2018年1月23日火曜日

髙口光子(理学療法士)          ・介護は究極の営み

髙口光子(理学療法士)        ・介護は究極の営み
高齢者介護をめぐる環境が厳しさを増す中、高口さんはスタッフのモチベーションを高め、入居する高齢者の意欲を高めようと日々奮闘しています。
高口さんはおよそ30年前理学療法士としてキャリアをスタートさせました。
当時は高齢者介護の制度もシステムも無く認知症などの高齢者が老人病院に入れられて、社会的入院などと言われました。
その頃の老人病院の処遇のあまりの惨状から、介護保険制度がスタートし、高齢者介護について社会の認識もようやく変化してゆくといった、まさに介護の黎明期を高口さんは一緒に歩んできました。
いまも介護とはなにかを問い続けながら現場の職員を育てチームをまとめながら、老いから看取りまで人の自然の姿を受け止める介護のシステム作りへと走る続ける、高口さんです。

資格は理学療法士、介護福祉士、介護支援専門員など様々な現場の資格を持っている。
お年寄りの施設の立ち上げにかかわるようになっています。
使いやすいトイレ、お風呂など設計から職員募集、職員の人材育成 、教育研修やその仕組み作りが一番の仕事です。
相模原に特別養護老人ホームを立ち上げています。
160名入所しています。
スタッフは高校卒業後直ぐの人から退職後に改めて第二の人生と言うことで働きに来る人まで様々です。
若い方たちはほとんど人と触れたことがないと云うことで、教育の時間がない。
あなたたちが生まれた時は皆要介護度5で、誰かのお世話にならなければいけない。
ウンコが出ないときには心配する、ウンコを見て嬉しいと云うことはその人が生きていてくれてうれしい、そういう仕事だよと言うと何が何だか分からないと言います。
現場にいってウンコが出た時には喜べる様な経験をする、そういったことを伝えたいことがある、伝えたい人がいる、と云うことは大事で、褒めて認めてやる。
そういったことを見届けるところまでが私の仕事だと思っています。

介護は色々なことがあるが大丈夫かと聞くと大丈夫だと言うが、ボランティアとは違うと言って、現場に入っていってお年寄りと出会ってどんどん変わっていって、その内に自分だけに対する「有難う」と言うことを体験できる。
介護の凄いところかと思います。
自分の方こそ有難うと言いたいと言ってきたりします。
自分の居場所があることを知って、そこから落ち着いた介護が始まります。
最初の半年から1年は自分が頑張ればお年寄りが有難うと言うのを素朴に受け止める。
2~3年になって来ると、何とかしなければいけないと云う様に良い介護士ほど思うようになり、このおじいさんさえいなければ上手くいくのにとか、あの人大嫌いとか、グーッとでてくる。
でもそういったことがいえることが大事。
介護ストレス、人は思い通りにはならない、思い通りにしてはならない、悪性の感情が出てくる。
家族のように接してと云うことだが、他人以上身内未満の関係性、深くかかわってきたからこそ出てくる感情ですが、大切なのはそれを上手く受け止めてくれる先輩、チーム、上司がいると云うことだと思います。
家族の苦情とかも来ます。
苦情が全然出ないのも問題で、閉ざされた職場と云うことになるので、言いにくいことをいかに言っていただくかと云うことが重要です。
家族の方は施設に入れることについては、どこかで抵抗感があり自分を責める。
施設では私一人ではないと云うことを伝え切る、それは現場の職員たちの仕事しかできない仕事ですね。
家族の方が介護を選んだことに納得してもらえることが、私たちの仕事の中でも重要なことだと思っています。

私が対人援助を間近に見たのは中学から高校生になるときに、母が乳がんになり付添をした時に色々な人がいることを知りました。
進路を考えたときに、時代が変わっても女が食べていける仕事をしたいと思いました。
30年前、理学療法士が出来たばかりでした。
リハリビの学校を卒業して北九州のマンモス病院に行きました。
店が倒産したが奨学金も高かったのでその病院に来ました。
行って見渡す限り寝たきり老人でびっくりしました。
手足を縛られたり全員のオムツでほとんど寝かせきりの状態でした。
最初に処方が出て、先生は「その人はそのままでは棺桶に入れないので、棺桶にきちっと入れる身体にしてくれる」、と言われました。
意味が判らなかった、曲がりくねった手足、腰だと蓋が閉まらないので閉るようにするということだった。
手足の関節を曲げたり伸ばしたりすることをしました。(関節可動域訓練)
3か月続けていると、こんなことをする為に勉強、資格を取ったのではないと云う思いがしました。

ある家族から「今亡くなりました、有難うございました」と言われて、こういう仕事をしていくんだと思いました。
学校で習ったことが何にも役に立たない、と云うふうな思いに落ち込みました。
手足を縛られたり薬浸け、検査浸けで一職員としてどうにもなっらない状況でした。
7から8年その病院にいました。
結婚して保育施設のある次の病院に行きました。
義父が脳卒中で倒れて、同居するようになりました。
2回目の病院では独創的なことをするようになりました。
そうめんを食べるときに、そうめん流しを工夫して訓練室でやったりしました。
「お鍋」を囲んで食べる、と云うようなこともやりました。
感染症を気にされたりしましたが、最終的には納得して貰いました。
表情が違います、患者さんの顔ではなくて、本当に喜んでくれました。
一緒に楽しんで人として繋がることがどんな薬よりも、治療よりもお年寄りを元気にする、それに先生なども気付き始めました。
人が人として当たり前に接する、普通に暮らす、それを支えるのが介護だと言うことを知ったときに、最後まで普通にご飯を食べる、普通にお風呂に入る、その人らしい方法や、やり方で、それが最後まで支え切れることが人間らしさを支え切ることで、それこそが生きる力になるんだと知った時は衝撃で、今まで勉強してきた医療、リハリビとは違うものがあるんだと云うことを知りました。
その方のあるがままを支える、その人に取って必要なものを準備する、その人に笑ってもらいたいなどなど、そいうことが介護の仕事なんだと云うことに気づきました。

















2018年1月22日月曜日

茂山逸平(能楽師狂言方)        ・【にっぽんの音】能楽師狂言方 大藏基誠

茂山逸平(能楽師狂言方)        ・【にっぽんの音】
案内役 能楽師狂言方 大藏基誠
私は京都の茂山千五郎家の14代当主の千五郎のいとこになります。
父が前千五郎の弟です。(二世茂山七五三)

大蔵流には5家があるがそのうちの一つ。(大蔵家・山本家・茂山千五郎家・茂山忠三郎家・善竹家)
17人います。
正月は1日の観世会館の謡初めと平安神宮の奉納があります。
2日は狂言会があったりします。
3日は八坂神社の奉納、滋賀県の多賀大社での奉納があったりします。
大槻能楽堂が新春能が必ずあります。
4日に家のけいこ場で舞い初め式をしてひと段落します。
観世会の催しなので、観世会会長の片山九郎衛門さんのまえ囃子「高砂」があり、もう一番まえ囃子があって、獅子舞、狂言方から一つ小舞いを出す、と云うことになります。

大藏基誠:東京では1日は謡初目があって、2日は東京薬師寺別院で狂言の初笑いが有って、3日は舞い初め式で、奉納はないです。

狂言「唐相撲」:中国のお相撲さんと日本のお相撲さんが舞台の上で10番ぐらい取る。
日本のお相撲さんは一人で戦う。(自由な動きがある)
10年に一回出るかどうかぐらい。(一昨年やりました)
柱にものぼったりしますが、それが出来るのは従兄弟の茂さんだけです。
兄の正邦がバク天などもやりました。
NHK連続TV小説のドラマ「ごちそうさん」にも出ました。
ドラマに初めて出たのは小学校5年生の時の朝ドラに出ました。
京都弁が喋れる子供が欲しいと云うことで出ることになりました。
お爺さんが能の振り付けなどで出ていたので抵抗感はあまりなかったです。
出ることに対してどうかというような方もいます。
発信力が公演だけだと低いのでメディアの力を借りないと、と思っています。
私は茂山家にとって次男の次男だったので、活動がしやすかった。
ドラマにでるとそれぞれプロフェショナルがいるので、次の環境の興行形態がこういったこともあるのではないかと思います。
いたずら心のエッセンスを入れると父は怒りますが、表現するのに役立っていると思います。
狂言方は器用でないとなかなかできない。
兄弟で仲良くやっています。(地方で飲みに行ったりします)

狂言のお勧めポイント、登場人物と観客がいい距離感だと思います。
自分ではないと思える距離感で、気楽に笑える。
たいがいの登場人物にそんなに罪がない、おおらか。
誰も死なないので、本当に平和だと思います。
終わり方がもやっとしているのでその後どうなるのかなと、想像するのが面白い。
「おち」はない。
その場の大爆笑よりも、家に帰って布団に入って思い出してて笑う、これが狂言なんじゃないかなと、思います。
お客さんが笑うと演座も盛り上がりますね。
舞台上で凄くふざけたことを大真面目にやっていて、これが面白いんじゃないかと思います。
観賞すると云う目的でくるお客さんがいるが、楽しむと云う方向だと思います。
リラックスして楽しんでみていただければいいと思います。

自分の好きな演目、「口真似」。
(*あらすじ
主人は酒をもらったので、だれか酒の相手になる人を探してこいと太郎冠者に命ずる。太郎冠者は顔見知りの人を訪ね、主人と交際がないというのを無理に連れてくる。主人が客を見ると有名な酒乱の人なので、無理に連れてきた手前穏やかに帰そうと考え、太郎冠者に自分のいうとおり行動するよう命ずる。冠者は、主人の物まねをすればよいと勘違いし一挙一動主人の真似をするので、怒った主人が冠者を打つと冠者は客を打ち倒す。)

あれこそ狂言だと思っています。
太郎冠者がご主人様の云う通りに言ってしまう。
わざとやっているのか、天然なのか、気軽で面白い。
三番叟」を舞う気軽さはだれにも負けない。
能楽の囃子方以外の楽器で舞った回数の方が多いぐらいです。
津軽三味線とやったこともありますし、一番変わったのではロック三番叟、エレキギターとドラムを三番叟風にアレンジした曲を京都市役所の前でやりました。
五穀豊穣、誰にでもわかる精神性と跳んだり跳ねたりする動きはやっていて楽しいし、見ても楽しいと思います。(歳を取って出来ないので若いうちにやっておきたい)
父は高校大学が剣道部なので厳しいです。
39歳になるので40歳で一区切りつけたい。
40歳からは仕事を選ぼうと思います。(そのための地盤を作っていきたい)
次の世代を前に出していかないといけないと思っています。
次の代の狂言師として子供が食えるようにしたいと思っています。

3日に「三番叟」、7日に「那須語(なすのかたり)」、5月に「釣狐」、6月に「花子(はなご)」をします。
凄く忙しいです。
「釣狐」は特殊な演目で他の舞台には還ってこない。
体を鍛えないといけないと思っています。(アスリート並みのトレーニングが必要)
8年前に1回やっていて身体が劣化していて、更に劣化しているので大変です。
3月から4月にかけては海老蔵さんと地方公演を一緒に回ります。











2018年1月20日土曜日

寺内順子(シンママ大阪応援団・運営)   ・シングルマザーに寄り添う

寺内順子(シンママ大阪応援団・運営)   ・シングルマザーに寄り添う
生活に困窮する母子家庭を物心両面から支える活動をしています。
運営は民間団体大阪社会保障推進協議会で、その事務局長の寺内さんがシンママ大阪応援団の運営の中心メンバーです。
シンママ大阪応援団はどんな活動をしているのか、シングルマザーの暮らしはどうなのか、どんな悩みが有るのか、伺いました。

民間団体大阪社会保障推進協議会は医療関係団体、福祉関係団体、労同組合、女性団体、障害者団体などが加盟していて、大阪府内に43市町村ありますが、そこを相手にして社会保障制度の問題を話したり、制度を作ってほしいとか、良くしてくださいとそういった運動をしています。
色んな方の相談に乗っていたが、高齢者の相談は多いがシングルマザーの相談はほとんどありませんでした。
2014年に生活保護についての電話相談員をやっていまして、シングルマザーの方からの相談がありました。
夫からの暴力から逃げて乳児を抱えながら一人で暮らしていた人でした。
離婚調停中で1年間で15kg体重が減ったそうで、役所に言っても生活保護の申請に行ったがことごとく働きなさいと言われて、弁護士の介入でやっと受けられるようになったそうです。
ケースワーカーからその後も色んな事を言われたそうです。
夜働けとか、身体を使って働けとか言われたそうです。
子供も重度障害者で、家族介護料も一切出ていなかったのが判りました。

若い人はあまり新聞は読まなくてTVも見なくて、ラジオも聞かない、スマートフォンから情報を得ている状況でしたので、ホームページを立ち上げるようにしました。
2015年5月にシンママ大阪応援団を作りました。(シンママの言葉を初めて知りました)
貧困問題の弁護士さん、司法書士さん、研究者の方とかに呼びかけてホームページの中身を半年かけて練り上げました。
SOSメールが入ってこられろようになっていて、現在70件を超えています。
必ず一回は会うようにしています。(自宅に行くか、最寄り駅まで行きます)
生活保護、借金とか、医療機関への問題とか話によっていろいろ動きます。
機関へは一緒に行くようにしています。
DV問題、結婚しているが子供が出来たとたんに男性がいなくなるケースが多いです。
夫のギャンブル依存とその借金の問題、暴力が絡み合っています。
結婚に至らなくても子供が出来て男性がいなくなるケースも多いです。
相談に来る100%が男性が悪い状況です。
子供がいる為とかお金を一切渡さないケースもあり、逃げるにも逃げられない。
自分への暴力は我慢するが、子供に暴力が及んで逃げる場合が多いです。
夫が謝って優しくなり、元々は優しい夫なんだと思って今回は逃げない、そういうケースが多くて自分の方に非があると感じてしまう、こういったこともDVから逃げられない理由ですね。

シングルマザーの半分以上は貧困です。
乳幼児期、小学校の低学年の子を持つ人はまだいいが、中学以上になると厳しい。
教育費の問題です。
削るところは食費からしかないので月1万5000円と言うのも珍しくない。(親子3人で)
一昨年の11月から食糧支援をするようになりました。
フェイスブック、ブログなどで呼びかけて応援してもらっています。
若い人の労働がない、時給900円程度で月に18万で手取りが15万円。
子供の為の休みが必要なので正規雇用ではなくパートが多くなる。(給料が安い)
女性の賃金が安い。
生活保障が生活保護制度しかない。(制度の問題)
児童手当(1万円位)と児童扶養手当(一人目が4万3000円で二人目目は1万円)
国民保健料が大阪市の場合、所得が100万円でも16万6000円。(親子3人)
これが暮らしを圧迫しています。
就学援助制度があるが実態に見合わない。

おつきあいをするのにはお金がかかるのでどうしても孤独になってしまう。
いろいろ企画してそれを解消するようにしています。
安く出来る工夫をして京都旅行をしたことがありましたが、その時の感想文があります。
おいしい食べ物、周りの人との楽しい時間など、感謝の気持ちを書いてくれました。
ぶどう狩りも企画して30人近くの親子が来ましたが、同様に感想文を頂きました。
私は料理が好きなので家で料理レッスンなどもします。
成人式とか他の行事での振袖支援などもやっています。
気楽に来ておしゃべりをする安心できる場を提供したいと思っています。

今140人ぐらいのサポーターがいます。
独立して一般社団法人として法人格を取ろうとしています。
拠点がないので場所を構えて1階にカフェを構えて、2階に事務所と居場所(泊れるような)があればいいなあと思って進めようとしています。
スキルの高い人たちが多いが、実際は時給の仕事をやっていて、何とかこういった力を生かせるような仕事が出来ないかなと思っていて、能力を生かせる仕事が出来ないかと思っています。
温かな人のぬくもりを経験したことがなくて、心配してくれる人がたくさんいると云うことを知ってもらいたいと思います。
大阪では難しいが自然と接する機会を作っていきたい。
文化に接する、そういった機会も作っていきたい。
熊本でも同様な組織が立ちあがりました。
私自身がシングルマザーですが、両親が助けてくれましたので、その分をシンママ大阪応援団でやっていきたいなあと思っています。













2018年1月18日木曜日

鈴木潤吉(日本語学校顧問)       ・100年飛び続けた“赤い鳥”

鈴木潤吉(日本語学校顧問)       ・100年飛び続けた“赤い鳥”
大正7年に作家で詩人の鈴木三重吉が子供の楽しい空想や感情を素直に表現できる詩と歌を作ろうと知人北原白秋の協力を得て児童文芸雑誌「赤い鳥」を自費出版して今年で100年になります。
留学生に日本語を教えてきた鈴木三重吉の孫の鈴木潤吉さんは10年前父の「三重吉のことは頼むぞ」と言い残した言葉を受け、爺さんのこと、どんなことを成し遂げた人なのか知ろうと、196冊の雑誌「赤い鳥」を購入し、三重吉が選んだ童話、童謡を全て読んだとおっしゃいます。

爺さんのことなので、両親も話していたし、父が広島の爺さんのお墓参りに連れていってくれたりもしました
本もあったし子供ながらに家と関係有るんだなと知りました。
小学校2,3年の国語の本に「少年駅伝夫」という物語が載っていました。
「これは潤吉君のお爺さんが書いた話だよ」と先生が言ったが、あの時は恥ずかしかった。(何故かは判らなかった)
爺さんのことは中学、高校でも無関心を装っていました。
10年前に父が亡くなりましたが、その前頃に、「三重吉のことは頼むぞ」と言われました。
今まで爺さんのことはほとんど知らなかったし、作品も真面目に読んで無かったので自分でも愕然としました。(50代なかば)
その後小説などを読みあさったりしました。
「赤い鳥」の雑誌、小説などを神奈川近代文学館、広島の中央図書館、成田の市立図書館に分散して全部寄贈してしまっていましたので、家には何も残っていませんでした。

4,5年前にインターネットの古本サイトで復刻版を三万円で買いました。(196冊)
「赤い鳥」は大正7年から20年の間に毎月1冊出して全部で196冊でした。
自費出版で出した文芸雑誌でした。
子供向けの大衆雑誌は当時沢山ありました。
内容は立志伝、勧善懲悪もの、おとぎ話、冒険談とかでした。
三重吉は東京帝大に入学して夏目漱石に会って心酔します。
夏目漱石に勧められて三重吉は小説を書いたのが「千鳥」と言う小説です。
「ホトトギス」に載って文壇デビューしたと云うことです。
10年ぐらいの間に80編の小説を書いたが、花魁に淡い恋を抱いたと云うようなものが多かった。
もっと生身の人間を描かなければいけないと言われたが、時代遅れとなってしまって、何が出来るのだろうかと言うことになる。(研究者の意見)
「すず」伝説と言われているものがある。(すず:三重吉の長女)
子供のために何かいいものがないかと本屋を回ったが、当時の雑誌に対して憤慨して、それならば俺が芸術的なセンスのあるいい物語を出してやろうと決心するわけです、それがすず伝説と言われている。

モットーとして「残念ながら日本人はいまだかつて子供の為の純麗な芸術性のある物語を持っていない。」と書いている
大正7年に出版する。(漱石は2年前に亡くなる。)
北原白秋、島崎藤村、芥川龍之介などが筆を担当する。(一流の作家を総動員する)
西条八十の「かなりあ」の詩と楽譜も載るようになる。
北原白秋が中心になって童謡も載せていった。
「蜘蛛の糸」「杜子春伝」「一房の葡萄」「ごんぎつね」など戦後の教科書にも載っている。
時代を越えて読み継がれているものがたくさんあります。
昭和11年に亡くなりますが、196冊目を出版して続かなくなる。
「小さなものたちへいい童話を届けたい」というその情熱を死ぬ前まで抱いて生きてきたことは凄いと思います。
「赤い鳥」は飛び続けました。
松谷みよ子先生の「モモちゃん」シリーズ、坪田譲治、「犬のおまわりさん」を作った佐藤 義美が若い頃「赤い鳥」に書いています。
巽聖歌も「赤い鳥」に作品を載せています。
金子みすゞが書いた詩も稿欄に載っている。
海達公子 17歳で亡くなっているが、その詩も投稿欄に載っている。

ファンタジーという形での宮崎駿の作品を見たら三重吉は感動すると思います。
時代を越えて読まれるものは大人も感動する。
漱石四天皇、鈴木三重吉、森田草平、小宮豊隆、安倍能成。
漱石崇拝の権化みたいな人たちだった。
鈴木三重吉は大酒飲みだったが、また完璧主義、凝り性だった。
昭和6年ぐらい、北原白秋とちょっとしたきっかけで絶交してしまう。
白秋が童謡の原稿を出すのが遅れて間に合わなくなってしまって、三重吉は怒り心頭してしまう。
悪いことにたまたま酒を飲んでいるときで「そんな童謡は捨ててしまえ」と言ってしまって、白秋のプライドを傷つけて絶交と言うことになったようだ。
しかし鈴木三重吉の「赤い鳥」運動には白秋は敬意を表している。
言葉で人間性を豊かにして様々なことを受け入れることが出来る人達を育てたいと云うことで祖父とどこか通い合っているところがあるのかなと思っています。













2018年1月17日水曜日

早坂暁(脚本家)            ・母を語る(H16/10/19 OA)

早坂暁(脚本家)       ・母を語る(H16/10/19 OA)
昨年12月に亡くなられた早坂暁さん。
昭和4年愛媛県生まれ、旧制松山中学を経て、海軍兵学校に在学中に終戦を迎えました。
日本大学芸術学部演劇科を卒業後、新聞社の編集長を経てTVドラマの脚本や演出を手がけるようになります。
代表作には「戦艦大和日記」や、生家をモデルにした「花へんろ」、胎内被爆者を主人公にした 「夢千代日記」などがあります。
常に庶民の目線で描く独自の作風が多くの共感を呼びました。

渋谷が一番長いです。(30年になります)
緑も一杯あり(明治神宮、代々木公園)、劇場、デパートなども近くにあり珍しいです。
若者も集まりファッションの流行なども判ります。
愛媛県の瀬戸内の北条町に生まれました。(今の松山市内)
河野水軍の発祥の地でもありました。
母方が河野水軍の7將の一人だったらしいです。(出城を任されていた)
父親は隣町の北条町で商売をしていました。
商家に嫁いだので母は非常に戸惑ったようです。
両親はいとこ同士でした。
母は女学校に行っている時から歌が上手で東京の音楽学校に行きたいと言ったが許可してもらえなくて、家を出て行くと言うふうに思ったそうです。
お金を借りに伯母さんの所に行って、お金を借りて出かけようとしたら船が出なくて、関東大震災が起きた時だったそうです。
東京が無くなってしまったと言う号外が出て、そんな所に行ってもしょうがないので暫く家にいなさいと言うことになりました。
伯母がうちが貰うからと言うことに親の方で勝手に決めて父の処に嫁ぐことになったそうです。

昭和4年に生まれました。
いとこ同士なので子供を産む事に対してしてはちゃんとした子が生まれるかどうかと言う疑念は持ってたようです。
結婚の承諾を得ようとしたときに医者に相談に行ったそうです。(遠縁の医者)
3人目が僕です。
生まれてきてもしばらく泣くこともなく死産かと思ったそうです。
超虚弱児で3歳まで立てなかったそうで(這うだけ)、奇妙な病気ばっかり掛かって、この子は10歳まで生きれるかどうかと医者に言われたそうです。
骨がちゃんとしてないせいか、立てなくて、お坊さんに相談したら名前が悪いと言うことを言われて、最悪の画数だそうです。
理由もなく名前を変えようとするには、本籍から変えないとダメと言われたそうです。
本籍を変えるには一つだけ方法があると言うことで、僧籍に入れば変えられるとのことでした。
河野水軍の菩提寺の処で、うちで得度式をやりましょうと言うことになりました。
すこしその時の記憶があります。
お坊さんが二人あらわれて剃刀を持ってきたので泣き叫んだことを覚えています。
本当に剃る訳ではなくて、刃を反対にして剃る真似をするだけでした。

名前を変えましたが一向に立って元気になる気配はありませんでした。
四国遍路をするしかないかと言うことでした。
四国遍路では難病の人もたくさん歩いていました。
母は私を乳母車に乗せて母の知り合いと四国を回ったのですが、かすかに覚えています。
急な坂道、山道、峠があるのでその時はおんぶして歩くしかなくて、背中に負われて坂道を上がった坂道とか、一緒に転んで痛い思いをしたとか、断片的に覚えています。
2カ月半かかって帰ってきました。
しばらくして立つことが出来ましたが、こんなにうれしいことはなかったです。
オリンピックの三段跳びのラジオの中継をしていた時でした。(西田 修平選手)
皆がワーッと騒いでいた時で、おふくろが振り向いたら僕がよろよろしながら店に出てきたと言うんです。
大きくなったらおまえは四国を回らないといけないと言われて、30歳頃に回りました。

四国遍路は1400km有るんで大変でした。
平坦なところばかりではなくて急な坂はあるし、雨の日もあるし風の強い日もあるし、そういった中で1400km歩くのですから、母はさぞやたいへんだったろうなと思います。
うちはデパートだったのでアメリカ製の頑丈な乳母車がありそれを使って行って修理をしたりしながら乗り潰しています。
親爺は半ばあきらめていたようですが、母親の一念と言うものは凄いですね。
文房具も扱っていたので、下関の金子みすゞさんの家が大陸へ文房具、本を輸出していた卸屋さんでうちの富屋も納入していた関係で、おふくろはそこの娘さんが金子みすゞさんと言うことをよく知っていて、おふくろは金子みすゞさんの詩をよく知っていて夜などに良く読んでくれました。
30歳前で自殺するわけですが、僕が2歳ぐらいの時でどうしてあんなに素敵な詩、童謡を作ってくれる人が死んだんだろうとしきりに言っていました。

小学校の6年に太平洋戦争がおきまして、軍国主義教育が徹底して行く中で、松山中学に入った時には身体を鍛えることばかり前面に出ました。
その頃から急速に元気になりました。
裸足で駆けて上半身裸になり乾布摩擦をしたりするわけですが、それが良かったのかなと思います。
海軍兵学校に入れる肉体になっていました。
大きな軍艦に乗りたいと思いました。
戦艦大和が有ると言うことで大和に乗りたいと思って海軍兵学校に入ることになりました。
母親は戦場に送り込むことを喜ぶ人はいなくて、男は全員戦場に狩りだされると言うような状況になり、拒否する訳にも行かず、母親としては力が及ばない時代だったと思います。
半年で終戦になり助かりました。
兵学校では赤痢にかかりがりがりになって帰ってきました。
母が迎えに来ましたが僕を判らずにいて、それほど痩せていました。
松山中学に復学して、国の為に戦えと言って教育した教師が悪かったとも言わずに、教科書を取りだして黒く塗りつぶせと言って授業を始めるので本当に腹が経ちました。
教師、教育に対する不信感を持ちました。
先生は間違った教え方をしたという一言も言わなかった。

登校拒否をして家でごろごろしていましたら、母親が新しい教科書を持って来なさいと言って、歴史書など以外の理科系は全然塗られえていないじゃないか、こういうところがあるから行きなさいと云うんです。
1年近くいかなかったが学校に行き出しました。
理科系は変わっていないから医者になりなさいと言われました。
医者になるのは嫌で演劇の方に入ってしまう訳です。
家は劇場も持っていましたので、映画、芝居浸けになっていたのでその方に逃亡する訳です。
僕の作品を母親はよく見てくれていました。
なかなか地元では喜んではくれませんでした。
NHKが放送してくれた時にはようやっと一人前になったと言ってくれました。
「夢千代日記」などを見ていて、日本海側の暗い話を書かないで瀬戸内海の明るい話を書いたらどうと言われて、母親がうちらの街の事は楽しいよと言われて「花へんろ」を書きました。
おふくろが生きている間はあそこが違うのではないかとか言われそうで、描きにくかったですね。
結局おふくろが亡くなってからでした。
ちゃんと生きれる子供にしてくれたのはお袋のお陰だと思いますから、本当に凄いなあと思います。
お遍路文化、遍路の持っている意味みたいなものを凄く人生の中に取りいてれ、取り入れざるを得ない様になって行きました。
遍路さんは小さい頃は陰気くさくて嫌でしたが、段々大きくなるにつれてあそこは日本中の人の悲しみ悩み喜びまで表現して歩いている。
遍路道に佇めば今の日本人が良く判る。
今日本人が何を考え、何を悩み、悲しみ、何を喜ぼうとしているのか遍路道にいるとそれが判ります。
78歳で母はなくなりましたが、親爺が介護し、看取られて行きました。
母は姉しか聞き取れない言葉でいって、その時姉がクスッと笑って、「メガネをお掛け」と言ったと私に言ってくれて、(メガネをかけると素敵に見える様で)、最後の言葉として「メガネをお掛け」はないだろうと思ったが、おふくろが亡くなった後に「メガネをお掛け」と云うことを思い出すと思わず笑ってしまうんですよ、悲しませずにしてくれたんだなあと思います。




2018年1月16日火曜日

田中昭雄(国立小山工業高等専門学校 准教授)・ロボコン30年

田中昭雄(国立小山工業高等専門学校 准教授)・ロボコン30年
正式名称は「アイディア全国対決高等専門学校ロボットコンテスト」30回を迎えました。
今では高専のほかに学生ロボコンという大学生、高専など参加枠を広げた大会が有ってロボコンも何種類も行われているが、そのスタートと言ってもいい「高専ロボコン」、NHKでも毎年放送行っていてもっとも歴史のあるロボコンです。
異なる競技課題が毎年与えられて、例えばお互いのロボットやゴールにくっついている風船をいかに早く割るか、又別の年は障害物を交わしながら敵陣にいかに早く箱を積み上げるか、その年その年の課題に対してアイディア満載のロボットを製作しその成果を競うと言う大会です。
先月おこなわれた30回大会のタイトルは「大江戸ロボット忍法帳」と言うタイトルでした。
25年にわたって学生に指導している国立小山工業高等専門学校 准教授 田中さんに伺いました。

第一回は乾電池カースピードレース、昭和63年 全国で12校参加。
35mを60kg以上の人を一人載せて乾電池2個を動力源に早く走ってゴールに行くと言う決まりでした。
もの作りの喜びを教えようと言うことで当時東京工業大学の森先生が授業で始めたことを知り始めたが、1回で終わると思ったら、2回目からが今のロボットコンテストになりました。
小山高専を卒業し、大学を卒業して小山高専に戻ってきたが、93年の大会から高専ロボコンの指導教員としてかかわるようになりました。(第6回)
高専では最終学年は研究テーマが与えられてテーマを発表します。
前回の大会は57校、62キャンパス、124チームとなる。
4月にルールが発表となります。
昨年末の大会ではロボット自体に風船を付け、相手陣地にも風船がありいかに早く相手の風船を割るかを競う。

ルール設定が重要です。
ロボット同士がぶつかり合うので、どうやってうまく進行するかなど、ルール設定が難しい。
チャンバラなのでアームをロボットに付けるが刀の裁き方などアイディアのポイントになります。
壊れないように耐久性、信頼性などが重要になります。
秘密道具の設定もありいかに面白い道具でいかに相手の風船を割るか、そこの部分に期待しました。
大きさと重量だけが決まっています。
4月にテーマが発表された後に、6月の終わりが第1回目のアイディアシートの提出があり、その1カ月半位の間に学生の間でアイディアを出し合って、10~20のアイディアが出てきますが、アイディアを絞っていきます。
前回はバトミントンのシャトルの形状した飛び道具を当てるとか、ムチをロボットが振り回すとかを考えました。
ブーメランを使った処もありましたが、難しいと思いますが、良く挑戦したと思います。
デザイン賞もあります、勝つことも大事だがデザインで楽しませるとか、各校色々な挑戦をしています。

3,4年生あたりが設計を担当します。
イメージした通りには動かないとかいろいろ問題が起きるので、図面を修正して作り直したりして行きます。
これでいいのかとか迷いもあったりしますが、時間との関係が勝負になってきます。
地区予選があり、テストランが前日にあり、そこで他校のロボットを見て吃驚します。
他校のロボットの動きを観察して作戦を練ります。
決勝までに4~5回の戦いがあります。
壊れたりするので次の試合までに調整します。
小山高専ではメンダコをデザインしましたが、見せたい為には勝たないといけないのでその辺のバランスが難しい。
ロボットの製作活動はクラブ活動になります。(授業では出来ない)
授業では出来ないいろいろな経験をするので自分たちで勉強し加工したりするので、授業よりも一生懸命やっているんじゃないかと思います。
設計も3次元CADで図面も描きますが、会社に入っても使えるソフトなので勉強になっていると思います。
チームワーク力が高専ロボコンでは重要になります。
形になって無線操縦して動くと、先ずやったと言う気持ちになります。

会場に持ち込んでトラブルが色々あったりします。
空気の動き、照明などでトラブルをすることもあります。(飛び道具、センサーとか)
戦っているときにも予期しない色々なトラブルがあります。
何ヶ月も時間をかけて試合に負けて泣いてしまう学生もいます。
全国大会も5回勝たないと優勝できない。
ぶつかり合いでどう試合展開するのか判らないので、大変です。
ほかに技術賞、デザイン賞、アイデア賞、アイデア倒れ賞などがあるがロボコン大賞を何処の高専も狙っています。
優勝がロボコン大賞と言うわけではない。
大分高専が倒れてもすぐ起き上がって風船割りをする、ロボコン大賞をもらった。
長岡高専のブーメランがアイデア倒れ賞を貰うことになりました。(もっと当たればロボコン大賞になっていたのではないかと思いました)
遊びの部分が有ると言うことが第一回からずーっとあります。
発想力等会社に入っても研究開発の仕事では力になって来ると思います。
ロボットの性能、制御技術、アイデアなども多彩になって、今後のロボコンがどんなものが出てくるのか期待があります。
今後の日本のもの作りの世界で活躍してもらいたいと思います。
学生のもの作り大好きということは今も昔も変わっていません。
チームがまとまらない様な時期には厳しく指導する時もあります。
でもやっていて楽しいです、授業中には見せない処を見ることが出来ます。
真剣にやるから色々なところが見えて来ます。










2018年1月15日月曜日

上村愛子(NHK放送 ナビゲーター)   ・【“2020”に託すもの】笑顔で伝えるオリンピック

上村愛子(NHKピョンチャンオリンピック放送 ナビゲーター)
・【“2020”に託すもの】笑顔で伝えるオリンピック
1998年長野オリンピックが最初、それからソルトレイク、トリノ、バンクーバー、ソチ、ずーっとオリンピックに参加してきて、中学校以来オリンピックに何もない時を迎えてます。
ピョンチャンオリンピックは初めてそとから見るオリンピックの様な気がしています。
1998年の長野オリンピックが高校3年生でした。
今度は放送ナビゲーターとしてピョンチャンに行きますが、スキーに関してはある程度良く判りますけど他の種目については私でいいのかという気持ちはありますが、選手の気持ちとか感じることを皆さんに伝えることが出来るのではないかと思っています。
ソチはよく覚えていて、一番自分らしくスタートに立てた試合だったと思います。
自分らしく戦えた試合だったと思います。
決勝で3本目を滑れる人は6人で、その最初のスタートでした。
自分でも驚くほど落ち着いてはいました。
フルアタックの滑りを出すのは難しかったが、滑り終わったときにはもうこれ以上ないと思うほどやりきった気持ちが凄くあってタイム、ポイントを待っているときにはこれが最後なのかと想うほど感極まった状態でした。

モーグルはターンとエアー、タイムの3つの要素で得点が決まるが、タイムは一番早かったが、エアーとタイムは全体の4割しかなくて、ターンが6割を占めます。
ポイントを見たときには、自分のやりきった気持ち、思いとは違って順位は下だったと感じました。(20.66 タイムは30秒68)
トップ3の位置には厳しい得点かなあとは思いました。
カービングの得点が世界の流れのなかで違う技術の中での得点だった。(評価の仕方がいろいろ意見の有るなかでの得点だった)
モーグルでは50回ターンがあるが、細かくジャッジを見ているが、カービングの難しいところはアタックするからこそ板がたまにはじかれるとか危ういシーンがあるので、板を少し横にずらしながら滑って行く選手がほとんどで板が開くとか、はじかれるとかというミスが少ない。
そういった滑りは減点要素が少なくなると言うことになる。
私はチャレンジャーする気持ちが強かったので、横に滑らす事ではなくて果敢に攻めてそれからがミスが出ないようにと言うことをやってきました。
結果は4位でした。
ソチは硬いバーンだったので、押さえる選手の方が多い中でアグレッシブに滑ることが見ている人には伝わったのかなあと思うし、私としては凄くいいオリンピックだったと思います。
滑り終わった時にはすでに泣いていたので、出し切れる物をようやく出せたという達成感とか、もうオリンピックも最後と決めていたので、自分の中から沸き上がってくる気持ちをそのまま受け止めて過ごしたので笑ってもいたし泣いてもいました。
オリンピックを目指して皆さんに応援していただいて、一番いい恩返しはメダリストになることだと思ってきましたので、金メダルを目指して自分自身がやってきたことに嘘はないので胸を張っていられるように皆さんから見てもらえると選手としては有難い、幸せと言う気持は有ったので、皆さんにすがすがしいという気持ちを伝えられて良かったと思います。

5大会連続入賞しましたが、バンクーバーの終わった後に「なんで一段ずつなのか(4位)」、と言う思いはありました。
それぞれ4年ごとに有るので、進化した状態で臨ませてもらって、自分に対する期待もありますし、それぞれに感じたオリンピックだったと思います。
やはり選手として金メダルを狙っているからにはと言う思いがあり、なかななかジャンプアップすることが出来ないのはどうしてか答えとして出てこなかった時でした。
総合優勝もしたりしていたので取れないわけではないと思っていたが4位に終わってしまって、この競技人生は何なんだと思って、悔しい気持ち、情けない気持ちで「なんで一段ずつなのか」と泣きながら話してしまったことを覚えています。
長くやって来てオリンピックの金にこだわることによって、進化しながらメダルを争える様になり結果として、総合優勝、世界選手権の結果に繋がったと思います。
オリンピックの目標は自分にとっての大事なモチベーションになったと思います。
オリンピックいうものがなかったら、あそこまでスポーツを一生懸命取り組めない凄く大きな目標だと思います。

モーグルを始める前はアルペンスキーを6年間やっていましたが、モーグルを初めて見たときにコブを上手に滑る方は当時いなくて、中学生だったが、コブを上手に滑れて恰好いいだろうなと思いました。
コブを滑って行く技術、エアーを決めたり音楽も鳴って会場が盛り上がると言うことを感じて、楽しんでもらえる競技だと感じて、出来たら主役になりたいと思いました。
初めてワールドカップの大会を見ることが出来たので、コブを上手に滑る姿を見て、幸運だったと思います。(中学2年生の時)
上手な人を見て何を自分が受け取るかと言うことは大事だと思いました。
モーグルを観た後はひたすらコブ斜面に毎日通って、その後日本のトップ選手のモーグルの合宿に参加させて貰って、そこでしっかり教えてもらえる環境になり、オリンピックに出られた下地になったと思います。
変わることはたいへんですが、アルペンからモーグルに変わることはあんなふうに滑ってみたいと言うイメージが持てたことがモーグルに飛びこめるきっかけの一つになったと思って、でる大会も評価してもらったので、モーグルが合っているのかなあと思いました。
いつかは引退するとは思っていましたが、怖かった。
バンクーバーの後に考えたことはあるがもう一度やるというチャレンジが出来たことは、いま引退したことを自然な流れだと受け入れています。
バンクーバーの後に休んだ1年がなかったら悩んでいたかもしれない。

昨年からNHKの放送の現場に行かせて頂いていて、氷の世界の競技にはなかなか見る機会がなくてカーリングとフィギュスケートを見て現場に行って感じさせられて、フィギュアスケートは華麗で美しいイメージですが、生で見ていると着氷の音が凄くやっぱりスポーツだと感じるし、手に汗を握ることに毎回なります。
5回オリンピックに行っていますがフィギュスケートを観たことがなかったです。
生でないと判らない部分が沢山あります。
日本と言うのはスポーツ文化は根付いていると感じています。
オリンピックを見て、スポーツに色んな夢を持っていただけると考えます。
2020年は直ぐ目の前で、目の前でスポーツを見て肌で感じた人は絶対何かしら感ずるものがあって夢を持ったり、前向きな想いとかポジティブな気持ちが沸くのがオリンピックかなと思っています。
感動はこれからもズーっと続いていくんだと思います。















2018年1月13日土曜日

西田秀子ほか(地域史研究家)       ・調査報告・戦時下の犬猫供出(H28/11/12 OA)

西田秀子ほか(地域史研究家) ・調査報告・戦時下の犬猫供出(H28/11/12 OA)
【ABU賞受賞作品 特別アンコール】
このドキュメンタリーは日中戦争から太平洋戦争の時代に兵士の防寒具に役立てようと国民に飼っている犬や猫を供出させた献納運動に光を当てたもの。

昭和20年2月北海道小樽、背中の袋には猫が入っている、名前は「クロ」、大切に育ててきた猫。
でも今日はお別れの日です。
回覧板には「お国の為に犬や猫を差しだしなさい、毛皮を兵隊さんの防寒具に役立てます。」そんなことが書いてありました。
もう約束の時間を過ぎています。
直ぐ目の前には大きな男が立っています。
私は当たりの異様な光景に息を飲みました。
広場に積もった雪の上に沢山の犬や猫が倒れています。
雪は一面真っ赤な血で染まっていました。
思わず去ろうととしましたが、男の手が私の背中の袋を掴んでいます。
「私が坂道を降りるまで猫を殺さないでください」、と云って男に背を向け立ち去ろうとしました。
その時です、後ろから断末魔の声が聞こえました。

僅かに残る資料を元にその事実に光を当てます。
北海道江別市に戦時資料に詳しい一人の研究者がいます。
西田秀子さん65歳。
この10年の間戦時下の犬猫供出の実態を調べようと、国立公文書館、各地の図書館を訪ね2000コマを越えるマイクロフィルムや、おおくの戦時資料にあたり読み解く作業をしてきました。
今年6月1冊の調査報告書にまとめました。
昭和12年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争に入り、長期化してきて日本国内では十分な食糧を生産できなくなってきて、軍需毛皮などの生産が昭和14年ぐらいから下降気味になって来る。
不足をどうにかしなければならなくなり、昭和14年暮れに東京八王子の警察署で愛玩動物の飼い犬に餌を与えることは無駄ではないかと言うことで、軍用犬,番犬を除いて献納させたらと言うふうなことになる。
皮は軍用の資材になると云うことで始まったようです。

昭和15年帝国議会で取り上げられる。(予算委員会)
北 昤吉(きた れいきち)議員が「軍用犬以外は全部殺してしまえば皮は出るし、飼料は助かる」と発言する。
第75回帝国議会衆議院予算委員会の議事録に残されている。
昭和18年4月北海道札幌市で野犬狩とともに犬の献納運動が始まる。(180頭)
札幌のスタイルを北海道庁が犬の献納運動としてこの要綱を初めて作って行く。
手順を文書化する。(昭和19年2月)
道内の各市町村長あてに通達される。
同年大阪で犬を供出したと言う人がいます。
神戸市の本宮八重子さん83歳。
当時住んでいた大阪市で犬を供出、名前は「くろ」、兄弟がいなかった本宮さんにとって大切な存在だったと言います。
昭和19年の秋、本宮さんに回覧板が届きます。
飼っている犬を警察に連れて来るようにと書かれていました。
母から言われて、父からも「わかっておるな」と言われました。
飼っていた鶏の貴重な卵を割って食べさせました。(日頃は本当に粗末なものを食べさせていました。)
いつまでも手のひらなど舐めまわす感触は忘れることはできません。
母から一緒に行くのか催促されて、私は行かないと言いました。
「クロ」が振り返って私を見ていましたが、母が鎖をぐいと引っ張ってでて行きました。
ただただ辛いなあ辛いなあとは思いました。(すすり泣きながら喋る)

北海道庁は新たに猫の供出を決める。(昭和19年)
昭和19年5月26日北海地方行政協議会の主席監督官から猫の皮で防寒服にしようと言うことで犬が1匹10円、猫が5円の公定価格がきまる。
軍からの要請で実施されることになる。
福岡県の民間の飼料館に残されていた。(昭和20年2月25日の日付けの北海道のものの 猫の受領証)
北海道で殺処分の現場を見たと言う人がいる。(北海道札幌市加藤さん82歳)
背中にかますをしょっている人がいて、中が動くので生き物が入っていると思って友達と付いて行った。
集会所の前に雪の穴が掘ってあったが、のぞき込んだらその中には犬や猫の死骸が山積みになっていた、40,50はあったと思います。(皮は別に置いてあった)
杭打ちの道具でかますを叩いていました。

供出したものの処分の仕事手伝いをしたと言う人もいました。
札幌市原さん86歳。
知人に頼まれて色々なところに行って、犬猫の殺処分を手伝いました。
20から25匹を撲殺、眉間をぶん殴る。
軍隊を思って、仕事だと思ってただ殴った。
市町村ごとにノルマが有ったと言う。
町内会を通じて猫、犬を何頭飼っているかを調査して、具体的に数字をあげて割り当て数を各市町村ごとに決めて行く。
札幌市は野良犬と飼い犬を併せて1769頭、1414頭を供出しなさい、猫は8913匹のうち約50%4455匹供出しなさいとノルマを課している。
犬は全道で37074頭のうち8割の29664頭、猫は152955匹のうち50.3%に当たる76985匹を供出するノルマを課しました。

戦争末期、B29の激しい空襲にさらされるようになる。
昭和19年12月15日、軍需省科学局長と厚生省衛生局長は全国の地方長官(知事)にあてて一通の通牒を発する。
軍用犬、警察権、天然物の指定を受けたもの、登録済の猟犬を除く一切の畜犬は献納、供出すること、と言うもの。
国民に周知されて、回覧板に依って詳細内容は伝えられる。
鳥取県の広報が残されている。
飼い犬野良犬で1800匹、そのうちの656匹が献納されているということが、現地の新聞に詳しく書かれている。
献納は全国に広まって行く。
北海道全土で犬猫75157頭、ハ王子犬200頭、神奈川県では犬17000頭、鳥取県では犬656頭、その数は資料に残されているだけで97000頭余り。
供出拒否は極めて困難だった。(町内会から非国民使いされてしまう)
殺処分をみたという加藤さんは「戦争は平穏な日常から全てを奪い去って行くものだ」「全ては戦争最優先です、だから犬や猫まで戦争に使う」と言います。
戦時下に消えた犬や猫の命は歳月を越えて私達たちに命と平和の尊さを訴えています。


















2018年1月12日金曜日

喜谷昌代(キッズファム財団 理事長)   ・喜びも苦しみも共に(2)

喜谷昌代(一般財団法人 キッズファム財団 理事長)・喜びも苦しみも共に(2)
今日はもみじの家に付いて伺います。

1991年から活動を始めたのがもみじプロジェクトです。
日本は桜、菊が国の花のようですが、、もみじを認可していただいたときに、もみじの葉は5つの形をしていて、一つ一つに意味を付けてそれを使ってもみじと言うプロジェクトにしました。
1991年から2009年の間で8回もみじプロジェクトを実施。
1991年に1回目を実施、日本から50人の障害のある青少年と障害の無い青少年とペアになってイギリスを訪れました。
日赤の看護師さんも参加していただきました。
最後の2回の時にはもう少し進んだことをしたくなりました。
イギリスから命の短いお子さんを2回にわたって日本に6人ずつお連れしようと準備を始めました。

ボランティアについては日本赤十字の青少年課の課長をしていた橋本祐子さんの「橋本語録」と言うのが20位ありまして、そのひとつに「あなたたちはなんでボランティアをやりたいか、やりたくないか、しっかり自分の中で考えなさい。
その答えがやりたいとなったら何処までも自分の持っている時間とか体力とかエネルギーとかを全部相手に捧げなさい、
そしてあなたたちは真っ暗な長いトンネルが有って、その一番最後の出口にある小さな光になりなさい。
そうすればそんな真っ暗なトンネルでも小さな光によって、かなり照らされる、そういうことが大事なんですよ」と教わりました。
お爺さんと孫が海岸を散歩しているときに、ヒトデが一杯打ち上げられていて、孫が海に戻してやっていて、お爺さんの問いに対して、ヒトデが一つでも二つでも海に還って生き返ってくれたらそれが嬉しいと言って、ホスピスもそれと同じで、受け入れられる子の数も限られているが、一人でも二人でも最後まで喜んで明るく楽しくして両親に守られて亡くなると言うことは大きなことだと思ってそれを続けてきたと言う話もありました。
心と心が通じ合えば成功の方向には行くと思います。

2016年にもみじの家が出来ました。
国内で初の公共の医療機関が運営する医療型短期入所施設「もみじの家」を東京に開設しました。
延床面積が1700平方メートルの2階建て、1階は宿泊用部屋でお子さんだけで宿泊できる3人部屋が2つ、個室が5つ、家族室も2つあります。
介護する人もぐっすり眠れるように工夫しています。
2階はプレイコーナーがあり、遊んだり学習したりすることが出来る。
ベランダがありいろいろ楽しめたり出来るようにしてあって、大きな桜の木があり桜も楽しめるようになっています。
日中は看護師、保育士がいて、夜は看護士が夜勤で泊っています。
家族風呂、障害者用の大きなお風呂もあり、喜んでもらっています。
ここでは安心してゆっくり何年かぶりに入れますと言って下さる人もいます。
一緒に持っている苦しみ、悲しみも共有できる、そういう関係をお子さんと御家族にも持たせていただけたらと思っています。

お子さん、御家族が書いてくれる文が有って天井しか見ないで友達もなく過ごしてきた
が、ここにきたらうれしそうにする子が多くて、毎日がとっても大切だという御家族が多いと思います。
11床のうち、7,8床しか使っていなくて、看護師さんが十分でないと出来ないので看護師を増やすことは財政上難しいので、募金活動をしたりして、財政がよくなったら十分なケアを出来ると思います。
今年からの1年は一生懸命募金活動をしたいと思います。
重症のお子さんでも養護学校とか、幼稚園とか普通のお子さんたちのように出来なかったが、普通の生活に近づいた家にしたいと思います。
両親にとっても歳を取って来ると大変な思いをすると思うので、今は0から18歳までですが広げられたらと思います。
もみじの家は原則一月一回の利用で、宿泊最長で9泊10日までの滞在が出来る。

2017年10月末までで775人が利用しました。
常に医療的なケア(人工呼吸器が必要とか)が必要な子は全国で1万7000人いると言われる。
在宅ケアとなると大変な負荷となります。
募金活動をしっかりしてもみじの家を色々なことで充実させたいし、色んな地域で出来ると遠くから来ることが無くなるので楽になると思います。
大阪、奈良とかでも出来ているところもありますが、宿泊施設がないとか、環境がまだ不足する部分があります。
夢が沢山あり色々したいと思っていますが。
ボランティアは1964年のパラリンピックの語学奉仕団の活動から始まりました。
皇后の美智子さまから赤十字で働いてはとのお勧めで始まり、橋本先生の影響もありましたが、ボランティアは長い期間やっていただければいいと思いますし、辛いこともあるかもしれないがやることを好きになっていただく、ボランティアの相手の人を大切にして一緒に歩いていただければと思います。
自分に合ったことを見つけてそれに集中して進めて行けば、相手の方もそれにこたえてくれると思います。
自分の気持ちを理解してくれる方、私の方からの相手の理解できて一緒に出来たりとか、どんなことでもボランティアは出来るのでそれを大切にしてやっていけば、もっと世の中が楽しくなるのではないかと思います。















2018年1月11日木曜日

喜谷昌代( キッズファム財団 理事長)   ・喜びも苦しみも共に(1)

喜谷昌代(一般財団法人 キッズファム財団 理事長)・喜びも苦しみも共に(1)
81歳、昭和11年東京生まれ、1964年の東京パラリンピックで語学奉仕団のボランティア活動を体験しました。
その後も世界各国で熱心にボランティア活動を続けた喜谷さんは、イギリスで世界初の子供のホスピスを訪ねます。
そこで重い病気でも子供らしく過ごす子供の姿に感動し日本にも同じような場を作りたいと活動を始めました。
そして去年の4月国内で初の公共の医療機関が運営する医療型短期入所施設「もみじの家」を東京に開設しました。

イギリスから一時帰国しています。
大したことをしていないのに時間ばかり経ってしまいました。
1年半経った紅葉の家に行きました。
東京の品川と五反田の中間あたりの処で生まれました。
幼稚園から高校まで聖心女子学院に通いました。
途中で戦争もありました。
大学卒業後客室乗務員になりました。
父が終戦の年の 1月に仕事の関係でもう一度行きたいと言うことで旅立ちましたが、フィリピンの近くに来たときに連合軍の飛行機に追いかけられて撃ち落とされて父は亡くなりました。(8歳の時)
そんなことが有ったので是非空を飛びたいと言う思いがありました。
色々なところに行って4年半ぐらい色々な体験が出来ました。

結婚を期にパリに住むようになりました。
2年半ほどパリにいてそこで長女が生まれました。
100日経たないうちに転勤命令が出て東京に戻ることになり、その時が東京オリンピックパラリンピックがあり、TVで見たり出来ました。
2年先輩の皇后の美智子さまがおりまして、フランスから帰ったら連絡があり、赤十字に入って何かお仕事をさせていただいたらいいのではないかと、お勧めを電話で頂きました。
日本赤十字の青少年課の課長をしていた橋本祐子さんを紹介させもらいました。
欧米に比べ、日本のパラリンピックの皆さんは施設から真っ直ぐバスで来て、自信がないと言うか暗いような感じの方たちばかりでした。
橋本先生はしっかりやりなさいと言うことでみんなを励ましていました。
当時はパラリンピックという言葉がその時できた様でとても緊張していました。
手伝いするのもなかなか思うようにいかないこともありました。
1964年のパラリンピックでは帰って来たばっかりなので橋本先生と一緒に本社内の手伝いが多かったです。(翻訳作業等)
食事なども今よりも粗末で義足を付けている方も、欧米に比べてあまり十分ではなかったと思うのでとても苦労されたと思います。

ボランティア活動は日本、フランス、ベトナム、タイ、香港、ドイツ、イギリスの7カ国で行ってきました。
ベトナムではベトナム戦争の負傷兵の手当などもしました。
その時は上が3歳、下が生後6カ月でしたので、暑いところなので難しい思いもしました。
飛行場ではロケット砲が撃ち込まれて飛行機が飛べなくなったり、救急袋を持って家の階段の下に入って夜が明けるまで過ごしたりと言うような経験もしました。
子供達は周りの人に見てもらったり、ロケット砲の為に夫が早く帰った時などは面倒を見てもらったりしました。
暑いところなので色んな病気も多く、電気を始終切られてしまうのでエアコン、冷蔵庫、洗濯機などなどがストップしてしまいます。
ゴミを1カ月ぐらい取りに来てくれないので、ハエ、蚊など虫が一杯で子供達には影響がありました。
水が汚くて1分間ガーゼ、脱脂綿で蛇口を押さえておくと砂や砂利やいろんなものが混ざって来るので気を配らなくてはいけませんでした。
兵隊は竹で編んだなべなど必要なものを入れて、生きたニワトリを持って、料理しながら戦場に向かうような光景がありました。

一番きつかったのはドイツのベルリンに行った時だと思います。
1978年から1985年の7年間でした。
ポーランドが経済的、政治的にも困難な時期だったので、ポーランドの普通の家族たちを少しでも楽にしてあげたいという機運が高まっていて、ドイツでは募金をしていて、そのお金で薬、乳児用品、老人用品などを買ってポーランドの田舎に配って歩くと言うことをしていて、日本でもポーランドの為に募金をしていることをうかがったので日赤にお願いして、そのお金をベルリンに送っていただいて、日本人会の人と一緒に必要品を購入して10台ぐらいのトラックに積み込んで配ることをしました。
ポーランドは共産国だったのでチェックが厳しかったです。
冬は零下30℃ぐらいなるので、東ベルリンとの国境では細かくチェックされ、トラックのなかで震えていて、ポーランドの国境のところでも同じようにチェックされました。
10日間小さな村を回って薬、食糧などを届けて、そういったことを10回ほどやって思い出に残っています。

ドイツの赤十字ではドイツ語が出来るかといきなり聞かれて、出来ませんと言ったら、直ぐにドイツ語を習いなさいと言われて、2,3の免許を頂いてそれから活動が出来るようになりました。
ベルリンは共産圏にかこまれていて、学校に入って勉強すると兵役が免除されると言うことでほうぼうの国から若い人が来ました。
周りは若い人たちで試験は辛い思いをしました。(当時40歳になる頃)
男子の犯罪人がいる刑務所に行って服役者の相手をするとかも許されてユニークな活動だったと思います。
服役者とも親しくなって心、生活、環境、どうしてそうなったのかなど色々なことを学べました。
欧州にはキリスト教文化が残っていて、服役者にもそういったことが残っていて、ミサをすると言うことがあって、子供たちが入れてもらって聖歌を歌ってミサをすると、服役者の眼から涙が落ちてくることがよくありました。
刑が終わるころになると6時間ずつシャバに出して貰えるので、そういうときの責任も私どもが持って面倒を見ると言うこともありました。
その中にステーキが食べたいと言う人がいてレストランに連れて行って、ステーキをあっという間に平らげてまだ欲しそうで私の分までもぺろっと食べてしまいました。

夫の仕事の関係で49歳でイギリスに引っ越しました。
世界初の子供のホスピスを見学することになりました。
20年近く「もみじ」というチャリティーがありますが、障害のある日本の青少年とイギリスの青少年とを交流するプロジェクトでしたが、日本赤十字のお金はもっと戦争に関わるような場面で使わなければならないので、そういう政治活動には使わぬようにと言うことがあり、辞めるのは残念と思って独立してチャリティーにしたいと思って、認可して貰って独立して活動が出来るようになりました。
オックスフォード大学の関係で世界初の子供のホスピスがあると言うことで広報担当の方から話をして貰って、見学したいと言うことになりそれが子供のホスピスとの出会いとなりました。(10年以上前)
日本とは雰囲気が違って自由というか、看護師さんとかが理学療法士とか、シスターとかがいて家庭的で温かくて、病院とか施設と言う感覚が全然なくて、こういうところを日本に持っていけたら、死を前にした様な子どもさんでも楽しく最期を過ごしてお送りすることができるのではないかと思ってなんとか日本に作りたいと心の準備をし始めました。














2018年1月10日水曜日

小林豊茂(東京都豊島区立明豊中学校 校長)・がんと闘う“命の教育”

小林豊茂(東京都豊島区立明豊中学校 校長)・がんと闘う“命の教育”
豊島区立明豊中学校では思いやりの心、命を尊重する心を育てることを目標に、“命の教育”を実施しています。
先頭に立ってその授業を実施してきた校長の小林さんは56歳、一昨年ステージ4の肺がんが見つかり抗がん剤、放射線治療の入院生活を余儀なくされました。
しかし、がんに負けない気持を持って自分が生徒の前に元気な姿でいること自体が命の教育だと確信し、3カ月後には退院し、再び生徒の前に立ちました。
小林さんがどのようにがんを克服し、どのような命の教育をやっているのか伺いました。

抗がん剤、放射線治療だけでしたが、今は本当に元気になって腫瘍も小さくなっています。
一昨年の定期健康診断でがんが判りました。
精密検査で右肺に4cmのがんが一つと2cmのものと、左肺にもう一つ2cm位のものが見つかりステージ4と言うことで末期がんでした。
煙草は一度も吸っていませんでした。
がんと言われた時は、これで直して自分の姿が子供たちへのモデル披露になるかなと思いました。
終わりだとは思いたくなかったのかもしれません。
前の学校でがんの教育をしていて、学校にがんを克服した元プロ野球の選手を呼んで、こうやって元気にやっていると言うモデルになっていた人がいました。
そういうことがなかったらがんと言われた時には頭が真っ白になっていたと思います。
妻の父親が肺がんで亡くなっているのでショックだったと思います。

2学期の初めの始業式だけ参加して、翌日から入院しました。
3クルーの抗がん剤、放射線治療を始めました。
毎週一回の点滴で3回が1クルーと言うことで、毎日放射線治療をして、3クルーの時には3週間分を通院しながら治療が出来るような体制の為に、纏めて入れて進めて来ました。
全く副作用がなくて吐き気もないし食欲もありました。
メールで入院中の治療などについて見舞客などに連絡していました。
30回放射線治療を、1クルー、2クルー掛けてやって毎週1回抗がん剤を入れて4cmちょっとあった肺がんも形が見えない程度になりました。
2cmづつあったものもCTを撮っても1つは見えない位までになりました。
8月30日に入院して退院は10月25日と自分で勝手に思っていましたが、その通りになりました。

それから第二クルーが始まりますが、抗がん剤治療は血液の中の白血球が少なくなっていって、下がり切ると次の治療が出来ない。
順調だったので次の第二クルーに入りました。
次は通院しながらという計画だったので3週間分を入れてどうなるか、と言うことでしたがその時は副作用がありました。
痛みと、手足の抹消部分にしびれが出て来ました。(1日だけ)
髪の毛も抜けました。(つるつるになるほど抜けました)
第二クルーは11月18日と自分が決めてその通りに退院しました。

第三クルーは一気に入れましたが、痛みはほとんどなくて、しびれは強くなりました。
点字ブロックを歩くようなごつごつ感を感じました。
11月29日まで入院しました。
30日は家にいて翌日の12月1日に職場復帰を考えていたので、そうできました。
子供達の方が歓迎してくれて何よりうれしかったです。
なにもかも新鮮に見えました、当たり前に思うことがこんなにうれしいんだなと思いました。
頭はつるつるでニット帽をかぶって行きましたが、全校集会では朝礼台の上ではニット帽を取って頭の毛はこういう状態だとがんの治療をしてきたんだと言うことを見せました。

酒は弱くなりました。
体調面は変わらなかったです。
10年以上300坪の家庭菜園をやっていまして、30種類の野菜を作って来ました。
退院後もやっていますし、犬の散歩もやっています。
この病気はこれからも付き合っていかなければいけないと思っていて、一日一日を大切にしていきたいなあと前以上に思っています。(家族、人、仕事)
命のタイマーを自分でセットされた様な感じで、この時にやらなければいけないことに真剣になれる、それは凄く感じるようになりました。
今やらなければいけないこと、今やれることをちゃんとやっていこうと、今やれることが出来ると言うことは幸せだと感じるようになりました。
心が一番大事で、先ずは心を育てていきたいと思いまして、健康も大事で、学年単位で自分の命を守ったり、命を感じたり、人の命を助ける、そういった広い命の教育を私が校長の時にやってきました。
がん教育の推進が早かったので、命の教育とつなぎ合わせて、7年間続けてきています。
林和彦先生(東京女子医科大学ガンセンター長)もゲストで来ていただいています。
意気投合しまして、がん克服してゆく、がんになった人を支えて行く社会や生き方を一緒に手を取ってやろうと言うことで、お話を頂いたりしています。

がんは治療しても治らないことがあるかもしれないが、がんに負けないと言う気持ちを強く持たせたい。
医者は直そうと必死になっているが患者はがんでは駄目なんだなと思いこんでしまっている。
患者は負けないと言う気持ちを持たなければいけないと思いました。
今後学習指導要領にがんのことが出て来ます、2020年度から小学校、翌年中学校、翌々年高校で実施していきます。
昨年11月に林先生と共に地域の町会、がんに関心のある人たちに対して大人のがん教育を実施、他の小学校などにも行ってがん教育をしています。
決して不治の病ではないということをデータを元に先生がお話ししますので、がんに対しての認識が変わったと好評を博しています。
防災教育とも連携しています。(3・11の大震災からの教訓)
原風景を無くしてしまう災害と、がんと告知されただけで希望を失ってしまう、心の原風景を失ってしまう、どちらも希望を失いかねないが、生きていくと言うことは間違いないので合い通じるものがあると思います。
私のがんは肺腺がんで生きている間付き合っていかなければいけないが、4cm有ったものが昨年末12月の時にはほとんどなくなっている画像を見せていただいたので元気にやっていきたいと思っています。
「心を感じ、心を読み、心で動ける生徒の育成」を学校の方針にしていますが、生徒=人間と思っています。









2018年1月9日火曜日

馬渕清資(北里大学 名誉教授)      ・“バナナですべる”を科学する

馬渕清資(北里大学 名誉教授)      ・“バナナですべる”を科学する
1950年昭和25年愛知県名古屋市生まれ、東京工業大学で機械工学を学んだ馬渕さんは大学院で当時わが国ではほとんど進んでいなかった人工関節の研究を恩師の勧めで始めました。
北里大学に移って医療と工学を結びつける医療工学の教授となり、人工関節が体内でうまく動くための研究や実用化に取り組んできました。
その専門書を出版するにあたって人の関節が滑る仕組みを説明するところでバナナの皮がよく滑るようにと説明したが、後になってその通説には科学的な裏付けがない事を知り、自分で研究することになりました。
その研究結果は予想以上の反響を呼んで、4年前、イグノーベル賞を受賞しました。
イグノーベル賞と言うのは「人を笑わせ考えさせる」と言う研究に贈られるものです。

滑る話したらすぐ調べてみようと言うことになってきました、滑ると言うことは摩擦が低いという現象で、歳を取るとページがめくれにくくなると言う話を聞き、指の摩擦を測ってみようと言うことで指の滑り具合を調べました。
年齢と滑り具合の関係を調べてみました。
歳をとれば一様に滑ってしまう。(ページがめくれなくなる)
肌湿度計で測ると、歳をとると段々肌が乾燥してきて、滑る。
対策としては湿らせるのが一番簡単です。
座敷犬も滑るので、靴下をはかせて対処するが、犬の滑るのはどのぐらいか測ってみました。
換毛期の5月頃に自分の毛が抜けて散らばっていると1/5位に下がってしまう。

歩けるかどうかが、医療技術では一番重要で、膝関節、股関節の二つが人工関節の90%以上を占めている。
これが滑らないと、立っている摩擦で大きな力がかかっていると言うことを意味してしまいまして、人工関節本体を損傷させてしまう。
折れてしまうこともあるが、微視的にすり減って行く厄介な状態が起きる。
摩耗して出来た粉末(金属、プラスチックなど)が身体の中にまき散らされて、それが障害を発生させることが起きてきている。
それを防ぐには潤滑技術を駆使しないといけないので、そのための研究をずーっとやってきました。
材料は純度の高いポリエチレン、相手は金属とかセラミックスというような組み合わせで作ります。
材料を選ぶときに身体に影響がないように、基本的な実験からスタートします。(50年の歴史がある)
最長は45年と言う人工関節がありますが、一般的には20年が限界と言われている。
日本では年間14万例の人工関節の症例がある。(高齢化社会と関係していて増える一方)

医療機器関連の産業は我が国の他の技術と比べるとまだ低レベルで、多くを海外からの輸入に依存していて人工関節も9割が海外製品です。
人工関節が発達するころに医療機器は海外から買う、自動車、電気製品は売ると言うような貿易バランスが確立されてしまった。
海外の人工関節が入って来て、患者さんに入れる技術はデザインの外側の形と同じ形で骨に穴を作らないといけない。
骨に穴を作る為の道具が多種類になって来て、一つのデザインの人工関節を入れるのに500万円位の挿入器具が必要となり、人工関節のデザインごとに必要になる。
20年たって初めて結果が出てくる技術はとてつもなく時間がかかるので、いいと言ってもなかなか採用すると言うことに動けない。

45年前に卒業論文でこの研究を始めたときに、ある論文を読んだ瞬間に関節の滑りとバナナの滑りは似ていると思いました。
30年前に書いた本で「似たような仕組みで」と書いたが、暫くして誰か滑りを調べている人がいないか調べたが誰もいなかった。
うかつに言った自分も困ると思った。
全くの専門外だったので、定年間近になってから、始めたのが10年前でした。
学生がいない時をねらって集中的にやっていました。
データがたくさん集まって来て、又他の果物などもやりました。
是非論文にしようと思って英語の論文にすれば、あの賞は貰えるだろうと思いました。
踏むと滑る、表面の状態が踏むことによって変わるのだろうと思って、踏む前と踏んだ後の状態を顕微鏡で見ると、踏む前はさらさらした結晶みたいな粒粒が、踏むとドロドロに液状化してしまう。
粘液になるから滑ると思いました。
10倍以上違います。

納豆、機械油、人間の関節を滑りやすくするものと同じなんだと言うふうに書いています。
粘液は関節の中にもヒアルロン酸を含む粘液がある、関節液と言うが共通点がある。
粘性とはなんだと調べてみたら、それを作る能力があるのは生物だけなんです。
高分子(分子の長さが長い)を水の中に入れると流れを阻害します、それが粘性です。
科学技術では高分子をいきなり作る事は出来ない。
油は元は生命ですから。
全て有機物が絡んでいる。
そこまで考えていなかったが面白いと思いました。(生命の本質ではないかと思いました)
纏めた論文を2012年に発表して、翌年は何の連絡も来ませんでした。
2014年に声がかかって、候補になったとのメールをいただき、受賞となりました。

「Think and laugh」ですから、日本語で言うと一言「面白い」です。
英語では 面白い:interesting 愉快:funny
日本人の中では同じ。
面白いは感情ではなくて、心が躍った瞬間の心の動きを更にもう一人の自分が見ている、この状態は面白いと言っている。
心が躍るのは、既存の自分の頭の枠がありそこから跳ばないといけない。
科学技術が今の生活を支えているが、何をやってきたかと言うと一番進歩したのは200年間の産業革命、エネルギーと言うものを利用するようになってから一気に進歩した。
エネルギーは我々を肉体労働から解放させてくれた。
延長線としてより早く、より高く、より大きく、と言うことを手に入れてきたが、一生のうちの仕事をする期間が半分位です。
残りの期間40年どう過ごすかが問題になって来ている。

AIは労働、頭脳労働を助けてもらう為に持ってきたが、これからは頭脳労働が少なくて済む様になる。
AIに置き換わると究極の楽な世界、いいかどうかではなくていずれそうなって行く。
変化が急激過ぎて大変です。
AIを使うことが幸福かどうかは当てにならない、AI、エネルギーでもそれを使うことで幸福になれると言うことで前提にやってきたが、これが人間と言う生命にプラスを与えてくれたのかと言うとこれはよくわからない。
ただただ進歩発展ではなくて、今いる場所で維持継続という考え方、万人が満足する社会を目指さないとこれから迎える難題に立ち向かうのは難しいであろうと言うのが私の意見です。














2018年1月8日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)     ・【近代日本150年 明治の群像】大久保利通

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)  ・【近代日本150年 明治の群像】大久保利通
講談師 神田蘭
大久保利通は明治政府の国家を作った新政府のリーダー。

講談による紹介
維新の三傑(西郷、木戸、大久保)と言われる。
薩摩藩の下級武士に生まれる。
幕末において島津久光の信頼を得て幼馴染みの西郷と共に江戸幕府を倒し、明治新政府を作ります。
明治新政府の中心人物として、沢山の新しい制度を打ち出していきます。
①版籍奉還、藩の領地と領民の籍を朝廷に返すこと。
②廃藩置県、藩を辞めて府や県を置いた、討幕でばらばらになっていた日本を纏める為、中央集権化として行った。
③岩倉使節団に参加して、欧米をくまなく視察して回る。

大久保利通文書
「列強諸国の進んだ技術、文化に圧倒された大久保は帰国後、殖産興業を推し進めて行く。
およそ強国弱国の違いは国民の貧富に由来し、国民の貧富は物産の多いか少ないかに依る。
物産の多少は国民が工業に従事し努力するか否かによるが、その起源については政府高官の指導奨励に依らないことはなかった。
政府に願いたいことは一定の規則を設けて殖産興業を興し、国民の一人といえども怠惰であったり参加出来なかったことがないようにし、国民を豊かな生活にまで達成するようにしたい。
国民が富裕になれば国家も富強になるのは必然のことであると、冨岡製糸場を作るなど殖産興業を推進し、近代化に向けて尽力して行くのです。
物凄い勢い力で事を押し進めると反発が出てきて、活躍の場を失った不平士族から独裁していると言う声が上がったのです。」

岩倉使節団で欧米に行っている間留守政府を任された西郷が征韓論を打ち出したのです。
この時大久保は朝鮮と戦をしている場合ではない、国内で力を付けるのが先であると、征韓論に反対します。
西郷は政府を去り、鹿児島へと下野、明治10年不平士族とともに西南戦争を起こしたのです。
大久保は内乱のさなか、上野公園にて第一回内国勧業博覧会を決行する。
日本国内の産業の発展を促し、魅了ある輸出品を育成することを目指した会だった。
西郷は城山で自刃、西郷の死を知った大久保はおはんの死とともに新しか日本が生まれる、強か日本が、と言って号泣したそうです。
西南戦争は彼の真意ではなかったことを大久保は知っていたのかもしれません。

あくる年、大久保は紀尾井坂の変で不平士族6名に依り暗殺されてしまう。(49歳)
暗殺した者たちは、西郷を殺した張本人、国の金を無駄使いした悪い奴という理由で殺害したが、これは全くの的外れでした。
大久保は公共事業の費用不足を補うために私財を投じ、その上借金までしていました。
当時で8000円(いまでは1億円を遥かに超える額)
債権者もこれを知っていて、死後家族に対して一切取り立てをしなかったと言います。
「維新は30年でやり遂げるつもりでいないとだめだ、最初の10年は創業、次の10年は国内を整えること、最後の10年は後進たちに任せたい。」との言葉を残している。
夢半ばでこの世を去った大久保利通、どれ程無念であったことか。

鹿児島の下加治屋町で育つ。
1830年生まれ、西郷よりも3つ下、素晴らしいコンビだった。
大久保は中央集権体制を作るために色々施策した。
版籍奉還、廃藩置県をやったことは物凄いことだった。(700年続いた武士階級の否定)
富国強兵の為外国に行って勉強、岩倉使節団が2年に渡って欧米先進国を見てくる。
西郷を首班として、日本を留守にして先進国を見てくる。
明治4年11月12日に出発してアメリカに行き、その後ヨーロッパを見る。
ヨーロッパに着いたのが明治5年7月14日、イギリスに4カ月滞在。
大久保の西郷への手紙(明治5年10月15日)
「・・・大都市のいたるところに製作場がある、特にリバプールの造船場、マンチェスターの木綿工場、グラスゴーの製鉄所、グレノックの製糖工場、エジンバラの製糸工場、ニューカッスルの製鉄所、ブラッドフォードの絹織物工場、毛織物工場、シェフィールドの製鉄所、バーミンガムのビール工場とガラス工場、チェスターの製塩工場などが巨大にして機械精巧をきわめている。・・・イギリスの富強なす所以がここにあることが分かった。
どんなに僻遠な地でも道路橋梁に手を付けており馬車はもちろん、汽車がすべての地方を通っていることである。」

大久保の大山巌への手紙(明治5年10月20日)
「・・・裁判所、刑務所、学校、貿易会社、製作所、古寺、古城などもれなく訪れた。
資源としては鉄と石炭位であり、原料を多国から輸入して製作品を輸出している。
製作場の事はかつて聞いていた以上である、到る処黒煙が天にのぼり大小の製作所が設けられている。
イギリスの富強なる所以を知ることができた、特にスコットランド地方は純朴の風があり山川など地形はわが国を彷彿させるものがある。
貿易や工作が盛大になったのは50年前ごろからの様である。
とするならば、全て蒸気車が発明された以後のことである。
開化を進め貿易を盛んにすることは半ば汽車にもとずくものと察せられる。」

フランスには明治5年11月16日に入る。(2か月間いる)
大久保の西徳次郎(ロシア留学中)への手紙(明治6年1月27日)
「ロシアの政体、規則と召喚の規則を調べてもらえないだろうか。
アメリカ、イギリス、フランスなどはすでに全て調査を終えているが、この3国は開化昇ること数層にして及ばざること満々である。
プロシア、ロシアには必ず標準とすべきことが多いと思われる。
特にこの両国を注目するつもりなので、我国のためによく調べてほしい」
ベルギー、オランダを通ってドイツに向かう。
ベルリンに明治6年3月9日着、宰相ビスマルクなどに会う。

大久保の西郷への手紙(明治6年3月21日)
「ドイツは他のヨーロッパ諸国とは違って純朴の風があり、有名なビスマルクやモルトケの大先生を輩出した国である。
ビスマルクは国民の信任が厚く政策は全てこの人の方針から出ていると思われる。
陸軍に力を注いでおり、この上一層の強国となるであろう。
陸軍の調連も見学したがその凄さには感服した。
ドイツの滞在は十分でなくその真味を噛むことはできなかったが、ビスマルク、モルトケの大先生に面会できたことだけが益である。
イギリスの製作場、フランスの豪傑ピエール、ドイツの大先生ビスマルク、イギリスからは国家富強の源泉、フランス、ドイツからは政治家としての統治能力を学び取ったと共に日本との落差が想像以上であることを実感させられた。」
先ずは国を豊かにする、国民を豊かにすることが日本を強くすることだと言うことを学んで、政治家はどうあるべきかをフランス、ドイツの政治家から学んだ。

征韓論により大久保と西郷は対立するようになる。
不平士族をどうするか、二人は考えて西郷は不平士族の力で征韓論と言うことを言いだした。
大久保は今はそんなことをしている時期ではないということで対立が生まれてきた。
明治10年西南戦争。
明治6年内務卿の役職(内閣総理大臣)に付く。
その後内務省、お金、日本を豊かにする、治安維持などに積極的に携わるが、戦後解体。
明治7年佐賀の乱、陣風連の乱、秋月の乱、萩の乱が続いて明治10年7月29日に西南戦争が勃発。
9月24日の西郷自刃で終結する。
大久保は心で泣いていたと思う。
大久保利通は明治11年5月14日に不平士族に暗殺されてしまう。

西郷は「敬天愛人」
大久保は「為政清明」 政治を行うためには清く明るくなくてはいけない、私心があってはいけない。
冷静沈着、寡黙な人と言われているが、子供が大変好きで令嬢と良く戯れていた。
酒はあまりたしなまず囲碁、煙草、狩猟、相撲が好きだった。











2018年1月7日日曜日

三ツ矢雄二(声優)            ・【時代を創った声】

三ツ矢雄二(声優)       ・【時代を創った声】
63歳、子役としてデビューして今年で50年になります。
声優、舞台、歌、演出、音響監督など様々な場で活躍されている三ツ矢さんにうかがいました。

「タッチ」の上杉達也、ロボットアニメ「超電磁ロボ コン・バトラーV」(デビュー作)、他に舞台、歌、演出、音響監督などやっています。
タッチの放送の始まる前にオーディションがありましたが、作り手側に意欲が違うなと言うことは感じました。
局が命運をかけているアニメとは思っていなかった。
あだち 充さん原作、1985年から87年までTV放送。
達也も和也もやりました。
和也は途中で死んでしまう悲しい役ですが、達也の方が多いのでこちらの方がいいかなと思いましたが。
その仕事も頑張ってやっていくわけですが、「「タッチ」の場合は作品が独り立ちして歩きだしてしまっていたので、代表作が出来たのかなと言う気持ちが強かったです。
野球のことは全然知りませんでした。
子役をやっていたので、近所の子と遊んだ記憶もないし、学校の体育の授業も出なかったし、色んなスポーツなどもルールとかを知らずに育ってしまいました。
いまは楽しんでスポーツを見るようにしています。

小学校の時に合唱部に入っていて10歳の時に先生からちびっこ歌番組に出て見たらと言われて、出てみたら優勝して、グランドチャンピオンにもなりました。
先生からオペラ向きだねと言われて、お芝居も勉強しなくてはいけないと思って児童劇団にも入りました。
歌手になると言う気持ちはさらさらなかった。
NHKの少年ドラマのオーディションに出たら主役に受かって1年間そのドラマをやりました。(「海からきた平太」)
その後子役として色々なところに行っていました。
児童劇団で1年間やった基礎が凄く役に立っています。(発声練習、早口言葉、など)
「海からきた平太」がTVドラマのデビュー作となりました。(50年前)
その後NHKの「中学生日記」の前身の「中学生群像」を4年間やらせてもらいました。(中学、高校)
それをやりながら東京とか大阪、名古屋に行っていたので、高校もほとんど授業を出ていないような状況でしたが友達に教えてもらったり先生に援助をしていただきようやく卒業できました。

高校を卒業して専門学校の映像クリエーター科でシナリオを書く勉強もしたが、書くことが出来ないことに気づいて、大学で勉強しようと思いました。
大学(夜間に通う)で勉強するとともに、蜷川さんのお芝居に出させてもらいました。
芝居は物凄い数を観ました。
人形劇の声をやらないかとの声がかかりました。
そこに行ったら周り全部声優の人たちだった。
セリフ術の勉強もしていきました。
番組の打ち上げがあり、その二次会で、「波平」(永井 一郎)さんからオーディションがあるからと言われて行ったのが「超電磁ロボ コン・バトラーV」でした。
主役に選ばれてそれが声優人生のスタートとなりました。
声の仕事がどんどん増えて行って気が付いたら声優になっていました。
27歳の時にミュージカルをやりたいと思って、10本持っていたレギュラーを抜けさせてもらって、ニューヨークに3か月留学して1カ月に40本ぐらい見ていました。
戻って来て、30歳の時に劇団を作りました。(主にミュージカルをやる劇団)
ニューヨークに行ったときは最初は衝撃でした。(とても自分にはできないと思った)
演劇は場所さえあれば出来るんだと言うことを学びました。

劇団は5,6年でつぶれました。(ノウハウを知らなかった。)
若い子を15,6人に演劇の訓練をするようになり、又2つ目の劇団をたちあげました。
35歳ぐらいで演劇雑誌を作り始め、物を書くと言うことでは貴重な体験でした。
私は人に生かされてきたと思います、色んな人との出会いで道がひらかれたような気がします。
声優、劇団、音響監督をやっていて、その当時が精神的にきつかったです。
なんか壊れて行くような気がして、50代の時に声優以外の仕事を整理しました。
今は元気に色んな事をやっていて気分は楽ですね。
声優は自分が一番積みかさねてきた仕事なのでそれは自分でも認めようと思っています。
人間以外の役をやるようになった今の方が声優って面白いなと思っています。
人生長くて、50年前の自分と今を考えると求められているものが違う。
良い環境でいい舞台に出て色々追求してゆくことは自分のレッスンになるので、それを自分の声優としての活動に結び付けて行くことがいいのではないかと思います。








2018年1月5日金曜日

松本猛(美術・絵本評論家)        ・母・ちひろ アトリエの後ろ姿

松本猛(美術・絵本評論家)  ・母・ちひろ アトリエの後ろ姿
2018年は生誕100年になります。
いわさきちひろさんは戦時下で青春を過ごし、戦後は画家として母として絵筆を握り続け、55歳でがんに倒れるまで子供への深い愛をその絵本の中に描いてきました。
没後40年たった今でもその人気は根強いものがあります。
その岩崎さんを一番身近で見つめてきたのが長男の松本猛さんです。
松本さんは去年の暮、「評伝いわさきちひろ」を発表しました。
評伝は時代背景やちひろが出会った人々、長男である松本さん自身の眼に映ったちひろの姿などを重ねながら今も愛され続けるちひろの魅力と素顔を、これまで知られていなかった新しい事実も織り交ぜながら描いています。
自身も作家として美術評論家として活躍する松本さんに、今の時代にちひろの世界が語りかけるものは、何故今絵本が大切かなど、絵本作家いわさきちひろが追い求めた世界について伺います。

これまで3冊の評伝が出ています。
いわさきちひろが亡くなってから3年目で美術館をつくって、今年で41年目になります。
その間いわさきちひろを研究してきて生誕100年と言うこともあり集大成ということで書こうかなと思いました。
それまでは書く人のサポートをしていましたが、客観的に見えて来ました。
周りのほとんどの人が居なくなって比較的自由にかけるような雰囲気になり、今回は書いてみようと思いました。
今までの評伝にはぬけ落ちているものがある事を感じました。(父のこととか)
10代の半ばから大学生の時代に母親の影響を物凄く受けています。
第六高女(都立三田高校)時代の教育方針は新しくて、その中で感性が磨かれてゆく。
同じ頃岡田三郎助(東京美術学校の教授)のところに毎日のように通っていて、このこともいままでの評伝では深く書いていなかった。
岡田三郎助は工芸品のコレクターでもあって、ちひろはそれを見ていて感性を磨いていった。

どういう人と出会ってちひろがどう変わって行くかを一つのポイントにしました。
宮沢賢治の作品に出会って決定的にちひろの感性に大きな影響を与えていると思いました。
最初に1回結婚しているが旦那さんが自殺をすることがあったが、それは自分の責任ではないかとどっかで思ったんですね。
命と言うものについて、最初の夫の自殺から多分宮沢賢治に入って言ったんだろうと思います。
調べて行くと一人の絵描きの感性だとか、思想とかがどうやって築かれてきたのかが見えてきてそれが面白かったので夢中で書いてしまいました。
関係者が全部亡くなり実名で残しておきたかった。
或る意味若いころは大胆で積極的な女性でした。
戦争と言う体験が夫の死の後、大連に渡って開拓団の中に入ってゆきます。(戦争末期)
その時に色んな経験をするんです。
サポートがあり何とか帰って来て、その後東京の空襲で命からがら逃げて疎開する。
さまざまな死を目の当たりにしてそれを生き延びてきたから、絵描きになろうと思ったときに命と向き合う意識があの絵の背景にはあったんだろうと思いました。

死んでから40年以上たって、美術館の仕事をしてくる中で客観的に見ざるをえないことがたくさんあり、そういうことが出来たと思います。
私自身も自分を客観的に見ている感じはありました。
一人の画家の今後の研究だとか、芝居になるかもしれないが、その素材になってくれればいいなあと思います。
母は物凄く子供が好きでしたし、人を怒るということをすることが出来ない人でした。
私自身、怒鳴られたり叩かれたりすることは一切なかったです。
想像力が異常に発達している人でした。
母が原爆にあった子供達の手記を集めた本を書くときも、広島に取材にいくが、スタッフはいろいろ人に会わせるとか用意するが、ここの下に骨があると思うと一切できなくなる。
夫を好きでなくて身体を触られるのが嫌で、ショックを受けて彼が亡くなるわけですが、夫に対する自己責任などを物凄く考えてしまったんだろうと思います。
戦後のちひろの生き方を見ていると誰に聞いても本当に優しい人だったと言いますが、人を傷つけたくないと思うと、きついことは言えなかっただろうと思います。

戦後に出会う何人かがいて、稲庭桂子がいてその人との出会い、仕事で厳しく注文をつける人、武市八十雄(絵本ディレクター)がいました、彼は私を呼んで私は製作場面を見るようになりました。
物語、絵の展開をどうしてゆくのかとか、これはアートだと思いました。(大学生の頃)
母親は話すのが上手くて、教授よりも面白いと思いました。
反戦絵本(戦火の中の子どもたち)、母自身が体験した記憶が沢山も盛りこまれている、一緒に製作する中で聞いたりする、一緒に作る中で僕に伝えようとする意識が有ったのかもしれません。
その体験が美術館を作ること、本を書くことに繋がったと思います。
美術の世界では本絵描きが一番偉い、油絵、日本画の絵描きで、挿絵画家はそれよりも落ちて、子供の絵本の挿絵画家は更に下に見られていた。
美術館でちひろ展を出来ないか持ち込んだが全部門前払いだった。
絵本と言うものをちゃんと位置付けたいと思って、現代の絵本を卒論のテーマにしたいと先生に相談したが、指導しては貰えなかった。
それが美術としての絵本を取り上げた最初の論文だったので本にしてくれる人が出てきて、この仕事にも繋がっていきました。

美術と言うものは、その後ろに全部物語がある。
絵本と言う形を見ても、一番最初は古代エジプトの「死者の書」(死後の世界)にあり、日本では「絵巻物」でこれも絵本です。
絵本が語る世界の大きさは凄く奥が深い。
20世紀になってから子供の絵本が多くなって、言葉を覚えるためにも、絵と言葉が並んでいることが有効だった。
アニメ、ゲームなどは自分の方からものを考えるのではなくて、反応して行ったり、流れに入り込むと言うようなことで、逆に絵本は自分がその世界に入っていかないと面白さが見えない、想像力を前提にして出てくるものです。
絵本の果たす役割は大きくなってきていると思う。
絵本の世界の中でものすごく大きなものが描かれている。
今絵本の語る世界が、生と死、戦争、貧困、などテーマが物凄く広がってきている。
インターネットを否定する訳ではないが、効率と速さを求めてきましたが、福島の原発ではないが失ってゆくものが実は物凄く大きい。
人間は自然の中の動物の一部では有るが、自然を支配して行くと言うふうなことが進歩だと思ってきてしまって、もう一回立ち止まって考えるべきだと思います。

効率、速さ、便利さそういうことではないところに実は人間の喜びが隠されている。
ちひろの絵にはにじみがたくさんあるが、にじみは人間の業では出てこない世界、自然のそよぎ、風の美しさ、大気の優しさなど色んな物が含まれている。
そういったものに目を向けていかないと、人間が持っていた色んな感覚が消えていくのではないかと不安があります。
絵本は中身も大切ですが、親と子、をつなぐ媒体でもあります。
母はアトリエで仕事をしていたので、家に帰ればいつも母がいると言う安心感はありました。
人間信頼と言ったベースは親子関係からくるのかなあと思っています。
現代は時間に合わせる生き方をしているが、そうではないことが出来るのが絵本と言う気がします。
生誕100年を迎えて色々企画をしています。
ちひろが語ったことは何だったのか、なんで子どもの命を見つめて平和を描き続けてきたのか、それを見直すチャンスになればいいかなと思います。


2018年1月4日木曜日

飯村毅(ちばマスターズオーケストラ 団長) ・響け!円熟のハーモニー

飯村毅(ちばマスターズオーケストラ 団長) ・響け!円熟のハーモニー
千葉県市川市を拠点にしているアマチュアオーケストラで60人の団員の平均年齢は72歳。
正確な集計はないが国内のアマチュアオーケストラとしては最も平均年齢が高いと言われています。
団長の飯村さんは72歳、千葉県内の小学校で教壇に立ち小学校のオーケストラや吹奏クラブの指導も勤めて来ました。
定年退職後、ちばマスターズオーケストラに入団、ホルンを担当しながらオーケストラ全体を纏める団長の役割を果たしています。
オーケストラのメンバーは年一回の定期コンサートに向けて練習を続けているほか、千葉県内の特別支援学校のコンサートにも力を入れています。

練習は平日の午後、第2,4木曜日の午後行っています。
ほぼ皆さん8割以上が出て来ます。
管楽器、打楽器は100%出てきています。
年齢がいっているので相手の立場を理解できる良さがあります。
ついつい頑張ってしまうような部分もありますが。
ここ数年はよくなったねと言って下さる方が多くなりました。
お互いの音を聞き合って合せて行こうという部分があると思います。
練習時間もそうですが、健康でなければ活動出来ないのでこれが一番だと思っています。
私が最初入ったころは、黙々とかたずけているのに喋っている方が居て、情報交換は後にしましょうと言ったことはありますが、あまり注意すると言ったことはやってないです。

教育学部で勉強したので将来は先生になろうと思っていました。
ホルンの音に魅了されてオーケストラに入ることになりました。
ブルックナーの4番のシンフォニーの冒頭の処で絶対忘れられないです。
卒業後、習志野市の小学校に入りました。
合計8校で教壇に立ちました。
最初の学校が音楽がいつも流れている学校で、子供達の輝きを体験しました。
その時の教え子が今一緒にやっていたりしています。
ずーっと音楽、器楽と関わってこられたのは最初の8年間がすごく大きいと思います。
子供が私を追い越して行くのが楽しみです。
学級担任をやりながら音楽の指導をしていましたので、クラスの子とクラブの子を分け隔てなくやってきました。
昭和43年から約40年間やってきました。
60歳で退職して、その後2年間主任の先生のサポートをして、クラスの子の指導もやりました。

千葉県音楽祭をやっていて村上正治先生が組織を作って、子供たちにいいステージを踏ませてあげたい、いい演奏をした団体を皆に聞いてもらいたいと言うことで始めた音楽祭で、お手伝いに行ったときに、先輩がたまたまマスターズに居てこれからやるんだと言うことでいいなあと思いました。
それがきっかけでマスターズに入ることになりました。
「音楽を楽しむ喜びを一人でも多くの人に」と言う理念がありこれを掲げているので自分なりの楽しみがあればいいと思いました。
ホルンの音は大学生のころには戻らないが戻したいなあとは思います。
一人ひとりが音楽を楽しんでいます。
音を多少ずれても、周りに許してもらいながら、やってきました。
音楽って瞬間瞬間で音が消えてしまう、しかし心に残る音になってくれればいいなあと思います。

前の団長が80歳になり、総会でやれと言うことになり、当時60代だったので引き受けることになりました。
最年長は米寿になるチェロの方です。
その方は大学時代からやっているので60年以上になります。
会社勤めをしながら、山形では昭和28年に山形フィルを立ち上げ、転勤して、宮城フィル、千葉管弦楽団、東京の江戸川フィルなどの設立に参画してきたそうです。
その人は化学関係の研究をしていました。
コンサートマスターは女性で、ビオラのパートリーダーが御夫婦です。
大笛とファゴットの方も、打楽器にも御夫婦がいます。
羨ましい部分もあります。

特別支援学校のコンサートにも力を入れています。
団としてのライフワークみたいな面もあります。
事前の打ち合わせで曲を選定することもありますし、校歌を子供達と一緒に歌ってもらうようなこともあります。
子供達はやっぱりオーケストラで歌うと喜びます。
トトロの散歩、ドレミの歌などが子供達が好きな曲です。
演奏会が終わってから楽器体験コーナーがあり、触って叩き始めてドラムに会わせて演奏が始まったりするときもあります。
2018年5月に定期演奏会を予定しています。
シベリウスの「カレリア組曲」と、ベートーヴェンの「コリオラン序曲」とメインがシューベルトの「未完成」を予定しています。

運営のことで問題になるのは経済的なものと、会場、日程などですが、金銭面では団費で賄う様にするとの思いですが、協賛される会社もありますので有難く力をお借りしながらやっています。
色々工夫してマイナスが出ない様にやっています。
「第九」をやりたい思いがあったが形にしにくかったが、なんとかやろうと言うことで昨年5月新しいプロジェクトが出来ました。
合唱団も必要だしソリストも、練習会場も問題があり、プロジェクトで検討することになりました。
あまり時間がないので、早くやりたいとは思っています。
3年後あたりにはやりたいと思っています。
ちばマスターズオーケストラの結成が2005年。
音楽の力はすごいと思います。
自分の活力にもなっています。
がんになっても一緒に練習に参加されている方も居て、「ここへきて一緒に音楽をやることが生きる活力になっている」とおっしゃっています。
皆それぞれ違うが、みんなで一緒にやっていこうと、そういう感じです。
60歳を過ぎて楽器をやって見たいと言うことで、音が出るようになり、なんかやってみたいと思ったら声をかけていただければ有難いと思います。
「来る者拒まず、去る者は追わず」と言うことです。




2018年1月3日水曜日

佃川燕也(一般社団法人 大江戸玉すだれ) ・“玉すだれ”を語ろう

佃川燕也(一般社団法人 大江戸玉すだれ) ・“玉すだれ”を語ろう
後藤繁榮アンカーは南京玉すだれを若いころからたしなんでいた。
佃川さんは自ら団体をたちあげ、大道芸としての玉すだれをエンターテイメントとして日本のみならず海外で啓蒙活動をされています。
演技口上
「さてさてさては大江戸玉すだれ。 さてもめでたい玉すだれ。 ちょいと回せばちょいと回せば出雲大社の鳥居でござる。  鳥居くぐれば御本殿へと早変わり。
出雲大社にお目に留まれば元結び。 さてさてさては大江戸玉すだれ。
今宵見る夢なんじゃいな。 一富士、二鷹、三茄子。
沖に見えるは宝船、浮かぶ白帆にさも似たり。 お宝船の白帆の形がお目に留まればおめでたい。 お目に留まれば元結び。  さてさてさては大江戸玉すだれ。
さてもめでたい玉すだれ。七福神は何じゃいな。 布袋、毘沙門、福禄寿、寿老、大黒、弁財天、ちょいと伸ばせば恵比寿様の魚釣り竿にさも似たり。 魚釣り竿がお目に留まればおめでたい。 お目に留まれば元結び。 さてさてさては大江戸玉すだれ。
お江戸名物なんじゃいな。 武士にかつお、に広小路、芝居、紫、火消し、錦絵、日本橋、諸国往来おめでたい。 お江戸日本橋お目に留まれば元結び。さてさてさては大江戸玉すだれ。  ちょいと回せばちょいと回せば皆さん揃っておめでたい。
万国国旗にさも似たり。 万国国旗がお目に留まればしだれ柳に早変わり。」

市松模様の着流し、薄い紫いろの半纏、吉原かぶりで手拭を頭に結んでいる。
南京玉すだれと基本は同じですが、中国のものと思われるかもしれないが、調べて見るともともと日本の伝統芸能です。
南京無双玉すだれと言われていたようだが、南京豆、南京錠、南京袋がはやった時に珍しいすだれなので南京玉すだれと言われるようになったとの説もあります。
細い竹(6mm)長さが30cm位で作ったもので、自由自在に形が変わる。
江戸時代は「のびたりちじんだり」という言葉そのもので売られていたようです。
「さてさてさては大江戸玉すだれ。」のリズムが楽しい。
一番古い説が江戸時代の街中を売って歩いていた、玉すだれがルーツではないかと言われている。
子供の遊び道具として売られてもいたようです。
富山県の五箇山地方、旧平村、そこに源流があるということは聞いています。
後藤:昭和55年網竹が写真が映っていて、調べて行ったら、五箇山地方で作っている方に出会いました。
こきりこ節、麦屋節で使われる楽器、びんざさら 長方形の木の板が108枚を紐で結んである。
*ささら:竹や細い木などを束ねて作製される道具の一つである。洗浄器具として用いられるほか、楽器や日本の伝統的な大衆舞踊の際の装身具の一部としても用いられる。また、これを伴奏楽器として用いる音曲や舞踊を「ささら」と称することも多い。
打ち鳴らすようなささらの仲間ではないかと言うことですが。

衣装、口上の一部、やり方にちょっと工夫を凝らしています。
陣羽織に頭巾(水戸黄門スタイル)が一般的な南京玉すだれのスタイルですが、僕は着流しで尻っぱしょりをして頭に手拭を被るスタイルでやっています。(江戸のイメージ)
橋だとしたら日本橋だろうと言うことで一緒に江戸の名物も語っています。
大田蜀山人(別名 大田 南畝)の狂歌、「江戸の名物、武士、かつお、大名、小路、なまいわし、芝居、紫、火消し、錦絵」という狂歌があるが、それを口上の中に持ってきました。
「武士にかつお、に広小路、芝居、紫、火消し、錦絵、日本橋」と言うふうにしました。
江戸の「いきさ」にこだわっています。
伝統的な物を大事にしつつ新しいものも取り入れていこうと思いました。

親爺が佃で生まれて、親父の背中を見て育ったと言う処はあります。
寄席は親爺が好きだったので小学校のころからしょっちゅう行っていました。
当時、落語よりも曲芸、手品、紙切りなどが好きで、玉すだれも見ていたものと思います。
中学校の終わりごろから落語を始めて高校では自分で落研を作ってやってみたりしました。
サラリーマンになって会社(老舗の百貨店)の慰労会があり、店長が社員に何かやらせようと言うことで玉すだれがいいと言うことになり、僕が覚えて店長に教えましょうと言うことがきっかけです。
平成4年に日本サラリーマン文化芸術振興会が出来て、一芸サラリーマンの会で、落語と言うことで入会しましたが、その中にカントリーウエスタンが趣味の人が居てカルチャースクールの営業部長で、一芸の人をカルチャースクールに呼んで講師をやってもらいたいと言うことで、南京玉すだれの講座をやりたいと言うことで知っていましたので講師になってほしいと言われて引き受けました。
23名集まって、3ヶ月で終えると思ったらもっと教わりたいと言うことで6カ月やりました。
玉すだれのサークルを作ったらいいのではないかと言うことで会を作ったのが一門を作ったきっかけになりました。

高座でうんちくを喋らないといけないので調べて行ったら南京に意味がないことが判って「大江戸玉すだれ」にしました。
芸名も付けるようにしました。
名取になる期待感、嬉しさがあるようです、
一人で演ずるのではなくて、団体でやります。
落語で「住吉踊り」があるが一席終わった後に全員がかっぽれ踊りをするのを見て、こういう感じで玉すだれをやったらおもしろいだろうと思ったのがきっかけです。
江戸の風景が感じるような、粋に見えるように気を使っています。
踊りは扇子と手拭を使って踊るが、その代わりに玉すだれを使ってやったらいいかなと思ってやっています。
踊りと一緒にすることによって玉すだれの芸が膨らんでくると思います。

海外ではアメリカ、ヨーロッパなどに行っています、カーネギーホールにも行きました。
日本語でやりましたが、想像以上に反応は良かったです。
国立能楽堂で狂言と共演したこともあります。
野村又三郎さんとご一緒してやりました。
四国の金丸座を借りて玉すだれ公演をやろうかなということも考えています。
千葉県の船橋市飯山満小学校に玉すだれクラブがあり顧問として指導しています。
日本で唯一だと思います。
玉すだれを知らないで入ってくる子達がおおいですが、熱心にやっています。
定年退職後東京都江戸川区新川さくら館の館長をしています。
さくら館は江戸時代の大きな庄屋をイメージした建物。
ここは玉すだれがピッタリだと思って何回かやらせてもらっています。
手を使いながら声も出して、指先を使うので凄くいい運動になると思います。






2018年1月2日火曜日

柳家さん喬(噺家)           ・芸より人を磨け(2)

柳家さん喬(噺家)           ・芸より人を磨け(2)
小さん師匠はこきみよく怒ります。
自分で考えさせられる様な言葉を言います。
前座の頃、「おめえも駄目だな」と言われました。
おまえはいくらか違う面で俺はお前のことを見てたんだ、でも結局同じことをしたな、と言うことで「おめえも」なんです。
一番優しさを感じたのは、師匠に黙って4日ほど出かけて行ってしまったんですが、剣道の稽古を師匠に替わって子供に教えていたりしていたんですが、日曜日にそれが重なってしまって、師匠に知られてしまって、寝起きしたばかりの師匠の前で「勝手なことをしてしまって済みません」と謝ったら、ふすまが開いて「馬鹿野郎、誰に頼まれたんだ」、「〇〇師匠です」と答えると「おめえな、俺がその人に会ったときに礼が言えねえだろう。黙って旅に行くんじゃねえ。俺がその人にうちの小稲がお世話になってますと、一言も礼がいえない俺のことをかんげえろ やめちまえ」と言われました。
今は亡くなったおかみさんが、後ろで聞いていて、「許しておやり」と一言で終わりになりました。
そのうちに「小稲」と呼ばれて、もうダメかと思ったが、師匠が「そこの着物たたんどけ」と云って普通の今まで通りで、もう涙が出てきて止まらなくて着物をたたみました。
お前考えろ、という師匠でした。

ただ食べることは相反しています、皆閉口しています。
一緒に食べにいってもうこちらは満腹状態なのに、ラーメン頼んで、店の人にとても食べられないと言って心得て、運ばれてきたラーメンはそばも少なくておつゆも半分で、師匠がそれを見て自分のと量が違うのに怒ってしまって、そうしたら支配人が他のお客と間違えましたといったら、「そうか」と言うことになりましたが、ひょいと後ろを見ると他にお客なんか誰もいませんでした。
若い者には食べることで辛い思いをさせたくないと師匠にはおありになったんですね。
当時真打ち試験では大勢いました。
その第一号が、僕とか、雲助さんとか、ちょっと先輩の人たちでした。
いいですといったんですが「受けろ」と言われて、受けさせてもらいました。
緊張しましたが、受かりました。

師匠が芸から身を引こうと言う時に、たまたまぶつかっていました、弟子では私一人でした。
紀伊国屋落語会でトリを師匠がやって、まえかたを私がやりました。
師匠は「笠碁」をおやりになって、「お前まだ、かぶり傘をとらねえじゃあねえか」と言うのがさげで話が終わるが、師匠はそのまま話を続けてしまって、でも師匠は間違えたことに気づいて何処でこの話を終わらそうかと、「俺が責任を取るから俺がよしと言ったら追い出し太鼓をうってくれ」と私が言って、師匠が「おまえさん ピシッ」とやった時に、今だと言うことで太鼓とともに幕が半分まで閉った時に、師匠が「幕上げろ」、「さん喬」と高座から呼びました。
お客さんの前で叱られると覚悟していたら、「どうやら俺は話を間違えたな」、「間違えじゃあありません、ちゃんとさげをおっしゃいました、お客さんさげをいいましたよね。」といったらお客さんが手を叩いてくれ、師匠は納得してくれて、その後この話はだれそれに教わったと「笠碁」に関する話をして、そしてお客さんの質問とかも受付しましたが特になくて、幕を締めることになりました。
帰りがけに車に乗るときに「さん喬 ありがとうな」といわれて、もう涙が止まりませんでした。
それが師匠の生の話を身近に聞いた最後でした、その翌年に患い疲れて亡くなってしまいました。
そこに立ち会えてた自分はある面幸せだったと思います。

それを誤解してある物書きのかたが、「小さんは高座で間違えたのをさん喬を高座で怒鳴りつけた」と書いて、それは凄く癪に障りました、悔しかったですね。
「笠碁」をやらしていただいて、師匠が「お前かぶり傘を取らないじゃないか」、と言ってそのあとに、黙って碁を打つシーンが本当の「笠碁」だと思いました。
雨がシトシト降っていて、二人が仲直りをして、お互いの心の通い合っている隠居さん同士が「お前も長生きして良かったな」と言うような言葉を交わしながら、碁を打っている。
師匠の紀伊国屋落語会の「笠碁」はそんな風な話に見えたんです。
「お前かぶり傘を取らないじゃないか」といって、その後、黙って碁を打ち始めるのが本当の「笠碁」の終わりなんだと思いました。

師匠は普通の生活の中のことは相手の立場になって考える、自分の事は二の次と云う風な感じでした。
芸のことはあんまりないです。
たまに芸の事をポツンポツンといってくれましたが、翌朝になるを忘れてしまうからな、と言われました。
「芸を磨くよりも己を磨け」とよく言われました。
「そうすれば芸は付いてくる」、と言われました。
「嘘は本当、本当は嘘、だけど本当は本当」 禅問答のような言葉だが。
嘘を本当のように聞かせて、本当のことは嘘のように聞かせる。
だけど、人間の心の本質はちゃんと描け、と言うことと思います。
言葉では判るが、なかなか判らない。
雪が降って来るシーンでも、細やかに云うよりも「雪が降ってきたね」それだけで雪を表現する。

自分の心のなか、本当に人間の心として逆に伝えることが出来るかと云うことが一番大切なことなんだろうなと思えます。
伝えることは本当に難しいと言うことをつくづく思います。
剣道から教わったこと、「物事は全部互角だ」と言うんです。
7段と3段が立ち会う時には、自分も3段に成れと言うんです。
自分が3段だと思わないと、優位にたって上から物事をただ押さえつけることになってしまうので、相手と同じような気持ちになって相手に対しろ、お客さんに対しろ、芸は何時も互角だぞ、お客さんとは互角、ということを剣道の中から教わりました。
「守って、破れて、離れる」
「守る」ことは、同じこと、人のまねをすること、「破る」は教えてもらったことを自分で如何に破って出るか、「離れる」は教えてもらったこととはまったく違ったもの、自分独自のものを作り上げて始める。
「離」が難しいと言われました。

おかみさんも素敵でした。
人が悪口を言っていたらお前そこからいなくなるんだぞ、お前がそこにいれば言ったことになるんだ、そういったことを言ってくれました。
わざわざ遠くに八百屋にいかせる、お茶代をくれて息抜きをさせてくれる。
家の洋食屋にわざわざ来てくれたりしました。
「見てる人は見てるんだぞ」と言ってくれます。(芸でも私生活でも同じ)
師匠が出かけるときに「お父ちゃん」といってほっぺにチュッしたりして、素敵なおかみさんでした。

私のところには弟子が11人います。
30数人弟子入りの希望がありました。
弟子を取るかどうかは肌合いですかね。
弟子を預かると言うことはその人の人生を預かる事ですから、師匠への恩返しなんてことではなかったです。
いい噺家を育てないと恩返しにはならない。
昨年11月にさん喬一門会を行いました。(年一回)
木と言うのは幹には花は咲かない、枝先に花が咲く、自分が幹だとしたら幹がしっかりしていないと枝先には綺麗な花は咲かないので、自分が花を咲かせるのではなくて枝先の弟子たちが綺麗な花を咲くように、自分がしっかりした幹になり栄養を吸い上げて枝葉に届くような幹で居ないと弟子は育っては行かないと思うようになりました。
あと20年若返りたいと思ったりしますが、そうすれば今の考え方での噺家だったらどれだけいい楽しい話を演じられるかなとは思いますが、いまからでも遅くはないと思います。
分野の違う人達となんかやっていけたらいいなあとも思っています。
「芸は死ぬまで修行です」と8代目桂文楽師匠が言いましたがすべての芸は終わりはないと思っています。
「芸は60を頂点と考えろ」と師匠が言いましたが、自分が出来ることを60迄に形として作り上げろ、その後余命を残してどれだけ自分を作り上げることが出来るか、60が終点ではない、と言うことです。










 

2018年1月1日月曜日

柳家さん喬(噺家)           ・芸より人を磨け(1)

柳家さん喬(噺家)           ・芸より人を磨け(1)
去年芸歴50年のさん喬さんはこっけい話から人情話まできめ細やかな演出で聞かせる
正統派の落語家として知られています。
1948年昭和23年東京墨田区本所で生まれ、1967年高校卒業後5代目柳家小さんに入門して落語の世界に入りました。
前座名は「小稲」5年後の1972年に二つ目に昇進、「さん喬」に改名、1981年に真打ちに昇進しました。
2000年にフランスのパリで落語を紹介する活動や、2006年からは毎年アメリカのミドルベリー大学に招かれ落語を通して日本文化を紹介する活動なども行っています。
平成25年に芸術選奨文部科学大臣賞を受賞、去年には紫綬褒章を受賞しました。

自然と腹式呼吸が身に付いてくるので喉の疲れがないです。
2時間は喋れます、最長で牡丹灯籠の通しで4時間喋ったのがあります。
NHKの「美の壺」の番組があり、自分の着物を数えてみたら百十何枚ありましたが、ほとんど着て居ないものが多くて、気にいったものしか着ないので。
師匠の小さんは黒紋付が主で、どんな話でも黒紋付ですが、今の若い人は色の濃いものとか、色羽織を着ています。
ピンクの着物に赤の羽織とかを着ている者もいます。
衣装は不思議なもので身につけたときに自分が共有出来る。
渋い話の時に渋い着物を着ると自分も話の中に溶け込んでいける作用もあるような気がします。

去年で50年、あっという間でした。
前座の頃の方が思い出深いです。
落語の世界に入って教えていただくことが、自分の中に無かったものがどんどん肥やしとなっていって、無駄なものもありますが、無駄なものは一回身につけないと判らない。
必要ないと気が付くのは10年20年たってからですが。
平成25年に芸術選奨文部科学大臣賞を受賞、去年には紫綬褒章を受賞。
伝達式の時には師匠のところにお墓参りして、これから行ってきますと言って行きました。
師匠が50周年の時の色紙に「芸の道化けろ化けろで50年」と書かれました。
2002年5月16日に師匠が亡くなって、その日が受賞の伝達式でした。
「伝統派の落語の雄」とか言われて恥ずかしいですが、正統な中にも新しくものを見ることを考えないと、正統ではなくなって行ってしまう、古いものだけで終わってしまうような気がする。
料理と同じでレシピー通りにやってもなかなかうまくはいかない。
お客様が求める味を提供するように落語も提供したいと思っているが。

1948年昭和23年東京都墨田区本所で生まれ、引っ込み思案でした。
お祭りの時にお神輿を担ぐわけですが、半纏を着るのが恥ずかしかったです。
学芸会で誰っもやらないのでてを上げたら、主役をあてがわれて、人前でやることの楽しさが芽ばえてきてしまいました。
翌年も次の年も、3年間続いて主役をやることになりました。
子供のころは兄の後を付いてばっかりいましたが、兄も47歳で亡くなってしまいましたが、こうしていられるのも兄のお陰で感謝しています。
中央大学付属高校に行きました。(通学が1時間半位)
隣に鉄材を販売している大きな会社があり、夜間の中央大学に通っている人がいて、朝に家の洋食店で朝食を食べて、夜も食べていた人がいて真面目な人で自分もそうなれるようにと中央大学付属高校に行きました。
生物部の部員が少ないので入ってほしいとの友人の神山に言われて生物部に入りました。
別に小噺研究会が出来て、先生の前で話をしたら、文化祭に手を貸してくれるように言われぐっと落語が近くなりました。

お爺さんも父親も落語をよく聞きに行っていました。
当時学生運動が盛んで、トラックが校庭に突っ込んできてアジ演説をして、自分があこがれていた大学への思いが崩されていってしまって、その一点しか見ていなくて、挫折してしまって勉強はしたくなくなってしまいました。(10代では一か所しか見れなかった)
先生から「大学にはこのままではいけない」と言われたときに、「落語家になりますから」、と言ったら、「お前ならいいな」と言われてしまいました。
大学の学内選考の試験がありましたが、受けませんでした。
大学へ入った友人とは大学のメールボックスで手紙のやり取りをしていました、それらの友人とは今でも酒を飲んだりして付き合っています。
8代目文楽師匠が好きでした。
身近に考えると小さん師匠が自分にしっくりして、小さん師匠の事を調べてみると人望があり、当代の落語のNO1の噺家であろうと言うようなことで小さん師匠の話をよく聞くようになりました。

志ん朝師匠の「井戸の茶碗」を高校の時に聞いてスキップをしたいようなさわやかな気持ちになり話って、落語ってすごいなあと思って落語家になろうと思って小さん師匠のところに行こうと決めました。
ある方(いまの三遊亭 圓窓師匠)に相談したら取ってくれないと言われてしまいました。
馬生師匠のところに行こうとしたら、大沢さんが小さん師匠とは知り合いで紹介してもらうことになりました。
雲助師匠(若林)とは歩いて5,6分のところにあります。
若林くんが小さん師匠の弟子になりたくて寿司折を持って来たんですが、師匠が居なくてみんなで食べてしまいましたが、後で師匠から叱られてしまいました、たとえ生ものでも絶対返すんだと。
雲助師匠とは同門でなくて良かったと思います、同門だとどっかで妥協してしまうと思いますし、同門にならなかったことで違う味で違う話を出来ると思います。
畑が違うことによって違う味の果物ができた、と言うような感じがします。