2018年5月21日月曜日

里アンナ(歌手)             ・【にっぽんの音】

里アンナ(歌手)             ・【にっぽんの音】
能楽師狂言方 大藏基誠
NHK大河ドラマ「西郷どん」にメインテーマ歌で参加。
奄美大島の出身で島唄の歌い方で歌っている。
作曲家の富貴晴美さんがコンサートに来てくれて、NHK大河ドラマ「西郷どん」の音楽担当し作曲することになり、歌ってほしいという話をいきなりいただきました。
テーマ曲で歌わせていただくことになりました。
西郷さんが奄美で暮らしていたときを自分でイメージしながら歌いました。
奄美の皆さんにも喜んでいただきました。

鹿児島県奄美大島出身、島歌を習い始めたのは3歳からで祖父から教えてもらいました。
最初は祖母から機織りをしながら口ずさんでいるのを覚えました。
母方の祖父が三線も弾けるから一緒に歌ってみてはどうかということで習いました。
奄美民謡大賞などの大会で度々受賞、その後高校卒業後は歌手を目指して上京しました。
ポップスの歌手として歌っていました。
原点に戻って島歌を歌おうと考えました。
ミュージカルのオーディションがあると言うことを知って、悩んで居た時期でもあったので挑戦してみようと思いました。
ミュージカル『レ・ミゼラブル』でファンテーヌを演じる。
奄美で島歌というと集落の歌を指していて、集落ごとに少しづつイントネーションとか言葉も違います。
メロディーが一緒でも50ぐらい歌詞があります。

*「朝花節」 歌を歌う時に一番最初に歌う歌、お祝いなどにも歌われる。

奄美大島で大きく分けて笠利節(かさんぶし)とひぎゃ節(東唄)があります。
私は笠利節の方ですが、一般の人には判らないです。
北の方は波も穏やかで高い山が無いが、南は波も荒いし高い険しい山が多くて、地形なども歌に影響しているようです。

*「糸繰り節」 大島紬の糸繰りしながら歌ったもので、糸は切れてしまっても結び直すことができるけれども、人と人との縁は簡単に結び直すことができないと歌っています。

薩摩の時代に作られた歌詞が多く残っています。
琉球王国だった時代のものは聞いててたのしいようなメロディーとか歌詞が多かったようですが、薩摩の時代に入ってからはやはり歌詞も生活の苦しみだとか辛さなどをポジティブに捉えて、書かれている歌詞も沢山あります。
豊年節は本土では豊作を祝うと言うことが多いと思うが、奄美では薩摩から運ばれてくる食糧などを自分たちの作った砂糖とか大島紬と替えて食糧を貰うという形で、舟が来るのを喜ぶという歌詞になっています。

西郷さんの二番目の奥さんの愛加那さんのお兄さんの奥さんの役、里千代金役で出演する。
この役に出演することによって歌詞の解釈だったりとかも、違うところから見えてくるものがあったりして良い勉強になりました、今後活かせていけたらいいと思いました。
奄美の三線は沖縄の三線とほとんど同じ大きさですが、弦は沖縄の弦よりも細いです。
皮は昔はニシキヘビでしたが、今はプラスチックが多いです。
バチは耳かきのような長さの道具です。
元々は竹でしたが、これはプラスティックです。
奄美では女性のキーに合わせて調弦するので高いです。
三線は男性が弾くものでした。
裏声も、女性が歌う時にキーに合わせてお囃子と掛け合いで男性が歌うが、その時に地声では出ないので裏声を使って歌ったことからはじまったという説もあります。

スイスにいって歌いましたが、日本の歌なのに日本語に聞こえない、そこが興味深いとか美しい音楽だと言ってもらえることが多かったです。
海外に行って音楽の伝統のものの力とか素晴らしさを改めて感じます。
*「行きゅんにゃ加那













2018年5月20日日曜日

鳥居大資(ソースメーカー社長)      ・【“美味しい”仕事人】和のソースに挑む

鳥居大資(ソースメーカー社長)      ・【“美味しい”仕事人】和のソースに挑む
美味しいモノがあふれている日本の食、そのおいしいものの舞台裏で食を支えている人たちがいます。
フライなどにかける、ウスターソースはイギリスが発祥と言われています。
それが日本に伝わり、独自の製法が生み出されました。
現在大手メーカーの他、全国各地で地ソースを製造している会社が多数あって、それぞれの地域の嗜好に応じて生産されています。
静岡県浜松市のソースメーカーは大正13年の創業で、地元産の野菜や果物を原料に昔ながらの木桶で熟成させるなど丁寧なソース作りを続けています。
3代目社長の鳥居さん、(47歳)は大手商社や世界的な電機メーカで海外を飛び回る仕事をしていましたが、16年前に家業を継ぎました。
外国の人にも日本の出汁文化をアピールできるような和のソース作りに取り組んでいる鳥居さんに伺います。

ウスターソース、中濃ソース、トンカツソースそういったものを作っています。
粘度の差で分けています。
イギリスのウシターが発祥の地と言われています。
イギリスのウシターソースはしょっぱい、酸っぱいというような味でした。
日本に渡って来たのは明治になってからです。(西洋醤油と言われていた)
以前はカレーにかけていた。
コロッケ、メンチカツなどは油であげているので、酸味が入ることで脂っこさをソースが和らげてくれる。
今年で創業94年になります。
地ソース、地域地域でソース屋があります。
全国では100社以上あります。
西日本、関西の方に多くあります。
粉もの、お好み焼き、たこ焼きなどが関西が多いのでその関係で関西の方が多いです。

洋食屋さんが増えてきて祖父が教えてもらいながら作ってきたと言われます。
工場の食堂に卸していました。
最初は野菜を煮込むところから始まります。
玉ねぎ、ニンジン、ニンニク、セロリ、トマトなどを使っています。
生が良いので地元を優先的に使っています。
酵素、タンパク質なので高温では失活してしまうので、なるべくゆっくり低温で煮込んでいくことを心がけています。
コクが出る、甘みが増すことを狙ってゆっくり低い温度から煮込んでいきます。
煮込んだ野菜を石臼の機械に入れて行くと、種や皮も丸ごとすりつぶしてくれる。
石臼だと食感が滑らかな感じになって行く。
パウダーやペーストは簡単に買うことができるが、すでに加熱されていて、煮込むほど風味、香りが飛んで行ってしまう。
加熱する回数は少ない方がいい。

味付けは「さ し す せ そ」の「さ、し、す」 砂糖、塩、酢を入れます。
酢は重要なので自家製です。(30年前から)
自家製の酢はつんとした感じはないです。
香辛料を次に入れていきます。
ティーバックに紅茶を入れたようなふうに、香辛料を入れて出来上がったソースに浸けこんでいきます。
欲しいのは香りだけなのでこのような方法でやります。(味をいれこまない)
こんぶ、鰹節も使っています。
アンチョビはイギリス人にとってのうま味だったが、日本に来てからはアンジョビではなくて昆布、うちではそれに鰹節を加えて出汁を取っています。(和のうま味の基本)
グルタミン酸とイノシン酸を足すとうま味が1+1が3ぐらいになる。
私の代からそのようにしました。
寝かせておくとそれぞれの味がなじんでくるので、木桶熟成をやっています。
木桶は上手に使えば100年以上持つなということが判りました。
木桶はメンテナンスが大変で高価でもあります。
素材を楽しみたいと言うお客様が増えてきているので、調味料が素材を邪魔してはいけないということで、私どもにとっては追い風だと思います。
それが大手メーカーとは違うところです。

学生のころは海外の方に目が向きました。
外交官になるにはと言うことを考えて、外務省でアルバイトをしました。
その後カナダに留学しました。
学生論文で入選して日米学生会議にも出席しました。
大学卒業後、スタンフォード大学の大学院で学び修士課程を修了する。
アジアに特化した政治、経済の国際関係の勉強をさせてもらいました。
大手商社に入社、バブルがはじけた時で審査部で不良債権になるならないのぎりぎりのところの取引先を勉強しました。
大手電機メーカー(GE)に就職。
2004年家業に戻る。
会社を運営スタイルはこうも違うのかと言うことを勉強しました。
私が家に戻って来る直前に父が倒れてしまうと言うことがありました。
2001年から毎年新しいものに挑戦してきました。
すこしずつ素材が改良されている中でソースがどれだけ変わっているのかということに対して、一つのアンチテーゼとして出したかった。
食の世界では直ぐに新しいものには飛び付かない傾向にあり、半歩先をねらってきました。
スパイス感のしない状態に持っていこうと試みました。
香辛料の量を押さえたものを作っていきました。

2012年には半径50km以内の原料で作る、地ソースのベースのような考え方。
東日本大震災を経験して、本当に地元だけで回せるのか、その時にどういう味になるのかということのトライアルでした。
2014年には和食に合うソース、2015年には浜名湖産の牡蠣を使ったオイスターソースには塩麹八丁味噌を使い、2016年には米の甘みを生かしたソースなど和の原料を使う。
ソースが世界の中に受け入れられた時に、原材料だけを見たらすぐにぱくられてしまう。限り無く日本ならではのものを使ったソースだと言うことになると、日本からという起点が出来るので、原材料をより日本ならではのものにしています。
和食に使える芯が無いと、着地点がないのではないかということになってしまって、日本人が普段食べているものによりソースを浸透させたいという狙いはあります。
ウスターソースも進化して、ウスターソースでいいのかなあとの思いもあり、名前も考えないといけないのかも。
















2018年5月18日金曜日

内藤啓子(長女)              ・【わが心の人】阪田寛夫

内藤啓子(長女)              ・【わが心の人】阪田寛夫
詩人、作家 大正14年大阪生まれ、東京大学卒業後、朝日放送に入社、ラジオ番組の制作などに携わりました。
しかし文筆業に専念するために退社し、昭和50年には「土の器」で芥川賞を受けました。
また童謡「サッちゃん」「歌えバンバン」「夕日が背中を押してくる」など作詞者としても知られています。
平成17年阪田寛夫さんは亡くなられました。(79歳)

昨年「枕詞はサッちゃん」を出版。
父は小説とノンフィクションの中間見たいなことをコツコツと丁寧に書いた人でした。
阿川佐和子さんとは幼馴染で中野区の鷺宮の20軒ほどの団地の中で一緒に育ちました。
「強父論」を阿川佐和子さんが父のことを書きました。
「サッちゃん」は佐和子さんがモデルになっていると言われているが。
実はモデルの方に迷惑がかかってはいけないということで父は黙っていたが、大坂の幼稚園の一期上にさち子さんと言う方がいて、名前の響きが好きなのと風のように走る女の子で、初恋だったのかなと思うんですが、阿川さんとの対談でようやく発表しました。
言葉と曲がぴったり合っていて、一字一句変えられないと父は言っていました。
父が亡くなったとに、大阪の幼稚園に歌碑が出来ました。
妹(大浦みずき)と一緒に除幕式に行きました。

阪田一家と吉田一家(母の家)は近くに住んでいました。
共に裕福なクリスチャンの家庭で、南大阪幼稚園を作るにあたっても両家が力を尽くして、「サッちゃん」のモデルは一期生、父は二期生、母は三期生でした。
父は悪ふざけする感じの子だったようです。
母は8人兄弟の末っ子で物おじしないタイプで大柄な人でした。
阪田家の長男のかずお?と吉田家の長女のみえが恋愛結婚して、その二人がめんどうな親戚を増やしたくないということで弟と妹をくっつけちゃえと言うことだったようで、母はみんなが結婚せいと言っていたからしょうがないから結婚したわと言っていました。
父はラジオ番組の制作などに携わりましたが、退社して文筆業に専念するようになりまた。
すでに「サッちゃん」の音楽著作権料が入って来ると言うのも一つの要因だとは思いますが。
両親が毎日大喧嘩していました。
或る時「今日から俺を叔父さんと呼べ」と言い出したんです。
離婚するということになって、言われたその日から「叔父さん」と言い出しました。
でも結局離婚しませんでした。

母も3回危篤になり、父も最後に具合が悪くなり、聴覚は最後まで残るので呼びかけなさいと言われて、「叔父さん」とか言ってしまってはまずいので名前を呼んでお茶を濁しました。
父は外面が良くて、外ではほとんどしゃべらず照れ屋で自意識過剰なタイプでした。
家族でどこかに行くことは皆無でした。
しゃべらず照れ屋の父が詩「猫を飼う規則」を朗読する。
父はメモ魔でなんでも書いて取っておくので、母は燃えるごみにすればすっきりすると言っていました。
一作品に段ボール一箱あり、書き上がっても取っておくわけです。
私に清書の鉢が回ってきました。
昭和40年代前半にドラマを担当していましたが、筆が遅かったです。
出来栄えについては常に聞いてきましたが、その対応が難しかった。
手紙を出した手紙のコピーなども残しておきました。
ユーモアの感覚は詩の方に生かされていると思います。
「おなかのへるうた」 作詞 阪田寛夫 作曲 大中恩
大中恩さんは阪田寛夫のいとこです。

旧制高校は高知で三浦朱門さんとは寮で同室でした。
その後もずーっと交流が続きました。
まど・みちおさんと一緒に詩集を出したりしています。
父はお金には恵まれませんでしたが、まわりの方には恵まれたと思います。















2018年5月17日木曜日

春風亭一朝(噺家)             ・いつもイッチョウ懸命

春風亭一朝(噺家)             ・いつもイッチョウ懸命
1950年東京足立区生まれ、67歳、高校卒業後、粋でいなせな噺家として知られる五代目春風亭柳朝師匠に弟子入りしました。
一朝さんはその江戸前の芸風を見事に受け継いでいて、 江戸っ子を演じさせたらこれほど似合う噺家は珍しいと言われる程です。
江戸の言葉を正しく話せることから、大河ドラマ龍馬伝などの時代劇で江戸弁の指導などもしています。
笛の奏者としても二つ目時代はプロとして歌舞伎で吹くこともしていました。
今年入門から50年の一朝さんに伺います。

枕でのフレーズの定番「イッチョウ懸命頑張ります」はいつごろ始めたのかは覚えていません。(二つ目のころからか)
今年芸歴50年、でもあっという間ですね。
特にお祝い事はしません。
兄が落語の本を買ってきて面白くて、TVで落語の番組を見てからですかね。(中学2年)
自分で覚えて教室でやっていました。
先代の金馬師匠、圓歌師匠、志ん朝師匠などを覚えています。
TVの素人寄席には高校2年の時に出ました。
予選で100人ぐらいいて駄目だとおもっていたら、本選に出ることになりました。
文楽師匠、ミヤコ蝶々師匠、アダチ 龍光師匠、一龍斎 貞丈師匠など審査員はそうそうたるメンバーでした。
その番組で4回出ました、その番組で真打ちとなりました。
「上手いね噺家になりなさい」、と文楽師匠に言われてその気になりました。

小さい時はこまっちゃくれた子だったようで、いたずらばっかりやっていました。
小学校のころは野球選手に憧れていました。
めんこ、ビー玉、べーごまなどをやっていました。
兄弟は兄がいました。
高校は都立化学工業高等学校に行きました。
落語家になりたかったが、高校にはいかなければ駄目だと親から言われて、「落ち研」があったので選びました。
「落ち研」は2人でした。
年に1~2つ位を本で覚えて文化祭でやったりしていました。
3年なる前に噺家になろうと思って、弟子にいったが、学校に通いながら噺家見習いをしていました。
林家正蔵(彦六)師匠の処にいったが、弟子が一杯いた為惣領弟子の春風亭柳朝師匠の処に行くことになりました。(高校2年)

父は日本刺繍の職人ですが、落語が好きで反対はしませんでしたが、母親が良い顔をしませんでした。
新人でも良い着物を着ていました。
春風亭柳朝師匠は絵に描いた江戸ッ子という感じで言葉に関してうるさかったです。
「がぎぐげご」は特に注意されました。
普段の俺を見ていろというような感じでした。
落語は直ぐに覚える様な感じでこなせました。(よく聞くようにしていました)
稽古は色んなところでやっていました。
1970年4月 前座になる。名は朝太郎。
1973年9月 二つ目昇進し、一朝に改名。
1980年 弟弟子春風亭小朝が一朝よりも先に真打昇進
1982年12月 真打昇進するが、師匠柳朝が脳梗塞に倒れる。
1984年 第4回国立演芸場花形新人大賞受賞。
1986年 文化庁芸術祭優秀賞受賞
1991年2月7日 師匠柳朝死去。(私が41歳の時)

NHKの大河ドラマ「龍馬伝」などの時代劇で江戸弁の指導することになる。
最初は「半七捕物帳」でした。
「龍馬伝」では勝海舟への指導でした。
物語に関する資料を集めて勉強などしました。
義父の五代目片岡 市蔵さんが綺麗な江戸弁を喋っていましたので、師匠もそうですので両方から影響を受けました。
二つ目の頃歌舞伎で笛を吹いていて、7,8年やりました。
妻とは楽屋で会ったり、浅草の喫茶店で会ったりしているうちに、付き合うようになりました。
高校の時に笛を買って吹き始めて、噺家になってから先生のところに行って学ぶようになりました。
弟子は10人います。
2007年 総領弟子朝之助が6代目春風亭柳朝を襲名し、真打昇進。
2012年 二番弟子一之輔が21人抜きの大抜擢で真打昇進。
なんかきっかけを掴んでうまく作用するとそうなるんですね。
変な方にはいかないように(基本ができていないのに話を今風に壊すとか)だけは、弟子に対して気を配っています。












2018年5月16日水曜日

池内了(名古屋大学名誉教授)        ・科学の光と影

池内了(名古屋大学名誉教授)        ・科学の光と影
73歳、日本の科学の第一線からは引退されているが、様々な分野の科学技術に造詣が深く、日本科学会のご意見番的存在と言われています。
そして私達は発展進化してきた科学技術の成果のうえに生きているが、その科学は善悪両面がある、光と影、裏と表の二面性があると説き続けています。
池内さんは多くの著書を通じて科学の内実を伝え、科学の未来をバラ色に描くのではなく、科学は使い方次第で善から悪に転嫁する事を忘れずに、むしろ科学がもたらす影を常に想像してその弊害を少なくするために、科学とどう付き合うべきかを考え続けて来ました。
現代の科学と社会の関係がいかにあるべきかを考え、著作活動に加えて講演、講座に多忙を極める池内さんに伺います。

小さいころから物を知りたがる、聞きたがる、仕組みを考えたがる理科的な発想を持っていました。
4歳上の兄がいて、何をやっても負ける訳です。
兄を観察して唯一勝てるのが理数系だと思いました。
日本で唯一ノーベル賞を貰った湯川さんに憧れていました。
素粒子物理学をやろうと思って京大に行きました。
全国から優秀な人間が集まって来る訳で、宇宙物理学を選びました。
湯川先生の一番弟子の林先生が助教授にいましたが、素粒子物理学から宇宙物理学に向かったので私も行きました。
40歳過ぎたころから新聞に科学者の観点から世の中の様々な出来事を論評するという記事を書いて来ました。
生物、化学、数学など様々あり、基礎的な部分は押さえておかないといけないと思いました。
子供向けの岩波ジュニア新書を読んで、大まかなことを探ります。
関連文書を数冊読んで、幅をひろげました。(全分野浅いが)
広い観点、違った観点から論ずれば面白いのではないか、という事を取り上げてそれを本にしてまとめてみようと思ってやってきました。

1995年大阪大学で教授をしていましたが、3つの大きなことが起きました。
①1月に阪神淡路大震災が起きて6000人以上の方が亡くなった。
地震は予知できない、明らかなのに今でも予知できるという看板を掲げて科学者がのうのうとやっているのはけしからんと言うことを新聞に書きました。
東日本大震災で予知できないことが認められた。
②3月にオウム真理教事件(サリンをばらまいて死者が出た)が起こりました。
阪大の出身者がオウム真理教のナンバー2にいると、宇宙物理学出身ではないかと、お前の弟子なのかと、もしそうならばお前の教育が悪かったんだという手紙を読者から貰いましたが、弟子ではないと言ったが。
大学で私たちは教えていますが、私は物理学を教えていましたが、大学では知識を教えているだけ、知識が世の中にどのように生きているかについてはなにも教えていない。
世の中に科学と社会との関係に対してなにも教えていないので、大学教育としてはおかしいのではないかと思いました。
倫理的な考え方を身につけるべきだと考えて、科学と社会の側面を意識しました。

③12月には高速増殖炉のもんじゅがナトリウム漏れを起こして、ストップしてずーっと動かないまま去年廃炉になってしまった。
核燃料リサイクルは非常に技術レベルが高くて、もんじゅは原型炉だがもっともっと小さな炉から実験に順次取り組む必要があると、いっぺんに飛びつくのはナンセンスだとこれも書きました。
3つの大事件が起こって、科学と社会に関して研究を進めることが必要だとずーっと考えるようになりました。

科学によって非常に人間生活、社会生活、生産力とが良くなって来る部分が光の部分だとすると、弊害もある訳でそれを影と呼んでいます。
自転車、車、飛行機、人間の足の代わりの能力を拡大するが、車に乗ると歩かなくなり糖尿病にかかりやすくなる。
手計算、漢字も書けなくなる。
エアコンを使うと快適になるが、人間は汗をかかなくなり、急に暑い所に来た時には汗が出せなくなり、熱中症になったりする。
固有の能力を保ちたいのなら、余り科学に頼らない方がいいということです。
科学の民生利用と軍事利用、人を活かすために使えるし殺す為にも使われる、二面的な使われ方。
GPSは軍事的な目的に使われたが(潜水艦の位置、軍隊の位置など)、今はカーナビに使われている。
便利だと言うだけでは、危ないということです。
役に立つ科学と役に立たない科学があるが、役に立つばっかりが強調されて本来の科学
としての哲学的な部分とか、精神的な分野があり、商用主義が広がりすぎていて科学の純粋性が失われている。

人類の未来を考えてみた時に、ホーキングも言っているが「滅びに向かっている」と言っているが、もう少し俯瞰してみて、どういう方向に言ったらいいか考えてみたいという気持ちは強くなりました。
3・11の東日本大震災に対してどのように対応すべきか、を考えた時に僕は逆行していると思っている。
海岸べりの上に埋め立てをして50階とかのマンションを作る訳で、液状化問題、大きな津波が来た時には非常に危ない。
リニア新幹線など、より発展という論理ばかり追及していて、もうそろそろ発展という論理は止めて充実という豊かさを求める時代として次の時代を考えないと行きずまりますと僕は考える訳です。

はたして人間は原子核そのものをコントロールできるのだろうか。
100%安全な技術はあり得ない。
技術とどう付き合うかの問題になって来る。
原発はやめるべきであると考えている。
海底で掘削して資源を取るなどあるが、ほんとうに慎重にやらないと大変な事態を引き起こす可能性がある。
メタンハイドレートなどは下手に空中に散布してしまうと、温暖化バスとしては炭酸ガスの25倍あり、いっぺんに地球温暖化してしまう可能性がある。
寺田寅彦が1935年に亡くなっているが、80年以上前に、「科学によって人間は傲慢になっている、傲慢になってはいけない」と書いています。(地球物理学の科学者)
「天災は忘れたころにやって来る」
「文明が進むにしたがって、人間は次第に自然を征服しようという野心を生じた」

スケールアップ、スピードアップしているが、その結果として事故が起きると凄い悲劇がおこる。
新幹線技術は素晴らしいが、直下型地震があったりすると大丈夫か、よほど慎重に運転しないといけないと思う。
これ以上余り便利さ、効率性は求めなくていいのではないかと思っている。
「必要は発明の母」という言葉があるが、今は「発明は必要の母」となって来ているのではないか。
思いがけない発明が如何にも自分が必要であったかのように誤認する、その結果として発明が刺激を与えてより必要性を高めて行く。(企業戦略)
消費者の欲望を引っ張り出す為に広げて行く。
便利さを追求して行くと人間の固有能力が失われてゆく、人間が退化に向かってゆく。
AIが広がり色んなものに適用されると、余裕の時間が出来るが、教養を高めるための本を読んだり、名曲を聞いたりすればいいが、無駄につかってしまって、より忙しくなる。
AIは人間に危険なものであるとホーキング氏は警告している。
50年ぐらいの間に警告の兆候が出てくるのではないかと思っています。
















2018年5月15日火曜日

村上真平(農園代表)            ・“自然農園”の夢、ふたたび

村上真平(農園代表)            ・“自然農園”の夢、ふたたび
福島県生まれ、59歳、実家の農業を継ぐため三重県にある愛農学園農業学校で有機農業を学びました。
卒業後は20年間インドやバングラディッシュで農業の指導に当たり、帰国してからは福島県の飯館村で自然農法による農園作りに取り組んでいました。
村上さんが考える自然農園が実現しつつある矢先に東日本大震災、全てを失ってしまいました。
最終的に母校を避難先にした村上さんは三重県を拠点にして再び自然農園をスタート、持続可能な自然農法を通して新しいコミュニティーを作りたいとお話してくださいました。

福島県では藤の花が咲くと霜が降らなくなり、きゅうり、いんげんとかの苗を畑におろすということをしていました。
こちらに来ても同じです。
花、鳥の声、カッコウが鳴けば苗を植えても大丈夫だと福島では言っていました。
こちらに来て5年目になります。
標高が640mあります。
若干温かいがあまり変わらず、福島でやっていたリズムとほとんど変わらずにやっています。
自然農業は有機農業という一つのカテゴリーの中の一種で、自然のルール、自然が持続可能に何万年も築いたルールに沿った農業と考えています。
自然の森にはさまざまな虫などがいて、あれほど持続可能なものはないです。

持続可能性は3つのものによって作られている。
①植物が育って行く中で、植物、動物、微生物という、植物は太陽によって光合成をして食べ物を作る、それに動物が乗る、そしてどちらも死んでしまえば微生物が分解して戻して来る、循環というものが森林では行われ土が豊かになって行く。
疲弊することがない。
②生命は循環しているが、一つのものに頼らない。
安定するためには多様性が絶対必要で植物、動物、微生物が多様になる。
多様であるがゆえに様々な条件の中で生きていけるものがあり、それが繋がって循環している。
安定性は多様性から来ている。
③多層性、土、森の土は落ち葉により覆われていて、草、小さい木、中間の木、大きい木
という訳で多層に覆われている。
森は動けないので育つためには太陽の光、雨が必要で、この多層性が、太陽であれば強い光は上の方が使ってだんだん弱くなるに従って全部使って、太陽の光を最大限に使うシステムがある。
雨はショックをやわらげて出来た土を流さないように必ず守っている。
水源は森がショックを和らげてゆっくり土のなかに溜めて行くのでそれが水源になる。
太陽と雨を最大限に使うシステムを森が持っている。
最大限に使いなおかつ安定する多様性がもので循環している。
①循環、②多様性、③多層性が持続可能にする一番の基本だと思っています。

農業が1万5000年前に始まった時に先ず森を切る。
多層性が無くなってしまう。
自分の好きなものだけを植えるから多様性が無くなる。
収穫して持って行ってしまうので循環が壊れる。
農業は自然が持っている、循環、多様性、多層性を無意識に壊している。
豊かな土地が砂漠化している。
そこから自然農業は自然が持続可能にしている、それを農業の中に取り戻してゆくというふうに考えています。
飯館村で自然農園を作ってきた。
2002年から2011年まで9年間行ってこちらに移って来ました。
草生栽培、なるべく耕さないということを考えました。
土の上に有機物をおいておくと土がどんどん柔らかくなる。
作物の間には草が生えてくるが、或る程度大きくなると切ってそこのは畑に帰してあげると言うことをやってきました。
妻は結婚する前、自然食レストランをしていました。
2003年に結婚、飯館村で自然農園を基にしたエコビレッジコミュニティーと言っていた活動をしていました。
レストラン、石窯パン工房、農家民宿、海外の有機農業を勉強しに来た人たちにも教えていました。
賛同してくれる人が増えれば、自然に対して負荷のない生き方が出来るだろうと思いました。
2011年にはほぼ思惑通りの環境が出来上がり、2011年4月には一緒にと言うことで1家族が来ることになっていました。
イメージしてコミュニティーが出来ると思っていました。

原発に関しては勉強していました。
自動停止したということでほっとしたが、夕方になった時に非常電源が津波でだめになって外部電源は鉄塔が倒れて駄目で、バッテリーで1時間ということを聞いた時に、最悪は原子炉が飛んでしまうのではないかと焦りましたが、その後インターネットで調べたら冷えてきているような情報がありました
妻が夜中の2時に出先から来て避難しようと言ってきました。
インターネットで調べてみたら原発が冷却できなくなったと言う事だった。
直ぐに出ていこうと言うことで家族5人、研修生一人とで12日の明け方3時に妹の家がある山形県米沢に行きました。
その後妻の実家の浜松に行きました。
その後行き場のない人たちが20人ほどいたので、愛農学園に電話をして一時避難をさせてほしいと頼みました。
16日に他の避難者を含めて愛農学園に行きました。
昔16歳で愛農学園に来ましたが、当時愛農学園は4年制でした。
愛農学園はキリスト教を基本的な考えにして有機農業を教える農林高校でした。

長男なので、父親は卒業後継いでくれると思っていたが、2年間自由な時間を欲しいといったら良いと言ってくれました。
自転車での日本一周をするということで始めた半年後に戻って欲しいと言われて、もどりました。
その間に父親と決裂してしまいました。
世界中のどこに行っても生きていける人間になりたいと思ってインドに行くことを決めました。
それが人生の転機になり、20年間海外で暮らすことになりました。
貧しい人々に対してやっていることに色々考えて、シャプラニール海外協力の先駆けみたいな団体からバングラディッシュに行ってほしいということで行きました。
3年過ごすうちに農民と農業のあり方が非常に大きな問題があり、有機農業自然農業を進める方向に行きたいと思いました。
有機農場を作ったり、それをトレーニングすると言う仕事をしていました。
60,70年代からは種も買ってくる、農薬を使い、化学肥料を使って出来た農産物は安いということになって来ました。
有機農業がそういうことを解決するものだと思いました。

自然を収奪しないやり方。
環境問題、温暖化など様々な問題があるのは、人間が自然との生き方に対して利用はするが、循環の作用の中で生きて行くことを忘れていることが大きな問題になっていると感じてきています。
今は貧富の格差が物凄い。
世界のトップ8人の持っている財産は貧しい人の35億人と同じだというからむちゃくちゃです。
発展途上国など弱い立ち場の人達を搾取するようなことには関わりたくないと、飯館村で始める時のモットーとしました。
学ぶ場にしたいということで研修を一緒にしたいという事に関しては受け入れています。
フランスから一週間ほど研修に来たりもしています。
子供達の料理教室もやっています。
そのほかにも農産加工の物をワークショップでやってみたいと思います。
自分でものを育てて出来たものを調理するとかしたら、もっとそういう場ができると良いということで繋がって行く、そして農に関わって行く場所を作ろうと言うことで始まっています。









2018年5月14日月曜日

田名部和裕(日本高等学校野球連盟理事)   ・【“2020”に託すもの】高校野球と歩んだ半世紀

田名部和裕(日本高等学校野球連盟理事) ・【“2020”に託すもの】高校野球と歩んだ半世紀 (1)
今年の全国高校野球は100回を迎えます。
関西大学卒業後、1968年 日本高等学校野球連盟の事務局に入り、事務局長、参事、2010年からは理事として半世紀に渡って高等学校野球を内側から支えてこられました。
1968年は50回大会の年で大阪興國高等学校が優勝、翌年は三沢-松山商業の延長18回決勝再試合があった年です。
大学時代もマネージャーをしてきました。
関西大学は朝日新聞の運動部のお手伝いをしたりスコアブックを付けたりなどしていました。
高野連が人を探していて、どうだと言うことでが話がありました。
野球のことが出来ればと思いました。
戦後高校野球の再開の話があり、GHQが日本の大改革を進めてゆく中で、新聞社が大会を主催すると言うのは適当ではないと言うことだったが、文部省の助言もあり、連盟と言う組織を作って両方でやったらどうかということで、大会を復活するために高野連を作ることになりました。

ルールの整備、大会参加資格など徐々に固めて行きました。
野球統制令を廃止して独立した組織を作らないと学生野球は発展しないと、当時の人が随分苦労したようです。
戦後の1946年 第28回大会、西宮球場で復活、19校(全国でも745校)だった。
50回の時には全国で3900を超える数になる。
2県で1チームでは予選で負けると出られないので、県から出したいと言う思いが強くて、増やしてゆくという事もありました。
宿舎(大部屋)、練習場の確保の問題などがありました。
ビジネスホテルのドアを開けて解放的にするとかアドバイスしたりしていました。
洗濯機の調達とか、宿舎側の協力などがありました。
出場校が49校になり、練習場の確保をなんとか70か所ぐらい行いましたが、結構大変でした。

当時高野連会長は佐伯達夫さん、高校野球は教育、人間形成の場であるということで高校野球を引っ張って行く。
不祥事に対しては厳しかった。
常にかばんの中にはがきが入っていて、筆まめな人でした。
情報を沢山の人から収集するのが得意でした。
佐伯さんは野球はお金がかかるので質素にということをやかましく言っていました。
1973年にハワイのチームがアルミのバットを持って行って使っていいかどうかの話があり、佐伯さんはそれを見て翌年には直ぐに決めました。
最初は周りからの反対意見がありましたが、進めて行きました。
金属バットで一番お世話になったのは芝浦工大の学長をされた大本修先生、金属バットは宇宙開発事業の一つの成果である軽い金属、先生は終生出来るだけ木製に近づけるようにという話はありました。
もう一人お世話になった人として加藤まさお?先生、東京大学校工学部、金属の材料工学 戦前ゼロ戦の制作にもかかわった人。
1990年に亡くなったが弔辞のなかで戦前は戦争にかかわったが晩年は平和の仕事、高校野球の金属バットのお手伝いが出来て本当に良かったという内容を聞いて感動しました。

1995年阪神淡路大震災、牧野会長の安否、甲子園球場はどうなんだろうと思いました。
一段落した後にバイクで出かけましたが、ゆく所の景色では野球はしばらく無理だと思いました。
甲子園はシーンとして大丈夫でした。
高校野球で復興の邪魔になるのではという思いもあり、意見が別れました。
えんどうやすお?さん(朝日新聞運動部長)から、IOC委員長の栗本?さんは生涯で一番つらかったのはモスクワオリンプックに行けないこと選手に伝えたことだったという話をしてくれて、努力しないでやらないと言うことでは駄目だと言うことで、踏ん切りがつきました。
2月15日に知事さんに相談に行きましたが、「被災地にも桜が咲く頃明るい話題がいるでしょう、おやんなさい」と言われました。
電車もなく交通対策が大変でした。
佐伯さんの不祥事に対する厳しさが、交通対策に関する交渉でも信頼してもらい、了解してもらいその時涙が出ました。

その時は高野連は牧野さんでした。
牧野さんは21年間高野連を務めました。
ストライクを先に言うのは日本だけで、牧野さんに言ったら替えたら方がいいんではないかと言われて、東京にいって話を進めようとしたが反対された。
物事が定まるには3つの法則がある、と言われた。
①なんか最初にやろうとすると馬鹿にされる。
②更に進めると猛烈に反対される。
③或る日自明の理と突然認められる。
最初リズムが違うという感覚があったが、今ではそうしないと不自然な感じさえします。












2018年5月13日日曜日

土門正夫(元NHKアナウンサー)     ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪放送の証言(H21/9/25 OA)

土門正夫(元NHKアナウンサー) ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪放送の証言(H21/9/25 OA)
去年の5月に87歳で亡くなった元NHKのスポーツアナウンサーの土門さんを偲んで再放送お聞きいただきます。
昭和26年NHKに入り、以来37年間スポーツ実況アナウンサとして数々の名放送をしてきました。
野球、バレーボール、体操、駅伝、ラグビーなど担当種目は30を越えました。
30歳の時の昭和35年のローマ大会から昭和59年のロサンゼルス大会まで夏と冬、併せて7回のオリンピック放送を担当し、日本人選手の金メダル放送は20回を数えました。
又紅白歌合戦の総合司会や、スタジオ番組スポーツアワーも担当し、笑顔とさわやかな口調と、心に残るコメントは多くのファンの感動を呼びました。

NHKを退職したのは57歳で辞めて今79歳ですから22年前になります。
健康診断は13,4年やっていませんので体は大丈夫だと思います。
松本:入社4年目で昭和50年春の選抜で第二試合を放送することになっていたが、緊張で夜眠れず大遅刻をして入場行進開会式に間に合わず、土門さんから「入場行進開会式を見ずに選抜放送が出来るか、何を思ってるんだ」と怒られました。
土門:あの感激に満ちた入場行進を見ずして高校野球の雰囲気の何が判るんだと、怒った覚えがあります。
昭和26年に赴任しましたが、アナウンサーになる気はなかった。
5年生の中学も精密機械でずーっと理工系でした。

昭和39年東京オリンピック 当時34歳、東洋の魔女と言われた女子バレー、ソ連との決勝。
一番印象的に覚えているのは、物凄い歓声でサイドアウトが5,6回あって最後のソ連のオーバーネットの瞬間静寂が訪れて、その後ウワーっと物凄い歓声があり、河西キャプテン 彼女だけ泣いてないんです。
後でどうしてと聞いたら、キャプテンだけは審判などに挨拶にする、それまでが私の役目なんです、泣いていられますかというんです。
彼女がいたからコントロール出来たんですね。
カラーのTV放送でした、マラソンも全コース中継であのオリンピックはNHKの技術さんの大勝利だったんです。
閉会式ではTV担当。
日本の運営なので何分何秒までびしっと決まっていたが、旗の列のむこうから山のように人がなっていて、後は滅茶滅茶でした。
だからこっちは真っ青でした。
これを言ってやろうと思っていたが何にもなしで、何を言ったか覚えていませんでした。
放送が終わった瞬間に皆が真っ青で、東京オリンピックの放送をめちゃくちゃにしてしまったと皆黙って、暫く坐っていて皆で謝ろうといって放送スタッフの大部屋に行ったら、
大拍手です、良かった、面白かった、と言われました。

僕はその後打ち上げなど色々やったらしいんですが、覚えて居ないんです、どういうふうに家に帰ったのかも覚えて居ないんです。(酔っぱらってじゃなくて)
イギリスの有名なジャーナリストが東京オリンピックの最高の成功は閉会式であると言っていました。
その後のオリンピックは全部あのスタイルですからね。
その閉会式を実況したのが土門正夫です。
昭和47年ミュンヘンオリンピック、男子団体4連覇の時に決勝の模様を放送。
TV実況放送。 最後の演技 塚原の鉄棒 月面宙返り
体操で3つ団体優勝の放送を担当して幸せな男だと思います。
同じミュンヘンの男子バレーボールが金メダルをとる。
準決勝、決勝で大逆転する。
2年前、ブルガリアに2セット取って逆転負けしている。
準決勝でブルガリアと対戦、2セット取られていて、松平監督は選手を集めて、「おい、これから2時間半じっくり試合を楽しもうぜ、やろうぜ。 2年前を思い出せ。」と言ったんです。
中村祐造、南 克幸選手のベテランを2人を入れて雰囲気を変えて大逆転した。

日本はソ連に弱かったが、準決勝で東ドイツがソ連を破って、相性のいい東ドイツと決勝を行うことになる。
東ドイツを破って日本が金メダルを取る。
選手は喜びに舞いあがっていました。
高校野球で自分が放送した中で一番印象に残っているのは昭和53年 60回大会
決勝での高知商業とPL学園。(この時初めてPL学園が優勝する)
監督が鶴岡さん(鶴岡一人さんの御子息)、解説が松永怜一さん(鶴岡監督の恩師)
優勝した瞬間に松永さんは目を真っ赤にして絶句し何も言えなかった。
0-2でリードされていたPL学園が9回の裏に一挙3点をいれて逆転サヨナラ優勝する。
準決勝でも中京に0-4リードされていたのを9回裏で同点にして延長戦で勝っている。
監督の一声があり逆転のきっかけを作っている。
昭和60年10月16日タイガースが対ヤクルト戦、21年ぶりに神宮球場で優勝するが、その時に実況をしました。
掛布選手のポールに当たるホームランから追撃が始まった。
物凄い歓声でした。
吉田監督はキャンプから徹底的に基本からやりました。

僕は自分が楽しむことを兼ねて言うと、スポーツで一番好きなのがラグビーです。
男と男がガーンとぶつかり合うあの迫力は最高です。
釜石の7連覇の時の試合に入る時に放送に入った時に歓声が凄くぞくぞくとして喋れなかったです。
昭和26年に広島に赴任、ガーンとやられて、辞めてやろうかとふてくされていました。
翌年ヘルシンキでオリンピックがあり、和田信賢さん(大先輩)が出かける時に一緒に行った志村正順さんが医師から「この方はこのまま仕事をしたら命の保証はありません」と言われるぐらい和田さんはからだの具合が悪かった。
でもオリンピックのテーマ音楽が始まると、今までの具合の悪さは吹っ飛んで、別人のような声で喋り始めて、和田さんの放送を聞いて何故か背すじがゾクゾクとするような感覚があり、じーっと聞いていました。
大会中に倒られてパリで一人で入院して日本に帰りたいと言って亡くなられました。
それを聞いて、この商売は命を掛けてまでやる仕事なのだと、初めて和田さんに教えてもらいました。
よし、一つやってみるか、それから真剣にやり出しました。

負けたくないから人が一やれば二をやってやると思いました、資料を調べるとか勉強すると言うことはだれでもやることですから。
しかし申し訳ないと言うことでは、家庭サービスは全くしませんでした。
スポーツ実況アナウンサーは楽しかったかと問われると、楽しくはありません、NHKを辞めて60歳過ぎてから、こんな面白い部分があるのかと思いました。
NHKという枠を自分ではめていたような気がします。
それまでは常に色々反省点を考えてしまいました。
パーフェクトはないです。
ロサンゼルスオリンピックのことに繋がるのですが、女子マラソンが初めて行われて、アンデルセンという選手が30何番目かに入って来てヨロヨロやっとゴールインして、静寂だったところに大歓声が起こり、その放送をラジオでやっていて高橋進さんと二人で涙が出てラジオなのに喋れなかった。
やっとぽつぽつ喋って、その後大反省して、上司に大変申し訳ないことをしたと、どういう理由があるにせよ放送出来ないほど涙を流してしまったことに対して謝りました。
でも「あれはあれでいいんだよ」と言ってもらいました。
頭で考えた言葉、作られた言葉は他人の心は打たない、あれでいいんだよと言ってくれました。
心の息づかい、鼓動、心の言葉が本当の実況なんだと思いました。
最近のことを一言言えば、あまりにも大向こう受けする放送が多過ぎるのではないか。
自分で人に受けようと思って放送している気持ちはあなたの気持の中にありませんか、
そういう言葉がちょっと耳について気になる今日この頃です。

















2018年5月12日土曜日

2018年5月11日金曜日

若竹千佐子(作家)            ・63歳、デビュー作で“芥川賞”

若竹千佐子(作家)            ・63歳、デビュー作で“芥川賞”
今年1月「おらおらでひとりいぐも」で63歳で芥川賞を受賞しました。
1954年岩手県遠野市生まれ、岩手大学教育学部を卒業し、数年間に渡って臨時教員を経験、その後結婚し上京、専業主婦として過ごしてきました。
小説を書き始めたきっかけは、ご主人を脳梗塞で亡くし落ち込む若竹さんに息子さんが小説講座を薦めたことでした。
8年間通い小説の基礎から学びました。
受賞作は夫を亡くした74歳の女性桃子さんの物語で東北弁を随所に活かして書かれています。

受賞して夢にも思っていなっかったことで4カ月たってはしゃぎ過ぎで、もうすぐいい加減前を見て次のことを思うようになりました。
岩手県遠野市生まれです。
子供のころから大柄な小娘で、三人兄弟の末っ子で、賑やかな家族で大事に甘やかされて育ちました。
本は大好きで兄、姉が借りてきた本を読んだり、最初に買ってもらった本が「安寿と厨子王」で祖母に字を習いながら、今度は自分が読んで祖母に聞かせるようになりました。
「風と共に去りぬ」は暗記するぐらい読みました。
岩手大学教育学部へ入学して、趣味で小説を書くようなライフスタイルを望んで居ました。
臨時教員をしながら本採用を目指していましたが、駄目でした。
どう生きていったらいいか考えていた時期でした。
向田邦子さんが大好きで、全編書きうつしたのが何作かありました。
シナリオの勉強をしたいと東京に行ってみようと思って、現在の埼玉県さいたま市の学習塾に住みこんで塾の先生をやりました。
慣れてきた頃、親から見合いの話があり会ったら、私の好きな男のタイプで、結婚しました。

私が30歳の時に千葉の方に来ました。
専業主婦で暮らしてきましたが、小説家になりたいという思いは頭の中にありました。
自分はどういう人間だとか、世の中はどういう世の中なんだろうかということについては書き記したいという思いがあり、書いたりはしていました。
河合隼雄さん、上野千鶴子さんの哲学的な本の感想なども書いていました。
何にもないところから一人の人間を生き生きと立ち上げたいなという思いはありました。
小説に出てくる「桃子」さんは74歳。
東京オリンピックの時は10歳でしたが、こういう世界があると言う思いがすごく新鮮で「桃子」さんの人生が変転するきっかけはどうしても東京オリンピックにしたかった。
9年前に57歳で脳梗塞で主人が亡くなりました。
がっかりして、何か意味があるような気がして、それを探したいと思いました。
根本先生の小説講座があると、息子が見つけて来ました。
根本先生はどんなボールを投げても受け止めてくれる安心感がありました。
「小説は哲学です」と言われました。

小説は悲しいというような内容だけではなくて、悲しいと思っている主人公をもっと上から見つめる目線があって、客観的に書く必要があると言うことを教わったり、又講座の仲間たちとのいい出会いがありました。
書いたものをお互い同士が批評し合って、最後に先生が講評するというスタイルでやっていました。
最終的には書き続ける意志が大事だと思いました。
小説は首都近郊の住宅地、「桃子」さんが故郷を離れた形を設定、そうすると或る意味浮遊感、根無し草的な生き方、ほとんどの人が戦後してきたわけで、何処に自分の居場所をみつけるかということは大きな問題で、一人ひとりが何かに繋がっていないと自分を確定していられないという、そういった不安とかを心に抱えながら生きていっている現代人、地縁血縁を離れた新しい人、その人がどうやって心に安定感を見付けられるか、しかし「桃子」さんは周辺とは交わらないという設定。
「桃子」さんの心をとらえるのは何か、ということで八角山、故郷に繋がる言葉を大事にして、そこが「桃子」さんの出発点だと言うものを故郷と話した所に「桃子」さんの居場所を置いたんです。

ポツンと都会に生きていて、帰属するものを探さなくてないけないが何処かに安定した幸せが求められるのかなという問いかけもあったが、その時に自分の子供のころ使った言葉をツールにして、自分を掘り下げて行くと言うふうにしたかった。
孤独の良さ、孤独だから自分に深く問いかけられるし考えられる。
老いていることと孤独ということは或る意味背中合わせになっているが、プラスで考えられるようなに生き方を書いてあげたかった。
私自身も一人で生きて行くので、孤独は必要だと言うぐらいに思っています。
常に悲しみの中に喜びがあると言うのは私の発見というか、マイナスの中にプラスを見付けると言うか、そういうことだったんです。
今は子供達は大きくなって夫も亡くなって、私をこの世に引きとめるものは客観的にはなにもなくて、でも私が生きてゆくとしたらそれは何なんだろうと思うと、この世にはもう用済みだけれども、私の自由意思で自己決定権を持って考えたことを行為する、その喜びを継続することが私のこれからなんだろうと、自由だと言うのが一番ですね。

母親には母親の人生があり楽しんで生きていってお前とは別なんだよ、と言うことを子供に言ってやることが、子供にとっても親切だと思っています。
おらはおらにしたがう、が一番いいと思います。
老いをいかに生きるかという小説があっていいと思う、これから長い時間が老いの時間でどうやって生きていくかの小説がもっとあっていいと思う。
頭の中で考えている処は小説の分野だと思います。
私は何を考えているんだろうの方が興味があり、問いを見付けてその答えを探す過程が物凄く面白くて、判ったことを面白おかしく書きたいみたいな感じです。
自分に対しての分析癖と分析したことを面白おかしく言及する癖、そんなことを小説に書けたらいいなあと思います。
私は内省する脳内のことを書いていこうと思っているんですが、社会に目を見けた視線も必要だと思っています。
やっぱり小説は面白くなければと思っていて、面白い小説は書きたいとは思っています。














    2018年5月10日木曜日

    吉岡秀人(医師)              ・“日本の心”で人を救う

    吉岡秀人(医師・ジャパンハート最高顧問)   ・“日本の心”で人を救う
    52歳、2004年国際医療支援団体ジャパンハートを立ち上げミャンマーを中心にカンボジア
    ラオスなど東南アジアの発展途上国で支援活動を続けています。
    1年のうち8カ月は海外に行っているという吉岡さん、支援活動の現状とジャパンハートを立ち上げる迄の道のり、医療にかける思いなどを伺います。

    ジャパンハートと名付けた思いは日本の文化、伝統から生まれる考え方に裏打ちされた国際協力の支援の仕組みがきっと世の中にとって相当役に立つだろうと、欧米とは違った日本人にしかできない国際協力をやっていこうという思いを込めています。
    欧米などの考ええ方は満たされたもの、豊かなものが義務として貧しきもの弱いものを助ける、そこに彼らの誇りなり喜びがあるが、日本人はちょっと違って自分が貧しくても人を助けることに美徳があり、相互扶助的な感覚ですが、僕らのカルチャーを使って世の中に貢献していこうと言うことです。
    日本発祥の国際医療ボランティア団体は珍しいです。
    日本は戦争に負けてから国際性が一旦落ちてきて、ヨーロッパなどは長い伝統があり元々豊かで、経済だけでなくて、周辺も発達してきた。
    日本は戦争後経済だけは発展させてきたが、周辺分野の意識は仕組み作りから遅れてきた。
    NGOなんかでも評価されているということはないんじゃないでしょうか。

    日本人は英語が出来ないといけない、とかフランス語が出来ないといけないと思っている。
    何故かと言うと日本の国際協力の大きなNGOがないから、この一言に尽きる。
    多国籍の所に日本人が混ぜてもらって、言語を覚えていかなくてはいけない。
    英語圏の人達がいて日本人はカルチャーは違うが入ってやると、ほんとうはその国の文化伝統を生かした、慣習を共有した同じ国の人が入ってやっていて意志の疎通も取り易い、考え方も共通しやすい、それぞれの団体にはポリシーがあってそれぞれの国のバックグラウンドにしたポリシーがある。
    日本人がアメリカ人に混じっても日本人のカルチャーが出せるかというと出せない。
    多様性とか日本人のいいところが発揮できないので、そういうのを解消するためには日本から国際的なNGOを作るしかないと言うことです。

    高度な英語のコミュニケーション能力が必要で、アメリカに語学留学を3年間する、その間に国際協力を辞めてしまう人が9割以上います。
    そのエネルギーがあればどれぐらいの人たちの役に立てただろうと考えた時に凄いことになっていると思う。
    その仕組みを作ればいいというのが僕の発想です。
    現地の人は英語を話せないので英語を覚えるなら現地語を覚えてほしいというのがスタンスです。
    ミャンマーを中心にカンボジア、ラオスなど東南アジアの発展途上国で医療の支援活動を続けています。

    手術、特に子供の医療を中心にやる団体で、日本でも医療者の足らない地域医療の現場場、へき地、離島に支援という事で送っています。
    医療は体だけ治したらいいというわけではなくて、心のケアも非常に大切で、こういう分野にも積極的にかかわっています。
    小児がんは日本で2500人から3000人新しく小児がんになり、この中の数十%は亡くなってゆくと言うのが現実です。
    当人の治療はするがメンタルな部分、家族のメンタルなことが発生するが、今まではそういったことは考えていなかった。
    経済的な問題等も出てくる。
    元気な間に家族と一緒に思い出を作ってあげるとか、旅行に一緒に連れていくとか、兄弟同士の時間を作って医療者が付き添ってあげる、スマイルスマイルプロジェクトと呼んで活動しています。

    東南アジアでは今は、エイズ、マラリアなどで死んでゆく人達がいます。
    田舎ではいまだに電気が通っていない所がおおい。
    病気しても医療機関にアクセスできない。
    カンボジアには大きな病院を作りました。
    ミャンマーでは外国に対して受け入れが厳しい政府と、優しい政府があり、状況に合わせて病院を借りたり作ったりしています。
    仏教のお坊さんが運営している病院がありその病院を借りて治療をしたりしています。
    薬には問題があって、アジアで出まわっている薬は中国、インド製で物凄く質に問題があって全く効かないとか。物凄く効きすぎるかということがあります。
    同じ量の麻酔でも効かなかったり、効きすぎたりしてしまう。
    同じ種類の薬を日本製に変えたら効いたということが度々あり薬の扱い方に本当に困っています。
    日本の企業が早く海外進出してそういう薬を駆逐していってほしいと思います。
    現地のニーズに合わせて作るプロジェクトでないと上手くいくわけがないということが僕の考え方で、そうすると政府の補助金は使えないので多くは寄付と自分達でお金を生み出すことも一部やっていて成り立っていて日本ではかなり珍しい組織だと思います。

    医師、看護師、ボランティア等がみずからお金を出して医療活動に参加するというスキームを作った訳です。
    一人参加するのに6,7万円、他に航空券、保険代も自ら払って医療活動する事になります。
    今は700人ぐらいいます。
    2020年までには1000人にもっていきたいと思っています。
    この方法は日本らしいところだと思います。
    いまの若い人達は物から精神的な豊かさにシフトしています。
    精神性の高いことが出来ると言うことは意識の進化だと思います。
    ボランティアの期間はそれぞれで2,3日から2,3年ということもあります。
    24,5年前は医療で国際協力には決死の覚悟で行けと言われていて、帰ってきたら就職先もない、いったら年収は途絶える、結婚はできない、家庭は持てないそういう覚悟で行けと言われていたが、僕は或る時気付いて国際協力をするのに覚悟はいるのかなと、今はアジアは発展してこの時代に東南アジアに国際協力に行くのに決死の覚悟が要るのかと気づく訳です。

    時代に合った仕組みがあるのではないかと思いました。
    休暇を使ったりして出来る範囲でいいと、何も犠牲にする必要はないと思います。
    1人の人間がが決死の覚悟で1年行ってくれるよりも、100人の人が3日間行ってくれた方がよっぽどバリエーションが高まり良いと思ったんです。
    現実に数百人が集まり増えていっています。
    人の育成については言葉は限定的で生きる雛型を見せておくといいと思っていて、人と接する時に応対、表情一つで伝わることはあってそういうことを若い人たちに伝えて行く事が一番の教育だと思います。
    医療は失敗したら人の体が壊れる命を失うので、努力が足りない人に対しては怒ったりするのは当たり前なのでしっかりやります。
    現地の医療担当者を丁寧に扱って一緒にやる事によって現地の人の心も動いて信用してくれるようになる。
    言葉があまり出来なくても時間を掛ければ伝わって行くものだと思います。

    1965年大阪の吹田市の生まれです。
    地下道に手足をなくした人が軍服を着て、暗くなると帰って来て子供の頃それを見て気持ち悪かった。
    同じころに大阪万博があり、同じ街でそういう姿があり、そこで僕は育ちました。
    1965年は中国では毛沢東の文化大革命が始まり、その後数千万人が餓死したと言われ、ベトナムではアメリカが空爆して、数年後カンボジアではポルポトが国民の1/4位殺して、韓国では80年代までが軍事政権で、飛行機で1、2時間程度の場所の差、20年程度の時間の差、人の運命は僅かな時空のずれでこんなに変わるものだと中学校のころに、はたと気が付きました。
    時間と空間のずれたポイントに僕は幸運に生まれてきて幸せだと感じて、何か世の中にしなければ申し訳ないと思いだしたのが、10代の頃でした。
    思い付いたのが医者しかなかったので医者になろうと決心しました。
    大分大学医学部に行きました。
    大学病院の医局に入ると組織の関係で抜けられなくなるので、最初から民間の救急病院に入ってしがらみから抜けることと、一日も早く技術を身につけることにしました。
    2、3日に一回は当直があり厳しかったことはあります。
    途上国に行くには産婦人科の治療が出来ないとだめなので、学ぶために鎌倉の産婦人科へ数か月ステーして、その後通いました。
    夕方まで大阪で診察して新大阪までダッシュして新幹線でいって鎌倉に午後11時ごろに着いて、寝れるのは行き帰りの新幹線の中でした。
    着いた翌日の夜8時まで産婦人科で働いて最終の新幹線に乗り帰ったら又救急病院で働きました。
    それを1年位週一回やっていました。

    ミャンマーでは20万人の日本兵が亡くなりその遺族の人による慰霊を行ってきたが、老齢化して慰霊が続けられなくなって、(1995年の時)ミャンマーで医療をして助けてほしいと彼らがWHOに相談していて、あるNGOを紹介されてそこから僕の方に連絡があってミャンマーに行かないかと相談がありました。
    若かったし一人で行きました。
    行ったところは8万人の街でした。
    政府の作った診療所を巡回診療していました。
    生まれたばかりの奇形児がほったらかしになっていたり、大やけどの子が皮膚が滅茶滅茶にくっついたまま生きているとか、日本にあるあらゆる病気があり、エイズは蔓延していたし酷い状態でした。
    自分に与えられた中で何処まで出来るのか、何処まで挑めるかだけだと思っています。
    自分の心にしたがってやってきただけです。
    究極にたどり着いた結論というのは、あらゆる苦労は自分の為にやっている、苦労から得たいろんなことが自分の為の将来の役に立ち、今も役に立っている。

    そのことが自分の中で理解出来ているから、その苦労を受け入れて生きている。
    苦労して得たものは自分の存在の尊さです。
    人は自分の事をどれほど大切に思えるか、そのためには自分がどういうものなのか理解できないといけないが、でも人間って自分の事を理解できない。
    ぼくらにとっての鏡はなにかというと世の中なんです。
    僕はやっていて、そうするとみんなが喜んでくれる、そうするとあなたは大切な人です価値ある人ですというメッセージを、直接的ではないが彼らは発信してくる訳です。
    それが僕の中に降り積もって来て、自分の事を自分が大切に出来るようになる。
    そうすると心から人の事を大切に出来るようになる。
    どんどんやればやるほど世の中の人が喜んでくれる。
    人を助けたら僕のことを助けたいと思う、僕に対して何かしたいと皆が思ってくれる。
    皆が僕を大切にしてくれるようになる、僕が得た一番のものは結果的には、自分の人生を大切にしよう大切にしようと生きていたら、世の中の皆が僕のことを大切してくれるようになった。
    これが僕が得た一番大きなものなんです。

    ジャパンハート 2004年に立ち上げましたが、僕の目から見てろくな組織がなかった。
    人の命を数量だけで数えているような人ばっかり周りにいて、医者としての生きざまにとって大切なことでこういう人達と一緒に医療をやって行ったら僕の人生がすり減るなと思ったんです。
    助からないかもしれない子にお金を掛けて働き掛けるという発想はまずないです。
    それでも家族の精神的なこと、その子が生まれてきて良かったと思ってもらえる医療があると思って実現するために作るしかないと思ったのがジャパンハートです。
    小児がんへの取り組み、治療の概念を変える、治療だけだったものに加えて家族へのメンタルなこと、経済的なことを含めてアプローチするのが医療なんだと言う形で日本社会に発信していきたいという思いがあります。
    医療の奥にある色々なものにアプローチする、それは医療者だけでは出来ないので多くの人に活動に協力して貰って、もっと大きな医療を作って行くというのが僕の目標となります。





    2018年5月9日水曜日

    渡辺達生(カメラマン)          ・心にピントを合わせる(2)

    渡辺達生(カメラマン)          ・心にピントを合わせる(2)
    還暦を過ぎてから新たな写真にチャレンジしています。

    家族は妻長男3人でしたが、長男は独立して妻とねこが8匹います。
    ねこは怒った顔を携帯で撮ってSNSに載せています。
    近くに依らなくてはいけなくて、ねこは近寄られるのが嫌いなので撮るのが難しい。
    車(古い車)とゴルフが好きです。
    ゴルフでは一番行っていた時にはハワイへは120回以上行っています。
    今は数ラウンドです。
    59歳の時に食道がんが出来て食道を全摘出しました。
    背中から切って食道を切って胃を繋いでいます。
    沢山は食べられなくなりました。
    煙草は50歳で辞めましたが遅かったです。
    酒は手術のあとに辞めましたが、3年後にちょっと試して今は以前と同じ量になりました。

    年配の方を撮るようになりました。
    最初友人から撮り始めました。
    遺影ではなく寿影としました。
    親族を撮ったりしていたがNGを喰らいました。
    自分の知っている主人とは違うと言うようなことを言われました。
    背景は白あるいは薄いグレーにしています。
    撮る時に宝物を一つだけ持ってきてほしいと言います。
    刀であったり、石であったりしました。
    それをもちながら僕と話をするんです、そうすると顔がほぐれるんです。
    緊張が随分ほぐれて良い顔をするんです。
    みんな喜びましたが、残念ながら何人かその写真を使いました。
    笑っている顔なので心配はしたが、楽しそうだといって喜んでもらいました。
    何年かやっているうちに有名な方も撮るようになりました。

    漫才師の内海桂子さん、竹中平蔵さん、川渕三郎さん、野球の江本 孟紀さん、三遊亭円楽さん、萩本欽一さんなどがいます。
    内海桂子さんはサンゴ(指輪と帯締)でした。(96歳)
    いい顔をして話してくれて凄く良かったです、エネルギーを貰いました。
    竹中平蔵さんは初めて書いた本(300ページ位)を持ってきました。
    毎日3ぺージ書くことに決めて書いてきたそうです。
    誇らしげな良い顔でした。
    三遊亭円楽さんは扇子を持ってきて一人でずーっと喋っていました。
    僕は後で扇子を買いに行きました。
    川渕三郎さんはテーブルナプキンに色んな人のサインが書いてありそれを持ってきました。
    楽天の球団の関係者、360人から730人のVサインを撮りました。(顔が判るように撮って欲しいとの要望がありました)
    その時は5分位の時間で撮りました。
    鈴木亜久里さんは家族の写真を持ってきて撮りました。(ハンドルとかヘルメットかと思ったが)
    3年ごとに更新しようと思っていて自分が元気でないと撮れないです。

    心にピントを合わせると本当に良い表情が出てくると思います。
    宝物が上手く取り持ってくれます。
    寿影は5~10分で撮ります。(300~500枚)
    ルノワールの「可愛いイレーヌ」を国立新美術館で見たが、目にピントが合っていると思った。
    ピントを何処にするかはカメラマンの意志だと思います。
    様々なところでテストで助手に撮ってもらっています。
    僕の宝物はやはりカメラです。(複数)
    最初にグラビアを撮った時のニコンFはまだ持っています。
    寿影はまだ100人満たないです。
    寿影を撮るのに移動スタジオでやって行きたいという思いがあります。















    2018年5月8日火曜日

    渡辺達生(カメラマン)          ・心にピントを合わせる(1)

    渡辺達生(カメラマン)          ・心にピントを合わせる(1)
    69歳、独学で写真を学び篠山紀信さんと並び称されるグラビアカメラマンとなりました。
    これまで40年間に4000人以上のモデルを撮影、これまでに出版した写真集は230冊を越えます。
    女性グラビアの巨匠と言われるまでになった足跡を訪ね撮影の苦労、エピソードなどを伺います。

    写真は親爺がカメラを何台か持っていたので小学校のころから気になっていました。
    生まれは山梨県で、8歳の終わりごろまでいました。
    父の転勤で代官山の社宅にきました。
    事務所も麻布などに行きましたが、こっちに戻ってきてしまいました。
    大学は成蹊の経済学部に籍を置きました。
    高校に行く頃には写真に自信がありましたが、親爺の意向もあり成蹊大学に行くことにしました。
    大学の3年の終わりごろ映画が好きな人がいて、現場を手伝いに来るように言われて、演出家に紹介されて週刊サンケイに知り合いがいるからということで行きました。
    週刊サンケイの写真部の暗室で現像する仕事をしました。
    直ぐ先輩に色々聞いてその繰り返しで覚えて行きました。
    篠山紀信さんが好きでした。
    『GORO』という雑誌の編集部に移って仕事をしている時に、篠山さんのゲラ刷りを貰って研究しまくりました。

    機械の操作だけは一杯やらないとだめです。
    どのレンズを使ったらいいかとか、常に考えています。(野球で言うと素振り、キャッチボールに相当します)
    何処から何処まで区切って撮るか、常に訓練しています。
    カメラを向けて1対1で撮ろうとする時に、お互いが知らないとちょっと気まずいし厭なのでお互いが喋って、友達になってからでないと厭だと思っています。
    褒めること、貶すのも一つです。(ただただ褒めても駄目)
    メーク中などに顔の形を物凄く見ていて特徴を見つけます。
    また撮って欲しいと言う人が結構いて、小野真弓さんは6冊(1冊100ページ)撮りました。

    40年間でモデルを4000人以上撮りました、230冊になりました。
    雑誌の表紙は1枚ですが、10分位で400から500枚撮りその中から一枚を選びますから、それを考えるとかなりな枚数になります。
    海外にいって500~600本とってX線から保護してテスト現像するが、大丈夫かどうかその時は怖いです。
    デジタルで今は自分でもモデルさんも見る事が出来るが、緊張感がなくなると言うこともあり良い面、悪い面もあります。
    武田久美子さんの貝殻のビキニは30万部を越えました。
    残念ながら僕のアイデアではなかった。
    彼女が貝殻で水着を作ったら面白んじゃないかということで作りました。

    川島なお美さんの写真集は50~60万部になりました。
    最近はネットで、なんで本の手触りを感じないのかなあと思います。
    15歳の片平なぎささんの水着のページを作ったのですが鮮烈に残っています。
    広告で宮沢りえさんと後藤久美子さんの写真を撮りましたが 12歳の時に2人で一画面を撮りましたが、可愛かったです。
    グアムで斎藤慶子さんを撮りましたが、それも記憶に残っています。
    人里離れたビーチに行ったりするとチームとの一体感が出てきたりして楽しいです。
    鈴木優華さんの笑顔が好きです、会うとまず笑うんです。

    美空ひばりさんの「河の流れのように」のジャケットを撮りました。
    レコードが出て直ぐに亡くなりました。
    良い表情を撮ることが出来ました。
    石川さゆりさん、山下久美子さんなどなども。
    グラビアはちょっとしたニュースだと思います。
    10,20年たった時にこの時私はこんなことをやっていたと、思いだしたりできる様なそんなつもりでもやっています。
    どうやって撮っているのか、ほんとうは見てほしいとは思いますが。
    弟子は24人ぐらいいます。
    撮影現場はお祭りみたいに大騒ぎです。
    最後には必ず笑顔でピースサインを撮ります。









    2018年5月7日月曜日

    本郷和人(東京大学史料編纂所教授)    ・【近代日本150年 明治の群像】大隈重信

    本郷和人(東京大学史料編纂所教授)    ・【近代日本150年 明治の群像】大隈重信
    講談師 神田蘭

    講談による紹介
    天保9年(1838年)2月 佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。
    7歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色である『葉隠』に基づく儒教教育を受けるが、これに反発し、退学させられる。
    その後自分の意志で国学、蘭学、英語を学び、弘道館の教授として働くようになる。
    アメリカの独立宣言に大きな影響を受けて政治家になる事を決意、討幕を目指して脱藩する。
    やがて討幕がかない明治新政府でもって近代日本の基礎を作って行くわけですが,政治家として重信は二度内閣総理大臣を務め教育者としては早稲田大学を創立し、佐賀七賢人の一人に数えられ数々の偉業を成し遂げる。
    明治14年では挫折を味わい、爆弾にみまわれ右足を無くし、離婚を経験、それでもめげず前へと進む精神力、何故そんな精神力をもてたのか、それには母親三井子の教えが根本にあったと言われます。
    重信が幼い頃、親戚の子供達と共に虫取りに出かけたが、籠を持つ係を押し付けられるが、捕まえたセミを逃してしまってばかり。
    親せきの子供達からうすのろとののしられ、泣かされてばかりいたそうです。
    泣いて帰って来る重信に母親は、男は泣くんじゃないとは言わずに、温かい目でいつも見守っていたと言います。
    12歳の時に父親が他界、その後母親は5人の子供を育て上げて行く。
    母親が子供達に常々言っていた教えが5つあるそうです。
    ①喧嘩をしてはいけません。
    ②人をいじめてはいけません。
    ③いつも先を見て進みなさい。
    ④過ぎたことをくよくよ振り返ってはいけません。
    ⑤人が困っていたら助けなさい。

    重信は生前母のことを、「吾輩は母一人の手で育てられたが、15,6歳の頃は乱暴者で餓鬼大将のようであった。 友人が遊びに来たが、母はたいそう友人が訪ねてくることを非常に喜んで手料理をこしらえて馳走してくれた。」言っている。
    晩年の重信は自分の家に人が尋ねてくることを非常に好んだと言われる。
    毎日20~70人が大隈邸を訪れていたとか。
    母親三井子の影響があると思われる。

    重信は砲術師の家300石の上士の家に生まれる。(年収2000万円は軽く超えている)
    『葉隠』は佐賀の武士の精神のよりどころだった。
    この時代はオランダ語が多く学ばれるが英語を学んでいるということは先見の明がある。
    佐賀藩校英学塾「致遠館」で教授フルベッキに英語を学んだ。
    副島種臣と共に重信は助教授となって指導に当たった。
    副島種臣は書家としても有名。
    大隈は貿易、財政でも頭角を現す。
    外交が得意で財政面でも抜きん出ていた。
    キリスト教の弾圧に関して英国公使パークス(傲慢高圧な人)、と交渉することになるが大隈が総大将になり対峙した。
    パークスが大隈のような下級な人間とは相手にできないと言った時に、「あなたもイギリス国王を戴いてここにいるのなら、私は天皇を戴いて全権として対峙している。
    それがいやだったら談判は無し」と言ったら、困って交渉せざるを得なくなった。
    ヨーロッパのこと、キリスト教のこと、法律の体系を知っていたのでパークスは吃驚してしまった。

    誰もがこいつは出来ると言うことが判って明治新政府でも要職についてゆくことになる。
    明治政府で彼がやったのは財政畑で、税金をどう取るかということで辣腕をふるった。
    財政のトップになり殖産興業政策を推進した。
    明治10年西南戦争がおこり、明治14年には政変が起きる。
    大久保利通が暗殺され、だれが継ぐのかいうと伊藤博文、大隈重信がいた。
    日本の政治をどういう形にするかと言った時に、政党による政治、憲法を作り憲法により政治を動かしてゆく、そういったことを整備する必要が有った。
    岩倉具視は保守で政党政治を否定、伊藤博文は政党政治は必要だがゆっくりやっていこうという考え、大隈重信は欧米を見ても政党政治をやるのが本筋なので早く議会を開かなくてはいけないという立場だった。
    岩倉と伊藤が手を組んで大隈は失脚すると言うことになる。(「明治14年の政変」)
    伊藤と大隈は終生ライバルということになって行く。
    明治15年 大隈は立憲改進党を結成、総理に就任、東京専門学校(現早稲田大学)を開設。

    明治21年 大隈が外務大臣に就任、大隈の外交手腕を評価する伊藤は、不平等条約改正のため、政敵である大隈を外務大臣として選ぶ。
    明治22年に国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃(大隈重信遭難事件)を受け、右脚を切断するとともに辞職した。
    条約改正を成し遂げる一つの方法として外国人を裁判官として任用する、そうすれば外国も日本を信用してくれるだろうという思惑だった。
    売国奴だと言うことで爆弾を投げつけることになる。
    順天堂医院院長の佐藤進、ドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツらによって右脚の切断手術が行われた。
    犯人のことを馬鹿な奴だとか一切言わなかったということでした。
    明治23年第一回衆議院選挙、帝国議会が召集される。
    議会と藩閥(薩長)との戦いが繰り広げられてゆく。
    明治31年板垣退助などと憲政党を結成、第一次大隈内閣が成立。(薩長以外で始めて内閣を組織 「隈板内閣」)

    明治40年 いったん政界を引退し、早稲田大学総長への就任。
    明治42年 伊藤博文はハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家・安重根によって射殺された。
    大隈は「あいつらしい死に方をしやがった」と言って、ワンワン泣いたそうです。
    明治45年 天皇崩御。
    大正3年 第二次大隈内閣成立。  第一次世界大戦勃発。
    大正5年 第二次大隈内閣解散。
    大正11年に亡くなる。
    日比谷公園で未曾有の「国民葬」が催され、式には約30万人の一般市民が参列。




    2018年5月6日日曜日

    加藤みどり(声優)             ・【時代を創った声】加藤みどり(2)

    加藤みどり(声優)       ・【時代を創った声】加藤みどり(2)
    サザエさん役を演じ続けて来年は50年を迎えます。
    加藤さんがサザエさん役を務め始めてからの出来事や趣味の競馬を仕事にしてからの苦労などについて伺います。

    サザエさんは1969年放送開始、来年で50年。
    オーディションに行って男役かと思っていたらサザエさん役でした。
    その時に来て居たディレクターが見ていて、物凄く明るいということが気にいったようです。
    そそっかしいけど馬鹿ではない、明るいけどなんとかではない、サザエさんになる条件がいくつかあるらしくて、あれでいいということになったらしいんです。
    私自身、そそっかしいです。
    私が一番年下でキャリアも少なくて、スタジオでは緊張していました。
    周りは全部押さえてあるから安心するように言われました。
    余計なことを考えなかったのが結果として良かったと思います。
    2代目のカツオの高橋和枝さんになった時に、先輩ですし可愛がってくれて、どうやっても受けてくれて凄くやりやすかったです。
    サザエさん役を受けた時に他のアニメーションはやってはいけないと言われましたが、よく判りません。
    役をやる上で明るくて素直さは大事ですよと言われました。
    他のアニメには出たいとは思わなかった。

    競馬の放送番組は厳しくて、放送は必ず自分で裏を取って来るように言われて、許諾を得
    たものしか話してはいけないということで、確約をとる為に取材にゆくので、放送する為の必要な勉強が足で歩いてやって、騎手、厩舎、調教師、牧場、中央競馬界の全体のシステム 全部一つ一つ回って色々判ってくるのに20年かかっています。
    朝4時半に起きて調教を見て、木曜日午後はサザエさんの放送、土、日は競馬があり、自分で全部資料を作ります。
    徹底的に教育されましたが、面白かった。
    ゲスト的な立場で番組には出ていましたが、そこまで勉強しないと出してもらえなかった。
    一生懸命やる人間に対しては支えてくれました。
    競馬は今では文化としてのスポーツになって来ています。
    牧場にたんぽぽの花が咲き、木が生え、牧場は生命を作る場所なので、物凄く感動することが沢山あります。
    良い人と良い馬がいれば必ず感動する良い話がいっぱいあります、だからやめられない。

    周りの人がいてくれてサザエなんだと思います。
    製作する人間、そういう人達のお陰でここまで来ているので、そういう人達の感謝は絶対忘れてはいけないと思います。
    始まったときは私が一番下だったので我儘は通ったが、今は上の方になっているので、我儘は言えない、私は皆に気を使わないので皆が気を使ってと言いました。
    若い声優の人たちには「自分たちで頑張んなさい」、ということと、ガラスの後ろにいる人達に帰る時に「ありがとうございました」というようにそれが礼儀だよと云うんですが、言わない。
    逆にそういうことが出来る子はどんどん伸びて行く偉くなってゆく。
    大切なのは礼儀ですよ。
    オンエアを見ることです。
    結果が出ない努力は努力ではない、方向が違う。
    皆がやっている時にはスタジオからは絶対でなかったが、スタジオを出て行ってしまって人の演技を見ない、身になると思うが。
    夢を追いかけて行く為には努力と良い先輩を持つこと。
    遊びの中からは良い仕事は出てこないが、良い仕事の中からは必ず良い遊びが出てくる。
    人間関係が大事だと思います。
    上手くいかない場合が6割は自分にある、後の4割は典型的に合わない人がいる、それは割り切る。
    何かして貰ったら「有難う」と感謝の言葉をいう、それが言える生活が健康で長生きが出来る。







    2018年5月5日土曜日

    樋田毅(ジャーナリスト)          ・銃に倒れど、ペンは折らせず

    樋田毅(ジャーナリスト)          ・銃に倒れど、ペンは折らせず
    元朝日新聞の記者、昭和53年に入社、高知支局から兵庫県西宮市の阪神支局、大阪などで勤務、今日年退職して現在はフリーのジャーナリストとして活動しています。
    31年前1987年の5月3日に起きた朝日新聞阪神支局襲撃事件、樋田さんは後輩の記者を亡くしながらも取材班のキャップとして長年にわたって取材の最前線に立ちつづけました。
    事件は16年前に時効を迎えました。
    しかし樋田さんは事件の取材を続け、記事や本の執筆、講演などを続けています。

    お墓参りは5月3日の前に行って事件解決の誓いをします。
    朝日新聞は辞めたので家族と一緒に冥福を祈りたいと思います。
    事件は31年前1987年の5月3日の夜に起きる。
    朝日新聞阪神支局に目だし帽をかぶった男が無言で散弾銃を発砲。
    当時29歳だった小尻知博記者が殺害され、犬飼兵衛記者が右手薬指と小指を失う重症を負いました。
    最初の事件の後、赤報隊と名乗る犯行声明文が送られて、その後名古屋にある朝日新聞の関連施設での発砲事件や静岡支局の爆破未遂事件などが相次いで、広域重要116号事件に指定して捜査を行ってきたが、朝日新聞阪神支局襲撃事件は平成14年に時効を迎えて、他の事件も平成15年に全て時効となる。
    この事件への怒り、何としても犯人にたどり着きたいと言うのが一番大きいです。
    御両親にも犯人を必ず見つけ出すという事を約束しましたが、ご両親は亡くなられてしまいました。
    いまも取材をしています。
    言論の自由を全く無視した行為を赤報隊はしてきたこれは許せない行為だと思います。

    1952年4月愛知県生まれ、早稲田大学に進む。
    小さいころからおぼろげにジャーナリストになりたいと思っていて、大学時代には学生運動が盛んでした。
    新しい自治会を作ろうという運動をして私は新しい自治会の委員長をしていました。
    世の中の推移を眺め観察する新聞記者の役割をみて新聞記者になろうと思いました。
    面接の時に「何のために新聞記者になりたいのか」と問われて、「社会正義の実現の為です」と答えました。
    1978年に朝日新聞に入社。
    入社6年目、1983年に兵庫県のある市で公金横領事件があった。
    情報に基づいて本人に会いに行ったら、事実を認めた。
    その経緯を記事にした数日後、市役所の職員が自殺をした。
    その元は私の記事なので家に電話をしたら、奥さんが出て「あなたのことを一生恨みます」と言われて、ショックだった。
    記事に書くけれども字にするということは色んなものを背負うことでもあり、新聞記者として責任もあり重い仕事だと改めて自覚しました。

    その後大阪の社会部に異動、35歳の時に阪神支局襲撃事件が発生する。
    5月3日に休暇をとって夜くつろいでいた時に、TVのニュースで小尻知博記者が撃たれたということで、電話をしても通じなくて深夜に電話ががり、翌早朝来るように言われました。
    小尻知博記者は家族思いの誠実な良い記者だったと思います。
    赤報隊から犯行声明文が出される。
    朝日新聞、戦後の色んなものに対する敵意を感じました。
    声明文には怒り感じました。
    徹底的にこちらも身構えて赤報隊の正体を突き止める、犯行声明を見ながらこう思いました。
    最初2週間は朝から晩まで近辺の施設などの聞き込み調査をしました。
    その後特命取材班に入って、デスクからこれからは「君たちは原稿は書くな、犯人を追いかけろ、とにかく犯人を捕まえてこい、それがお前たちの仕事だ」と言われました。
    右翼取材をしようという事で、勉強したり取材をしてきました。
    記者なのに警察と同じことをしてきました。
    記事を書けないということは大きなストレスでした。

    事件の被害者であり、取材者であるという意味では他社から抜かれる様なことがあってはならなかった。
    被害者として捜査に協力するがどこまで協力するか、取材源の秘匿と言うことも大事なことで、捜査機関に伝えることでどんなことが起きるのか、言論の自由が補償されなくなる可能性もある、一方は権力機関なので、どこで折り合いをつけるのかということが大事です。
    取材をして行くとこのあたりが犯人ではないかと段々に浮かび上がって来るが、捜査機関なのではないので我々は白黒を付けることはできない。
    色々思い悩むことだらけでした。
    特命取材班にいた時も、事件が時効になって一人で取材をした時の色んな人に会いますが、事件が解決するかもしれないと考えながら、もし真犯人であればどんな原稿を書こうかと思って会いますが、犯人とは決めつけられないというふうにがっかりしてしまう結果が多かった。
    結果としては犯人像にはたどり着けずに30年以上過ぎてしまいました。

    時効を迎えてしまったが忸怩たる思いが浮かび上がってきます。
    そのことをご遺族の御両親に報告しました。
    朝日新聞のコメントとして、我々には時効はない、言論機関へのテロは認められないという思いは、時効によって変わることはない、ということでした。
    昨年の12月に朝日新聞を退職した後も取材活動をしています。
    自由な立ち場として取材の経緯を振り返る本を書きたいと言うふうに思っていて、2月の末に出すことが出来ました。
    この本をきっかけに新たな情報もあり、これから時間をかけてゆっくりやって行きたいと思います。
    右翼の人達とは300人は会っていると思います。
    右翼の人にとって、右翼の人は赤報隊を支持すると言うことは言われました。
    意見の違いに対して、殺してもいいという赤報隊の考えは我々は認められない。
    天誅は右翼の人にとって大事な考え方だと言うことは、私は認められませんとはっきり言って事件の解決に向けてご協力して下さいというやりとりをして、右翼の取材を続けて来ました。
    いったいこの事件はどうして起きたのか、この事件は何だったのか、という大きな謎があってこれを何としても解決していきたい、赤報隊との戦い、ギブアップしてはいけないことだと思います。

    赤報隊は単なる殺人グループなのか、思想グループなのかと問いたい。
    思想グループであるのならば名乗り出て何故あの事件を起こしたのか、何故小尻知博記者を殺害したのかしっかり語って欲しい。
    時効から15,6年たっているので、名乗り出ても刑事責任はないので語って欲しい。
    あの事件が未解決になっている中、ネットなどでは朝日新聞が又跋扈(ばっこ)してきているので赤報隊にお出まし願おうか、というような危険な言葉がネットなどで飛び交う中、大変な時代になっているかもしれないと思います。
    言論の自由を、テロが二度と起きない様な、私も一記者に戻ってそのために貢献したいと思っています。







    2018年5月4日金曜日

    沖藤典子(ノンフィクション作家)      ・老いてこそ冒険

    沖藤典子(ノンフィクション作家)      ・老いてこそ冒険
    昭和13年北海道の出身、北海道大学を卒業後、市場調査機関に勤務しキャリアを重ねましたが、夫の転勤や親の介護に直面し、退職を余儀なくされます。
    昭和54年自身の体験を纏めた「女が職場を去る日」はベストセラーとなりました。
    以来、結婚、子育て、介護といった女性を取り巻く様々な問題をテーマに執筆、講演を続けています。

    子供の頃山羊の小屋を見に行って、その時のドキドキした感じを私は冒険と言わせてもらっています。
    わくわくする心を大事にしたいと言う思いがあります。
    高校2年の時に世界史を習って本当にびっくりしました。
    生涯に3つの冒険をしようと思いました。
    ①エジプトのピラミッド、②中国の万里の長城、③アメリカのエンパイアステートビル、を見る。(高校生の時の思い)
    40年かけて達成しました。
    78歳の時にネパールに行く機会があり、ヒマラヤを見物しようと計画しました。
    高山病に掛かったりして家に帰って来てもう直ぐの処でひっくり返って救急車で運ばれ入院しました。(骨折して12日間入院)
    「命短し無理せよ老婆」というスローガンを立てて実行したが「命短し転ぶな老婆」といましめています。

    旅行のパンフレットを集めるのが好きです、行ったつもりになっています。
    なるべく自分で自分を励ますと言うことをしないと老いは楽しくないです。
    「女が職場を去る日」ドラマにもなる。
    父ががんを発病して仕事、子育て、介護で苦しみました。(40年前)
    これから高齢者社会が来ると、必ず年寄りのお世話の問題が出てくると思って勉強しようと思って、
    特別養護老人ホームに1年間行きました。
    介護の問題は愛情も大事だけれど専門的な知識、技術が無いと年寄りがかわいそうだと思いました。
    社会的なスキルを蓄積する制度が必要だと思いました。
    今は介護保険になっていろいろ議論もあるが、経済的条件で社会的な介護が受けられるよりも、本人の必要性に応じて受けられる今の介護の方が人の理にかなっていると思います。
    見る側の家族の方がどんどん年齢が高くなってきている。
    私も経験しましたが、老いたる妻の夫への介護も大変だなと思いました。

    良妻押し付けは世の中に多いですね。
    心の葛藤を全部良妻と言う言葉で押しつぶされる。
    出来るだけのことをしようと思っているが、自分自身が老いて疲れ果ててしまって私が先に倒れたらどうしようと思ってしまうわけです。
    11か月入院して家に帰って来た時には嬉しかったが、22日目に心不全で亡くなりました。
    夫の転勤は当時は単身赴任ということはなくて、私は会社を辞めて一緒に行きました。
    本を書いた時には400枚の原稿を20日で書いています、一日20枚書いて胸の中にたぎる思いを吐き出す思いで、それがエネルギーになるんですね。
    色々過去のことを思い出すが、この歳になるとあれだけ泣き叫んだこととか怒ったこととかが全部綺麗な思い出になってるんです、不思議ですね人間の心って。
    老いというものは心をまろやかにしてくれる部分があるのではないかと思います。
    子供も独立して現在は一人で暮らして3年になります。
    老いの時期というのは神様は与えてくれた解放の時期だとしみじみ思います、大切に生きたいと思っています。

    趣味をいくつかやっています。
    「共同参画市民スタデー21」男性女性地域の人達が皆で集まれるような会を作って16年になります。
    その人たちとお付きあいをしているのがとっても楽しいです。
    勤トレのジムにも通っています。(去年の12月から 79歳)
    筋肉が付いてきて階段の上り下りは平気です。
    口の筋肉が衰えると発音が悪くなる。
    独身で男性の高齢者は喋ることが少ないので、口の筋肉が衰えるので問題になっている。
    口の筋肉を鍛えるにはコーラス、朗読もいい。
    女性が長生きするのはお喋りで笑うからだと本当にそう思っています。
    朗読型の「平家物語」もやっています。
    俳句もやっています。
    大勢の中に自分の身を置くと、人様の発するエネルギーみたいなものが身体の中に入って来る。

    一か月に一回はピーっとしたおしゃれをするのがいいと思います。
    孤独は豊かな孤独はあるが、孤立は良くない。
    キーワード「他人様幸せ」他人様によって幸せを得る。
    何かあった時に近所の人たちが良くしてくれる。
    有るがままの自分で有るがままの日々を過ごしていこうと思っています。
    図書館が近いので良く行きます。
    日々冒険です。
    今の80代は昔の70代の体力を持っていると医師が言っていますが、年齢で一括りにするということはしないようにしています、私は私。
    夢手帳、自分がやりたいこと行きたいことを書いておくとかが、大事です。
    詩吟をやろうかと10年悩んでいます。(躊躇することもあります)
    自分を「機嫌よく、元気良くさせる」、そのためにはちょっとした冒険をする。
    楽天的であるということは大事で、余りくよくよ考えない、しかし用心も必要。
    80代で見るべきものを3つ考えていて、体力気力と相談して達成しようと思います。

















    2018年5月3日木曜日

    奥山景布子(作家)             ・尾張から日本の未来を見据えた男

    奥山景布子(作家)             ・尾張から日本の未来を見据えた男
    1966年愛知県生まれ、名古屋大学大学院博士課程を修了後、教員などを経て創作を始めます。
    2007年、戦に敗れた平家に仕えていた女性の悲哀を描いた、「平家蟹異聞」でオール読物新人賞を受賞、デビュー後も名古屋で執筆を続け、最近では子供向け歴史小説なども手掛けています。
    去年12月には幕末の尾張藩主徳川 慶勝と3人の弟を描いた長編小説「葵の残葉」を発表しました。

    本ばかり読んで人と付き合うのが苦手な子供時代でした。
    父の工場のダンボールの中に入って本を与えられて、本を読んでいたりしました。
    (幼稚園から小学校1,2年の頃)
    一人で過ごさなくてはいけないので、大きな音の中で本を読んでいました。
    伝記(紫式部、ヘレン・ケラーなど)多く読んでいました。
    東京に身を置くよりも、地方都市に身おく方がプラスな面もあるので、何の疑問をもったこともないです。
    名古屋に居たから書けたというのが「葵の残葉」。
    尾張徳川家14代の藩主徳川慶勝(よしかつ)と3人の弟を描いた長編歴史小説。
    尾張藩の傍系である高須松平家に生まれる。
    徳川慶勝の3人の弟は徳川慶勝の次に尾張藩主となる徳川茂徳(もちなが)、会津藩主の松平容保(かたもり)、桑名藩主の松平 定敬(さだあき)、この兄弟。
    「葵の残葉」は幕末敵味方として戦うことになってしまう4兄弟を描いた長篇小説。

    徳川慶勝公は幕末のキーパーソンですが知名度が低い。(地元でも)
    初代尾張藩主徳川義直(とくがわよしなお)徳川家康の9男。
    官軍が江戸まで行く間にかなりの距離時間がある筈で、易々と進軍出来たのかおかしいと思う。
    徳川系の藩が攻撃もしないで通してしまったのか、実はそれに深くかかわったのが尾張家で、そこについては何にも出てこない。
    豊臣方の進攻、本来西からの備えに対して抵抗すべき人々が配置されているはずなのに、官軍がやすやすと突破できたのは尾張徳川家、徳川慶勝公の存在が凄く重要であるが、何故今まで語られなかったのか是非知ってほしいと思います。
    戊辰戦争は会津ではなくて尾張だったかもしれないし、日本が二つに割れてとか、そこに外国が付け込んできてとか、今の日本はなかったかもしれないと思います。

    尾張藩の歴代藩主が主に政務をとっていたのは二の丸御殿でした。(現在はない)
    尾張勤皇青松葉事件遺跡という石碑が建っています。
    朝廷を中心にした新しい政治の動きがあり、一方で幕府が政治をするものだという考えもあり、尾張がどちらに付くのか気にしていた。
    徳川慶勝公がその選択をするのに家中の幕府方に近い考えの藩士を処刑したり、蟄居謹慎とか厳しい処分を課したりしたのが、青松葉事件です。
    犠牲があったお陰で戦場にならずに済んだし、東海道、中山道沿いが戦場にならなかったのはこの事件があったからこそだと思います。
    14人の死者があったことを美的に語るのではなくて、有ったことを忘れないでほしい。

    鳥羽伏見の戦いで新政府軍が圧勝して、慶喜が逃げてしまうが、京都にいた慶勝公の立場が悪くなる。
    慶勝公と松平春嶽(容保)はそれまでは慶喜公と朝廷できちっと話をさせようとして、出来るだけ戦わないで、朝廷と幕府での新しい体制を作るのに参加して欲しいと言う動きをしていた。
    逃げてしまったのでいっぺんに立場が悪くなってしまった。
    朝廷方から忠誓を誓うことを見せろと言うことで家臣を粛清しなければいけなくなった。
    岩倉具視から京都から帰って幕府側に付くのなら勝手にどうぞ位に云われたようで、後から助けを求められても知らないよ、と冷たく言われてあえて戦うことをしなかった。
    慶勝公は新しい物事が好きで、西洋事情にも明るい方だったようで内戦をしていたら西洋列強に日本が分割されてしまうかもしれないという危機感を持っていて、あえて泣いて徳川方を切って、新しい体制に尾張方が参加する方を選んだということだった。
    慶勝公は写真が好きで自画像なども撮ったり、名古屋城の写真なども撮っている。
    現像液を含め写真に関するいろいろな研究もしていた。
    兄弟の写真も全部残っている。

    長州の征討に慶勝公は出かけるが、出来れば丸く収めようとしていたものと思われる。
    長州は3人の家老の首を差し出して戦争にはいたらなかった。
    慶勝公は今は内戦をしている場合ではないと、確固立たる信念のもとに戦いを行わなかったと私は思います。
    明治11年に兄弟4人で写っている写真を見た時に興味を持ちました。
    調べれば調べるほどスケールが大きくなりました。
    膨大な資料の中からどれを取るかということを考えなくてはいけなくて、何処まで捨てて書き切るかというふうに収斂していきました。
    第一次長征の時には西郷が参謀を務めたが、西郷さんの写真を撮っていたら面白かったなあと思いますが。(対面シーンを想像して小説には書きました)
    大きな声の方に耳を傾けがちですが、黙って全て自分の中に収めて退場してしまう人が中にはいますが、そういう人達が実はどんなことを考えていて、物事を考える時間をどう過ごしたのか、もう一回注目して人間を観察する必要があるかもしれません。


       


















    2018年5月2日水曜日

    今泉今右衛門(人間国宝 陶芸家)      ・時代に挑み、時代に残す

    今泉今右衛門(人間国宝 陶芸家)      ・時代に挑み、時代に残す
    55歳、江戸時代佐賀藩の御用窯で焼かれていた色絵磁器の技法を受け継いでいる家元に生まれました。
    同じく人間国宝だった13代今泉今右衛門のもとで学び2002年に14代今泉今右衛門を襲名しました。
    墨はじきという技法などを駆使し父親が切り開いた表現をさらに進化させました。
    2014年に陶芸家としては史上最年少51歳で人間国宝に認定されています。
    今泉さんは有田400年の歴史は常に時代に挑み続け何かを残してきたと語ります。
    今泉さんが時代にどの様に挑み何を残そうとしているのか伺いました。

    それぞれの仕事を分業でして行っています、江戸時代からやってきています。
    陶器と磁器、一番判りやすいのは原料が陶器は粘土、土で、磁器の場合は石です。
    白い石を細かく砕いて水の中を通して粘土を作って行く。
    磁器の石が400年ほど前に有田の地で見つかって、日本における磁器の発祥の地になったわけです。
    色絵磁器、表面にガラス質の釉薬があるが、その下にある染付の藍の色、釉薬の上に赤緑、黄色などの綺麗な色柄が施されていてこれを色絵磁器と言います。
    鍋島藩の御用窯として作られた焼き物、その中でも特に色絵が付いたものが当時凄く賞美られたことによって、鍋島の焼き物を総称して色絵鍋島といいます。
     
    まず生地を作る仕事があります、ろくろでつくってそれを削り上げて生地を作って行く。
    その表面を拭き上げて行く、水拭きという仕事があります。
    それを素焼きの窯に入れてその後下絵、(通常染付と言う)青い色の線描きをしてその後面を塗りますが、線描きと面を塗る人も違います。
    釉薬をかけて本窯で焼きますが、釉薬をかける人、窯焚きさんも違います。
    その後に本窯から上がってきたものの上に、色絵付けの赤、面それぞれが分業していきます。
    それぞれが高い特殊な技術を要するので一人の人間では出来にくい、分業する事によってスペシャリストの仕事を併せて出来る仕事で、分業でしかできない仕事が大切。

    文様のデザインの形を一つ一つ新しいものを決めて行くことは代々の今右衛門がしてきました。
    自分で全てを作り上げるのではなく職人さんに手伝ってもらうこともあります。
    人間の手で書いてゆくと均一な線を描いていこうとして、雪の結晶など60度の角度で書いてゆくが、人間の書くものだと微妙に違ってきます。
    コンピューターではきっちり書くことが出来るが、何か温かみが無い。
    微妙な違い、揺らぎが美しいのではないかと思います。
    人間の手で出る来るものの良さが出てこその手で作る意味だと思うので、これから凄く重要になって来る時代だと思います。
    書いてゆく時間をかけることによって、時間がその人の考え方価値観を作り出してゆく、その違いはあると思っています。

    13代今泉今右衛門の次男として生まれる。
    小さいころから色々な物を作ることが好きでした。
    大学は工芸工業デザイン学科、立体を作るデザインの方です。
    卒業後陶芸とは関係にないインテリアの会社に3年間いました。
    最初営業、宣伝などをして、その後憧れをもっていた京都の鈴木治先生(戦後の日本陶芸を代表する陶芸家の一人、陶芸による新しい造形表現を目指して前衛陶芸家集団「走泥社」を結成)の所に修行に行きたいと思って父と一緒にお願いに行きました。
    週に3日行って、現代彫刻をしていたので小さな模型を持って行くと「我々がしているのは陶芸なんやで」と言われたが当時理解できなかった。
    その後有田に帰って来て仕事をして行く段階で、陶芸は彫刻とは違って、新しい形状であっても彫刻ではなくて陶芸であることの大切さ、陶芸、工芸の一番大切なところを判っていながら現代陶芸をされたんだと後になって判りました。
    色々言われたが判らなかったことが、家に帰って仕事をして行く段階であの言葉はこういうふうな言葉だったのかと後で色々判りました。

    27歳の時に有田に戻ってきました。
    周りはどんどん作品を作って発表していたので焦り不安は感じました。
    家の仕事の手伝いをしながらやっていましたが、父はこうしろとはあまり言わない人でした。
    父とは11年間一緒に仕事をしていましたが、雑談しながら美術のことなど話していました。
    或る時父の代わりに取材の話があり、「焼き物を作る上で大切なものは何ですか」と父に聞いたら、自分としては文様のリズミカルなところとか言いだすのかと思ったら、父は一言「人間性だよ」と言って、人間性が全て出てるものであるし、大切なことであると、11年間父は人間性を伝えたかったのだと思います。

    有田に帰って来てから数年経った頃、或る人から手紙をいただきました。
    自分は11代今右衛門をお世話したと、お世話したから花瓶を送ってくれと言うことで、父は花瓶を送ります。
    半年後、親戚が花瓶を持っていったので、先祖の供養にもう一度花瓶を送ってほしいとの事でした。
    父はそうかと言って送るんです、また半年して火事になったので又送ってくれと言われて周りは騙されているから送らない方がいいと言ったが、父は祖先がお世話になったのは事実かもしれない、誠意を持って接すれば人はだましきれないと言って、手紙も書いて送ったりしていたら、或る時から刑務所から手紙が来るようになって、父は手紙を返信する。
    その人が刑務所から出る時に逢いたいと言うことで、逢いに来て今までは自分は人様に顔向けできることはしてなかったが、今右衛門さんのお陰で真人間になれるかもしれないということでその場で号泣して帰って行かれました。
    父は人間性と言うことを大切に、地で生きていった人だったと思います。
    父は色鍋島の様な厳格なきちっとしたところが好きではなくて、ざっくりとした土物くさいうぶな感じが好きでした。
     吹 墨 (ふきずみ)という技法を鍋島の世界に取り入れて、全面に絵の具を吹きかける、グレーの絵の具を吹きかける、新しい世界を確立していった。
    最初は賛否両論あったが、信念を持っていく中で伝統工芸展で賞をいただいたり、日本陶芸展で受賞したりして自信を深めて行きました。

    2001年父が亡くなりましたが、その前に14代をどうするかお前たちで決めろと言われて、兄は商売をするから作る方は弟に任せると言うことになりました。
    90歳まで生きていけるほど元気だった父が75歳で亡くなり、維持できるかという不安が大きかった。
    墨はじきという江戸時代からの技法があるが、それを一つの柱にしようと言うことで色々試験をしながら仕事を始めて行きました。
    白抜きの線描きの技法で書道の墨で文様を描いてゆく。
    墨で描いた上に絵の具を載せて一度素焼きの窯に入れると、炭が燃えてなくなって白抜きの線が浮き出でくると言う染色の郎闋染と全く一緒の技法が江戸時代からありました。
    その技法に魅力を感じて取り掛かっていました。
    昔の物を見ていったら、波の部分の白の部分に筆の打ち込みがある。
    文様の背景に使われている。(人が気付かないような部分に繊細な技法が施されている)
    色鍋島は品格の高いものが作られるが、品格はその人の人間性とかがにじみ出るものなので、意識するものではないと思っていたが、出来上がった時に人が気付かない様な所にまで手間暇をかけるので分業と言う仕事でしかできないが、そういうことの積み重ねが品格に繋がるのではないかと思います。

    墨はじきを取り入れたことで何が進化したのか判らないが、自分の中で墨はじきを取り入れて行くことで墨はじきに気づいてゆく、それが大切だと思っています。
    「伝統は相続できない」、とよく父が言っていましたが仕事をする中で自分で気が付いて何かを積み上げて行くものであるというふうに思いました。
    プラチナと言う技法、金属の光に対するあこがれが自分の中にありまして、最初銀を使っていたが黒くなってゆく途中が汚くて、仕方なくプラチナを使いました。
    見え方が全然違って新しい雰囲気を編み出すことが出来ました。
    輝き、周りの色を取り込み、見る角度によって見え方が違う。
    感動する思いさえあれば思っていたことが出来るのではないかと、学生の時に感動した雪の結晶の第一印象、ずーっと思っているとどこかで仕事と思いが結びつくことがあるのではないかと思います。
    伝統は参考として写真とか数字とかはなければいけないが、それにとらわれてはいけない。
    時代に挑みつつ結果的に何か残って居ると言うことの大切さが陶芸の中にあるのではないかと思います。
    常に時代に挑んでゆく姿勢が必要だと思います。


















    2018年5月1日火曜日

    萩本欽一(コメディアン)          ・【母を語る】

    萩本欽一(コメディアン)          ・【母を語る】
    昭和16年東京台東区生まれ、駒込高等学校を卒業後浅草東洋劇場に入り、昭和37年フランス座で坂上二郎さんと出会い、昭和41年コント55号を結成、浅草演芸場で初舞台を披露、その後人気となりTVやラジオ、映画出演などで大活躍をします。
    昭和44年にはゴールデンアロー特別賞を受賞、昭和50年から60年代にかけて自身の名前を付けたTV番組「欽ちゃんシリーズ」で日本中の人気者になります。
    平成8年にはNHKの朝の連続TV小説「ひまわり」ではナレーターを務めました。
    平成16年には社会人入試で駒沢大学に入学し話題となりました。

    4月からの「萩本欽一の人間塾」の第一回は駒沢大学の学長さんと話をする。
    入学当初に最初に出会った教授(当時)でした。
    今年で卒業ですが、面白いのでもう2年やりたい、大学の空気感が好きです。
    今年77歳になります。
    僕にとって大学はボケのリハリビセンターです。(試験がある)
    覚えるのに若い頃の3倍かかります。
    母親から叩かれたのは2回で、1回は「あいうえお」を書いたら「字は人の為に書く」と言って叩かれた。
    「字は人の為に書く」ということをお経のようにいわれました。
    小学校の1年の時に名前を書いた時に先生から褒められて、勉強が厭では無くなったので、叩かれたことは無駄ではなかった。
    兄弟は男が4人、女が二人いて3男です。
    母親は子供を育てるのが好きな人でした。

    母親は上手いウソを言う人でした。
    半分は嘘でした。
    父親は土曜日にしか帰ってこなかったが、男は月曜日から金曜日まで働く、毎日家に帰って来る様な仕事をしているのは大したことはないと言ってました。
    偉いお父さんだと思っていたが、借金とか家に帰れない事情があっただけでした。
    高校生になってから気が付きました。
    子供にお父さんは立派だと言うふうに育てるのが一番と思ったんだと思います。
    小学校の通信簿を見て出来が良くワーと言って喜び、中学では中位でワーと言って綺麗に真ん中に揃ってと言って、高校の時に250人中210番と言う時があって、その時はワーと言ってその声が上がり下がりして良いところがなくて最後に「欽一、後ろに40人いるね、ハイ」といって渡してくれて良い母親に当たったと思いました。
    それからいやに母親が好きになりました。

    借金取りに母親は「ごめんなさい」の一言の連呼でした。
    その時に涙がこぼれて居たたまれなかった。
    母親を助けられないのはお金だと思って、中学卒業してコメディアンが結論だった。
    母親は「絶対に高校、大学に行かなければ駄目、でもその道も有りかもね」、の繰り返しでした。
    高校でも、「大学は行かなければ駄目、でも就職もあるかも」、ということでした。
    兄の時にはまだお金があったので大学に行きました。
    父親は逃げ回っていて当時会っていませんでした。
    最初は映画スターが若くして家を建てられるということで、映画スターになろうと思ったが目が垂れていて駄目そうで、コメディアンは目が垂れている人がいるので目指しました。
    高校卒業後東洋劇場に入りました。
    父親が東洋劇場が建てた家に住んでいて、その関係で紹介されて入りました。
    何もできないのでタダで入りましたが、掃除をしていたら来月から3000円と言われました。
    仕事は自分で探すものだなと思いました。
    最初台詞を貰った時は上がってしまって言えなかったので、そうならないように4時間前に行って舞台で台詞を言ったり、舞台掃除をしていたりしました。
    そういったことは母親の教えだと思いました。

    母親からもう一回叩かれたのは、お使いに行ってくれと言われて、「厭だ」と言ったら、あまりうるさく言うので「いいよ、判ったよ、行ってやるよ」といったら叩かれました。
    ぱーんと叩いて「行くなら気持ち良くいけ」と言われました。
    「いやいや行くのが一番腹が立つ」と言われました。
    アルバイトをしていた時に、目覚ましを掛けて起きようとしていたが、その5分前に起きてきて僕を起こすんです。
    「目覚ましで自分で起きるから」といったが、「お前が何て言おうと絶対起こす」と言って目に涙をためて怒った。
    その姿に、こんな素敵な母親がいるのかと、怒って感激させられる母親の顔は大好きです、母を何とかしてあげると思って頑張りました。

    TVからスカウトされてTVに出て、まだVTRが止められない時代で19回失敗して首になりました。
    2カ月ぐらいして頑張ってやり直そうかと思ったときに坂上二郎さんから電話が来ました。
    人生辛いことが必ずやって来るが、辛いことなど今考えるとない、辛いことがいい事の前兆だと思っています。
    28歳で銀行からお金を借りて建て売りを買いました。
    それから3年後には有名になってきました。
    喜んでくれる顔を期待して玄関から「かあちゃん」と声を出していったら、母親から「昼間帰って来るんじゃない、夜帰って来なさい、近所にばれたらどうするの」といわれてしまいました。
    コメディアンが私の息子だと判ったら言えないと思って、それから母親は避けていました。
    長野オリンピックで閉会式の司会をやった時に、それを見て母親が「そんなに悪いことをしていたんじゃないんだね偉いね」といって、母親(80歳)が欽一に会いたいと言ってくれたがその頃忙しくて、年に2回病院に入って(死にそうで病院入院したと言うと僕が行くので)会うとすぐ退院していました。

    母は101歳になる1週間前に亡くなりました。
    母親にはとても良い影響を受けて有難いと思います。
    大学はなくならないいつまでもあるから、歳とってでも仕事で稼いで自分のお金で大学に行くからと言ったら「そうだね、それもありだねー」と言った幸せそうな顔をいまだに忘れられない。
    大学の入学願書に母親との約束を書きました。(母親への孝行)
    年月が経つほど僕が考えたんじゃない、その根底には母親の教えがあったのかもしれないという思いです。
    一番感謝していることは、気持のいい嘘をありがとう、今の自分があるのはあの見事な嘘、やはり怒って優しいというのはかあちゃんしかいない。


















    2018年4月29日日曜日

    前田吟(俳優)              ・【私の“がむしゃら”時代】

    昭和19年山口県防府市で未婚の母の子として生まれた前田吟さん、生後間もなく血縁のない家の養子となり養父から厳しく育てられました。
    そのため小学生から人と人の間には必ず壁があり、どんなことがあっても一人で生きていかなければならないと思うようになったと言います。
    一方で学校ではいつも明るく学芸会での劇を担任の先生から褒められてからは俳優になるという夢を抱きます。
    12歳で養父が亡くなってからは山奥にある養父の親戚の家で暮らし、電気、ガス、水道の無い家で家事にも追われる中、学校の成績もぐんぐん伸びて山口の進学校に入学しました。
    しかしその高校を 1年で中退し大阪の家具店に就職しばらくは懸命に働きますが、空いた時間で演劇研究所に通いたいという願いが叶わず、今度は新聞販売店で住み込みで働くことになります。
    高校卒業の資格を取る為の勉強もできるようになりました。
    しかし、・・・というのが前回までの話。

    2カ月位しか良い時は持たなかった。
    演劇学校の事務員の人がお金を持って逃げてしまって、学校が潰れてしまう。
    潰れてしまっても出かけて行くのが10人ぐらいいたが、その内に3,4人位になってしまった。
    たまたま公園で台詞の発生とかいろいろやっていたら、新国劇を作った澤田正二郎さんと一緒に新国劇を作った倉橋仙太郎さんが週に一回教えに来て居ていたが、倉橋さんから声を掛けられた。
    色々話をしている中で先生の弟子は大河内伝次郎、大友柳太朗、上田 吉二郎とか有名な弟子が一杯いるということでした。
    夜幼稚園を借りて稽古をしているので来るかと聞かれましたが、時間の調整が出来なかった。
    それなら就職も紹介しようと言うことになりました。
    結婚式場に就職することになりました。(休日、大安以外は暇ぎみなので稽古ができた)
    ここでは定着しました。
    映画も見れたし、通信教育も出来ました。
    掃除から精神的なことまで色んなことを学びました。
    1962年(18歳の時)に大阪から上京しました。
    東京芸術座の研究所に行って、大阪での縁で上田 吉二郎さんから紹介されて、NHKの「事件記者」とかの通行人で一杯でました。
    新宿の「ともしび」という喫茶店で舞台に出たりしました。
    東京芸術座の養成所に受かりました。
    花の5期で栗原小巻、原田芳雄、村井国夫、林隆三、地井武男などがいました。

    自分より上の人だと思っていたら、全部学生っぽいし、朗読とかは上手いが味が無いように感じて、生活感のある路線があるなと思って、周りは演劇青年といった感じなので、TVが出てきて芸術祭作品が盛んに作られてドラマも一杯作られるようになってきていまして、同期生の演劇青年がやるような役はなくて、生活に根差した役がありドラマにださせてもらいました。
    それがうまく繋がって「寅さん」になって行っているんだと思います。
    「ドレイ工場」で主役が受かりました。
    大阪弁とか地方弁とか混ざってしまっていたので、標準語を話すことが難しくて本当に苦労しました。
    原田芳雄さんには話すことに関しては延々と稽古をして貰い、本当にお世話になりました。
    1964年には結婚しましたが、独身ということで売り出すと言うことで、タレントとして雑誌などに家族のことを聞かれるが、独身ということで別々に住むようになりました。
    子供もすぐに生まれてしまいました。
    結婚しているということが判ると絶対に売れなくなるということで、一緒に住むようになるのは大分後になってからです。

    自分の為に働いたことはないです、働いていれば家族が生活できるだろうと生活の為に働き続けました。
    仕事を取る為にオーディションでも目立たないといけないので、目立つような言葉しぐさなどを考えました。
    「ドレイ工場」を山田洋次監督がたまたま見にきてくれていて、面白いから今度連れてきてと言われて、それが縁で「寅さん」シリ-ズの義理の弟のひろし役をやることになり、本来教師役だったが工員ということになり、裏が印刷工場になるわけです。
    撮影は始まっていたが、書き変えをしました。
    第一作が爆発的にヒットしましたので、その後を直ぐに続けて作ることになり、26年間48作全てに出ることになりました。
    毎回必ず一つ一つ心に残ることだらけです。
    今見るとはずかしいが、前半は引いてしまっていますね。(芝居が前に出ていない)
    ひろし役から脱皮しないといけないと思って、それが銀河TV小説の「隣の芝生」でした。
    内容は嫁姑のバトルで、その頃から脱皮しました。
    その後色々役をやって来て、明るい役をやらせてもらっています。
    TVは明るくやらないと食えなということが持論です。
    「渡る世間は鬼ばかり」は20年以上続きました。

    同じ役を長くやっていて余裕に甘んじていたら、必ずしっぺ返しが来ると思っています。
    自分なりによくやったなという仕事もしたいと思っています。
    俳優の仕事はしたたかにやらなければいけないし、心してやらないといけない、傲慢になってはいけない。
    辛くても台詞必ず覚えて行かないといけないから、栄光の日々の時分を見ることは少ないです。
    明日からやる仕事が一番大事で或る意味怖いところがあります。
    一つ一つを大事にやっていかないといけないと思っています。
    台詞を覚えて行く過程で、これが言えるかなあこれが言えたと思う時が楽しいです。
    現場に行くと相手とのテンポと合わなかったりして、大変さの連続で、これのずーっとのくり返しです。
    20代から70代までずーっとTV、映画で演じてきて、70代の自分は良いなあと思うようになったが、80代の自分を見てみたいという気持ちはあります。





    2018年4月28日土曜日

    和波たかよし(バイオリニスト)     ・命綱は点字楽譜

    和波たかよし(バイオリニスト)     ・命綱は点字楽譜
    1945年東京生まれ、生まれ得て時から目が不自由で、4歳からヴァイオリンを始めました。
    1962年日本音楽コンクールで優勝、国際コンクールでも上位入賞し、ソロの演奏の他国内外のオーケストラとも数多く演奏しています。
    和波さんは演奏活動のほかに点字楽譜利用連絡会の代表として点字楽譜利用の促進に力を入れています。

    18歳で楽団デビュー、現在73歳。
    色んな仕事をしていますが、若い人たちに音楽の良さを伝えて行く、あるいは後輩たちを指導すると言うことで八ヶ岳の方で毎年サマーコース&コンサートを32年前からやっています。
    今年は7月29日から8月9日まで開催します。
    弟子の古澤香理さんを呼び寄せて一緒に室内楽をやります。
    40年以上一緒にやっている妻の土屋美寧子(ピアノ)、田島 高宏さん(ヴァイオリン、札幌交響楽団コンサートマスター)、林 詩乃さん(チェロ)などが毎年やってくれています。
    大学時代の同級生の岩崎洸さん(チェリスト)も来てくれたりします。

    今年の秋には大分に行って芸術短期大学の先生と学生達と一緒にステージをやることにしていて、音楽家のスキルアップを図りたい。
    最近はビオラ、ピアノの練習などしています。
    視覚障害者の場合は点字の楽譜を使うことになります。
    楽譜を使わず人が演奏してくれるのを聞いて覚えてしまう方法もあります。(個人差がある)
    邦楽、ジャズなどは楽譜を使わないこともあります。
    明治時代になって邦楽も楽譜を使うようになりました。
    楽譜が見れないということはやはりハンディーがあります。
    しかし邦楽を楽譜にすることはいろいろ難しいところがあります。
    クラシックの方は外国でヨーロッパで作られたものをそのまま使います。

    4歳の時にヴァイオリンを始めて、弘田 龍太郎先生の勧めで始めました。
    音楽をやるのなら点字の楽譜を習いなさいとその時にいわれました。
    小学校に上がる時には日本語の点字、楽譜も読めました。
    それは非常に助かりました。
    数十年前は点字楽譜を書けるのは、日本では一桁と言っていいぐらいでした。
    母は私をどうやって育てていこうか手探りで一緒に楽譜を習ってきて、母も点字を覚えて、点字の楽譜を書き始めました。
    クラシックになると難しく母はずーっとやってくれていたおかげで、芸術祭優秀賞をいただくようなCDを作ることができたんです。
    邦人ヴァイオリン作品集とかの曲によるレコーディングも母が書いてくれた楽譜で勉強してレコーディングしました。
    母の点字楽譜は膨大になっています。
    私に深い愛情を注いでくれたと感謝しています。
    点字は一桝に6点打つので、大変な作業です。
    日本で点字タイプライターが売り出されるようになって母は直ぐに購入して使いました。
    母はローマでひったくりに会った時に左薬指を怪我をしてしまい、以後力が入りにくくなりました。
    僕が40代になるまで母が点訳をしてくれていました。

    80年代にコンピューターで文字、楽譜を点字を打ち込むようになってきました。
    紙に点のマークを付けていたが、パソコン画面上に表せるようになり、点訳する人も三桁位に増えました。
    点字を考案した人はフランスのルイ・ブライユ
    彼は5歳で全盲となった。
    オルガンの勉強をしていたが、盲学校で中学生のころに文字を浮き出し文字みたいにして図形を描いて、見えない人に認識して文字を教えると言うことをやっていたらしい。
    その後横2×縦3の現在の6点式の点字を発明した。
    友達にも教えて点字の優位性を広めていった。
    43歳で亡くなるが、その時には点字はまだそれほど認められていなかった。
    日本では文明開化で西洋から入って来て、明治23年に日本点字が制定される。
    楽譜のマニュアルも出来て、点字楽譜も日本でも始まった。
    普通の楽譜が作られてから点字楽譜が出来るまでが日本では20年位で、ヨーロッパでは200年ぐらいかかっている。

    私の場合は母が古希になるまでは母がやっていて手に入れていましたが、コンピューターでボランティアの方々がやってくれるようになって、いくつかのグループが出来て楽譜を作ってもらう様になりました。
    飛躍的に沢山の量が出来るようになりました。
    オーケストラでどの楽器がどういうふうにやっているのかは聞くだけだったが、それも全部やってもらえるようになりました。
    クラシックは楽譜によって伝えられてきた。
    楽譜にリファーしながら解釈して行くのが面白い。
    ワーグナーの音楽が20世紀の前半は重くゆっくり演奏したが、ナチスドイツが国威発揚に使ったと言われている。
    最近のワーグナーの演奏は変わって来ているが、大筋は変わってきていない。

    点字楽譜利用連絡会。
    ボランティアで各地でやっていて、プリントアウトすることが出来れば他の人にも共有してもらえるのではないかということで、2005年にグループが出来ましたが、それは皇后陛下のお力でした。
    楽譜はメジャーの点訳ではなかった。
    楽譜の為の寄付があったが、皆で恩恵を受けられる方法が思い付かなかったが、2005年に日本点字図書館を通じて宮内庁からあって、何人かの人が相談して共有できるカタログ作りをしようということで始まりました。
    会員組織にして僕が代表をやって12年間続いてきました。
    日本全体での情報交換をしようということで年に2回全体の会合も行っています。
    視覚障害者の人がこれから音楽をやりたいと言う人に対して、楽譜の指導をすることが我々で出来るのかなとテーマは沢山あります。
    昔はマッサージか音楽かというぐらい音楽は力があったが、他分野へのひろがりもあったりして、今は衰退してきていて残念な思いはあります。
    点訳グループの高齢化もしてきていて、若い人にも参加して欲しいと思います。
    データがあれば自動点訳も可能になるように研究もされて来つつあります。
    クラシックの様な音楽を担う人材も視覚障害者の中から育ってくる様にするには楽譜の存在は絶対不可欠ですので守っていけたらいいなあと思います。




    2018年4月27日金曜日

    柚木沙弥郎(染色家)          ・【人生のみちしるべ】愉快に今を生きる(1)

    柚木沙弥郎(染色家)          ・【人生のみちしるべ】柚木沙弥郎(1)
    大正11年生まれ、95歳、柚木さんが生み出すもんようが染められた布の作品は日本だけでなく海外でも高く評価されていて、2014年にはフランスの国立ギメ東洋美術館に作品40点が収蔵され、併せて個展も開催されました。
    父親が洋画家だった柚木さんは美術史を学ぶために東京大学に入学します。
    しかし大学生活は戦争で中断されて、学徒動員、染色の道を志したのは敗戦後でした。
    日常の暮らしの中で使われる手仕事の品に美を見出した運動、民芸運動の提唱者柳宗悦の思想に啓発され、染色の道に進みます。
    以来70年、型染めの第一人者として製作を続ける一方で70歳を越えてから次々に新しい分野に挑戦を始めます。
    絵本、版画、人形、水彩画など新たな表現を目指して意欲的に創作を続けています。

    舟、色んな動物たちがならんでいたり、オモチャ、陶器、絵、人形、彫刻などが飾ってありますが、こういったものと、出会った時の思い出があるので、一つ一つ忘れられないパートナーになります。
    出会った時にはピピッとお互いに信号を交換するんですね。
    それぞれのものには形があるが、どうしても長い間には壊れててしまうことがあるが、そういう中に無くならないもの、物の持っている物語、歴史、生きざまというか、そういうものなんですね。
    本質に触れると言う事、それを知る、捕まえる、それを自分がキャッチすることが僕の出会った日本民芸館の初代館長の柳宗悦先生の言わんとすることだと思うんです。
    先生の全人格を表しているのが日本民芸館。
    生まれた時から今日までの身体の根幹になって今日まで私は仕事をしているわけです。
    或る訓練は必要ですが、段々心がけて来るとどんな人にも出来ることだと思います。
    それを育てるように努力する、それによってレベルが上がって行くと思います。
    日常生活の中で気を付けていると、いままで見あきるほど見ているものの重みを見ていない場合が多いです。
    よく見ると何か気が付く訳です。

    日本人は多神教で、どんなものにも命があって、生命の無いものにも、自分が愛着を持っていれば自分に対して発信して来るものがあるんです。
    物と人間とのやりとり、交信、そういうことが日常にある。
    物であるあなたと長く付き合うと言うことで日付けを入れて行く。
    物の経験した時間というものを、物が生きているという、そういうことをインドに行った時に感じました。
    手仕事は手間暇掛けてしていると言うことです。
    時間も同じで、一日をどういうふうに使うか、今日は良かったと思う日もあるし無駄に一日過ごしたということがあるかもしれないが、時間に捉われない生活というのは今の日本では無理です。
    それでもそういうことを心掛ければ出来るのではないかと思う。
    勤めを辞めてからの時間が長くなってきているので、その使い方はやろうと思えばできると思う。
    自分が主体にならないと駄目。
    面白いと思うものを見付けること、出来たらそれを自分から発信する、こういうことをやっているぞ、こういうことに興味を持っていると。

    2007年(85歳の頃)にパリで展覧会をやっている時に、今あなたは何に興味を持っているのか、今何をしているのか、どんな仕事をしているのか、と言われた。
    学歴とかどういう仕事をしてきたのかとか過去のことを聞かない、今の事を聞いて来る。
    柳宗悦先生の言葉に「今よりなきに」という言葉がある。
    今というものを大事にするかしないか。
    済んでしまった事をとやかく言うのはつまらないと思う。
    未来に期待する。
    今ヘルパーさんが週に二回、マッサージが来るので、自分だけの時間は日曜、火曜、木曜
    の3日間。
    本当に考えるのは夜明けで、良い考えが浮かびます。(ノイズが入らない)
    5月に民芸館で講演会を行うが、どういう内容を喋るかなどを考えたりします。
    無駄な事を省いていくと本当のことだけがいえると思います。
    かっこ悪いのが嫌で、かっこ悪いというのは言いわけをしたり、前置きをしたり、挨拶が多くて早く本当のことだけを言ってほしいと思う、じれったくなる。

    かっこいいものは今生きているものだなあと感じるんです。
    シャープで要らないものをとってしまって、飛行機などもパンダの絵とか余計なものを描かなくていい。
    颯爽としているそういうものでありたい。
    生まれは東京田端、大正11年生まれ。
    明治では田端は文士が多く居て、大正のころは名残があった。
    室生犀星さんは家の前にいらっしゃいました。
    田端では芥川龍之介がダントツで、僕の兄弟は芥川比呂志さんだとか子供さん達と遊んでいました。
    父も洋画家でした。
    僕は絵が好きだったので爆弾三勇士に関する絵を描いて学校に持っていったりしました。
    家にフランス製映写機があって、チャップリンが出てきたりしていました。
    母親の記憶はあまりなくて父親と一緒に居ることが多くて、色んなものを作ってくれました。
    父と一緒に新聞を濡らして糊を使って粘土替わりにして色々作りました。
    当時の絵描きは絵以外に手仕事が好きでした。

    戦争の時代になり、もうおしまいだと言うか絶望感、捨てバチというか、もうしょうがないという感じでした。
    和辻哲郎の「古寺巡礼」という本が当時よく読まれていて、見おさめと思って奈良に旅行に行っています。
    ぼくらの時が一番仲間が亡くなっています。
    今から思うと消耗品で特攻隊も予科練と予備学生を使う訳です。
    その人たちの分まで生きて何かしないとつまらないと思う。
    何の為にそういう自分の命を引き変えたかということは説明付きませんね、当時。
    復員して24歳で結婚、大原美術館に就職することになる。
    食うや食わずの時代で美術など見に来る人はいなかった。
    美術館長の武内 潔真 (きよみ)さんは柳宗悦先生を崇拝していて、展覧会などしていて、倉敷の一部では民芸の作家たちの物が行き渡っているくらいでした。
    日常のその時代には皆が民芸品を使っていたが、それを美の対象とは思っていなかった。
    和紙に大胆な民芸模様を型染めした暦に出会い、染物の作品が綺麗だと模様に感激しました。(芹沢 銈介
    戦争後これから何をしようかと思って、民芸に興味を持って、染色に行き合う訳です。
    民芸に夢中になっていたので東京に行きたくて、芹沢先生の所に弟子入りします。



















    2018年4月26日木曜日

    杉本昌隆(将棋棋士)           ・“藤井聡太”の師匠として

    杉本昌隆(将棋棋士)           ・“藤井聡太”の師匠として
    史上最年少の14歳2ヶ月でプロ棋士になった藤井聡太6段、その活躍は空前の将棋ブームを巻き起こしています。
    名古屋を拠点に活動する杉本さんは現在49歳。
    本格的に将棋を差したい少年少女が集まる日本将棋連盟東海研修会の幹事や、杉本昌隆将棋研究所を主宰し後進の育成にも力を注いでいます。
    杉本さんは藤井6段が小学1年生の時に初めて出会い、4年生の時から弟子として指導を始めました。
    藤井6段との師弟対決が先月実現、結果は藤井6段が勝利を納め将棋界で公式戦で弟子が師匠に勝つ恩返しを受けました。

    弟子と公式戦で戦うことは嬉しいです。
    負けてしまった自分としては悔しいですが。
    私はあれだけメディアが集まって指すことは初めてでした。
    中学2年生の9月に昇段を決めてプロ棋士になり自分でも感動しました。
    昨年6月に29連勝という新記録を達成しました。(デビュー以来の連勝)
    普通デビューしたての新人は将棋が未完成ですから、大きな連勝は普通できる訳が無いですが、藤井の場合は違ったのですね。
    これにはびっくりしました。
    普通プロの場合は勝率は5割なんですが、デビュー以来の29連勝は今後でないと思います。
    彼は今では400年に一人の人と言われています。

    初めての出会いは小学校の1年生の終わりごろでした。
    日本将棋連盟東海研修会に入会してきました。
    何気なく見た将棋がいい内容で、いっていることが大人びていたのが印象でした。
    中学生と対戦した時に、ここに歩を打っておかないと勝ちがないと言っていたのが印象的でした。(先の局面を見る能力がある)
    小学校の4年生の時に弟子入りしてきました。
    当時40人ぐらいいましたが、周りとは別格でした。
    負けた時は悔しがり方が尋常ではなかった、将棋盤を抱えて号泣するんです、それが5分位続くんです。(しかし切り替えは早かった)
    負けを真正面から全身で受け取っています。

    私は小学校2年生の時に父に教わって始めました。
    駒に役割があり、それぞれ能力があり魅力を感じました。
    小学校4,5年の時にプロになりたいと思いました。
    6年生の時に奨励会に入りました。
    板谷進9段が師匠でした。
    豪快で細かいことを言わない師匠でした。
    「沢山食べてどんどん将棋を指せ」ということをよく言っていました。
    将棋の戦法は大きく分けると、居飛車、振り飛車とがありますが、私は振り飛車が好きでした。(師匠は居飛車で、居飛車はオーソドックスです)
    門下では振り飛車は当時御法度でした。
    入門後勝てない時期があって、自分では振り飛車の方が向いているのではないかと思いました。
    スタイルを変えたのですが、師匠からは何も言われませんでした。

    相撲の世界などでは教える側と教えてもらう側がはっきりしていますが、将棋の世界では全くなくて、師匠に金銭的なメリットは何にも無いです。
    師匠がいくら弟子に教え込んでも弟子が勝ってくれないと全く意味をなさない。
    師匠は弟子を勝たせるのが役目なので、礼儀正しい好青年を育てることにはまったく意味がないです。
    弟子は若いので師匠の言葉は重たいです。
    押しつけになってしまってもよくなくて、自分で考えた末に結論を出してほしい。
    彼の場合は自ら学んでゆくタイプの弟子でして、こんなに手のかからない弟子はいないと言うほど楽な子でした。
    自分の意見を述べますし、沈黙が流れる事もあります、素直な弟子という表現はもしかしたら当てはまらないかもしれませんが、頼もしい弟子です。
    自分の信念を持っていると思いました。
    彼の持っている才能はやはり今まで類を見ないほど凄いものがありましたので、あくまでも常識的な教えはしない方が彼の才能を蓋をしないのではないかと思って、私は意識的に指す機会は減らしていました。
    兄弟子たちと指して後で私がアドバイスをするという立場でやっていました。

    技術的な他に人と人との相性というものがあると思うので、私と藤井とは相性は悪くないと思っています。
    伸び伸びと勉強しやすい空間を作ることに関しては意識しました。
    畠山8段とは小学校5,6年生のころからのライバルであり友達で、将棋の世界独特のものがあるかもしれません。
    将棋は二人で戦えば必ずどちらかが勝って、どちらかが負けるので、勝ち負けが日常的にあります。
    素晴らしい良い結果が出るか、負けて悔しい思いをするか、まあまあということはないです。
    一生懸命やった過程を重視してそれを評価するのが保護者、指導者の方の役割なのかなと思います。
    一局が終わるまでは一人なので誰も助けることはできないので、私達の決断は最後は自分で決めなくてはいけない。

    若い人は見ているとこちらが勉強になることもあります。
    棋士になって30年近くなりますが、お互い学びたいと言うこともあります、お互い強くなりたいと言う思いがあるので。
    私が負けたら段が落ちてしまうという局面があって将棋の世界から足を洗うようかもしれないと思っていた時に、師匠がニヤッと笑って「面白い勝負だな、お前がこの先どの位将棋を指すか判らないが、今後このぐらい面白い勝負はないかもしれない、だから一生懸命やるんだな」と言ってくれて、気分が落ち込んで居た時に、この勝負は面白いんだと思うことで、勝つことができました。
    師匠の一言が大きかったと思います。
    私が19歳の時に師匠は47歳で亡くなられてしまいました。
    藤井と一緒に上を目指せていけたらいいと思っています。



















    2018年4月25日水曜日

    水木悦子(エッセイスト)         ・ゲゲゲのお父ちゃんの背中

    水木悦子(エッセイスト)         ・ゲゲゲのお父ちゃんの背中
    漫画家水木しげるさんの次女、1968年にアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」が初めて放送されて今年で50年、いま改めて水木さんの作品が注目されています。
    悦子さんは水木さんが93歳で生涯を終える間30年の間、同じ仕事場で漫画家生活を支えて来ました。
    悦子さんは昨年発表したエッセー「ゲゲゲの娘日記」中で多忙な日々の中で見せた水木しげるさんの父親としての素顔や優しさに触れています。
    そうした思い出話を伺いました。

    部屋一面に本があるが、資料、描いた本とかがあります。
    新聞の切り抜き、自分が載っていた記事などスクラップブックにしています。
    色んな本を読んで勉強もしていました。
    漫画のセリフを考えている時は鬼気迫るものがあり近寄れなかったです。
    ご飯を呼ぶ役割を担当していましたが、呼ぶと集中していましたが、「おうそうか」と返事をしていました。
    主に父の遺品の整理、父の載っている記事のコピーなどの整理をしています。
    つい読んでしまったりして仕事が進まないです。
    未完成な物があったりして驚きました。
    予定帳の様なものがありますが、文章も詰まっていてネタ帳に近い様なものです。
    私のテストの日なども書いてあり、気にしていたんだなあと思います。

    父と一緒に家から会社まで歩いている時に、急ぐなと言われて、「お前の足元を見てみろ」と言われてゆっくり歩くことで植物の移り変わりが見られたりするので、「お前は損をしている」と言われました。
    「季節の移り変わりも判るし、虫もいるし楽しいぞ」と言われてそういうものかと思いました。
    子供のころから父の漫画は読んでいました。
    「ゲゲゲの鬼太郎」、「河童の三平」などが好きです。
    父の本を読んで「この世の中においしい話なんてあるわけがない」と身に浸みて判りました。
    「錬金術」の本の中で、「いつまでたっても金が出ないではないか」、ということに対して「錬金術は金を得ることではなく、そのことによって金では得られない希望を得ることにあるんだ、人生はそれでいいんだ。
    この世の中にこれは価値だと声を大にして、叫ぶに値することがあるかね、すべてまやかしではないか、はっ」、ここのセリフを読んだ時、全てがまやかしなんだこの世の中は、て。

    大人になって感じることは、見えない世界は有るんだよと伝えたかったのかなと思います。
    妖怪も眼には見えないけれどいるんだよ、ということだと思います。
    お化けは怖いだけではなくて愛嬌が無いといけないと、必ず愛嬌を入れていました。
    父がスランプになって急に妖怪はいないんだと言い始めた時に、京都に修学旅行に行った時に、障子に目の形に並んで、増えて行くのを見たんです。
    妖怪なのかなあと思って、家に帰ってから障子に映るお化けはいるのか聞いたら、父はもくもくれん(目目連)というんだと説明しました。
    父の目が輝き始めて、やっぱりいるんだと元気が出ました。
    たったの一度見たもくもくれん(目目連)はスランプを救った妖怪でした。

    「ゲゲゲの鬼太郎」については父はあまり話さなかったです。
    小学校6年生の時に、いじめに遭った時があり死んでしまいたいと言う思いがあって、幸福の量を研究している人がいるということを父が話し始めて、その後「ゲゲゲの鬼太郎」の話になって、悪いことをした妖怪を普通ならやっつけて殺してしまう様な事を、父はそうはしたくなかった。
    なんでかと言うと戦争でいやというほど友達、親友を10人位死んでしまった、そういうものを見てきているから、漫画の中でも殺す、死ぬと言うことをしたくなかった。
    妖怪を諭して元に帰ってもらうと言う本にしたんだと言っていました。
    私が死にたいと思っていたことを父は察したのではないかと思います。
    「生きていればいい事もある、それは他人が判断するのではなくてお前にしか判断できない、お前にしか見つけられないことだから、もうちょっと生きて見ないか」と言われました。
    その言葉が今も支えになっています。
    本当は見ていてくれたんだと嬉しくなりました。
    父の言ってくれた言葉に対して楽観的になりました。

    「ゲゲゲの鬼太郎」では諭して、妖怪が怒るに至った原因を突き詰めて妖怪に謝ってもらう様な形を取って、元の場所に戻ってもらう。
    父の戦地での経験がそういう方に生きているんだなと思いました。
    戦地ではたったの2年だけれども、20年30年の経験だったものと思います。
    父の戦記ものは読んだあとに凄く落ち込むんです。
    なんで人間は殺し合いをしなければいけないのだろう、殺し合いの先に何があるのだろうと思う。
    99%の真実に1%の誇張をいれて書いていたと言っていました。
    面白い部分もあるが、読後感は凄く落ち込みます。
    「生まれたら生きぬかないといけない」、というふうに言っていました。
    「命は大事にするもんだ」、というふうには言わないですが。

    厭なこと、いじめがあった時に落ち込んでしまうことは凄く良く判るが、その人にしかわからない楽しさ、幸せを感じることは必ずあるのでそっちの方もあるんだよということを伝えたい。
    生きてほしいということは伝えたい。
    粘り強く生きるように。
    体験した戦記ものが出てきて、中隊長が生きられるかも知れないのに自殺してしまうくだりがあり、どんなところでも人間は生きようとしないと、神様も助力することができない、粘り強く生きようとしないと駄目だ、と書いてあります。
    父は戦争からはなにがなんでも生きて帰ってやるんだと言う気持があったと言っていました。
    口に出しては言わないが、行動の一つ一つが背中で物語っていて、父の背中は大草原の様な背中です。








    2018年4月24日火曜日

    安藤忠雄(建築家)           ・人生はいつでも挑戦

    安藤忠雄(建築家)           ・人生はいつでも挑戦
    世界で活躍する建築家の安藤さん、77歳、大阪で生まれ工業高校を卒業後、プロボクサーを経て独学で建築を学びました。
    1級建築士の資格を取り独立、安藤忠雄建築研究所を設立、1979年に住吉の長屋で日本建築学会賞を受賞、代表作「光の教会」を初めコンクリートの素材を使って空間や光を取り入れた斬新な作品で注目を浴びます。
    東京大学やハーバード大学で後進の指導にもあたり、2005年には国際建築科連合ではゴールドメダル賞を受賞、2010年に文化勲章 2013年にはフランス芸術文化勲章を受章するなど国際的にも高い評価を受けています。
    現在も精力的に活躍している安藤さんですが、2009年にがんが発見されて、胆のう、胆管、十二指腸を切除、そして5年後2014年には膵臓、脾臓も切除しています。
    5つの臓器を取りながらも手術後は規則的な生活で、医師も驚くほどの健康を取り戻しました。
    人生はいつでも挑戦と、今はフランスでの新しいプロジェクトに取り組んでいます。

    毎日1万歩、歩くことを目標にしています。
    朝6時45分位から40分位歩いて、5000歩位になり、後は仕事などで歩いているうちに1万1000歩位になります。
    4年前に手術した後に、内臓が無いので筋肉でカバーして消化を支えないといけない、そのためには毎日1万歩、歩かないといけないと言われました。
    朝は10分位で食べていた時間を40分、昼も40分、夜はもう少し長く時間を掛けて食べています。
    体重も64kgでほとんど変わっていません。
    2009年の7月に小澤さんらと食事をしていた時に体力には自信があると言っていたんですが、8月末に病院から呼び出されてがんがあるので、胆のう、胆管、十二指腸を切除しなければいけないと言われました。
    10時間位の手術で3つの臓器を取りました。
    11月に小澤さんもがんになって、自信を持っていたらいけないと思って、その後、食べ物をゆっくりするようにと言われ、仕事ももっと控えるようにとも言われました。
    山中さんらとの対談があると言うことでしたが、また膵臓脾臓にがんがあると言うので直ぐに取らないといけないと言われました。
    膵臓を全部取って生きていけるのですかと聞いたら、全摘で生きている人もいますが、元気になった人はいませんと言われてしまいました。

    7月10日に講演会を6時~8時までして、8時~9時までパーティーをして翌日の8時から11時間の手術をしました。
    その後山中先生からは出来るだけ早くiPSを作りますとは言われましたが。
    食事は40分、仕事を少なくする、それを決めて規則正しくやっています。
    痛い、しんどい、下痢、便秘だとか全然無いです。
    希望が前にあれば元気よくいけるんです。
    私は病院で出てくる食事は薬だと思って全部食べました。
    中国から色々仕事が来ます。
    5つも臓器を取って元気にしているのでこんな縁起のいい人はいないので、縁起のいい美術館をつくってほしいということで話が来たりします。
    去年秋に新国立美術館で美術展があり「光の教会」をそのまま建てて30万人来ました。
    場所は借りられるが他は事務所の自前費用、15万人来れば何とかなると思ったが厳しい。
    「光の教会」に7000万円、他の展示に7000万円、トータル1億5000万位掛かる。
    20万人でプラスマイナスゼロ位かなと思いました。

    カタログを沢山売ればいいと思って交渉したが2300円ということだった、別のところで交渉して3万5000部だったら710円ということだった。
    その代わり全部の本にサインをするということだった。
    その後2万5000部、また増えていって結局10万部売れましたが、サインは大変でした。
    大阪人は発想が大胆、合理性があり、強引なところあり、東京では嫌われる、厄介なんです。
    日本では女性が長生きで元気なのが売りで、映画、音楽会、本を読んだり色んな事をするが男性は飲んで寝る、これでは頭がしっかりで長生きは難しい。
    私は自分が今なにが出来るかということを真剣に考えている間は何とかなるだろうと思っています。
    自分が社会に何ができるか自分の建築の設計に何ができるか、ということを考え続けている間は元気だろうと思っています。
    フランスで古い建築の中に新しいアイディアを、という話がありました。
    2018年10月10日から12月一杯日仏友好160周年記念の中で実施。
    古いものから貰えるオーラみたいなものがあるので、ベニスでサン・マルコ広場の前に古い建物の中にピノンさんという人が新しい世界を作った。
    パリで同様の事をやる事になり私の処に話が来て、今年中に出来て来年の秋にオープンします。

    食生活は大切にしないといけない。
    朝はほとんど食べない、昼は簡単、夜コンビニでは長生きしない。(そうすると寿命は63歳だそうです)
    朝から晩までパソコンをやっていると、いけない、食べながら一緒にやるとか。
    人生を楽しまないといけない。
    日本の建築技術は世界一だが値段が高い。
    日本では生き生き働いている様には見えない、イタリアでは働いている人が生き生きしている。
    古い建物を残して中にあたらしいものを作ることは、手間もお金もかかるかもしれないが、いいものを残すということが大事です。

    被災地の古民家のなかを改造して子供の図書館をつくりませんかと、東北の三知事に話しました。
    大阪でも作ろうと(中之島の公会堂に)話を持ちかけましたが、建築費が無いということで、では私のところで出しましょうと言って、運営費は30万円ずつ払ってくれる所を200軒集めたらどうかと言ったら反対も無く、上手く動いて行きました。
    本を外でも中でも読めるようにしようと考えました。
    上手くいかないことも一杯起こりますが、あきらめずにやってきています。
    自分の出来る範囲の事をそれぞれがやればこの国は良くなりますよ。
    日本は自然と共に生きていたからいいと言うならば、もっと自然を大切にしたほうがいいのではないかと思います。
    下町で育って文化的なものがない、大学にも行けず専門学校にも行けず、そういった中で生きてきたので、壁があってもよじ登る、そうすると全国の人から、大阪の人から嫌われる、でも又壁をよじ登ってきたという人生だからいいんじゃないですか。
    だれでも自分の職業を一生懸命やっていたら、楽しい人生を送れますよというものでないといけない、今はそういうふうになっていないでしょう。
    生きている限り自分の出来ることをやる。
    1000円募金で30万坪を森にしましょうということで、何回講演会をしたかわかりませんが、7億5000万円位集まり、1本100円~300円の苗を植えて10年たって森になっています。(海の森)
    なんでも地道に時間を掛けてやっていれば出来るという見本ですね。
    一流大学を出た人は失敗を恐れます、私は開き直り、覚悟だけはあります。





    2018年4月23日月曜日

    頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】川端康成

    頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】川端康成
    「言葉が痛切な実感となるのは痛切な体験の中でだ。」 (「虹いくたび」 川端康成)
    日本人で初めてノーベル文学賞を受賞、今年2018年は川端康成の受賞50周年に当たります。
    命日が4月16日、昭和47年に72歳で亡くなっている。
    川端康成は生まれたのは明治32年6月14日、ヘミングウェイ、アル・カポネ、田河水泡、が同じ年生まれ。
    ガブリエル・ガルシア=マルケスが褒めていた「眠れる美女」を読んで見たら、吃驚するほど凄くて、それから大ファンになりました。

    カフカの名言集、「一番上手く出来るのは倒れたままでいることです。」
    私自身が難病でベットで倒れたままでしかできないでいる時に、読んでみると実に痛切な言葉です。
    (頭木氏は20歳の時に難病潰瘍性大腸炎を発症、13年間に渡る療養生活を送りました。
    その経験から悩み苦しんだ時期に心に浸みいった言葉を絶望名言として、番組、書籍で紹介しています。)
    先に色んな言葉に触れていることは大事です。
    何にも解決する訳ではないが、心の持ちようとしては有るか、無いか大きく違うと思う。
    いつか痛切な体験をした時に思いだして、こういうことを言った人がいたなあと思えば、それは随分違うのではないかと思います。

    「忘れるに任せると言うことが、結局最も美しく思い出すということなんだな。」
    (川端康成の小説「散りぬるを」からの言葉)
    「16歳の日記」は川端康成が実際に16歳の時に病気で寝たきりのお爺さんを介護していた時の日記で、この時にお爺さんと二人暮らしだったが、このおじいさんが最後の肉親だった。
    両親は川端康成が3歳になるまでにどちらも亡くなっている。
    おばあさんも7歳の時に亡くなって、4つ上の姉も10歳の時に亡くなっている。
    若いうちから随分身内の死を経験している。
    「16歳の日記」はたまたま10年後に見つかり、発表される。
    これを読んで川端康成は「この祖父の姿は私の記憶の中の祖父の姿より醜かった。
    私の記憶は10年間、祖父の姿を清らかに洗い続けていたのだった。」
    と言っている。
    お爺さんは目が見えなかった。

    大事な想い出なのに当事者の二人が全然違って覚えているということが結構あります。
    大抵は自分の都合がいいように変えてることが多くて、変えられてしまった方は腹が立つわけです。
    でも本当は悪い方に思いこんでしまってる場合もあるし、いずれにしても記憶は不確かなものです。
    記憶は自分にとって大事なところが印象に残って、大事なことだから自分なりに変更する。
    非常にオリジナリティー溢れる面白いものになる。
    人間は過去の積み重ねで出来ているわけで、その過去の記憶がある程度自分が作り替えているとしたら、自分自身ももしかすると自分の一つの創作物かもしれない。
    明るい気分の時は記憶の明るい引き出しを引き出しやすくて、暗い気分の時は記憶の暗い引き出しを引き出しやすい、というふうになりやすい。

    「なんとなく好きで、その時は好きだとも言わなかった人の方が、いつまでも懐かしいのね。 忘れないのね。」(「雪国」の中の一節  芸者駒子が語った言葉)
    NHKの「友達」山田太一脚本の中の言葉
    「キャバレーなどバーなど色んなところで働いてきたけれど、性の有ったお客さんで最後まで行かなかった人が一番なのよ。  いいもんなのよ。
    行くとこまで行っちゃえばそれだけのことだけど、両方でなんだか辛抱しちゃったお客さんっていまだにね、いい思い出。
    人間の付き合いの中でも相当上等な付き合いじゃないかと思ってるの。」
    川端康成に似ている言葉だと思う。
    好きだけど言わない、そこにはそれなりの味があると思う。
    人生のほとんど本当は辛抱したり、やらなかったり、言わなかったりすることが大半で生きているんじゃないかと思う。
    じーっと我慢し続けて押さえてきた結果、身に付くものも有りますし。

    宮城道雄作曲の中の「春の海」 琴 宮城道雄 ヴァイオリン ルネ・シュメ 
    川端康成が感動したと言われる曲
    宮城道雄は7歳の時に失明。話を聞いて感情がわかるという耳の敏感な人。
    川端康成は目の作家と言われる。
    観察力があり、目で見たものを書くと言うのが非常に特徴的。

    「何の秘密もない親友なんていうのは病的な空想で、秘密が無いのは天国か地獄かの話で、人間の世界のことじゃないよ。
    何も秘密の無い所に友情は成り立たないよ。 友情ばかりではなく、あらゆる人間感情は成り立たないね。」 (1954年発表 「湖」の一節)
    秘密が無い方がいいということに一方あるが、親しい関係だからこそ秘密が多くなるということもある。
    親友の相手がどういう行動をするかは判っていても、親友の内面の気持ちはほとんど判らない、胸の内まではつかみ切れていない。
    人間というものは意外で、思いがけない面白さでもある。

    「いかに現世を厭離するとも自殺は悟りの姿ではない。
    いかに徳行をしても自殺者は大聖の域に遠い。」  (随筆「末期の眼」より)
    川端康成は自殺している。
    「僕は生きている方に味方するね。 きっと人生だって生きている方に味方する」と言っておいて自殺してしまった。
    何故自殺したのか本当の胸の内は判らない。
    自分でも思いがけないことをしてしまう、そういう自分というものはあるんじゃないでしょうか。
    してしまうかもしれないという、おびえを持っている方が却って、しなくても済む面があるかもしれない。

    「晴々と眼をあげて、明るい山々を眺めた。 まぶたの裏がかすかに痛んだ。
    二十歳の私は自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂欝に耐えきれないで伊豆の旅に出てきているのだった。
    だから世間世間尋常の意味で自分がいい人に見えることは、いいようなくありがたいのだった。」 (「伊豆の踊子」からの一節)
    下田に着くような帰り道に踊り子たちがいい学生さんだと会話をしているが、それを聞いている自分が思っているということを書いている。
    川端康成が自分が孤児だった為に人の顔色ばかり見てたのでは無いだろうか、というような思いを書いている。
    子供って、自分だけでは生きられない弱い存在として世の中にいる時に、心細さみたいな、人目を気にしてしまう、よるべなさは幼児体験としてあるのではないでしょうか。
    孤児の場合はそれが倍増する訳です。
    私が個人的に川端康成に感じる魅力は一貫性の無さです。
    自殺は駄目と言いながら自殺してしまう一貫性の無さ。
    余り一貫性を重要視しない揺れ動いている、それの方が自然なことかもしれない。
    川端康成は自分自身を自分自身にもよく判らないものとして見ているところがあり、そこがとっても魅力的です。
    川端康成はゆらゆらしているものとして人間を捕えていたのではないか。













    2018年4月22日日曜日

    早川文代(食品研究部門 上級研究員)   ・【“美味しい”仕事人】味覚の日本語

    早川文代(農研機構食品研究部門 上級研究員)・【“美味しい”仕事人】味覚の日本語
    おいしい食べ物が溢れている日本の食、食べ物のおいしさを構成する要素のうち、味や香りがありますが、加えて食感が重要視されるようになってきています。
    食感を測る方法の一つに人の感覚を使って、食べ物の品質を評価する方法があります。
    この時にサクサク、モチモチなど食感を表す言葉が重要になります。
    茨城県つくば市にある農研機構食品研究部門、上級研究員の早川さんは食品や農産物の食感についての用語体系を纏めています。
    或る食べもののおいしさを評価する際の言葉を探る事によって、食品のおいしさを高める為の研究に取り組んでいます。
    味覚の日本語について伺います。

    私は食品の分析や評価が専門です。
    分析も色々ありますが、私は実際に人が食べたり、匂いをかいだりする、官能評価が専門です。
    味、香り、食感などは機械で測りきれないので、実際に人が食べたり飲んだりして人が評価する必要があります。
    製品開発をする時に人で評価するので、より信頼性の高い方法として導入していただいたり、農家の生産者さんからの問い合わせでよりおいしい野菜や果物の評価の方法として導入していただいたりしています。
    糖度の場合は、実際に食べた時はそれに併せて酸味、香り、硬さなどでも甘さの印象は変わります。
    人が食べた甘さの評価は必要だと思います。
    ある一定の感度をもった方を募集して、評価してもらっています。

    予め項目を選んでおいて、評価員さんたちにサクサク感などを合わせておいてその後に評価します。
    触感の語彙も確認しています。
    「食品農産物のテクスチャー用語体系」味覚を言葉に置き換えたもの、予め整理しておかないと言葉を選ぶのが大変で、食感表現をリストアップして整理したものです。
    広い意味でのおいしさに関して言えば、味、香り、食感はどれも大事なものだと思います。
    食感は言葉がたくさんあるので、分析には使いにくいという背景があったので整理しておく必要がありました。
    リストアップしたのが445有ります。
    それぞれの言葉がどんな食べ物によく使われるかというデータも併せて調べています。
    445を物理的な要素で分けています。
    グループ名を付けています。(かみごたえなど)

    べたべた、べとべと、ぺとぺと、ぺたぺたなどもちょっとニュアンスが違うと思います。
    べたべた=ジャム、蜂蜜、べとべと=チョコレートなど溶けてくっつく感じ、ぺとぺと=くっつく感じが軽い。
    まとわりつく=納豆、水飴、オクラなどがあります。
    からみつく、くっつく、にちゃにちゃ、ぬちゃぬちゃ・・・・。
    一つのグループのなかでも沢山あります。
    アンケート、文献、辞書類などで調べてリストアップしてきました。

    一般的には食べ物の状態をお互い伝えあう為の語彙の資料にはなっていると思います。
    こういう食感が好きなのかと言葉にして貰った方がより判りやすいです。
    日本語独特の特徴であったり、日本人特有のセンス、好み、価値観みたいなものが当然浮かび上がってきます。
    外国でも同様な食感の表現を整理することをやっていますが、日本語は言葉の数が多いです。
    英語では100位、フランス語だと235、日本語では445です。
    粘り、ぬめりだとかは外国語では日本語ほど細かい表現はないと思います。
    日本人は粘り気のあるものが好きだと思います。
    音を擬音化して、言葉にして表現することは日本語では多いと思います。(さくさく、とろとろ、どろどろ・・・・)
    とろとろというといいイメージを与えると思いますが、どろどろはイメージが落ちる感じがします。

    昭和のなかばごろにも触感の研究はやっていましたが、その時には、ぷるぷると言う言葉はあげられていませんでした。
    その後からよく使われるようになったと思います。
    1980年代、ゼリーにする(ゲル化剤の研究)研究が進んで、色んな食感のゼリーが作られました。
    それで表現も増えて行きました。
    ぷるぷる、ぷりぴり、ぷるんぷるん、・・・・。
    新しい言葉も増えて来ましたが、消えて行く言葉もあります。
    しゅわしゅわも以前は使われていなかった。(炭酸飲料)
    すかすかと言う言葉、すいか、大根、きゅうりなど以前は生産、保存技術が劣っていたが、最近はそういったものが出回らなくなって、言葉として使われなくなってきている。
    あまり食べられなくなって行くものの表現は、出番が無くなって行くことはあると思います。

    ずーっと引き継がれてゆく言葉もあります、さくさくは1000年以上使われています。
    かりかりもそうだと思います。(果物の硬いものに昔はつかわれていた)
    みずいずしい、ふっくら、ほかほかと言う言葉は好きです。
    みずみずしいと水っぽいは全然違います。
    ほかほかはあったかい感じがして、柔らかくて、出来たて、でんぷん系の食品に使われます。(炊き立てのご飯、蒸したての饅頭、・・・)
    言葉にすることで愛着がわいたり、記憶に残ったりすることはあると思います。
    食べることは身近な幸せなので、幸せな記憶だと思います。











    2018年4月21日土曜日

    勝部麗子(福祉推進室長)        ・声なきSOSを見つけ出す

    勝部麗子(大阪府豊中市社会福祉協議会福祉推進室長) ・声なきSOSを見つけ出す
    豊中市は人口40万人、千里ニュータウンなど集合住宅が増え都市化と高齢化の中で浮かび上がってきたのが、孤独死、ゴミ屋敷、引きこもり、ホームレスなど役所の担当窓口がない狭間の問題でした。
    一方住民と行政を繋ぐために、全国の行政区ごとに組織されている社会福祉協議会も制度の狭間の問題については動くことができませんでした。
    こうした問題にも取り組めるコミュニティーソーシャルワーカー(CSW)と云う新しい専門職の配置を大阪市に提案、2004年全国で初めて大阪府内の自治体ごとにCSWが配置されました。
    勝部さんの取り組みは豊中方式といわれて、全国から注目され,NHKでドラマになり、「プロフェッショナル仕事の流儀」でも取り上げられました。

    社会福祉協議会は地域福祉を推進するということが目的ですが、住民のボランティア活動であったり地域活動を推進しながら行政と住民の間に入ってなかなか救えないような人を発見して、社会の中で居場所を作れたりとか、生活が再建できるようにお手伝いして行く仕事です。
    本当に困っている人は相談に行くことすら思いつかないとか、休まなくてはいけないので日当が貰えないから時間が取れないとか、本当に困っている人は実際なかなか来られない。
    豊中市は交通の便が良くて、ベットタウンとして成り立っています。
    千里ニュータウンは大阪万博の時に出来たニュータウンです。
    人口は40万人で年間で2万人が入れ変わっていて流動しています。
    集合住宅が全体の66%、人口密度は高いです。
    阪神淡路大震災後に地域の中でのつながりを意識しています。
    仮設住宅には高齢者、障害者、子供を育てている人たちが優先的に入れたが、孤立死が起きた。
    全国から集まってきた街で、繋げても繋げてもバラバラになってしまう。
    震災からの23年間は孤独死や、地域の繋がりを作ると言うことを何度も繰り返しやってきました。

    震災後、見守り活動を住民の方と一緒にやったんですが、いろんな心配な方が出てきました。
    最初、一人暮らしの方、老老介護、認認介護(認知症の人が認知症の人を介護)、そういった方を見守りますが、その時、ゴミ屋敷の問題が出てきて行政に相談すると、相談窓口がない、管轄に無い話は行政が受け止めてくれないので、制度の狭間があって、解決者がいないと自分でやらなければいけなくて、そのうちに見て見ぬふりをするようになって、丸ごと受け止める部門が無い限り住民力は上がらないのではないかと大阪市に提案して、大阪府全体の制度になって、平成16年から豊中市でも受け止めますと言うCSWがおかれるようになり、わたしも第一期生になり、現在も活動をしています。
    ばらばらになっているのをもう一回繋げ直して行く専門職の配置がある事が街作りに大事
    なんだということを提案したのが、その当時の状況でした。
    コミュニティーソーシャルワーカー(CSW)は制度の狭間の問題を引き受けることで、解決策は無いが、住民の人と一緒に解決したり、制度がなければ新たに制度を作って対応しています。
    10年間で40を越えるプロジェクトを立ち上げて、SOSメールで徘徊者を街ぐるみで探したり、ゴミ屋敷の問題などを皆でルール化をして解決してゆくという事をやってきました。

    解決する仕組みまで作れるようになったので、10年前では救えなかったような人達も救えるようになっています。
    40万人の人口に対して18人のCSWしかいません。
    各小学校ごとに100~200人のボランティアの方が見守り活動をしています。
    見守りローラー作戦、近所との付き合いが無い所などに訪問して気になる人を発見してもらう、住民活動をしています。
    「8050問題」、80歳に50歳代の無職の息子さん娘さんが同居していて、近隣から孤立していて、80歳代の年金で子供を食べさせている状況の家が孤立していますが、自身で相談に来ることはないので地域の方が声を掛けて、訪問させていただいていることもあります。
    80歳代の父親が息子の家庭内暴力の事で電話がありました。
    母親は寝たきりで、息子が引きこもっていました。
    父親は自分の育て方も悪いと思っていたようです。
    注意しようと息子に言葉を掛けた瞬間に家の中で暴れ出すので、ずーっと暮らしているうちに5年、10年、30年が経ち「8050問題」になってしまったということでした。

    福祉の相談は待っているだけではだめだと思いました。
    100軒行くと5軒は何かあります。
    お金がなくてライフラインが止まっているということもありました。
    通帳にはお金はあるがおろし方が判らないということでした。(認知症の始まり)
    引きこもっている若者の本人の心を引き出してゆく、本人が出来ることから応援する、などやっています。
    漫画を描くことが得意な引きこもりの子に、CSWの取り組みを漫画にしているのでそれを依頼して、その後一般漫画書籍として出版するようになりました。
    NHKのドラマの「サイレント・プア」もこの本がきっかけになったわけです。
    2014年 「プロフェショナル 仕事の流儀」でも 「地域のきずなで無縁を包むコミュニティーソーシャルワーカー(CSW) 勝部麗子」として取り上げられる。
    ゴミ屋敷の問題、文句を言う側と捉えられるとなかなか会ってもらえないので、その人の困っていることから応援を地道に続けて行くことで、段々心を開いていってくれる。
    心配していることをメッセージとして届てゆく。

    ゴミが出せないことで困っている、と云うことがある。(体の問題その他)
    本人の困り感に寄りそうと言うことが大事だと思います。
    問題を理解しないと周りとの関係が悪化して孤立して行くが、周りも理解するようになると悪かった関係も戻って来る。
    「プロフェショナル 仕事の流儀」にでた彼女は昨年なくなったが近所の人が地域葬を行いました。
    いつ自分が社会に中から落ちこぼれるか判らないと思った時に、そういう人達を排除しないということを作って行くことによって、結果的に自分も助けられてゆく、そういったことを改めて思いました。
    ある先輩が「知ることによって易しさって生まれるよ」と言ったんです。
    なんで手伝う必要があるかが判ると、主体的に支えられる。
    ボランティアの人が問題を発見して、発見と解決は両輪で、両輪がしっかりしているのが
    豊中市の大事なところだと思います。
    ゴミ屋敷、400軒以上のゴミ屋敷を解決してきています。

    元々教員志望で、教育実習に行った時に子供がスタートラインに立てない子が一杯いることを目の当たりにしました、忘れ物をしてくる子(ゴミ屋敷かも)、遅刻してくる子(シングルマザーの子かも)を福祉の面から支えるべきだと思いました。
    労働福祉センターでアルバイトをして、日雇労働者の暮らしを目の当たりにしました。
    社会福祉協議会を知って魅力を感じて、この仕事に入りました。
    ボランティアの人を探し、繋いでいくうちに現在では8000人のボランティアになりました。
    最初の頃千里ニュータウンでエレベーターが無くて寝たきりの主人が病院に行けないとの電話がありました。
    若いボランティアを頼んで対処したが、次の機会に上手くマッチングしない時もある。
    階段昇降車を助成金等で購入することができた。
    仕組みを作って行くと助ける人がたくさん増えて行くことを知りました。
    介護者の会を作りました。
    80人参加したいと言うことで、会場を用意しましたが、蓋を開けてみると13人しか来てくれませんでした。
    次に8人までに減ってしまいました。
    或る人がやっと友達、仲間が出来てトンネルの向こうに光が見えたのに閉じるんですか、と言われて、その後80人が入会しました。(参加したくても行けなかったと云うこともある)

    引きこもりについては、家族会をおこなって、外に出られるプチバイトを考えて、いくばくかのお金を貰えるようになって段々と自立して行くことが判ったので、就労体験、一般就労ということで支援をしています。
    引きこもりだった人が今は支え側に変わってきています。
    電球交換(高齢者にできない)、草むしり、ゴミ出しなど。
    支えられる側が支え手に代わって来ています。
    全ての人が居場所と役割を持つことがとっても大事です。
    日本の男性が世界で一番孤独だという数字が出ているそうですが、定年をきっかけに孤立して行く。
    役割を担ってもらう事で元気になって、70人の男性が地域で野菜を作って喜ばれています。
    大事なことは一人も取りこぼさないということです。
    そのためには住民と、専門職が繋がって支えていくという重要さを思います。
    排除されていた人が同じ様な課題を持っていた人だったということを理解して貰う、排除の無い社会をどう作って行くか、これからもっと大事になって行くことだと思います。














    2018年4月20日金曜日

    ジュディ・オング(歌手・女優)         ・【わが心の人】ペギー葉山

    ジュディ・オング(歌手・女優)         ・【わが心の人】ペギー葉山
    ペギー葉山さん、昭和8年東京生まれ、青山学院女子高等部在学中から進駐軍のキャンプで歌い始め昭和27年「ドミノ」でレコードデビュー、昭和34年には「南国土佐を後にして」で大ヒット、歌謡界での人気を不動のものにしました。
    又ミュージカルや司会などでも活躍し、更に「ドレミの歌」を自ら訳して歌い広く紹介しています。
    2007年からは女性で初めての日本歌手協会の会長も努めました。
    昨年4月12日亡くなられました。83歳でした。

    元気な姿を見てから台湾に行ったんですが、悲しい知らせでした。
    オシドリ夫婦と言われた夫の根上淳さんが2005年に亡くなられました。
    ご夫婦は子役としてのジュディー・オングを見ていて下さった。
    私はその後17歳になった時に歌手としてレコードを初めて出しました。
    父が仕事で台湾からGHQの仕事できて、ラジオ局のチーフを勤めました。
    小さい時は寝る時にジャズを選択していたので聞きながら寝ました。
    ペギーさんの声にはあこがれました。
    TV番組でペギーさんとはNHKの「ザッツミュージック」と云う番組で長い時間ご一緒しました。
    その時になんと素敵な方だと思いました。
    その時に歌の事、声の出し方など細やかにアドバイスして貰いました。
    ペギーさんがルイ・アームストロングに会いに行った時に、赤い振袖を着て行って、黒のドレスの上にそれを肩からパーっと長く付けて凄くかっこ良かったです。
    舞台に立った時に後光が射すように姿勢がぴしっとしていました。
    言葉も綺麗であこがれの女性です。

    ペギーさんに大切にしていただいたということを感じたのは、お葬式の時に一度も会ったことの無い御子息が走って来て、「僕はジュディーさんに会いたかった、いつも話にでていたから」と言われて泣いてしまいました。
    根上淳さんは先生のような存在で歴史を面白おかしく、話してくれました。
    私は台湾から2歳の時に日本に来ました。
    劇団に入って子役としてTV、映画などに出ました。
    1961年に日米合作映画『大津波』で映画デビューしました。
    のちNHKのテレビドラマ『明日の家族』を2年位続きました。
    ペギーさんは細やかで人を大切にして、品も良くて教わることは多かったです。
    「出番の前は早く袖にいなさい」ということはよく言われました。
    気合いを入れて舞台に立つ直前の姿までが大切である、という事をよく言われました。
    常に上を目指していて、「努力をしないと後ろに下がってしまうので、努力をして初めて維持する」、とおしゃっていました。

    ペギーさんは新しいことにも貪欲でした。
    ドレミの歌も、ニューヨークに行ってブロードウェーで見て大感動して帰って来て、日本の子供たちに是非歌ってほしいという思いからホテルで書いたと言っていました。
    ミュージカル、舞台、お芝居、なんでも自分の世界にしてしまうような方でした。
    ペギーさんの「ケセラセラ」が好きで、今回シンガポールのレコーディングで「ケセラセラ」を入れました。
    一つ一つ曲への思い出を書いたんですが、それにはペギーさんの事を書きました。
    「魅せられて」 扇が広がるようなドレス、私自身でデザインしました。
    エーゲ海を映したかったが、映像が間に合わなくて、後ろからライトを当てたらいいんじゃないかということで、結構いいじゃないかということで定番になってしまいました。
    紅白でもっと大きいドレスにしようと言うことで、手に持って広げて「おーっ」と皆が言って好評でした。
    それから大きな衣装が登場するようになりました。
    自分の洋服はほとんど自分でデザインしています。(今はチームがしっかりしていますので、スクリーニングに行きます。)
    ステージでの衣装は全く自分の手書きのデザインです。
    余り横とか後ろは気を使わない事があると思いますが、ペギーさんの後姿の綺麗な事、いつも思っていました。

    私は3月21日に「微笑をありがとう」というCDを出しました。
    微笑むと言うことは愛に充ち溢れているから微笑む、幸せな気分になる。
    版画家としてもやっていて、8月に版画展を名古屋で行います。(版画とスケッチ)
    5月に介助犬フェスタがあり3000頭位来て、Tシャツを売って介助犬のサポートにしましょうということで、絵を描いて多くの方に介助犬の事を知っていただきたいと思います。
    人生今日が一番若い日、だからこの一瞬一瞬を大事に楽しくということがあります。
    絵を描いている時は身体の中が気がバーっと回ってじっとして坐っているという感じではないです、頭がぐるぐる回っています。
    台湾は生みの親で日本は育ての親です、どちらも大切です。
    生涯現役、身体の細胞を活性化させながら生涯現役を生きたいなあと思います。













    2018年4月19日木曜日

    假屋崎省吾(華道家)          ・美をつくる 夢の力(2)

    假屋崎省吾(華道家)          ・美をつくる 夢の力(2)
    自分は決して有名になりたいとは思わなかった。
    子供のころは引っ込み思案だった。
    作った家はエネルギーをチャージする場所だと思っています。
    父親が鹿児島出身で次男坊で、東京の大学の建築科を卒業して、中央区役所で働いていました。
    母は長野県の上田で代々質屋をやっていた家で次女として生まれて、銀座のOLになって、父と出会って結婚しました。
    都営住宅に住んでいました。
    庭が広くて、二人とも園芸が大好きで、日曜園芸をやっていました。
    父はゆくゆくは鹿児島に帰るつもりでいた様です。
    父は都市計画を担当していて付け届けがあったが、硬物ですべて断っていました。
    預金をする訳ではなかったので食べ物、エンゲル係数は高かったです。
    「趣味の園芸」、「婦人百科」の番組がありテキストを買って勉強していましたが、月に一回生け花があり、今までは花を作ることが専門だったが、生け花と出会ってやってみたいと言うことを強く思うようになって生け花の教室に通うようになりました。(大学2年)

    子供のころからスポーツは苦手で、教室で答えを発表することも苦手だった。
    薔薇の花が咲いた時に、母を呼んだらその花を切ってしまって、「学校に持って行きなさい」と言われて、教壇の上に一輪ざしで活けてくれて、「綺麗だね」とあちこちから聞こえました。(小学校1年生)
    母は家族で花を楽しむのもいいけど、学校の皆が花の美しさを感じてくれることが素敵なことだと教えてくれたんだと思いました。
    これが原点になりました。
    生け花の教室に通う様になったら本当に面白くて、その後師範になりました。
    銀座、神田とかの画廊で展覧会をやっていて時間を作って通うようになりました。
    就職したが比較的早く辞めてアルバイトをしていたが、個展をしたいと思うようになってはみたものの、画廊は借りれない。
    母に個展をやりたいとポロっといったら、母が100万円出して「これを使いなさい」と渡してくれました。(父はすでに他界していた)
    それで個展をやることができました。

    父と母のお陰で生け花に巡り会えたし、父と母と云えば園芸、土いじり、土を素材にしてなんかやってみたいと思って、色々アイディアが膨らんで土の作品を作るようになりました。
    現代美術の批評家が面白いと注目してくれて、企画展がありお金も出していただいて、色んな人に見ていただき、そのうちに花を教えてほしいということに繋がりました。
    空間が自分は好きだったので空間構成を色々手がけて、世界が広がって行きました。
    その後自分のスタジオを持つようになりました。
    ユニークさが評価されたと思います。
    母も他界してしまい、借金をして家を建てました。
    私も母も美輪さんが大好きでした。
    小劇場で月一回の美輪明宏さんのコンサートがあり、壁に寄りかかって始まるのを待っていた時に「これからは美輪さんのお世話になるんだよ」と云う母の声が聞こえたんです。
    それからは足しげく通う様になり、交流が始まりました。
    人生色んなことがあるが乗り越えて行くしかないですね。

    母は明るくて自分のことよりも人の事を思うような人でした。
    私は本当はピアニストになりたかったが、コンサートなどはよく行きました。
    園芸、料理、ピアノなど父や母から育ててもらったものだと思って感謝です。
    物心ついたころから一般的な男の子とは違っていましたが、虐められるということはなかったです。
    虐められるようになったのはお花をやるようになってからです。
    新しい事を発表しても真似されるんです。
    嫉妬心、ねたみなどほっぽらかしておくしかないと美輪さんから教えられました。
    見ざる、言わざる、聞かざる、それに関わらざる、これが秘訣といわれましたがつくづくそう思います。
    着物は日本の伝統文化なのでもっと気楽に楽しんでもらえた方がいいと思います。
    父母は他界しても存在しているような気持です。












    2018年4月18日水曜日

    假屋崎省吾(華道家)          ・美をつくる 夢の力(1)

    假屋崎省吾(華道家)          ・美をつくる 夢の力(1)
    子供のころから両親の影響でNHKの「趣味の園芸」を観て、庭で植物を育てるのが得意だったという假屋崎さん、大学生の時に生け花と出会い、空間を大胆に使う斬新な作風で注目されるようになります。
    今では生け花に留まらず、TVでのタレント活動や、着物のデザインなど幅広く活躍する假屋崎さんの話を伺います。
    35年の華道家生活を振り返ります。

    TVに出るようになって時間的に難しくなって髪の毛を切る時間が無くなり長くなってしまって、黒だと重たいので金髪にしました。
    服装も花柄など選んで着るようになりました。
    TVなどに出る時も自前でやっています。
    華道歴35年になりました。(59歳)
    一日一日が早すぎて、あっという間に過ぎました。
    展示会などで作り上げてしまうと、もうそれは過去のものとなってしまいます。
    振り返るとああすればよかったこうすればよかったということが一杯あり、嫌悪感があったりするので振り返らないようにしています。
    小さい頃は人見知りする性格でした。
    今ではサービス精神が旺盛でついお客様の立場にたって思ってしまいます。

    26時間位製作にあたって、スタッフも入れ替わりしましたが、展覧会の会場で行ったこともあります。
    枝ものはありとあらゆる花木があり、3m位なものもあり、枝ぶりを観てその場でどこにしようか、配置を決めます。
    いろんな角度、広がり、色のコントラスト、香り、など迫力あるものが楽しめると思います。
    自然の色を謳歌してもらうようにしたことと、枝に色を塗ることによって再生するとか、具体的には竹を割って内側に何色も塗って構成した作品もありました。
    自然の色の良さと人工的な色彩との対比、そういった形で構成しました。
    土を使った作品、「舟」という作品も作りましたが、人気がありました。
    園芸店で買った黒い土を300袋使用して半分水を使って練って作りましたが、段々乾燥してくるとひびが出来てしまいます。
    最終日近くには芽が出てきて、植物は土から色んなものが成長する、輪廻転生みたいなものを感じました。
    タイトルとか説明とかを余りしたくは無い方です。
    観る人がなんでも感じてほしいと思います。

    生け花は活ける空間がとても大事で、花材、器、活ける人、この4つの出会いで生け花は成立するが、活ける空間を一番大切にしています。
    小さいころから好きだったのが古い建物でした。
    神社仏閣、歴史的な建築物に花を活ける展覧会を数多くしてきましたが、ライフワークと言えるのが城で活けると言うことをやってきました。
    松山城で活けさせてもらったことがありますし、名古屋城本丸御殿で絢爛豪華な空間の中で、お花を活けさせて貰ったのも思い出深いものです。
    古い建物(目黒雅叙園の保存建築「百段階段」)の開かずの間がありそこでもやらせていただいたこともあり、一番多い時で7,8万人来て下さった年もあり、毎年恒例の行事になりました。
    長い階段があり両脇に部屋があり一つ一つの部屋に作品があります。
    朝から晩まで3日間かけて搬入して作品化して、全エネルギーを注ぎ込みました。
    花と建物が融合するように個性的に毎年テーマを決めてやってきました。

    生け花は日本独自の文化です。
    エネルギー源だし、四季を感じさせるし、癒してくれるし、これからも身近に感じていただければと思っています。
    日本の建物に花を活けると本当にしっくりします。
    色は自然界が生みだしたもので、生きていると言ったものをいとおしむとか、大切にするとかそういったものを日本人は忘れてはいけないことで、そういうものも感じさせてもらえる。
    つぼみが段々と咲いて花が開いて、散って行くさま、刻一刻美しいという思いをさせてくれます。
    花は自然の中で一旦完成形として出来ているものだから、それを活けると云うことについては襟を正すような思いで向き合っています。
    一旦自然界が完成させた美を、自分の手によって新しいものに創造させるということが自分の生け花だと思っています。
    父が59歳で他界して10年たって69歳で母がこの世を去ったので、一日でも長生きしていろいろ経験して感動してもらえるように取り組んでいますが。

    TV、教室、デザインなどよくこんなにやらせていただけているかなと思います。
    糖尿病なので主に自分で作って食べています。
    海外旅行が大好きで1~2カ月に一回行っています。(自分が好きなことができる時間、美の探索)
    やりたいことはいっぱいあり、花は若い方に教えたり、活けたことのない空間があるのでチャレンジしたい、作風ももっと違うものを生み出せるように挑戦したい。









    2018年4月17日火曜日

    田辺鶴瑛(講談師)            ・泣き笑い介護40年

    田辺鶴瑛(講談師)            ・泣き笑い介護40年
    昭和30年函館市生まれ、若いころから3回親の介護、(義理の親を含め)初めての介護は大学入試を目指している時期に母親の付き添いの看護をし、母を見送った後、その後、陶芸家、女優など様々な道を目指します。
    その後夫と出会って26歳で結婚、子育て、夫の母親の介護を次に経験、その母を見送ってその後出会ったのが講談で、33歳で講談師田辺一鶴に弟子入りします。
    3度目の介護は夫の父親の介護でした。
    認知症と寝たきりの父親の自宅の介護、ストレスがたまって家族が崩壊するのではないかという危機を迎えたそうですが、介護の仕方に工夫を凝らして危機を乗り越えたそうです。
    その自分の介護の経験が介護で悩んでいる人に役に立てばということで、思い付いたのが現在田辺さんが行っている介護講談です。

    今は女性の講談師が増えていて1/3が女性になりました。
    やる気のある優秀な女性が多いです。
    母親がうっとうしくて逃れたくて東京の大学を受験しましたが、いずれも落ちてしまって予備校に通っていたころに、母に脳腫瘍があるのではないかということで、記憶をつかさどる所に障害が出て、認知症に近い症状でした。
    母は美人でおしゃれだったが、病気になって母に対してつっけんどんでした。
    手術したところ、脳動脈瘤で近いうちにその手術をしようということだったが、その夜脳圧が上がって痙攣を起こして、緊急手術になりました。
    脳が痙攣を起こしてしまって脳がぐしゃぐしゃになり意識の回復がありません、と云われました。
    医学が進歩して何年でも生きられると言われました。
    母に暴言を吐いたことが罰があたったんだと思って一生懸命看病しようと思いました。
    半年、1年と続くうちに孝行はどこかにふっ飛んでしまって、自分だけどうしてこんな目に会うんだろうと思いました。
    母の介護が地獄のようで、いやいや介護をしていました。

    母は4年ほどで亡くなりました。
    好きなことができる自由になり、絵描きだとか女優になりたいと思っていました。
    本屋で「マンハッタン自殺未遂常習犯」草野弥生さんという本に目が留まりました。
    難解な文章で、この人に逢いたいと思いました。
    電話をして会いに行きました。
    函館弁で喋って見てといわれてかっこ悪くて話せなくて、荒井由美さんの歌を歌ったりしたら喜んでいました。
    草間さんの助手になって、草間さんからあなたの人生を全てを私にかけてと言われて、わたしは自分の花を咲かせたいと思って辞めました。
    当時夫は川崎の看護師さんに絵を教えていました。
    独身主義ですといわれたが、私は惚れっぽい性格で、プロポーズ大作戦を開始しました。
    夫は親友から紹介されましたが、函館の実家の片づけがあり3人で一緒に1週間ほど過ごす機会がありましたが、その時に「1週間もいると情が移るもんだよね」と言ったので、「じゃあいっしょに住みましょう」と言ってしまいました。

    夫から言われたのは、おふくろは広島で原爆に遭って腎不全になっていて沢山薬を飲んでいるから、おそらく老後は介護ということになると思うがどうかと言われて、わたしも介護をしますと言いました。
    しかし、若い時だったので余り深くは考えていませんでした。
    自分はいい人になりたいとの思いがあるので、いい人になりたいと言う介護ということで見返りを期待する。
    そうするお腹の中は地獄になる訳です。
    間違いは相手に対して病気を治そうとした。
    甘いものが好きだったが玄米を食べさせ様とするが、食べたくないということで思い通りにいかない。
    ストレスがたまって悶々としました。
    或る時ヒステリーの大発作を起こしました。
    夫に頭からソースをかけましたが、それを見て大反省しました。
    かっこ悪くて仮病を使って寝て夫が介護してくれて、翌朝夫が「所詮他人だものなあ 出来るだけの事をこっちもやるし、おやじにもやらせる」と言いました。
    夫の弟も独身で同居していたし、介護もあるし、ストレスがたまりました。
    老夫婦は夫が出張で飛び回ったり女性問題等で口もきかない夫婦だったが、あと3年ももたないかもしれない、親爺も罪滅ぼししたらどうかと夫が告げて、それから病院の送り迎え、背中のマッサージを毎晩やりました。
    「いまさら何よ」といっていたが、3年後おばあちゃんが亡くなる時は「ありがとう」と言って感謝していました。

    表現することをしたかったが、介護をやって来て我慢してやってきて、或る時何か自分の情熱を表現したいと思っていたところ、夢に田辺一鶴がでてきて新聞に道場を開くという記事が出てきて早速行きました。
    家でやってみたらストレス発散しました。
    私が家でやっていたら子供が直ぐ覚えてしまって、これは凄いということでちびっこ講談師としてデビューしました。
    講談師として夫にも了解して貰いましたが、33歳の時でした。
    前座から二つ目になり仕事が無くなり、池袋で男の介護教室があり、北欧の介護のビデオを見せられて、プロのヘルパーが快適な環境で介護しているのを見てびっくりしました。
    介護講談を依頼されました。
    実話を思いだしながら、明るい話を作り上げました。

    その後、おじいちゃんが高齢者お見合いの会に入って69回もお見合いしました。
    愛人の家で10年ぐらいして、認知症が酷くなり、白内障にもなりました。
    大嫌いなおじいちゃんだが、誠実な優しい夫がいるのもおじいちゃんがいたからこそと思って、何か恩返ししないと一生後悔すると思って、明るく楽しい介護をしようと在宅介護をしようと思いました。
    脳梗塞をおこして、愛人もお手上げということで、私の大丈夫だという一念から周りも納得しました。
    大きな声を出したりするので、外に漏れない工夫をしたり、目薬の購入なども工夫してわざと無いと嘘を言って大急ぎで買ってきたふりをしたりして、献身さをアピールしたりしました。
    私の持っている常識とおじいちゃんが考えている世界は違う。
    おじいちゃんの世界も間違っていないということに気が付き始めて、おじいちゃんの世界に会わせるようにしました。
    おじいちゃんが「たすけてくれー」というと「助けに来たぞ、じじい」というと「おーたすかった」と言って、認知症の世界と私の個性とが凄く合ったんです。

    おじいちゃんとの会話の方が面白くなりました。
    本音を言うと言うことは大事です。
    最初のころは重苦しく疲れてしまってやる気が無くなる様な状態でしたが、段々「ありがとう、お前は天使だよ」というようになり重苦しさが軽くなっていきました。
    介護して3年ぐらいすると、あの世と行ったり来たりするような話をしたりしています。
    介護で一番大事なのは相手の喜ぶ会話をすることだと思います。
    その人の歴史、どの時代一番楽しかったのか、苦労したことなどそういうのを把握しているとその人の満足する話ができる、そうすると介護は楽です。
    最初の妻は原爆で亡くなり、2度目の奥さんで夫が生まれ、結婚して娘が生まれたわけです。
    誰か一人欠けても生まれてこない、本当に偶然の重なりだと思います。
    介護が無かったらおじいちゃんにも興味をもたなかったし、生まれてきたことに感謝して嬉しい楽しい感動を、日々自分のことにして生きていったらぽっくり逝けるかもしれない。
    それを決めるのは自分、創意工夫するのは自分です。