2018年1月23日火曜日

髙口光子(理学療法士)          ・介護は究極の営み

髙口光子(理学療法士)        ・介護は究極の営み
高齢者介護をめぐる環境が厳しさを増す中、高口さんはスタッフのモチベーションを高め、入居する高齢者の意欲を高めようと日々奮闘しています。
高口さんはおよそ30年前理学療法士としてキャリアをスタートさせました。
当時は高齢者介護の制度もシステムも無く認知症などの高齢者が老人病院に入れられて、社会的入院などと言われました。
その頃の老人病院の処遇のあまりの惨状から、介護保険制度がスタートし、高齢者介護について社会の認識もようやく変化してゆくといった、まさに介護の黎明期を高口さんは一緒に歩んできました。
いまも介護とはなにかを問い続けながら現場の職員を育てチームをまとめながら、老いから看取りまで人の自然の姿を受け止める介護のシステム作りへと走る続ける、高口さんです。

資格は理学療法士、介護福祉士、介護支援専門員など様々な現場の資格を持っている。
お年寄りの施設の立ち上げにかかわるようになっています。
使いやすいトイレ、お風呂など設計から職員募集、職員の人材育成 、教育研修やその仕組み作りが一番の仕事です。
相模原に特別養護老人ホームを立ち上げています。
160名入所しています。
スタッフは高校卒業後直ぐの人から退職後に改めて第二の人生と言うことで働きに来る人まで様々です。
若い方たちはほとんど人と触れたことがないと云うことで、教育の時間がない。
あなたたちが生まれた時は皆要介護度5で、誰かのお世話にならなければいけない。
ウンコが出ないときには心配する、ウンコを見て嬉しいと云うことはその人が生きていてくれてうれしい、そういう仕事だよと言うと何が何だか分からないと言います。
現場にいってウンコが出た時には喜べる様な経験をする、そういったことを伝えたいことがある、伝えたい人がいる、と云うことは大事で、褒めて認めてやる。
そういったことを見届けるところまでが私の仕事だと思っています。

介護は色々なことがあるが大丈夫かと聞くと大丈夫だと言うが、ボランティアとは違うと言って、現場に入っていってお年寄りと出会ってどんどん変わっていって、その内に自分だけに対する「有難う」と言うことを体験できる。
介護の凄いところかと思います。
自分の方こそ有難うと言いたいと言ってきたりします。
自分の居場所があることを知って、そこから落ち着いた介護が始まります。
最初の半年から1年は自分が頑張ればお年寄りが有難うと言うのを素朴に受け止める。
2~3年になって来ると、何とかしなければいけないと云う様に良い介護士ほど思うようになり、このおじいさんさえいなければ上手くいくのにとか、あの人大嫌いとか、グーッとでてくる。
でもそういったことがいえることが大事。
介護ストレス、人は思い通りにはならない、思い通りにしてはならない、悪性の感情が出てくる。
家族のように接してと云うことだが、他人以上身内未満の関係性、深くかかわってきたからこそ出てくる感情ですが、大切なのはそれを上手く受け止めてくれる先輩、チーム、上司がいると云うことだと思います。
家族の苦情とかも来ます。
苦情が全然出ないのも問題で、閉ざされた職場と云うことになるので、言いにくいことをいかに言っていただくかと云うことが重要です。
家族の方は施設に入れることについては、どこかで抵抗感があり自分を責める。
施設では私一人ではないと云うことを伝え切る、それは現場の職員たちの仕事しかできない仕事ですね。
家族の方が介護を選んだことに納得してもらえることが、私たちの仕事の中でも重要なことだと思っています。

私が対人援助を間近に見たのは中学から高校生になるときに、母が乳がんになり付添をした時に色々な人がいることを知りました。
進路を考えたときに、時代が変わっても女が食べていける仕事をしたいと思いました。
30年前、理学療法士が出来たばかりでした。
リハリビの学校を卒業して北九州のマンモス病院に行きました。
店が倒産したが奨学金も高かったのでその病院に来ました。
行って見渡す限り寝たきり老人でびっくりしました。
手足を縛られたり全員のオムツでほとんど寝かせきりの状態でした。
最初に処方が出て、先生は「その人はそのままでは棺桶に入れないので、棺桶にきちっと入れる身体にしてくれる」、と言われました。
意味が判らなかった、曲がりくねった手足、腰だと蓋が閉まらないので閉るようにするということだった。
手足の関節を曲げたり伸ばしたりすることをしました。(関節可動域訓練)
3か月続けていると、こんなことをする為に勉強、資格を取ったのではないと云う思いがしました。

ある家族から「今亡くなりました、有難うございました」と言われて、こういう仕事をしていくんだと思いました。
学校で習ったことが何にも役に立たない、と云うふうな思いに落ち込みました。
手足を縛られたり薬浸け、検査浸けで一職員としてどうにもなっらない状況でした。
7から8年その病院にいました。
結婚して保育施設のある次の病院に行きました。
義父が脳卒中で倒れて、同居するようになりました。
2回目の病院では独創的なことをするようになりました。
そうめんを食べるときに、そうめん流しを工夫して訓練室でやったりしました。
「お鍋」を囲んで食べる、と云うようなこともやりました。
感染症を気にされたりしましたが、最終的には納得して貰いました。
表情が違います、患者さんの顔ではなくて、本当に喜んでくれました。
一緒に楽しんで人として繋がることがどんな薬よりも、治療よりもお年寄りを元気にする、それに先生なども気付き始めました。
人が人として当たり前に接する、普通に暮らす、それを支えるのが介護だと言うことを知ったときに、最後まで普通にご飯を食べる、普通にお風呂に入る、その人らしい方法や、やり方で、それが最後まで支え切れることが人間らしさを支え切ることで、それこそが生きる力になるんだと知った時は衝撃で、今まで勉強してきた医療、リハリビとは違うものがあるんだと云うことを知りました。
その方のあるがままを支える、その人に取って必要なものを準備する、その人に笑ってもらいたいなどなど、そいうことが介護の仕事なんだと云うことに気づきました。