2018年1月18日木曜日

鈴木潤吉(日本語学校顧問)       ・100年飛び続けた“赤い鳥”

鈴木潤吉(日本語学校顧問)       ・100年飛び続けた“赤い鳥”
大正7年に作家で詩人の鈴木三重吉が子供の楽しい空想や感情を素直に表現できる詩と歌を作ろうと知人北原白秋の協力を得て児童文芸雑誌「赤い鳥」を自費出版して今年で100年になります。
留学生に日本語を教えてきた鈴木三重吉の孫の鈴木潤吉さんは10年前父の「三重吉のことは頼むぞ」と言い残した言葉を受け、爺さんのこと、どんなことを成し遂げた人なのか知ろうと、196冊の雑誌「赤い鳥」を購入し、三重吉が選んだ童話、童謡を全て読んだとおっしゃいます。

爺さんのことなので、両親も話していたし、父が広島の爺さんのお墓参りに連れていってくれたりもしました
本もあったし子供ながらに家と関係有るんだなと知りました。
小学校2,3年の国語の本に「少年駅伝夫」という物語が載っていました。
「これは潤吉君のお爺さんが書いた話だよ」と先生が言ったが、あの時は恥ずかしかった。(何故かは判らなかった)
爺さんのことは中学、高校でも無関心を装っていました。
10年前に父が亡くなりましたが、その前頃に、「三重吉のことは頼むぞ」と言われました。
今まで爺さんのことはほとんど知らなかったし、作品も真面目に読んで無かったので自分でも愕然としました。(50代なかば)
その後小説などを読みあさったりしました。
「赤い鳥」の雑誌、小説などを神奈川近代文学館、広島の中央図書館、成田の市立図書館に分散して全部寄贈してしまっていましたので、家には何も残っていませんでした。

4,5年前にインターネットの古本サイトで復刻版を三万円で買いました。(196冊)
「赤い鳥」は大正7年から20年の間に毎月1冊出して全部で196冊でした。
自費出版で出した文芸雑誌でした。
子供向けの大衆雑誌は当時沢山ありました。
内容は立志伝、勧善懲悪もの、おとぎ話、冒険談とかでした。
三重吉は東京帝大に入学して夏目漱石に会って心酔します。
夏目漱石に勧められて三重吉は小説を書いたのが「千鳥」と言う小説です。
「ホトトギス」に載って文壇デビューしたと云うことです。
10年ぐらいの間に80編の小説を書いたが、花魁に淡い恋を抱いたと云うようなものが多かった。
もっと生身の人間を描かなければいけないと言われたが、時代遅れとなってしまって、何が出来るのだろうかと言うことになる。(研究者の意見)
「すず」伝説と言われているものがある。(すず:三重吉の長女)
子供のために何かいいものがないかと本屋を回ったが、当時の雑誌に対して憤慨して、それならば俺が芸術的なセンスのあるいい物語を出してやろうと決心するわけです、それがすず伝説と言われている。

モットーとして「残念ながら日本人はいまだかつて子供の為の純麗な芸術性のある物語を持っていない。」と書いている
大正7年に出版する。(漱石は2年前に亡くなる。)
北原白秋、島崎藤村、芥川龍之介などが筆を担当する。(一流の作家を総動員する)
西条八十の「かなりあ」の詩と楽譜も載るようになる。
北原白秋が中心になって童謡も載せていった。
「蜘蛛の糸」「杜子春伝」「一房の葡萄」「ごんぎつね」など戦後の教科書にも載っている。
時代を越えて読み継がれているものがたくさんあります。
昭和11年に亡くなりますが、196冊目を出版して続かなくなる。
「小さなものたちへいい童話を届けたい」というその情熱を死ぬ前まで抱いて生きてきたことは凄いと思います。
「赤い鳥」は飛び続けました。
松谷みよ子先生の「モモちゃん」シリーズ、坪田譲治、「犬のおまわりさん」を作った佐藤 義美が若い頃「赤い鳥」に書いています。
巽聖歌も「赤い鳥」に作品を載せています。
金子みすゞが書いた詩も稿欄に載っている。
海達公子 17歳で亡くなっているが、その詩も投稿欄に載っている。

ファンタジーという形での宮崎駿の作品を見たら三重吉は感動すると思います。
時代を越えて読まれるものは大人も感動する。
漱石四天皇、鈴木三重吉、森田草平、小宮豊隆、安倍能成。
漱石崇拝の権化みたいな人たちだった。
鈴木三重吉は大酒飲みだったが、また完璧主義、凝り性だった。
昭和6年ぐらい、北原白秋とちょっとしたきっかけで絶交してしまう。
白秋が童謡の原稿を出すのが遅れて間に合わなくなってしまって、三重吉は怒り心頭してしまう。
悪いことにたまたま酒を飲んでいるときで「そんな童謡は捨ててしまえ」と言ってしまって、白秋のプライドを傷つけて絶交と言うことになったようだ。
しかし鈴木三重吉の「赤い鳥」運動には白秋は敬意を表している。
言葉で人間性を豊かにして様々なことを受け入れることが出来る人達を育てたいと云うことで祖父とどこか通い合っているところがあるのかなと思っています。