2017年12月16日土曜日

南定四郎(ゲイリブ運動の先駆け)    ・85歳の同性愛者が歩いてきた日本

南定四郎(ゲイリブ運動の先駆け)    ・85歳の同性愛者が歩いてきた日本
1972年に自らが編集長となって当事者に依る初めてのゲイ雑誌を創刊し、80年代には同性愛者の権利を求める団体を結成、1994年に日本で初めてレズビアンゲイパレードを開催するなど先駆的活動を行って来ました。
現在は沖縄で同性愛者のほか、男女両方を好きになるバイセクシャル、心と身体の性が一致しないトランスジェンダーの人を含めLGBTと言われる性的マイノリティーに関する相談員を務めています。
戦後同性愛者はどのように生きてきたのか、現在の性的マイノリティーの状況をどう感じるのか伺いました。

今年の1月から月に一度沖縄市の社会福祉協議会でLGBTの相談員を務めています。
相談に入る前までに手間取ります。
電話相談です。
名前は聞けないのでイニシャルから入ります。
もやもやを言語化させるのが大変な苦労なんです。
自分が悩んだことなどを話すとようやく話しだします。
男性のことが好きだと言う前に身体的な関心、身体的に触れてみたいと思ったのが小学校3年生の時でした。
近くにお菓子屋さんがあり、10歳上の跡取り息子との付き合いが、性に目覚めるきっかけでした。
公園に遊びに行こうと誘われたが、どんどん丘の頂上に行って彼が突然下半身を脱いで射精することを見せつけて、それが性の体験の始まりでした。
それ以来、あずき洗いの手伝いをしたり、カルタ遊びに誘われたり、百人一首のカルタ遊びに誘われたりして、嬉しい、楽しい感じでした。
私を抱きしめるとかと云うことをすると言うことは何にもありませんでした。
自然な感情でその人が好きでした。

高校を卒業して秋田地方検察庁に就職しました。
本屋に行って立ち読みしようと思って、風俗雑誌を見ていたら、そこに書かれている内容そこに集まって来る人の会話などがちょうど自分と同じだと思って、それが同性愛者なのかと初めて同性愛者と言うことを発見した訳です。
自分を得体の知れない人物だと思っていたが、なんかほっとしたような感じでした。
相談したら罵倒されて私の周りからいなくなってしまうのではないかと思っていました。
書かれていた東京の秘密の場所に行ってみたいと思いました。
東京に出てきて仕事をするようになりましたが、その場所には行っていませんでした。
放送局の音響効果の仕事を担当することになりました。
私のところに近寄って来る人がいて、案内したいところがあると言って、行った処がゲイバーでした。
そこから同性愛者との交流が深まっていきました。
その後色々な仕事をしました。(出版社、大工、陸橋を作る現場、専門誌の記者など)
気づかれるとまずいと思って3年程度で職を変えました。(首になると思った)

差別されているような感覚はありました。
30歳台になって結婚しましたが、子供を作らなくてはと言う思いがありました。
結婚生活は苦しかった、二重の人格を生きている訳ですから。
帰らない日がだんだん増えて行って最後には自分が家出をすることになり別居しました。
1974年に「アドン」を創刊、提案されてやった仕事でした。
すでに他に雑誌がありましたが、その内容が気に食わないと言うような話があり、新しい雑誌を作らないかと言われました。(40歳過ぎ)
ほとんどの時間は普通の人と同じような社会生活をしているので、そこに起きてくる問題などを解決する、アドバイス、実体験の投稿を載せると言うことが、わたしの編集方針でした。
いかにして同好の志を見付けるか、結婚をどうするか、小説、外国のゲイライフ情報、など。
私はその時に同性愛者だと言うことを公にしました。

雑誌の出版でもう私を首にすることはなくなると思いました。
社会からはじき出されることもありませんでした。
初版3万部を全部売り切りましたが、読者に嫌われずにこの仕事をしていれば生きていけると思いました。
大きな転換でした。
ある外国人がIGA(国際ゲイ協会)で役員をしているが、アジアから参加していないので日本のあなたが参加して欲しいと言われました。
断わったが、どうしても引き受け手がいないと言うことで引き受けることにしました。
その後電話の相談をしました。
母親からの相談、私の育て方がいけなかったのかなどあるが、その人のいうことをまず聞いて当人の生きやすいようにしてやった方がいいのではないかと言うようなアドバイスをしました。
その後同性愛者の人権と云う事に結び付いていくようになって行く訳です。
1994年にレズビアンゲイパレードを開催、1年前に講演をして来年レズビアンゲイパレードを開催したいが実行委員に応募したい人が居ないか聞いたら10人もいて、それがきっかけです。

最初は50人、新宿駅南口を通ったらそこから一気に100人になり原宿あたりで250人になり、終点では300人になりました。
開催する前に止めろと言う電話がガンガンかかって来ましたが。
2回目は1000人、3回目は2500人、その時には決議文を読みました。
異議ありと言う人達が50人ほどきて、演説を始めました。
解散宣言をしてスタッフがみんな帰ってしまいましたが、現場責任者が1人残りましたが、翌年2月15日に私たちの事務所のビルの7階から飛び降り自殺をしてしまいました。
これからは大言壮語は止めようと雑誌を廃刊し、全ての活動から引退しました。
身体の都合から沖縄に移住する事になりました。
誘いがあり沖縄の運動に参加するようになり、電話相談を引き受けるようになりました。
振り返る機会がありましたが、理想を掲げて皆に納得する手続きは踏んではいるが、かなり強力に主張してリードしてきたが、自分のことよりも大きな社会的な理想とか、理念として正しいんだからついてこいと言うようなやり方に終始していたが、今は大いに反省をしています。

今では代々木公園ではLGBTのイベントでは10万人規模になった。
10万人はそれぞれが1人で、基本的にはばらばらだと思います。
世の中が変わってLGBTの環境は良くなったが、ブームを仕掛ける色んなことがあって成り立っていて、仕掛けが取れてしまえば崩れてしまうと思う。
当事者が強くならなければいけない、そして流れを作っていかないといけないと思う。
人権と言うものは、当たり前だと思うことだと思う。
自分たちが成り立つことが重要です、自分を確立することが人権の基本だと思います。