました。
その男は見ることはできなかった。
洗面所のドアが開いていてそこから侵入していた事が判った。
警察が調べたがつかまってはいませんでした。

事務所からはあなたの自己管理がなっていないと怒られて終わってしまう。
自分だけの問題では無いと思いましたが、公には言わなかった。
公にすると両親も心配するし、何倍、何十倍にも尾ひれがついて大変なことになると事務所からも言われました。
一人でいることが厭でした。
親が亡くなったり、TVを見ることが無くなった状態なので今言わなければと思いました。
耳鳴りは今も続いています。(メンタル的にびくっとした時などにおきます。)
低音が大きく聞こえてしまって、通常の音が聞こえなくなる。
娘が2人いますが、高校生の時に痴漢にあいました。
電車内の出来事で、寝ていたら高齢者に腿を触われ、周りの人と一緒に捕まえて警察に行きました。
自分は自分で守らなければいけないと話しています。
私が言える範囲のことは言うようにしています。
追ってしまってとんでもないことに巻き込まれては大変だし、追わない勇気も大事だと思います。

私ももっと早く言えば良かったと思います。
自分の身を守るのは自分しかないと思います。
周りとはコミュニケーションをとってほしいと思います。(話しやすい環境作り)












































2017年12月11日月曜日

清水宏保(男子500m 金メダリスト)  ・【“2020”に託すもの】オリンピックのむこうに見る夢

清水宏保(長野オリンピックスピードスケート男子500m金メダリスト)・【“2020”に託すもの】オリンピックのむこうに見る夢

見た目にも筋力が多いなあと伝わる様です。
太ももは今は64cm、現役当時は68cm位ありました。
現在札幌市内でジムとリハリビの施設を経営、最初は治療の方から始めて、リハリビ施設、訪問看護ステーション、そして昨年念願のスポーツジムをオープンしてきた。
運動がメインになりながらスポーツと医療が融合する施設作りを心がけています。
他のスポーツジムとはない形になってきたので、面白いかなあと思いながら運営しています。
医療の観点、アスリートの観点、リハリビを行うのは病院と決まっていたが、病院は在日数が決まっているが、退院した後もリハリビを続けられるジムは、若者だけではなく70,80歳の方でもスポーツジムに通いながらリハリビをしていくことが求められている。
80,90歳の方がスポーツジムに行っても何をやっていったらいいかわからないと言う時に、医療スタッフ、理学療法士を配置しているので、医療の観点からのスポーツジムと言うのも凄く需要としてあります。

1998年長野オリンピック(来年で20年)は、自分の人生を大きく変えてくれた出来事でした。
当時の事を鮮明に覚えています。
500m、2回滑ってその合計タイムとなる。
*当時のラジオ放送を再放送。
36秒08で金メダルを獲得することが出来るが、35秒59でゴール。
この種目オリンピック初めての金メダルを獲得。
私たちが滑る少し前の組の外国勢が転倒して競技が20,30分遅れてしまい、どうしようかとあわただしい状況がありました。
準備番たんの時にそのアクシデントがありました。
1分単位で準備して待っているスケジュールで組んでいたので、動揺が生まれました。
集中力、体力的なものも左右されます。
あわてても仕方がないと思って、スケート靴を脱いで戻って気持ちを落ち着けようと思いました。

リンクの中央部分で大の字に寝たことを覚えています。
1回目のスタートが合わなかった。
何故リスタートなのか、怒りが起きました。
1/100秒を争うスケートなのでスタートの第1歩が物凄く大切になって来る。
僕の場合は1歩目が決まればそのときのレースは9割がた決まってくる。
2回目もいいスタートを切れたと思う。
300mまでは失敗をしないように頑張っていこうと思って滑り、最終カーブを回った時にふっとスローモーションの感覚があり、もうオリンピックは終わってしまうのかこの感覚を味わっていたいと言うような感覚が残り150mでありました。
凄く冷静な判断が出来た様な感覚がありました。

一発勝負に強くなる練習はしていました。
練習のすべて全力でこなすのではなく、一日1本でもいいから全力でこなす練習をして自然と集中力が身に付きました。
ヘッドフォンで音楽を聞いて外からの音を聞こえなくすることも、話しかけないでくださいと言うアピールでもある訳です。
肉体を知り尽くすことも心がけていました。
私の場合はぜんそく患者なので肺が弱くて、皆の練習についていけないと言うことが有った。
ハードな練習をして肉体を鍛えて、肺を鍛えて行くと言うことをしました。
精神的な強さも作り上げることにもつながっていきました。
北海道帯広生まれで、喘息をコントロールしていこうとして、父親が色んなスポーツをやらせてくれて、スケートだけは続けたいと思っていました。

30歳を越えたぐらいから身体がいうことを聞いてくれない、なかなか回復しなくなった。
1本にかける勝負も出せなくなってきた。
世界記録を4回塗り替えたが、33秒台をだしたい気持はありました。
勝負と記録への挑み方、ふたつの勝負ポイントがあったが、それでモチベーションを保っていた。
レースの前は身体をほぐし過ぎてもいけないし、方法も大事。
マッサージを受けながら画像診断しているようなイメージでマッサージを受けるが、受け身ではない。
自分とトレーナーと一緒に身体を仕上げて行く作業をしています。
喘息、腰痛との戦いがありそれが今のビジネスに繋がっています。

30歳を過ぎてから、次の人生をどうしようかと悩んでいました。
35歳で現役引退しました。
1年間はどうたらいい判らず、講演などをしていました。
その後大学院に入って自分がどうして行ったらいいか、気付き始めた時期でもありました。
どんな選手であろうと、アスリートのセカンドキャリアーは一度は悩むことだと思います。
現役時代もっとぼろぼろになるまで挑戦してれば良かったなあというような、悔いがちょっとあります。(そういった処から得るものがある。)
ピークを過ぎると何故自分が思い通りの動きが出来ないんだろうとか、自分と向き合う事が出来るが、ピークの時には何も考えない場合が多い。

企業スポーツは福利厚生の中でスポーツが成り立つというところでやっていたが、それではスポーツは続かないと言う思いと、スピードスケートを少しでも企業から注目してもらいたい、メディアに扱ってもらいたいと言うふたつの思いがあった。
橋本聖子さんとも相談してプロ化の道もあると言う話もあり、前提としては長野オリンピックで金メダルをとることが絶対条件と言うことがありました。
今はプロ化の選手は多く輩出している。
多くの子供達がスポーツとしっかり向き合って、将来的にもお金を稼げるんだと言うことをしていかないとスポーツ人口はなかなか増えていかないのかなあと思いました。
今度のオリンピックは期待してもらいたいです。
高木美帆選手、小平奈緒選手、今シーズンも最高に状態がいいです。
自分を客観視することが出来る選手でなければいけない。
オリンピックなどで戦う選手はもう一人の自分を作り上げていかないといけないと思う。

2020年に託すものとしては、全体的に見ていく時には、経済面でオリンピックを縮小化して行く事業モデルになってほしいと思います。
日本のスポーツがいま変わろうとしているタイミングで、スポーツ省が出来て、選手たちのセカンドキャリアーの指導も行ってきて、支えて行こうとしていて、今までになかった流れになって来ている。
まだ形がはっきりしていないかもしれないが、2020年には大きな形として示されていくのかなと思っています。
2020年以降の選手たちには、退いた後の生活も支える様な文化になっていくのではないのかなと感じています。
すそ野が広がれば、世界で活躍するアスリートがたくさん生まれてくるのではないのかなあと思っています。




2017年12月9日土曜日

尾崎健一(元少年通信兵)          ・少年兵の見た“地獄” ルソン島からの生還

尾崎健一(元少年通信兵)       ・少年兵の見た“地獄” ルソン島からの生還
高知県出身、89歳、12月8日は76年前人本がアメリカ、イギリスなどを相手に太平洋戦争を始めた日です。
尾崎さんは開戦から3年後、すでに戦況が悪化していた昭和19年(1944年)12月に通信兵としてルソン島に送られました。
16歳の少年でした。
着任早々アメリカ軍の猛攻に会い、ジャングルに逃げこんだ尾崎さんたち、それからおよそ7か月間飢えや病気、アメリカ軍やゲリラの攻撃にさらされ、何度も死を覚悟しながらさまよい続けました。
そこで尾崎さんが見たのは人が人で無くなって行く地獄だったと言います。
戦後尾崎さんが長い間、この体験を人に語りませんでしたが、戦争の記憶が風化するのを防ぎたいと、自らルソン島現場を訪れ戦死者の記録を調べ手記にまとめ、公表しました。
少年兵が見た戦争の姿とはどのようなものだったのか伺いました。

手記の一部。
「配属された部隊が壊滅し食糧が無くなり、山へ逃げ込んだ私たちは文字通り草木をかじって生き延びた。
アメリカ軍の執拗な空爆砲撃、ゲリラの狙撃があって死亡者が続出した。
あの時から70年過ぎたが、今でも思い出すと眠れない夜がある。
彼ら兵隊は使い捨てにされた消耗品だったのではないか、単なる犬死ではなかったのか。
いまでもなお、彼らの遺骨は山奥に雨ざらしのまま散乱しており、、見捨てられ寂しく眠っていると思うと、胸が締め付けられる思いがして、わたしの心の中の戦後はいつまでも終わらない。」

73年もたつが、私にとってはまるで昨日のように思い出される。
実に悲惨でした、それを考えると今でも眠ることはできない。
当時旧制中学の4年だったが、中退して志願しました。
戦況は悪化しつつありまして、志願兵の募集をしていました。
相当に危機と云う風な気持ちがあり、親に話しましたが大反対でしたが、親を説得して一人で決めました。
15歳の時に東京陸軍通信少年兵学校に入学しました。(2年の予定)
10カ月後に30人が選抜されて私もその中に入りました。
行き先は中隊長が小声でいったんです。
兄から死ぬなよ、絶対帰ってこいよと言われました。
当時の戦況についての説明が全く無かった、1944年の秋にレイテ島の海戦で日本軍が負けていて、フィリピンの戦況は悪化していたが知らなかった。

九州の門司から出発しますが、行くときに「貴様ら全員が目的地に着けると思うな、輸送船に積み込んだ物資、船員の半分が着けば成功である。」こう言うんです。
半分死んでもいいと言う事で、消耗品扱いする軍の考え方に失望と怒りを覚えました。
志願をしたことを後悔し始めました。
1944年11月に門司港を出発。
畳1枚の広さに10人以上、横になって寝ることが不可能で、蒸し暑くてたまに30度を超える状況だった。
トイレに行くのもやっと行くような状況だった。
潜水艦が来てることが判り、爆発音が響きましたが、後の記録では30分間魚雷を投下し続けて何とか逃げ切りました。
20日間恐怖を帯びながら行きました。
幸いに私が乗った船だけが着くことが出来ました。
12月の初めにルソン島の北に上陸、南下してマニラで配属される。

日本が管理する航空基地があったが、そこが毎日のようにアメリカ軍の空爆を受けていた。(一方的)
1月9日に米軍が上陸してマニラの方に侵攻した。
私達の通信隊は海外との交信で発信出力が非常に大きいために探知されて、戦闘機による爆撃でたちまち破壊されました。
通信が出来なくなり、約10km程上流に移動しました。
今までにない数の戦闘機の爆撃に会い怖かったです。
川から上がった時は20人ぐらい死者が居て、周辺はわたし一人でした。
部隊が壊滅しまして、敗残兵として山の中を逃げまわる生活、それから7カ月大変な経験をしました。
武器は小銃弾が20発位、他に飯合ほか(良く聞き取れず)、食糧は靴下に7合ぐらい入れて持っていた。

食糧はすぐに無くなり、食える雑草はあまりなくて、雑草を飯合で煮て食うが腹の足しにならないから水をがぶ飲みして何とか我慢できるようになるが、後は蛇、とかげ、かえるおたまじゃくし、沢ガニ、バッタ、食えるものは何でも食いました。
靴底がはがれて、最後には靴を捨てて後は裸足でした。
足から血が出てきてしまい辛かった。
病魔、マラリア、熱帯性胃潰瘍、(そのほか良く聞き取れず)全部かかりました。
身体はガラガラに痩せて歩くのがやっとでした。
新しい死体の肉を切り取ってある跡があるのを2回ほど見たことがあります。
私たちは3人で行動していましたが、或る部隊が肉を焼いていてトカゲだと言ったが、人肉だろうと口から出かかったが出来なかった。
人が人ではなくなる。

白骨化した死体を70体は見たと思います。
怖いと言うよりも、今日も何とか生き延びた、明日の食うものはどうしようか、その事ばかり考えるだけでした。
これ以上逃げても仕方がない一か所にとどまって、農耕作しようと言うことになり、30人ぐらい集まってそういう生活をしているうちに、出す煙を段々警戒しないようになって、大変な惨劇に会いました。
攻撃がやんでから恐る恐る元の所に戻ったら、一人の兵隊が呻いていた。
同期の戦友だった、歯が吹っ飛んでいて無かった。
朝小屋に戻った時にはこの世の地獄絵を見ました。
30人ぐらいが色んな形になり、ちぎれたり、内臓が出たりして死んでいました。
残っていたのは他にも一人でした。(重症)
どうせ生きてはいられないと思ってその人は名前を言いませんでした。

山の中の生活を生き延びて、飛行機が低空を飛んでビラをまいていました。
ビラを見たら、日本軍の無条件降伏と、武装解除の勧告が書いてありました。
戦陣訓で、帝国軍人は捕虜になってはいけないと言うことを徹底的に学校で鍛えられました。
その後も1カ月程雑草を食う生活を続けましたが、限界にきてもうこれ以上耐えられない、死を待つばかりに残った3人は追い詰められて、死を覚悟の上で武装解除をしようと山を降りました。
おおきなトラックが来て真っ先に小銃を取り上げられ、荷台に放りあげられました。

1946年11月、18歳になってから日本に戻ることになりました。
家に帰ると焼け野原で家も焼けていました。
親戚の家に行って迎えてくれました。
家族は母と兄が疎開をしていました。
父は空襲で壕の中で焼け死んだと聞きました。
戦後、戦争の体験は話しませんでした、山中の逃避行、戦友の無残な死など到底理解してもらえないと思いました。
1978年、偶然に街を歩いていたら卒業生に出会い、ある会合に行きましたが、来ていた当時の教官に「全滅した彼らのことを忘れたのか」と大声で抗議しました。
当時の苦しみなどを知らせる義務があると思ってそれから手記を書き始めました。
この戦争は何だったんだろうと思います。
極限状態になると人間は鬼にも獣になることも知りました。
戦争は人類が犯す最大の悪だと思います。
平和を大切にしてほしい。
誤った過去の歴史を学んでそれを教訓にして、二度と戦争を起こすことの無いように恒久的な平和の確立をして欲しい。







2017年12月8日金曜日

大林宣彦(映画作家)          ・シネマと歩んだ人生(2)

大林宣彦(映画作家)        ・シネマと歩んだ人生(2)
TVのコマーシャルの草分けとしても知られます。
話題のコマーシャルを数多く手掛け、CM界の巨匠とも言われる存在です。
大林さんは1977年「ハウス」で商業映画に進出し映画作りに新しい風を吹き込みました。

映画と言うのはそれを作る制度があり、映画会社に就職し社員になって、監督はいわば部長と同じ職能だった。
私はフリーなので部長とは名乗れない、自分は父親から貰った小さな8mmと言うカメラで、医者になるなら全て譲るが、映画と言うことでは譲るものがないので、自分がやりたいことを一生やるのは平和の印だから、映画をやると言うならそれをやり抜きなさいと言われました。
父親の平和への祈りの象徴である8mmを譲ってもらって、東京に出て来ました。
映画は1960年代まで見られる映画はほぼすべて観ていたと思います。
9つの映画館で2,3本立ての映画を全て見ていました。
月、火、水、木、金、土、土、日、日と1週間に9つの映画館で観ていました。
我が家に活動写真機があり、蒸気機関車のおもちゃだと思って遊んでいたが、実は映画を写す機械だと知って、遊んでいるうちに映画の作り方を自分で覚えてしまいました。(3~5歳)

今でも自分が映画を作っている自覚はない。
黒沢明監督も、「大林君なあ、俺だって作りたい映画の20,30本はいつでもあるよ、でも今なにを作るかだけは俺には決められない。
上の方にいる神様が、黒沢明よ、この映画を今作れと言われたときに作らないと、人に伝わらない、果物と同じで、おいしく味わいよく育つには、環境と旬が有ってそこだけは間違えてはいけない」、と言っていました。
世の中の事をしっかり観察して、いい事、いけないこと、特に危うい事を人に伝えて自覚してもらうことで、世の中が平和に一歩近づくことを力強くやれるのが、映画だと思っています。
かつて戦争をしていたから、子供なりにより純粋に受け入れていたから、だから今戦争の映画を作っているんですよと、60年前から変わっていないと思う。
16mmで始めて作った映画(「食べた人」)を60年ぶりに観たが、サツマイモで育った子供の日本人が大人になって飽食に時代を迎えてフォーク、ナイフで洋食を食べたのを我々はせせらわらっていました。
それをパロディーにしました。
後半、お腹一杯になった客たちが何故か包帯を吐き出して、レストラン中を巻いてしまう。
どうしてこんなことをするのかと言われ、日本人は飽食以上に戦争で傷ついたのだから地球上を優しい包帯で巻いてやりたいと思って撮った映画ですが、「花筐(はながたみ)」にも、包帯は出て来ます。
恋に傷ついたり、友情に傷ついたりした人たちをその包帯が包んでやると言う風な表現をしているのは本質はなにも変わっていない。

監督をして脚本を書き、出演もして、編集をして、作曲をして映画音楽の演奏もピアノで自分でやる、一人で作るのが映画だと思っています。
活動写真機と一緒に音の出ないピアノがあったが何なのか分からず積み木の遊びをしていたら、母親が「それはピアノと言ってとってもいい楽器で音がするんだけれども、音を出す金属が供出と言って、お国のためと金属を戦地に差しだされていったんだ」と言われました。
「お父ちゃんと同じように戦地に行ってタンクか軍艦になって敵と戦っているから音がしないんだよと、ピアノの音も、お父ちゃんも無事に帰ってくればいいね」と言われました。
父親は無事に帰って来て、父親が中古のピアノを買ってくれました。
叩いたらポーン、ポーンと音がして、音の積み木だと思いました。
その後映画館に行くようになって、ショパン、ブラームスにであったりしてそれを真似て、家で弾くと言うふうなことをやっていました。
中学生のころに中国地方の先生方が参観に来ると言うことで、先生からピアノを弾くように依頼される。
ショパンのように頭から身なりを整えて行こうと思ったが、ショパンの映画では彼は肺結核でチャリティーコンサートで演奏するのが映画のラストで、真っ赤な血を吐きながら演奏するが、それをやらないとショパンではない訳で、母親に相談したらトマトケチャップがあるからそれを持っていって口に含んで吐けばいいと言われて、血を吐きながら演奏したが、周りは静まり返ってシーンとしていた。

校長先生が来て、お前のおかげでピアノが滅茶苦茶になってしまったが、「これはただの道具でショパンはこの道具を上手に誰よりも愛して使ったから何世紀後の我々がショパンの思いも愛も全て味わう事が出来る、お前も信じる道を一生懸命勉強して、ショパンのように偉い芸術家になったら、このピアノも人様のお役に立ったかと、よろこんでくれるだろうと、このピアノを直すことはお前も先生もできないが、ピアノを幸せにすることはお前にはできるぞ、頑張ってみろ」とそれだけしか言われなかった。
今でもあのピアノは赦してくれたかなあと、もっと頑張っていい映画を作ろうと、励みにしてます。
経済的には厳しかったが母親は貯金をしていて、「今日宣彦が学校でピアノを壊すから弁償しないといけないから」と言って、貯金を全部持っていって、学校に行った。
そこまでやって当時の大人は自分たちが果たせなかった平和の喜びを、子供たちに味あわせてやろうと、ひしひしと伝わってきた。
僕自身はあくまでも医者であると、映画家があるとしてそこの医者であると、巻きごこちのいい包帯、良く効く薬のような映画を作ろうと、映画人生を生きて来ました。

作曲、演奏もしている。 映画「絵の中の少女」で30分演奏している。
*その一部を演奏。 大林宣彦 ピアノ演奏
最初にピアノに出会っていたら音楽家になっていたかも知れません。
子供が最初に何に出会うかが、実は重要な人生を決めるものですね。
システムと言うことは嫌いです、全ての世の中の犯罪はシステム犯罪。
コマーシャルは興行主義の極地ですが、僕にとってはコマーシャルを全部自分の作品だと思って、結果は逆に映画少年よりはコマーシャル少年と云うものを当時生みだすぐらいの人気になりました。
海外のスターをコマーシャルの登場と言うことをした草分けでもありました。
短編映画として世界の俳優さんとお付き合いするのが楽しかったです。
チャールズ・ブロンソン、3分の作品だが自分としては初めての主演映画なので、僕が頑張ると一生懸命頑張るからということでいい作品になりました。
カトリーヌ・ドヌーブ、ソフィア・ローレン、ビートルズのメンバーとか会いたい人を先ず決めて、スポンサーを決めてやって楽しかったです。
コマーシャルで稼いだもので映画につぎ込み、ここで全部使い切りました。

私が映画会社から企画を頼まれた時には日本映画を観ようと言うお客さんはいなくなっていた。
「ハウス」 自分が自分を食べに来る。
7人の娘が食べる話に私が家をくっつけて、そこに住むおばあちゃんが戦争中に恋人を戦争に取られて一人きりで暮らして、戦争を知らない子供たちに戦争の恐ろしさを伝えるためにパクパク食べちゃうという話にして、企業の方に渡したら、監督が居ない、こんなばかばかしい映画は撮れないと。
2年がかりで私が一人プロモーションやって、コマーシャルで行く先々で、漫画、小説、音楽、ラジオドラマになる、みんなイエスとなるが、最後に映画にしなければいけなくなったがスイスに行っていた私が呼び戻されて、そこから若い監督たちが器用に進出すると言う新しい時代が来て、岩井 俊二、手塚眞、とか大林チルドレンと自からいってくれる僕の息子の世代にとってはこれぞ僕たちの映画だったんでしょうね、時代が新しく変わったと言うことになるかと思います。

尾道を舞台にした映画を作る、1980年代。
故郷で映画を撮ってお客さんを集めると言うことを最初にやったのが、尾道シリーズの作品でお客様が勝手に来てくれましたが。
観光行政的なことは大嫌いで、汚い街のくずれたりしたところばっかり撮るから行政からは 「転校生」という映画は行政からは上映中止命令が出たりしていたが、一見汚い皺だらけの街だからこそ皆が愛してくれた。
僕は皺を撮ろうとズーっと思っていた。
おふくろの皺を汚いと思ったことは一度もない、町にも皺があるから愛情こめて撮影したら、観光客は来ないと言うことで、街守り映画を撮った。(街興しとは違う)
それが故郷映画の出発になりました。

がんでは死ななくなりました、健康な皆さんに気を付けてもらいたいのは寿命が延びてしまう、自分の意志を越えて伸ばしてくれる。
100歳、120歳まで元気で生きるかも知れない、老いとの戦いは自分でしないといけない。
ただ生きているので無くて、好きな仕事をちゃんとやって好きな人たちと楽しくご飯も食べられ、そこで長生きをする。
がんに罹って本当に良かったと思うのは、変わった所があります。
がんを意識する前は道を歩いていて蟻の2、3匹、10匹は踏んづけていたかもしれない、道端の草など意識しないで踏んでいたでしょうね。
去年の8月25日、がん宣告以来蟻一匹、蚊一匹殺していません、草も踏んでいません、同じ命に見えるんです。
全ての命にたいして優しく出来ると言う能力を貰ったんです。
よりいい映画を作れる力をがんに貰ったと言うふうに思っています。
130歳まで生きようと決めました。(理想は高い方がいい)
新藤兼人さんが99歳まで撮ったので、30年は若い私としては30年はプラスしないといけないと思っています。
これからは病との闘いではなくて老いとの戦いですね。
新藤さんがやりたかったのは、原子爆弾、しかし組織では描けない、庶民はお金がない、20億円あれば素晴らしい原爆を告発する映画が出来ると新藤さんは言って、ピカとドンの間の2秒間を2時間にする映画、人間の狂気を正気に戻して描くのが私達表現者の仕事なので、私は新藤さんが描けなかった作品(平和への遺志を継いで)を原爆と向き合って描いてみようかなと覚悟しています。










2017年12月7日木曜日

大林宣彦(映画作家)          ・シネマと歩んだ人生(1)

大林宣彦(映画作家)        ・シネマと歩んだ人生(1)
昭和13年広島県尾道市出身、79歳、子供のころから映像の世界に親しんで来ました。
1960年代、大林さんが自主製作した映画は全国の大学などで上映されて高い評価を受けています。
1980年代には故郷尾道を舞台にした映画を発表し、世代を超えて支持されました。
近年は戦争と平和をテーマにした映画に取り組んでいます。
最新作「花筐(はながたみ)」は、去年の夏、肺がんで余命半年と告知されながら真夏のロケを終えて今年 5月に完成されました。

以前より13kg痩せました。
自覚症状としてはとても元気です。
肺がん第4ステージの余命3ヶ月です、診断上は、でも余命3カ月と言われて1年3カ月生きていて現実には余命未定です。
映画の仕事はいつも想定違いが起きるので、それをついてないとか思うとその一日は負けなので、映画に生かてたやろうと言う事で、お陰さまでがんも映画の力になってます。
2010年ペースメーカーを入れて、初めて病院通いを始めてレントゲンを撮ったりしていたら、骨にがんが転移しているとのことで、映画撮影どころではないと言われたが、九州の唐津に行きますと言って、唐津に行って唐津の病院で診察を受けたら間違いなくがんの転移ですと、胃、大腸OK、肺がんが見つかり余命半年と言われました。
それを聞いた時、あー肺がんか、身体がポーっと温まってきて嬉しくなっちゃったんです。
それには理由があり、この映画は40年ぶりの念願の映画なんです。

原作者の壇一雄さんが能古島についの住処として住んでいて、40年前に映画化の権利を頂いていたんです。
その時に壇さんは肺がんで末期で口述式で代表作の「火宅の人」を書いていて、親爺たちと同じ世代で、親爺も戦争で人生をもぎ取られた人だし、壇さんもそうであるし、そういう人たちの断念と絶望と、そこで覚悟を決めて表現した事を、平和ボケと言われたわたしたちの世代が映画にする資格があるのだろうかと、親爺たちの戦争中の青春時代の悔しい悲しい絶望的な思いを映画にする資格があるのだろうかと、40年間おびえていたんです。
それが同じがんになったので壇さんと結ばれたと、親爺らの心の痛みも映画にする資格が少しは出来たのかなあと、40年ぶりに集大成と言われるような映画が出来たのも、わたしにがんを与えてくれた神様のおかげと言うんでしょうか。

原作は「花筐(はながたみ)」 花筐と云うのは謡曲にあります。(花筐:漢字でははながたみと読む。)
佐賀県唐津市で治療を続けながら去年の夏にロケを1カ月以上続ける。
最初2日間徹夜で撮影した。
3日目の朝、病院に行ったら余命3ヶ月ですと言われて、がんは倍々ゲームであと数日で余命が無くなりますと言われて、娘が先生に相談して撮影が終わればいいと言うわけではなく、編集し上げで1年かかるので1年は元気に過ごすにはどうしたらいいかと聞いたら、東京の先生を紹介してくれて、重体ではあったが妻としては映画の現場にいる僕が一番元気になると信じていて、やりとりした挙句先生がじーっと私の顔をみて「じゃあ、唐津にお帰りなさい」といってくれました。
錠剤を飲んで、薬の治療をしながらロケを続けました。

原作の頭に、「その町はまず架空の町であってもよい」と、わざわざ書いてあります。
意図があるとおもって、当時壇さんに聞いたら、それじゃあ唐津に行って御覧なさいとおっしゃって、その後壇さんは亡くなってしまい息子の太郎君と唐津に行きました。
原作にあるような風景など無くて、その謎を秘めたまま40年、それがようやく3・11以降の映画の長岡の花火の「この空の花 -長岡花火物語」、樺太の戦争を描いた9月5日まで続いていた戦争を描いた「野のなななのか」の映画を作って、それを唐津で上映してもらってトークショーをやっていたら、もう少し唐津を勉強してみませんかと言われて、唐津の「おくんち」というお祭りを見る機会があり、「おくんち」と言えば長崎、見せていただいたら長崎と違って地味なんです。
山車を曳いている人たちが妙にまじめ、本気、自分たちの魂を曳いているような雰囲気で、翌日町を散策すると、城内と城外がくっきり別れていて、「おくんち」は城外の町民の庶民のお祭りで山車を曳く人は代々決まっている。
昔戦争が有って曳き手が居ないと軍隊を逃れてもやって来て曳いたり、上官が山車を曳きに帰れと言ってこっそり帰してくれたと言う内々の言い伝えがある。

女性たちは家にこもって世界中から何処から来ても、「おくんち」の間は盛りだくさんのお料理でもてなす。(おくんちの翌日からまたそのための貯金を始める。)
名護屋城というお城が唐津にあって、豊臣秀吉の朝鮮出兵の出城だった。
日本中から権力者が集まっていたが、唐津の町人たちは権力にだけは屈しないぞと、唐津は町人の街だという自治のために、「おくんち」という祭りを作って、自分たちの命がけの祭りと町人の心息だった。
城内の人たちは交通整理をしています。
そういう祭りだと言うことがわかって、壇さんがおっしゃったのは唐津の風景ではなくて、唐津の精神であったと言うことが判りました。
壇さんは18歳の時に、自由に憧れた壇さんは、社会主義の運動に連座する(自由を求める気持ちで)、1年間唐津で放浪する。
町人の自治、誇りを学んでこれこそ自分が生きる街だと、そういう中で書かれて小説が
「花筐」だと言うことがようやく判りました。

ややこしい小説で、三島由紀夫がこの小説を読んで、「花筐」にたいする賛美がある。
「いまどき若者に出来ることは、命がけで恋をすることと不良になるしかないじゃないか」と云っていて、それが戦争中の若者です。
そののちの三島が書く小説、彼の死にいたるまで、「花筐」と同じように生きてきたんだと言うことがわかって来ました。
命がけで恋をすることと不良になるしかない、それ以上はなにも書けなかった時代ですから。
この小説を映画にして唐津に行ってみようと言うような、観光客が増えるとは思えなかったが、唐津の町民たちが、唐津とは関係なく日本にとって作るべき映画だと思うので唐津でやらせて下さいといわれて、唐津の精神で人々に唐津にほれ込んでもらお言うと言うことで作ったのがこの映画です。

壇さんが25歳でこの本を出版された時が昭和12年。
日中戦争が始まって太平洋戦争に繋がっていって4年後に原子爆弾に繋がる戦争の始まりだった。
これから戦争になるだろうと僕は最近とてもおびえていて、若者に伝えるには太平洋戦争から原子爆弾までを背景に描くべきだと、その方がいまの時代のリアリティーがでるだろうと思いました。
僕たちにとって一番信頼できなかったのは敗戦後の日本の大人たちで、戦争に負けたのに自決しないのか、僕たちを殺してもくれないのか、そういう約束だったのではないのか、
なのにふわふわと平和だといって踊りだしてしまって、今の若い人に伝えるにはどうしたらいいのか。
どうもきなくさいぞと、この頃感じ始めて、80歳になるこの頃、最後の皮膚感で体験した世代なんです。
反戦でもなくて、厭戦なんです。

でも世界では戦争は絶えない、でも何故かと言うと必要なんです、経済が豊かになるためには戦争が必要だと言う人がいるから。
食べるものがなくて水しか飲めなくても平和の方がいいんだと、言えるのが体験者である僕たちだけだから、それを今こそ言わなければいけないと言うのが、この映画を今やろうと決めた大きな原因でもあります。
観た人は不思議ですと、人ごとではない、自分ごととして受け止めてしまって反戦映画でもなくて、戦争というもののいかがわしさ、いやらしさが自分の問題としてズシっと来て、戦争は嫌だなという気持ちだけがはびこるように心に残ってしまう、不思議な映画ですと言います。
3時間近い映画ですが始まったらあっという間です。
たった70年前に痛みを持って家族を殺され、自分も死ぬ覚悟で味わった戦争が何故伝わらないのか、伝える手段がないんです。
壇さんが「花筐」と云う小説に戦争は嫌だということを書いたら出版できない。
言えないから肺病で病んでいる少女に命がけでほれ込む、裸で抱き合いたいほどの親友を殺すぞと言って不良になるしか表現できない。

自分が一番信じたいことを表現したいのに、それを封じられてしまって、結果伝わってこなかった、それを僕たちは伝えるわけですから、その気配を伝えていこうと思いました。
観たらそれなりに、自分の知っている戦争を思いだしてもらいたいと思います。。
大林的戦争三部作、「この空の花 -長岡花火物語」 新潟県の長岡花火は戦争で亡くなった人の魂を弔うための花火、「野のなななのか」は2014年 樺太での厳しい戦争の経験、
時代への状況への危機感、我々は平和の中の子供のふりをして、何も語らず生きてきた、昭和10~15年の頃の敗戦少年と呼ぶ世代、戦前を知っていれば違うが意識が芽生えたのが、戦争中なので完全な軍国少年であるがゆえに戦争が持っているいかがわしさも十分に感じていた。

その子供たちが3・11の時に一番思ったのは、日本の間違いだらけの敗戦後の復興のやり直しではないかと思った。
物、便利、快適だけで日本人は生きてきたけれども、3・11の時は日本人本来の姿に戻って、「清貧」と言う言葉がある、清らかに生きようと思えば貧しく生きるのが当たり前である、(明治の思想)、日本人はとても精神は美しかったと思う。
高度成長経済期ですっかり無くなってしまったが、3・11で東北の人達の生き方を見たときに、世界が手を差しのべてくれた。
戦争の歴史を描いた映画をつくって思ったが、日本人ぐらい戦争の事を知らない、学んでない国民はいないとつくづく思いました。
8/15は「終戦の日」と言うけれども、戦争は勝つか負けるかで終わると言う事はない。
ソビエト侵攻で戦っていた樺太、北海道の方では9月5日まで続いた。
「花筐」が出来上がって、婦人雑誌、ファッション雑誌までが取材させてほしいと言ってきて、今の時代がここにあるぞと、その中で生きている自分はこれに参加しなければいけない、そんな感じが伝わったんじゃないかと思います。
特に若い人がその気配を感じたと思います。














2017年12月6日水曜日

田口ランディ(作家)           ・生きる力を取りもどして

田口ランディ(作家)        ・生きる力を取りもどして
今年10月東京都内で命のエール、「初女お母さんから娘たちへ」というイベントが開かれました。
初女お母さんと言うのは昨年2月に94歳で亡くなられた佐藤 初女(さとう はつめ)さんのことです。
様々な悩みを抱えて訪れる人々の心に耳をかたむけ、自然の食材を生かした心のこもった手料理で心も体も癒し、日本のマザー・テレサと言われた社会活動家です。
イベントを主催した作家の田口さんも初女さんと向き合って生きる力を頂いた一人です。
田口さんに初女さんから貰った生きる力とその後の活動について伺います。

「森のイスキア」と云う小さな教会の様なところで、昨年2月に94歳で亡くなられた佐藤初女さんの生き方と、講演と初女さんがたいせつにされていたおむすびのむすび方を伝えるイベントでした。
おむすびに代表される自然からの恵みの料理で色んな方の心をいやされた方です。
一日目は初女さんのむすび方の講習会、2日目は私たちがむすんで、初女さんの言葉を聞いていただく、3日目は10/3で私と初女さんの誕生日なので、初女さんの代わりに私が言葉を伝えると言う催しをしました。
人と人との縁を結ぶと言うことでお結びと、初女さんは言っていました。

はじめておあいしたのは2000年の冬でした。
龍村仁監督の『地球交響曲 第二番』という映画に初女さんが登場していて映画を通して知っていましたが、監督から誘ってもらって会いに行きました。
青森に降りたち、吹雪いていた中を教会にいき、鐘を鳴らして迎えてくれジーンときました。
ご飯を食べることになり、初女さんが一人ひとり挨拶に来ました。
とっても優しい方ですが、凄く迫力のある方だと思いました。
何故かこの人にちゃんと自分を出さなかったら永遠にこの人とは繋がらないと、切羽詰まった気持ちになりました。
急に何故か「私の兄は引き込もりの末に、餓死して亡くなってるんです。」といきなり言ってしまいました。(周りはしらっとしました。)
微動だにせず、「そうですか、たいへんでしたね。」と言われました。
その場はそれで終わった。
その後、急に私の方を向いて「あなたは私の娘になりましょう。」といったんです。

どういうことだろうと吃驚しました。
私の家は問題を抱えていて、父はアルコール依存症で酒乱、家庭内暴力もあり、自分も結婚したが娘に伝えられる母親の味は私にはないと思っていて、家事もあまりやらずに働いて生きてきて、このひとに娘になって色々勉強したいと思いました。
父は特攻の予科練に行っていて出陣の前に戦争が終わって帰って来てから酒を飲むようになったようです。
父と兄の仲はとっても悪かったです。(子供のころから殴られていました。)
高校卒業と同時に、身の危険を感じる様だったので、自分の好きなように生きたいと思って自立しました。
1995年に兄は亡くなりました。(42歳、兄は8歳上でした。)
それまで就職したり辞めたりを繰り返すうちに、働けない時間がどんどん長くなって、亡くなる10年前には完全な引きこもり状態になり家から一歩も出なくなりました。
両親と住んでいるといつかだれか死んでしまうよ、誰かを殺しちゃうよ、そういう前に私のところに来るようにと説得して、しばらくは私と一緒に住んでいました。
しかし、或る日突然兄が居なくなってしまった。
父に電話をしたら、あいつには手切れ金100万円をやって親子の縁を切ったと言いました。
兄は埼玉県にアパートを借りて、或る時点で生きるのをやめてしまった様です。
衰弱死していました。

兄が亡くなってから5年後に初女さんに会いました。
それを告白しましたが、それが初女さんの力だと思います。
それで「あなたは私の娘になりましょう。」と言われた訳です。
朝ご飯を一緒に作りました。
釜をじーっと見ていて、水加減を見ていて、一滴、二滴と足すんです。
元気に炊きあがっていて、噛んでもおいしいし凄いと思いました。
滞在していたのはたったの2日でした、料理の仕方が厳しかったです。
野菜に優しくするように言われて、急がす丁寧に丁寧にやりなさいと言われました。
普通の家庭料理ですが、身体にしみ込んでくるんです、不思議だなあと思いました。
自慢ではないですが、わたしはガサツなんです。
帰るときに、手を取って「言葉を越えてね」と私の耳に囁いたんです。
「えっ」と聞きかえしたが、「うん」とうなずいて背中を押された。
考えたが、どういうことかわからなかった。
寡黙な方で、ただただ人の話を聞く方でボソボソと話すだけでした。

10年かかってようやく判りました。
「人は行為を通して何かをしていかなければいけない。
出来るかどうかは問題ではなくて、やるかどうか。」と言う事。
私はあなたに言葉では教えられないけれど、自分のやってることを見て、わたしに学んでほしいと願っていた、と思いました。
「する」、という覚悟を決めること。
私は贈り物をもらうと、ガサツに包みを開けてよく見ないのに嬉しいと言って表現してしまうが、私が初女さんにハンカチをプレゼントした時、「有難うございます。」といってそうーっと、そうーっとパッケージを開いて「ワー」と言って、手触りを感じながら「こんな素敵なものを有難うございます。」と言うんです。

初女さんに手を握られると、本当にフワーッと包み込むんです、それが響くんです。
漬けものは大好きで亡くなる前の年に遊びにいらっしゃいといって、(初女さんはめったに人を自分から呼ぶと言うことはない)、よっぽどのことかなと思って伺いました。
糠どこを作っていて、あなたも作ったらいいと言われました。
「色んな菌が糠どこの中で、助け合って野菜のいいものを一杯引き出してきて、あれが生物多様性と言うことだと思うの」と言って、「じゃあ糠どこを観に行きましょう」と言われて今回は糠どこを見せてもらう為に呼ばれたのか、と思いました。
糠どこをかき混ぜてきゅうりの漬け方を教わって来ました。
糠どこの糠を食べたが、信じられないほど美味しかったです。
なにもかも丁寧だと思いましたが、でも初女さんから言わせるとまだまだだと言っていました。
糠も分けて頂きましたが、でもうまくいかず駄目にさせてしまいました。
まだいろいろなことを初女さんみたいにできないとは思っていましたが、初女さんが亡くなってしまったので、ここはもうやろうとイベントを行いました。

最新作は4年かけて書きましたが、オウム真理教の地下鉄サリン事件を題材に「逆さにつるされた男」と云う小説を書きました。
地下鉄サリン事件の実行犯で確定死刑囚Yさんが、私の本の読者で10年ほど前から文通、面会を通して交流しています。
会ってみると感じのいいかたでどうしてこんないい人が事件を起こしたのか素朴な疑問でした。
手紙のやり取りをするようになって、死刑が確定して、連絡が取れなくなると思ったら、正式な外部拘留者になってほしいと言われて、悩んだがその後も続ける事にしました。
2011年に東日本大震災が起きて、逃げていたオウム真理教の関係者が出頭して、こんな大事が起きているのに自分が逃げているわけにはいかないと言うようなコメントが有った。
裁判を傍聴することで、もっと色々な人に知ってほしいと思うようになり、執筆を始めました。

自分にはテーマが大きすぎると思いながら執筆をつづけて、初女さんが亡くなってその後、原稿をYさんに読んでもらったら、動揺してYさんの具合が悪くなってしまった。
本を出すのをやめようと思ったら、夢で初女さんが出てきて、「どうしたあんなに悩みを抱えている人の話をいつも長い時間聞いていられるのか」と私が聞いたら、「私はあんまり良く聞いてないのよ」、「私は信じてるの、信じて待っているだけなの、その人が自分の力でたち直るのを」と云うんです。
Yさんは落ち着かれて、思うように書いて、出版して下さいと言われて、出版することにしました。
「愛と忍耐」 愛は語れると思うが、初女さんは忍耐の人と言われていて、忍耐とは信じて待つことなんだとはじめて判りました。







2017年12月5日火曜日

玉地任子(医師)             ・人生を全うさせる“希望の力”

玉地任子(医師)        ・人生を全うさせる“希望の力”
73歳、精神病院で勤務した経験から、末期がん患者の心のケアの必要性を感じホスピスで働き始めました。
やがて患者が自分の家で過ごす時間を大切にしたいと、平成6年当時は珍しかった在宅ホスピスをスタートさせます。
しかし、仕事に打ち込んでいた時に夫が末期がんと診断されます。
自身もがん患者の家族となり、妻そして医師として支え続け夫を看取った後、再び医師として患者の心のケアに取り組んでいます。

自分の夫を含めて、がん患者さん200人のがん患者さんを看取りました。
19年やってきたクリニックを閉じました。
前から夫がスキルス胃がんで肝臓に転移していたことが分かった時点で、もうそれは決めていたことです。
最後の患者が自分の夫になるわけですから、複雑な気持ちもありました。
実際夫が亡くなって、もやもやした感じがよどんでしまい、一人になった時に本当に自分の夢の終わりがこれでいいのかと思って、もう一度がん患者さんに関われたらいいなあと思うようになりました。
大事な夫を亡くした遺族として、前よりももっと深く患者さん、家族に共感できるのではないかと、そんな気持ちがだんだん強くなって横浜のクリニックに伺いました。
そこには治療法が他にない、再発して何かやりたい、そういうようながん患者さんが多くこられています。

医師が患者さん、家族と向き合って点滴を40分位してますが、その間に患者さん、家族の話をじっくり聞くようにしています。
治療の副作用、不安、死ぬのが怖いとか、痛みのことなど様々ですが、それを聞いて、助言できることは助言すると言う様な事をやっています。
主治医の先生とのコミュニケーションに悩んでいることのアドバイスなどをしています。
ここに来る前と帰る時では心に希望が持てるような気がしますと、患者さんからは言われます。
希望は生きる力だと思います。
医学は日進月歩なので希望持ちましょう、頑張りましょうと声かけをやっています。

栃木県宇都宮市生まれ、4歳の時に兄は小学校の一年生で、頭が痛いと言って帰って来て一日で亡くなってしまいました。
母が肩を震わせて泣いている姿を見てかわいそうで怖くて、強烈な印象として残りました。
野口英世の偉人伝を読んで、父に野口英世の生家に連れて行ってもらいました。
大学は名古屋市立大学医学部に進みました。
精神科の臨床実習に各科回りますが、患者さんの話を聞いて、言葉だけで患者さんの苦しみを解きほぐす精神科の教授の仕事に魅せられてすごいと思いました。
来た時と診察室を出る時では全然違って、言葉のマジシャンみたいに感じ、迷いなく精神科に進みました。
ある女性の患者さんが診察室に車いすで来られて、他の整形外科などに行っても原因が判らなかった。
話を聞いていて長い間お姑さんを看取った後で、歩けなくなったということだったが、色々な話を聞いて、帰る時にはその人は立てたんです、そういうことがありました。

夫と結婚して、北海道の精神病院に勤めました。
27歳の時に運命の本に出会いました。
「死ぬ瞬間」というタイトルでアメリカの精神科の女医、エリザベス・キューブラー・ロス(Elisabeth Kubler-Ross)という方が、がんの末期患者さんにインタビューしてまとめた本です。
序文「絶望的な病人に接することにためらうのではなく、進んで彼らに近づき彼らの最後の幾時間かの間、より多く彼らを助けるようにさせられればと望むのみである」、これは私の進む道だと思いました。(昭和47年の時)
このころは日本ではほとんどがん患者さんには告知されていませんでしたが、向こうでは本当の病名を伝えて心のケアまでしていることに心を打たれました。
心のケアを出来るような精神科の医者になりたいと大きな夢を持ちましたが、そんな時代はなかなか来なかった。
昭和50年に神奈川に移って来ましたが、患者さんに本当の事を伝えて心のケアと言うような時代ではなかった。
昭和57年日本で初めて浜松三方が原病院にホスピスが出来て研修させてもらいました。
絶対必要だと思いました。
埼玉県上尾で宗教にとらわれないホスピスが出来て研修させたもらいました。
平成4年になってホスピス病棟が出来て、自分の夢のスタートとなりました。(ホスピス病棟長)

当時はまだホスピスと云う言葉が知られていなくて、スタッフもなかなか育てられない状況でした
厚木で理想的なホスピスを作ったらどうかとのオーナーからの誘いがあり、平成6年に「ホスピスヒューマンネットワーク夢クリニック」を開業します。(元厚生病院のオーナーだった人)
そこの市長と二人で立ち上げました。
開業して2カ月たたないうちにオーナーの資金繰りが失敗して、後は二人でやってねと言われてしまいました。
いろいろ見てきたが、在宅の患者さんの表情は全然違います。
患者さんでも家では食事、洗濯などをして凄いと思いました。
在宅ホスピスで頑張ろうと市長と話をしました。
当時は在宅ホスピスはなかなか理解してもらえなかった。(誤解偏見があった)
厳しい状況の中、夫に支えてもらえたから出来ました。

夫は元気で東京の病院に通っていましたが、平成23年5月、お寿司を食べていたら、喉になにかつかえる様で苦しいと言った4日後に、スキルス胃がんで肝臓に転移していると言われてしまいました。
必死に出来ることはしないといけないと思いました。(在宅治療)
夫は9月に亡くなるが7月まで仕事をしていました。
昼夜逆転があり、寝ようと思う頃夫が目が覚めて、いらいらしたり背中さすったり足を揉んだりして、私を寝させてくれませんでした。
穏やかだった人が凄い形相になったり、耐えられなくなり、亡くなる前の2カ月は凄く苦しみました。
悩みながら(もやもや感があり)も穏やかな別れをしました。
がんと分かった後も、主人は仕事をしている時には何ともないように患者に優しく元気に仕事をしていて、吃驚しました。

70代の大腸がんの女性、18歳まで北京で育つが、私が出会ったころは壁伝いに歩いているような人だったが、中国の事になると元気にしゃべり続けるのでもう一度中国を見せてあげようと思って家族と同伴して中国に行って、昔住んでいたあたりを車いすに乗せて見てきたがとっても喜んで、日本に戻って自分ではもうできないと中断していた中国文学の翻訳を3冊目をやり遂げて旅立っていかれました。
希望を持つ、楽しい事をすると言うことは患者さんにとってはすごく大切です。
余命3カ月と言われた40代の肺がんの男性、在宅が凄く気にいって、病院、看護学校での講師にして下さる処を探して、彼が在宅の素晴らしさを語ってくれて、生きがいになって3か月が2年以上生きられました。
追い込まれた患者さんでも心ときめいたり、楽しかったことなどあると思うので、小さな幸せ探しみたいなことも私の仕事だと思っています。
余命短いから何もできないと言うような人でも、まだやることがある、まだ楽しめることがあると言うと、なんか人って蝋燭の炎の様に、なえた心が膨らんでぱっと輝く時があるんです。
人間の命って凄いと感動させられ、わたしも勇気をもらいます。
がんの末期状態の人に関して、まだ楽しむことがある、まだ出来ることがあると言うことを知った時に、活力が出てくるのでもうダメと思わない、何か希望(小さな希望でいい)を探してほしい。










2017年12月4日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)   ・山県有朋【近代日本150年 明治の群像】講談師 神田蘭

本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・山県有朋【近代日本150年 明治の群像】
講談師 神田蘭
山県有朋は旧日本陸軍創設者、タカ派の軍人政治家と言うイメージが強いが、なんとなく悪そうな感じがするが。

講談に依る紹介。
明治新政府は海外の列強諸国に追いつけ追い越せと、富国強兵をスローガンに掲げます。
政府は帝国陸軍を作ると徴兵制を行う。
この制度の基本を作ったのが大村益次郎、実現させたのが山県有朋。
1838年長州藩の足軽よりももっと低い身分の家に生まれる。
尊王攘夷の影響を受けて松下村塾に入門、高杉晋作が騎兵隊を作ると、山県有朋は下級武士が頭角を現すには騎兵隊しかないと思う。
高杉晋作に気にいられて騎兵隊で活躍して行く。
その後、4カ国連合艦隊と長州藩が戦った下関戦争で、武器の必要性と軍隊の必要性を痛感し、尊王攘夷論から開国論に変わっていった。
その後討幕へ向け沢山の武功をあげ出世して行く。
明治2年ヨーロッパに渡り各国の軍事制度を視察して回る。
帰国後、軍制改革を行い徴兵制を決行。
徴兵制をおこなうにあたり、沢山の反対に会ったがこの時、協力してくれたのが西郷隆盛。

西郷隆盛のもとで山県有朋は明治新政府でも出世して行く。
西郷隆盛は新政府と反りが合わなくなり、鹿児島に下野、部下とともに西南戦争を起こすが、西郷隆盛を制圧する新政府軍の指揮を執ったのが山県有朋。
徴兵制導入に協力してくれた大恩人を責めなくてはいけなくなる、という運命。
立てこもる西郷隆盛に一通の手紙を送る。
「あなたとこうして戦うことになるとは思わなかった。
今回の戦があなたの本心でないことを知っています。
あなたの偉大さは十分に証明されました。
これ以上無駄な血を流さないためにも自ら命を断つ決断をしてください」
西南戦争が終結、西郷さんの首を調べた山県はハラハラ涙を流しながら、伸びた髭をなでたそうです。
(山県は85歳まで生きる)

司馬遼太郎が山県を嫌っていた、性格が明るくないのがいけないのかも。
(笑顔の写真がない)
伊藤博文は明るいが、山県は陰気な感じ。
短歌を詠んでいる。
天保9年(1838年)萩の城下で生まれる。
槍が得意だった。
騎兵隊に入るが、ここがチャンスではないのかと思ったのかもしれない。
軍事の才能を司馬はあまり買っていない。
山県は「富国強兵」の強兵の部分を築き上げた。
明治2年にヨーロッパに行くが、普仏戦争(プロシャとフランス)の直前だった。
フランスが破れて、帝政が倒れる。(ナポレオン3世が退位に追い込まれる。)
プロシャ(ドイツ)の軍制を山県が取り入れて行く。
明治6年(36歳)陸軍卿になる。

政治を行う軍人、参謀タイプなのかもしれない。
明治に入っても、ロシア、イギリス、ドイツ、アメリカなど欧米列強が虎視眈々と狙っている状況の中で、軍隊をもたないと独立は保てないとの信念だったと思うが、説明責任を果たしているのかと思うと、果たしていないように感じる。
明治10年西南戦争
城山陥落の時に山県が和歌を詠む。
「山もさけ海もあせんとみし空の. なごりやいずら秋の夜の月」
源実朝の有名な和歌
「山は裂け海は浅せなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」
を踏まえている。
山が裂けてしまうようなとんでもない事態、西郷さんが亡くなってしまったが、でも秋の空には月が輝いている、と言うような意味合い。
人間のはかなさを詠んでいると思う。

参謀本部長になる、天皇に直結している。
明治23年には陸軍大将になる。
明治22年三代目内閣総理大臣になる。(初代伊藤博文、二代黒田清隆)
演説で「主権線、国境のみならず利益線、朝鮮半島の確保のため軍事予算の拡大が必要」、と説いている。
後々の拡大路線に繋がってゆく。
朝鮮半島を植民地化した時の損得勘定が間違っていたのではないかという学説がある。
利益線の考え方自体が正しかったのか、疑問視する考え方がある。
朝鮮半島、満州も、と言うふうになり、日本の軍部の理屈がどんどん進展してゆく。
列強を含めた時代の波もあったんだろうと思います。(日本は後追い)
朝鮮、中国と手を結び列強と対抗しようという考え方もあったが、山県は甘いだろうと跳ね付けただろうと言う気がします。

日清日露戦争
人の配置、兵站などを考えるのは山県は上手かったと思う。(後方統括)
明治42年伊藤博文が暗殺されてしまい、権力が集中して行く。
その時に詠んだ和歌
「語りあいてふくしし人はさきだちぬ今より後の世をいかにせむ」
友を亡くした後、この世をどうしていったらいいのか、という内容だが目の上のたんこぶがなくなったので、自分のやる方向は確固としたものになったのでは?
天皇を後ろ盾に絶対的権力を掴んでゆく。
明治天皇、大正天皇にも嫌われている様な事がいろいろな本を読むと書いてある。
山県自身が愛情を持って天皇陛下に接している感じがしない、利用する、そこが伊藤との違いがある。
山県の子分、桂太郎が亡くなった時の和歌。(大正2年 山県76歳)
「したしきもうときも友は先立ちてながらふるみぞかなしかりける」(?)
親しき友は判るが、友人でうとい思うと言うところが、この人の内面が出てしまったのかなあとも思います。

当時50歳前の時代なので85歳まで生きたのは、めちゃめちゃ長いです。
7人子供がいたが、一人の女性を除いて全て亡くなってしまった。妻も亡くす。
「あかの水注ぎながらに思うかな昨日はともにたむけしものを」(?)
3男が亡くなり奥さんとともに悲痛な思いで、又子供を亡くしてしまったと言って見送ったことが、又嘘のように奥さんが亡くなってしまった、これは切ないですね。
奥さんが亡くなってから25回忌にも歌を詠んでいる。
「かたらいし事は昨日の心地して過ぎし月日におどろかれぬる」(?)
大正11年(1922年)に亡くなる。(85歳)
国葬が行われたが、さびしかった。(人望がなかった様に思う)
普請道楽、造園好きとしても知られる。
東京の椿山荘、京都の無鄰菴、小田原の古稀庵庭園は、山縣が自ら想を練り岩本勝五郎や7代目小川治兵衛をして築かせたものである。










2017年12月3日日曜日

水島裕(声優)             ・【時代を創った声】

水島裕(声優)         ・【時代を創った声】
NHKの連想ゲームで1981~88年までレギュラー回答者、スター・ウォーズシリーズのルーク・スカイウォーカー役の吹き替え、六神合体ゴッドマーズのロボットアニメ(明神タケル / マーズ)、愛の戦士レインボーマン等の数多くのキャラクターを演じているとともに、舞台でも活躍されています。

NHKの連想ゲーム、男女でやっているので、女性チームが勝つとか負けるとか、力んではしまいますが、その人が連想する事柄が、それが実はその人が伝わることだったりする。
日本語を駆使してやる番組としては最高だったんじゃないでしょうか。
元々はジェスチャーにあったワンコーナーだったらしいです。
回答席に座っているとなかなかわからないです。
傾向として季語から出題されることが多いとは、なんとなく判ったので季語集をちょくちょく読んでいました。
男性は加藤キャプテン、渡辺文雄さん、大和田獏さん、私水島。
女性は中田キャプテンを中心に固まって、仲はいいですが一歩スタジオに入ると負けないよと言うことがありました。

中学1年の時に劇団若草と言う児童劇団に入りました。
もうひとつの放課後が出来たと言う感じでした。
妹が先にNHKの放送劇団に入っていて、妹の活動を見て楽しそうだなと思って、入ろうとしたが年齢的に無理だと言われて、近くの劇団若草に入ることにしました。
バレエでタイツを履くが、凄く恥ずかしかった、日舞、歌のレッスンもあり良い経験をさせてもらいました。
最初、声の仕事だった。(入ってすぐにオーディションがあり受かりました)
「王様と私」で、勘九郎さんが声変わりして、勘九郎さんの影歌を最初にやりました。
アニメの最初の声は「くまのプーさん」のクリストファー・ロビンの声をやったのが最初です。
大学の途中まで劇団若草にいました。(学生のアルバイトとしては破格に良かった)
愛の戦士レインボーマンの主題歌を歌わせてもらいました。(高校1年生の時)
1972年からの放送で主題歌だけ担当、歌が浸透して、替え唄がはやった。
歌は得意ではなかったが、あの歌に巡り合わせて幸せでした。

大学のころはアルバイト感覚でした、楽しかったです。
大学の専攻には演劇、放送、文芸、音楽、美術、とかの中から、写真学科を受けたら受かってしまいましたが、カメラを持っていなかったのは僕だけでした。
写真は個人行動なので孤独でしたので、自分には合わないと思いました。
クリエーティブすると言う事では演劇と共通するが、孤独は好きではないと思いました。
たまたま運が良かったと思います。
古谷 徹さんが友人で遊んでいる中に、小山 茉美(まみ)さんとかがいて、大学卒業後にどうするのか考えている時に、小山さんからうちに来ればと誘われました。
ここだったらいいかなと思って伺って、準所属のような形で入ってみたら、三ツ矢 雄二さんとか、井上 和彦さん等が居ました。
初めてのメインキャラクターとしてロボットアニメ「超人戦隊バラタック」に出演。
下手だとは思ったが、でもあの初々しさは今は出せない。
未熟だと思うが、周りから助けてもらいました。
真摯にはやって来た自信はあります、取り組み方は一生懸命でした。

自分の色を発揮できているかどうか、それが大事だと思います。
役との出会いは大きいです。
三ツ矢 雄二さん、井上 和彦さんと3人でCDを出し、コンサートをやりました。
40年来の付き合いで、不思議な関係で、僕にとって大事な2人です。
寝ると忘れるタイプなので辛かったと言うよりも、楽しかったと言う方が強いです。
仕事が来ない時などは、煮詰まると習い事を始めます、空手、スキューバダイビング、ガラス工芸とかいろいろ、人から教わることは凄く新鮮です。
習うことによってリフレッシュします。
本当に尊敬している人から習うのが大事です、そうしないとはいってこない。
ガラス工芸は10何年やって来ましたが、先生が亡くなってやめてしまいました。
習うと言うことが気持ちを切り替えさせてくれるし、力をくれたのかなとも思います。
さだまさしさんとも付き合いがあるが、元気の時は歯車がかみ合っているが、歯車が空回りしている感覚があり、さだまさしさんから好奇心があればまた歯車はしっかりかみ合うようになると言われて、これは一生忘れてはいけないと思いました。
「別に」と言う言葉は使わない方がいいと思います、好奇心がないのは自分を殺す、心を殺してしまう。
人の気持ちに敏感なことが大事ですね。

声優という職業は努力が報われる世界ではない、でてきたもので判断される。
運が不可欠で、頑張っても出てきたものに魅力がなければ駄目だし、なにも訓練してこなくてもポーンと言ったセリフが魅力的な人もいるので、そこは不条理だと思うがそういう
世界で、一番大事なのは文字を声にすることではないと言うことです。
文字を書いた人の思いをくみ取って自分のフィルターでセリフにすることが大事。
その人の色は必ずあるので、その理由を自分で作ってそれをアピールしないといけないと思います。
自分の方向性に近い先輩を見付けてその人の真似をして見ることがいいと思います。
腕白クラシックコンサート、来年に渡辺俊幸さんが曲を作ってくれて、岩崎宏美さんと行う予定があり、子供達たちに聞かせたいと思っています。










2017年12月2日土曜日

米川明彦(梅花女子大学教授)       ・時代を映す若者ことば

米川明彦(梅花女子大学教授)       ・時代を映す若者ことば
最近の若者たちの言葉がわからない、と言うことはないでしょうか。
「とりま」は「とりあえず、まあ」のことです。
「ふろりだ」はアメリカの「フロリダ」州のことでははりません。
「まんじ」(今流行っている)は何のことかわかりますか?
若者言葉、業界用語、隠語、流行語など俗語を40年前から研究しているのが、梅花女子大学教授の米川さん、62歳です。
若者言葉の変遷をたどりながら、時代と若者気質の変化を、米川さんに読み取ってもらいます。

女性ばかりの学校です、若い女性は会話を楽しんでいる、笑いを取ろうとしているので、研究の環境としてはいいです。
「まんじ」(今流行っている)は何だろうと聞いたら、学生は色々言うんです。
面白いことはなんでも「まんじ」と言いますとか、仲間の絆を強める時に「まんじ」と言いますとか、調子に乗っている時には、「あんたまんじだね」とか、まったくわかりません。
「やば」とおんなじようなことかもしれません。
「草生える」は笑いを取るとか、笑えるとかという意味です。
Wで笑う、わ(wa)Wを重ねると wwwwとなり草が生えているように見える。
「それな」関西の共感する時に使う言葉ですが、関東でも使うそうです。
「ふろりだ」ラインを使ってグループで参加するが、風呂に行ってくることを「風呂りだ」と言うんです。
風呂の為に離脱しますと言う意味です。
「ほかる」(ホカホカしてくる)ともいいます。
省略する言葉を使います、「おか」=お帰り、「おけ」=OK、「おこ」=怒っている。
省略形を打ってしまう。

若者言葉は寿命が3年ですが、中に残る言葉もある。
「て、よ、だ、わ言葉」女性が使っていた文末に使う言葉、(綺麗だわ、よくってよとか)明治の初めにこの言葉が出どころが悪いと言って非難されたが、女学校の生徒が使って、卒業した生徒が当時の一流の人たちと結婚して、高級な家庭にも広がって、「て、よ、だ、わ言葉」は一般的な丁寧な言葉になって行く。
大正時代にラジオ放送が始まるが、アナウンサーが新しい言葉としてできる。
告知者と云うような言い回しもしたが、告げ口をする言葉と言うことで、消えていった。
戦後「エッチ」と言う言葉がはやったが、元々は変態=HENTAI(ローマ字)、の「H」でしたが、余り使われなくなりました。
80,90年代は「超」と云う言葉がよく使っていましたが、関西ではあまり使われなかった。

「なうい」、「ちょべりば」=超ベリーバッド、などと言う人は40代ですね。
スマートフォン、インターネット等通信機器を使った言葉、SNSなどで広く使われる言葉、手間を省こうとして省略語として使われる。
「了解」→「り」とか一音節で済ませる。
「お疲れ」→「おつ」 変換ミスで「乙」を使う。それで使って行くと言うこともある。
「KY」アルファベットの頭文字を使う言葉、「空気読めない」、「恋の予感」
「る」で済ませようとする。  「誤字になってしまった」→「誤字る」
口頭でも喋る様にもなってきた、新しい傾向です。
「挙動不審な行動をとる」→「挙どる」
「こん」=「こんばんわ」、「こんにちわ」
「あり」=「有難う」
「いみふ」=「意味不明」
こういった言葉が口頭で話す様になった。

父親が言葉にうるさい人だったが、子供の頃色んな言葉を教えてくれた。
「坐るとばーとる」と言う言葉を教えてくれた、坐ったら場を取るものだ、とか「おすとあんでる」、押したらあんがででくるもの(饅頭)、ひねるとジャー=水道 などなど。
その影響を受けて言葉の研究者になろうと思いました。(国語学)
大学生の時に日本で一番大きな国語辞典「日本国語大辞典」20巻が出て欲しくてしょうがなかった、10万円以上した(40年前)。
自分では買えなくて付き合っている彼女に買ってもらった。
きっちり読まないといけないと思って、本当に隅から隅まで読みました。
或ることに気づきました、こんな大きな辞典なのに載っていない言葉がいっぱいあると思いました。
新語辞典(大正、昭和)、流行語辞典で買い集めていたが、そこの言葉が載っているのか、調べたら載っていないのが色々あった。(用例も書いてなかった)

新語辞典、大正初期に出たもので、面白い言葉がたくさんあります。
「ハイカラ」(大流行語)→動詞になる 「ハイカる」等
「脱線する」は電車が走り始めてから出来た言葉だがそれが転じて、正しい道正しい順序を離れて、全ての行動を脱線する、当時の新語だった。
今は一般語になっている。
俗語には若者言葉、業界用語、隠語、卑語(卑猥な言葉)、流行語、砕けた口頭語など。
「ランナー」→遅れて飛行機に走って行って乗る人。(業界用語)
大学のスクールバスは全部女性で、聞こえる言葉が判らなくて、メモを取って聞いたり、色んな方法を使って言葉を集めました。
「若者ことば辞典」1993年に出版。
新聞に載り3か月間取材にあいました。
昔新しい言葉を集めていた頃に教授から何の役に立つのだと言われてしまいました。

明治時代の新語、セブン→質屋、キャット→芸者(猫をつかって三味線を作るがそれを弾く人) エム→マネー(頭文字を使う、当時から流行っていた)
旧制高等学校の言葉(ドイツ語由来の言葉が出てくる)、落第する→どっぺる(ドッペルン 落第)、女の子→メッチェン 恋人→リーベ、飲みに行く→ドリンケン。
現代になると大学生はどこにもいて、エリートの言葉ではなくなる。
男女共学になり「性」に関する言葉が出てくる。
Aライン(元々はファッション用語)→キスが出来る仲、とか言うようになって来る。
ルート8→ニヤニヤ
学生運動が激しい時代、ゲバ棒を担いだ学生の「げばる」(ゲバルト=暴力)
高度成長期、言葉が遊ばれるようになる、「マジ」 真面目から出ているが。
野菜語、「ピーマン」(話の中身がない)、「トマト」(話がぐちゃぐちゃ)とか。
80年代、豊かになりバブルと重なり遊びが言葉にも及び、ちょべりば(「超ベリー・バッド(very bad)」の略)、ちょべりぐ(「超ベリー・グッド(very good)」の略)、みつぐ君、アッシー、とか消費を謳歌している。

メディアが流して若者言葉は表に出てくる。
真面目から遊びにシフトしてくる。
楽社会が生まれたと思う。(楽と楽しいを価値基準にしている)
そこから現代の若者言葉が出てきてると思う。
TV見ない、新聞見ない、インターネットを見る。
見る社会が狭くなってきて、関心事も狭くなり、言葉も狭くなる。
ラインのグループ自身は無数にあるが、しかし人数は小さい、グループごとに新しい言葉が生まれる。

昔は同じ様な価値観だったが、共有できなくなり、価値観が多様化して、自分さえよければいいと言うような、それぞれが別の方向を向いている。
ネット社会が若者に大きく影響している。
時代がどんな時代かによって、若者言葉の質が全く違う。
今の社会は、お笑い、楽しい、楽、そこから出てくる。
俗語を広く考えて、大人の世代の言葉も俗語があり、間違った言葉も平気で使ったりして、一般化して辞書にも載って行くと正しい日本語では無くなる。
「大丈夫」(箸は大丈夫ですか?)、「むかつく」(胃がむかつくが従来使われていた)と言う言葉の使い方も変わってきている。
厭な感情をどう発散するか、親しみのある言葉、俗語だと上手く表現できたり感じることが出来る。
一緒に楽しめる、作りだす楽しみが俗語にはある。
息苦しい世の中の息抜き、ほっとできる、楽しくできるなどいい意見があると思っています。
若者も仲間内の言葉と、そうでない言葉をわきまえていると思う。





2017年12月1日金曜日

中山欽吾(東京二期会理事長)       ・エンジニアのオペラ改革

中山欽吾(東京二期会理事長)    ・エンジニアのオペラ改革
大分県出身、昭和38年九州大学工学部を卒業後、三井金属鉱業株式会社に入社しました。
エンジニアとして日本各地を飛び回り、平成7年には同社米国社長となりニューヨークに赴任します。
アメリカ在任中に叔父で二期会創立者のひとりでもある、バリトン歌手、中山悌一に請われて二期会に入ります。
技術屋から声楽団体という全く畑違いの分野に転身、それまでの経営状態を分析、新しい改革を打ち出すなどして、成果を上げ、平成26年に二期会理事等に選出されました。
又出身地である大分の芸術活動にも熱心に取り組み、大分芸術短期大学学長、大分県総合文化センター館長などを勤めています。

音楽の世界に身を置いて今年で20年になります。
音楽の専門家は一杯いるので、私はその方たちが一番いいコンディションで演奏が出来るような、縁の下の力持ち的な働きが要請されていると思っています。
オペラを一回やると、大抵物凄い赤字が出ますので、赤字をどうやってキャンセルするとか、ビジネスをやってきた中で培われた経営してきたスキルとかが役に立っていると思います。
大分芸術短期大学学長としては後進を育てると言うことです。(美術もあり)
絵はずーっと何十年も描いてきました。

1940年生まれ、高校までは大分、九州大学の応用化学科に行って、プラスチックが世の中に勢い始めたころですが、無機の世界で勉強していました。
先生からこの会社が合っているからと言われたのが三井金属鉱業でした。
高校時代に絵の道にも進もうかと思ったが、自分よりはるかに上手い人が2人いたのであきらめました。
音楽は1年生の時に合唱部に入っていました。(テノール)、2年から美術部に入りました。
父は長男で医者でしたが、歌ったりしていました。
私は中山悌一(6男)の甥にあたります。
高校、大学時代は演奏旅行で九州に来た時などは泊って休んでいきました。
代々医者の家系なので兄は医学部に行きました。(私は次男)
会社では現場に行って亜鉛を作っていて、ふたつ会社を渡り歩いて、その後研究所に行って、金属の粉を利用して新しいものを開発する研究を10年やってその後、その開発したものを売るようにと言われて、新しいものを売って歩く業務もやりました。

当時日本の自動車会社がアメリカに移して、部品も来るように言われて、全米で会社を10か所作って、全体を見るようにと言われてニューヨークに行きました。(50歳頃の時)
メトロポリタンでは片っ端からオペラを観ました。
定年で辞めたら叔父の仕事を手伝う様になるのかなとは、なんとなく思っていました。
叔父とは養子縁組もしていましたので。
こんなにお金がかかるオペラが日本では出来るのかなとは思っていました。
アメリカにる時に叔父から、会社を辞めて手伝うように電話がかかって来ました。
当時、歌い手さんが800人いました。
その人たちを使っていろんなオペラ、コンサートをやっていましたが、オペラを1本やると凄く赤字が出てしまうので、どうやって赤字を出さずにやれるのか、プロの経営者の問題なのだがそういう人はいなかった。
叔父は手を引いて後輩が中心になり経営の方もやっていたが、その道のプロではなかった。

あつれきもあったが強引にやってゆきました。
以前の決算報告書を調べたりして、レポートもずーっと書いて来ました。
会社を辞めて、経営を立て直すのも一つの魅力かなと思っていました。
めどが立つのに10年近くかかりました。
赤字がどんどん減って行ってついに黒字になりましたが、全部データが残っていますが、それは宝です。
会社時代にそういう仕事をさせてもらったのはラッキーだったと思います。
二期会の人々が路頭に迷うことは、大変なので叔父は内心凄く心配していたと思います。
現在二期会には3000人近くいます。
研修所には実際オペラを歌ったことのある先生方を講師に据えて、若い人たちを鍛えることが絶対将来良いぞと思って力を入れました。
先生方のアルバイトにもなるし、若い人が育つのでいまだに続いています。
その研修所から会員になり、トップを歌うようになった人が何人もいます。
上手くシステムが回るようになりました。

「中山悌一メモリアル」と言うCDが出ましたが、中山悌一の家の大掃除をしたらNHKが放送する目的で録音されたものだったが、何かの理由で放送されなかったものだった。
ピアニストが判らなかったが、調べてみたら小林道夫先生と言うことが判りました。
私家版として作ったものも含めて、一つにまとめ上げました。
*シューベルトの「盲目の少年」 歌 中山悌一(バリトン) 演奏紹介 
中山悌一は自ら律すると言うことで非常に厳しかったです。(89歳で亡くなる)
故郷の短期大学で900名位の生徒が全国から集まってきています。
卒業すると頑張って、いい大学に編入学をするというようなことも進めてきています。
女性が多いので県内に就職してもらう様に、インターンシップという制度を作って、企業と一緒になって、学生が企業に行って勉強してくることをやっていて、それが即戦力になって会社の方からも喜んでもらっています。

「小さくてもキラキラ輝く宝石のような大学になろう」と着任の時に言いましたが、今そうなりました。
どうやったらいいオペラを廉価なコストでお客様に見ていただけるか考えたときに、ヨーロッパは各都市に沢山のオペラ劇場がある。
毎日やっていて、新しいバージョンに替えると言う事になり、要らなくなって捨てるのにも費用がかかるので東京に捨ててと思って、コンテナ船を利用して空の時に乗せてきて、茨城県の山奥の倉庫に保管する、それを今やっています。
歌うのは日本人でどんどん歌う場が増えてくる。
ヨーロッパで活躍する有名な指揮者にも来てもらうと言うこともやっています。