2018年2月19日月曜日

東儀博昭(宮内庁式部職楽部首席楽長)  ・【にっぽんの音】

東儀博昭(宮内庁式部職楽部首席楽長)  ・【にっぽんの音】
能楽師狂言方 大藏基誠
 
筑前琵琶、平家琵琶、薩摩琵琶と区別して、楽琵琶と言います。
横にして弾きます。
足の上に楽器を載せて構えて上からばちで弾くのが特徴です
4弦を上からかき鳴らすので低音です。
この琵琶は代々家に伝わってきた琵琶で、修復して使っています。
この琵琶は200~300年と聞いています。
舞いもあります。
陵王(りょうおう)の舞い、面を付けて赤い衣装で煌びやかな衣装です。
中国の長慶は美男子で顔が端正で、戦いの時に士気が上がらないと云うことで、おっかない形相の面を付けて戦いを挑んで勝ったことを表した舞いだそうです。
面の裏に綺麗な色彩で虹色の様な塗りが入っている。
千里を駆けるときには、光速で走ると、物理学的には虹色に見えることが最近分かって、こんなところにも細かい色彩の技が入っている、凄いなあと思います。

赤い衣装、左舞いには赤を基調としています。
舞楽には左方、右方に別れていて、左が赤、金、太陽、右が青、銀、月と別れています。
「没日還午楽」 出てくるときに、ぐるぐる円を描いてでてくるが太陽を金のごとく円で表す、舞いぶりの良さ、構成の素晴らしさを持っている。
これが日本の各神社でも普及して行く。
陵王(りょうおう)は左方独特の特徴的な舞です。
左からでて来て、出る足は左足から、左回りと決まっている。
右方は右からでて来て、出る足は右足から、右回りと決まっている。
左方は旋律に合せる、右方はテンポに合わせると云うふうに区別されている。
神様への奉納行事なので、狂言などでは神様から遠いほうの足から出なさいと教わってるが、そういった処も雅楽から来ているのかもしれない。
大きな太鼓が左右にあります。(鼉太鼓(だだいこ))
非常に迫力のある音。
舞楽の時に打つ楽器です。
「鼉(だ)」と云う生き物の皮を貼ったと云うことなんですが、「鼉」と云うものが夜中に時を告げるという鳴き声を模したのが、鼉太鼓だと言われます。
つづみのように張って、あげバチ(16本)で締めあげて音を調整します。

舞楽は自分の好きなように見て貰うのが一番いいと思います。
「胡徳楽 (ことくらく)」と言う演目は観客から笑ってもらえました。
お偉い所に接待されたものが自分で徳利のおおきなものと盃を持って上ろうの席から勧めて行くときに、その間に盗み飲みをして自分が酔っぱらってしまって、その光景が面白い。
舞楽は堅苦しいと思われないで色んな見方をしていいと思います。
「胡徳楽 (ことくらく)」の舞いはアドリブ的なものが多々あります。
*雅楽「納曽利 破(なそりのは)」朝鮮系統 右方の舞いの曲(テンポの曲)
二匹の竜が舞い遊ぶさまを表したもの。
一人舞のときには『落蹲(らくそん)』]一人舞を『納曽利(なそり)』と呼んでます。
平安時代にはつがい舞いとして舞われました。
相撲や馬くらべなどで、左が勝った時には「蘭陵王(らんりょうおう)」、右が勝ったら「納曽利(なそり)」を舞って勝利を祝ったと云うようなことも伝えられています。
高麗笛、篳篥(ひちりき)、鼉太鼓(だだいこ)、鉦鼓(しょうこ)、三ノ鼓 で構成しています。

50年雅楽に携わってきました。
先輩たちがどのように振りなど編み出したのか、探求することにわくわくする気持ちが有ります。
草木の風になびくさま、動物の仕草、自然界の現象などを垣間見て、さりげ無く取り入れ組み込んで優雅につくりあげたものを、当時どのような立場で回想していったのかという気持ちを察すると、なかなか楽しく思って取り組んでいる次第です。
深く知れば知るほど流石だなあと思います。
歌舞伎、三番叟の前に雅楽が有ってその前はどうなんだろうと突き詰めて行くことなども面白いと思います。
雅楽の名人、音が響き渡る、そして心にも、舞楽、腰を落ちつけて美味く足の所作が出来ると、綺麗な舞が舞える。
日本の舞いの所作は腰を落とす。

日本の音、間の音、静けさの音、まさに日本の音ではないかと思います。
聞こえない音はまさにいい感覚をもった音だと思います。
シーンと間を取る音、これは日本の音だと思います。
薪がパチンと割れる音、風のそよぐ音、などもいいですね。
神楽歌 「千歳」
天皇陛下の即位の後の祝宴の儀において、雅楽の演奏が4日間行われたことが有ります。
「太平楽」
太食 (たいしき) 調で新楽の中曲。朝小子 (ちょうこし) ・武昌楽・合歓塩 (がっかえん) からなる合成曲。舞は四人舞。即位の大礼のあとなどに演じる。番舞 (つがいまい) は陪臚 (ばいろ) など。武昌破陣楽。
一番豪華な舞い。
衣裳も相当重いし2時間かかり大変です。
探究心を持ってやっていきたいと思います。
*『越天楽』(えてんらく)















2018年2月17日土曜日

前田益尚(近畿大学准教授)        ・がんとアルコール依存症を乗り越えて

前田益尚(近畿大学准教授)        ・がんとアルコール依存症を乗り越えて
54歳、マスコミ論を教える近畿大学准教授。
2006年に膵管結石、2007年にはステージ4の下咽頭がんが見つかりました。
闘病は苦痛の連続でしたが治療をアトラクションととらえ、病院スタッフを笑わせながら明るく乗り越えました。
2013年アルコール依存症と診断されました。
お酒を飲むとアイディアがひらめいたり、自分の意見を堂々と言えたりすると信じていて、長い間お酒を飲み続けたと言います。
依存症治療のプログラムで回復した前田さんは、アルコール存症は治療で回復する精神疾患であると知ってほしいと、学生に、広く社会に伝えようとしています。

2006年 膵管結石はアルコールの大量摂取で膵臓に一部が石灰化して石が沢山出来て、膵管が詰まると植物を分解するインシュリンが分泌されなくなって糖尿病が悪化するとか厄介な病です。
衝撃波によって体内の硬い物質だけを破壊する技術で管に詰まった石を破壊すると云う治療を受けました。
溜まるたびに破砕手術を受け、痛さを耐えました。
2007年にステージ4の下咽頭がんが見つかる。
声帯を取ろうと言われたので即座に困ると断わりました。
放射線治療なら完治は見込めないかもしれないけれども、余命5年で生存率50%の選択肢があると云うことで即座にそれに乗りました。
京大病院に実験的に声帯を残して咽頭がんを切除する先生がいると云うことで紹介してもらい、伺いました。
手術をしての付随する悪いことを色々言われました。
食道は守りきれないかもしれないとか神経を傷つけて左手が動かせなくなるかもしれないとか言われました。
声帯を残して教壇に戻れるのであれば構わないと思い、声帯を残す実験的手術をする事になりました。
上手くいって現在こうしていられます。

放射線治療、抗がん剤治療などで10カ月喉に開けた穴がふさがらなかったり、色んなことが有りました。
アトラクションだと思って看護師さんなどを笑わせて、楽しい入院生活を送っていました。(苦しいが笑いが取れるともてるんです)
胃カメラの時にはエーリアンのことを思って、苦しかったが楽しみましたというと看護師さんに受けるんです。
そのほか色々なことをしました。
虚勢を張ってでもポジティブに考えて、自然治癒力をあげる努力をみずからしました。
2013年アルコール依存症と診断される。
癌から退院して、その後結婚したが、妻から言わせると飲み方がおかしいと言われました、一日中飲んでいると。
妻がネットで調べて、アルコール依存症と云うことだったが、自分は認めませんでした。
後で判ったが、アルコール依存症の脳は自分ではコントロールできない障害を起こしている。

隠れていても飲む。
大学にもいけなくなって、妻に導かれるようにして入院しました。
アルコール依存症になる人は大量に飲むように思われがちだが、私は余り飲めるタイプではなかった。
量ではなくて酒を常に手放せない状態に心身ともになっているのが依存症です。
厳格な父(精神科医)に厳しく育てられて、中学の中間、期末試験で90点以下だと血が出るまで殴られた。
委縮した人格が形成されたと思う。
大学に入っても自分のアイディアを自信を持って発言できなかったが、コンパでお酒を飲んで、父親の恐怖がスーと抜けていくようで、恐怖が無くなって自分のアイディアが発言できるようになったんです。
それをきっかけにお酒を手放せなくなりました。
大学の先生にも認められるようになり、お酒さえあれば自分の能力が認められると思うようになり、手放せない存在になりました。
又、良いアイディアが出ると錯覚する様になりました。

35歳で近畿大学の専任の教員の職を得るようになりましたが、お酒がやめられない状態になっていて、後のち、依存症になっていった訳です。
朝から飲んでしまいます、お酒を飲まないと不安で、不安感でついお酒を飲む、お酒で頭を浮かせておかないと大学へも通えない、と思ってしまっていました。
僕の場合は妻にたいして暴力、暴言はありませんでした。
その分発覚が遅れたと云うこともあったかもしれません。
先生からこのままでは内臓がボロボロになり死ぬことになると言われてしまいました。
アルコール専門病院を妻が見付けて家族の振る舞いを勉強して、妻の心配が取れると云うことであればということで病院に行ったのが治療の第一歩でした。

脳の前頭前野が健常者とは違った状態になっている。(コントロール障害)
自分の意志で酒をやめたいと思っても、脳から優先順位は先ず酒だろうと指令が来る。
止めたいと思っても、お酒を手に取らないと手が震えたり、汗が出てきたり、落ち着いて体が反応しないような脳が出来上がってしまって、そうなると結果とりあえず一杯飲んで、日常生活ができるようにというふうに、なっていってしまう。
日本はコンビニでいくらでも手に入ることが出来る。
体がアルコールしか受け付けず疲弊していて起き上がれないような状態でも、脳から優先順位は先ず酒だろうと指令が来るので、アルコールのためだったら起き上がってアルコールを買いに行ってしまう。
入院して隔離されないと、酒と接触させないようにしないといけない。
先ず自分ではコントロールできないと云うことを勉強しました。
自助グループ(断酒会など)に参加することを入院中に促される。
お酒がいくらでも手に入る社会に戻っても酒を止められる体質を作らないといけない。
脱落する人も必ずいますが、私の場合は3か月の入院と1年間の休職で、自助グループまわりでの会合で立ち直りました。

体験談をひたすら語り合います。
自分は一人ではないと踏ん張ります。
休職中は延べ330回行きました。(一日2回行ったこともあります)
今までに619回行っています。(行くとスタンプを貰えますので、それが励みになります)
飲酒第一の回路に上書きしないといけない。
私の場合、自助グループ第一の回路へと上書きしていきました。
君子危うきに近づかず、ですが、それぞれ個体差がある。
飲酒の回路がどう再起動するのか、色々です。
危ういと思ったものには近づかない。(酒席には絶対行かない)
卒業の謝恩会で注がれると断れないと思うので、一切酒席には出ません。
自動販売機があるとコインを入れたくなるが、「キープカミングバック」というメダルをもらって、小銭入れに入れておき、これを見ることで抑止になる。

大学の休職願いの時にはこの件は気になったが、大学にも診断書を出して退路を断って、大學も理解してくれて休職することになりました。
先ず謝罪の日記を書きました。
学生にたいして申し訳なかったと、謝罪の文章を書いたが、退院した頃は学生は社会人になっていて、15人の卒業生の中から3名がメールをくれました。
日記をみてくれて、私が断酒会へいったり、酒を辞めて辛いだろうと思うと僕の会社での辛いことなどはと、励みになります、毎日日記を読ませてもらってますとメールを貰って、教壇に戻る意義があると思って1年間毎日日記を書いて、復帰しました。
回復している姿をおおやけにすれば、後にどうしているか判らない人にたいして、そういう姿を見せると云うことも教育者の一つの有りようだと思って開示しています。
そういうことで退路を断っています。
2016年「楽天的闘病論」を出版。
癌は絶望的になれば自然治癒力が落ちる。
精神疾患は自分でのたゆまぬ努力が必要で、感動的な体験談を聞けたとか楽しみがあるという気持ちをもって、人生の苦境に陥った時にポジティブに考えて欲しいと云う意味で出版しています。












2018年2月16日金曜日

桐野夏生(作家)            ・作家生活25年 新たな挑戦へ(後半)

桐野夏生(作家)      ・作家生活25年 新たな挑戦へ(後半)
ネールサロンには月1回2時間掛かりますが、捻出する時間が大変です。
旅行にも行きたいが時間を考えるとなかなかできません。
作家生活25年になりますが、思いがけない人生です。
デビューが遅かったです。
私は20代の時には、映画関係に勤めて途中で結婚して子供を産んで、最初はシナリオライターになろうと思ったんですが、それから作家になって行くんですが、それが意外なことで、20代は本が好きだったので編集みたいなものが出来ればいいと思っていました。
27歳の頃にシナリオ学校に行きましが、小説家になろうとは思っていませんでした。
小説の方が面白いと思って書き出したのが30歳過ぎですね。
31歳の時に友達がロマンス小説の公募でやらないかと誘われて、書いてみたら心理描写なども書き込めるしシナリオより自分に合うと思いました。
桐野夏生にしたかったが男の名前みたいだと言われて、しかたなくペンネームは桐野夏子にしますと言って、そうすることにしました。

世に出てお金をもらわないと仕事として成り立たないので、小説は表現なので読んでもらって受け止めてもらわないといけない。
反応が欲しい、それによって又次に自分が書きたいものが判って来る。
誰かに読んでもらうことが大事で、多くの人に読んでもらいたいと思う。
自分が何者かというのが言葉を出してゆくうちにバレてしまうので、やっぱり書いている人間にとっては怖いことです。
人に読んでもらうと云うことは自分がどれだけの作家かとか、どれだけの人間かということ、どれだけの作品なのかということが判ってしまうので、もの凄く怖いことでもある。
おびえの壁をいくつも乗り越えていかなくてはいけない。
評判、評論家に言われたりするが、耐えなければいけない、傷ついてしまうことがある。
強くなるためにはおびえを克服するしかない。
作家の仕事は毎日コツコツやって行くしかないので、一人でやる仕事なので鬱屈する人もいると思います。
あるいは自我肥大したり、どっちかかもしれないが、そうするとポシャッとやられたり、鬱屈していると褒められたり、そういったことの連続なので、いかにして客観性をもって書いていくかとしたら誠実に書くことしかないと思います。

6時半ぐらいに起きて、ご飯、犬の散歩などをした後に、9時半から10時位には仕事を始めます。
昼ご飯を食べた後、午後は打ち合わせに行ったり、締め切り間際は打ち合わせも入れず家で書いています。
最近集中力が無くなったので、しょっちゅう切り替えています。
資料の山があり大変です。
読まなければいけない本、雑誌などもあり整理しきれなくて、一つ仕事が終わって捨てたいが単行本が出るので捨てられなくて、次に文庫本が出るので捨てられなくて、そうすると色んな資料の山が出来てしまう。
パソコンで書いてプリントアウトして推敲するので、時々捨てないで居るとなにがなんだかわからなくなってしまう。
物凄い紙の量になってしまう。
60代の後半で、私は長編型なのであと4作ぐらいなのかなあと思います。
今は若い女の人が受難の時だと思いますが、そういう人のことを書きたいとは思います。
後ゆっくりそういうものを含めて考える時間が欲しいと思います。
時代小説などもやってみたいと思いますが、でも多分書かないとは思いますが。
興味をひかれるのは明治維新の時代ですかね。
「ナニカアル」も「デンジャラス」も考えてみると昔の話ですね。(昭和初期)

最近は本があまり売れていなくて、ネットとか面白いし、ビジュアルとして入って来て、小説みたいに時間がかかるメディア、芸術は嫌われて、避けられてゆくのかなあと云う気がして、判りやすい小説だったら読んでみようかという傾向があると思う、頑張って書いていこうと思います。
谷崎の頃は作家にとって幸福な時代で、作家という人達も尊敬されて、作家が時代を率いて行くような時代だったと思う。
今は小説家の役割はそういうところでは無くなっていって、違う人達が率いていっているように思われていて、文学みたいなアートがメインではなくなって、いくつかの中の一つになっていると思う。
小説はすたらさせてはいけないと思っています。
人が違うことを想像すると云う意味では、見えないと云う所でイマジネーションを育てるもの、鍛えるものと思うので人間に必要だと思います。
だからやっていこうと思います。
今年は前に週刊誌で書いていた「路上のX」女子高生が街をさまよう話になるがもう一回ぐらいそういったものを書こうかと思っています。
「ロンリネス」が本になるので、一段落してもうちょっと自分が何をやりたいのか、考える時間が欲しいと思います。
あっという間に時間が経って行くので、何処かで立ち止まって考える時間が必要だと思っています。















2018年2月15日木曜日

桐野夏生(作家)            ・作家生活25年 新たな挑戦へ(前半)

桐野夏生(作家)       ・作家生活25年 新たな挑戦へ(前半)
1951年金沢市の生まれ65歳、1993年「顔に降りかかる雨」で江戸川乱歩賞を受賞、作家デビュー、以来社会派のミステリーから文芸性のたかいもの迄様々な作品を書き、現代文学の最前線を走り続けています。
1993年「柔らかな頬」で直木賞2003年「グロテスク」で泉鏡花文学賞、2004年「残虐記」で柴田錬三郎賞を受賞、2008年「東京島」で谷崎潤一郎賞、2009年「女神記」で紫式部文学賞、2011年「ナニカアル」で読売文学賞を受賞と、主だった文学賞を次々と受賞しています。
2015年には紫綬褒章を受章されました。
最近作は谷崎潤一郎を囲む女性たちを描いた「デンジャラス」です。

年末年始は日刊紙の新聞の方の仕事が有りますので、休む時間はなかなか取れないですが、出来るだけ休むように溜め書きして、休む時間を取るような工夫はしています。
元日は正月料理を作って近くの神社にお参りしています。(3日までは休む)
おせちは昆布巻き、田作り、煮しめあたりが好きです。
子供時代は一番覚えているのが札幌で、牧歌的な感じが有ります。
「デンジャラス」は谷崎がデンジャラスと云う訳ではなく、モデルになった女性たちとの物語で、なにがデンジャラスかというと、女性たちが小説のモデルになることによって、谷崎と、あるいはそれを読んだ読者の方と、あるいは小説によってすこしずつ変わって行く世間との距離、間柄が微妙に変わってゆくことによって、自分が変容せざるをえないと云うことがデンジャラスなんですね。
色んな内面のざわめきがあると思うのですが、そういうような話です。
「細雪」の重子さんはもしかしてこういう人かなとイメージはつきやすいが、それは本によって作られたイメージですが、生きている重子さんがそのイメージによって変わらざるを得ない面もある。
小説とは違うなかで、その違いのなかで自分がそれに対してどう対峙して行くかということは難しい問題だと思うが、谷崎家の人々は世間的な注目を浴びているので、松子夫人、重子さんが注目を浴びるが、文学的慣行が起きないと云うことで、どんどん作家の方が新しい刺激が受けたいものだから、若いちまこさん?の方に行き、そうすると自分たちと谷崎が形作っていることが変容してゆくわけです。
その辺の危うい関係がデンジャラスなのではないかと言うことで書いたんですが。

谷崎潤一郎は周りの女性から影響を受けて書いていると思う。
谷崎潤一郎は人間関係に興味を持って、特に松子さんとの関係をずーっと濃密に書いてきて、常に近くの人間の濃密さから生まれてくる虚構を作っているわけです。
だから谷崎は面白いと思っていて、周りにいる女の人たちは大変だろうと云う気持ちはあります。
「細雪」、森田家四姉妹の事を書いていて、一番上の姉朝子さんが家督を継いで東京に引っ越して沢山子がいて、二番目が谷崎夫人の松子さん、三番目が重子さん、四番目が信子さん。
重子さんは結婚するが直ぐ寡婦になって谷崎家で一緒に住んでいる訳です。
「デンジャラス」では重子さんの眼で谷崎家の周りの関係を見つめている。
松子さんは谷崎が亡くなったとエッセーを書いている。
千萬子さん(精二さん(谷崎潤一郎の弟)のお嫁さん)も手記を書いていて、書いていないのが重子さんだけで、想像してみたいと思いまして、書かせてもらいました。

2015年から書き始めて、2年以上谷崎家の人々とお付き合いした。
準備期間を含めて3から4年かかっています。
松子さんには連れ子(恵美子さん)もあり、重子さんがいて、女中が6,7人居て、しかし家はそんなに大きくない。
女の人たちは大変だったと思います。
千萬子さんと息子さんが離れに2年間住んでいたりしました。
千萬子さんが新しい風を吹き込む。
谷崎は本の所蔵はあまりなかったようです。
新しいことが好きで又時代にも敏感で、千萬子さんの様な新しい人に何か吹き込んでもらいたい、自分はどんどん歳を取って行く。
歳を取って行くが、そういう人が好きだったらこういう小説はどうなんだろうみたいに、どんどんアイディアが湧いて行ったんだろうなあと思います。
谷崎潤一郎は貪欲で凄い、面白い作家だと思います。

ストーリーで描かれるものの中に案外、真実があることがあるので、読むのに時間がかかるので小説は時間がかかる芸術で、時間の経過がストーリーと親和性が高いと思います。
谷崎もストーリーを捨てることがもったいないと言っていて、私もストーリーを書くことによって何かその時間の経過を一緒に生きる事によって、何か判ってくることがあるのではないかと思って、谷崎の意見に賛成しています。
小説は映画、ドラマみたいに目で入ってくることはないので思いうかべる。
そうすると、人間の生きている事みたいなものが、どうやって生きて、なにを感じているとか、想像することによって入って来るのではないかと思います。
小説のいいところは、想像力を鍛えることだと思うので、鍛えると今まで通りすぎていたことが判るようになったりします。
その想像力は自分だけのものなので、自分の財産になって行くと思います。
人はそれぞれ違うと云うことなので、小説の良さはそれぞれ自分の個性を育てて行くという事なのではないかと思います。

私は自分のまわりの人たちのことを書こうとは思わないし、影響を受けた事が有っても全然違うものになって行きます。
作家は同一視されがちではあります
学生時代に読もうと思った時には表記(関西弁)が好みではなかったと思います。
それが理解できなくて無理と思って読むことに途中で挫折したものも有ります。
谷崎は多作であり、それだけ小説を書く力が沢山あると云うことです。
パワフルで、小説が好きだし、生み出す力がある。
「細雪」以降が特に好きです。
「細雪」は虚構性が無く、素直にぼんと書いている所が面白いと思っています。
谷崎潤一郎と松子さんのラブレターを見せていただく機会に巡り合い、凄い、真っ赤な便せんに墨で書いてある。
やりとりの手紙をみせていただいて、物凄い人たちだと思って次第に書かせていただくことになりました。














2018年2月14日水曜日

坂本長利(俳優)             ・一人芝居ひたむきに半世紀

坂本長利(俳優)            ・一人芝居ひたむきに半世紀
88歳の俳優、坂本さんが演じる一人芝居、「土佐源氏」は民俗学者の宮本常一さんが昭和16年高知県の山奥で出会った目の不自由な老人から聞いた若き日の情事を懐古するという異色の物語です。
「土佐源氏」は性の問題だけでなく、生きるすごみや人生の奥深さを感じてもらえたことで50年1950回続いたのではないかと語る坂本さんに伺いました。

一番先、民話という雑誌に載っていたのを読んだのが、ぶどうの会と言う劇団の研究生で27歳の頃でした。
その時はこんなに凄い人がいるんだという位でした。
15年でぶどうの会が突然解散になり、1年間真っ暗闇で、その後代々木小劇場(「変身」という劇団)を作りました。
小劇場のはしりでした。
サルトルから長谷川伸まで、なんでもやろうと年に24本やりました。
「土佐源氏」を何とかやらないかと言って始めようとしたが、芝居でもない、講談でもない、語り部でもないし、自分の中に持っている演劇観があり、ちょっと違うと云う感じでした。
新宿にストリップ劇場が有り、そこで軽演劇、ストリップ、前衛劇的なものをやりたかったらしい。
話が有り見に行ったが、ここでは芝居は無理だなあと思ったが、ふっと「土佐源氏」を思いだして始めました。
一人芝居を始めたのは38歳の時でした。
段々「土佐源氏」ファンが出てきました。
短縮版の30分程度で、一日3回やりました。

或る工場の社長が見て感動して、社員に見せたいので来てほしいと云うことになり、出前芝居の発想になりました。
「忘れられた日本人」と云う本(民俗学者の宮本常一さん)が出て、「土佐源氏」も入っています。(底辺に生きている年寄りの話をまとめたもの)
人間のこれが本当の姿と言うか、自分の命を精いっぱい生きている人間は素晴らしいと、宮本さんは書いています。
理屈では言えない感動をしました。
難しくて途中で辞めようかという思いもあったが、不思議と、宿命と言うか、続けることになりました。
最初の出前芝居は工場の社員20~30人で、その工場でやりました。
今も出前芝居をやっていますが、ほとんど同じようなスタイルでやっています。
最初お年寄りが多かったが、最近は若い方も見てくださいます。
「土佐源氏」を紀伊国屋ホールでやった時に照明担当の女性の方がいて、その方が外国でやってみたいと云うことになり、実現することになりました。

最初がポーランドでした。
1回やったら凄い拍手で、初めてカーテンコールを受け、感動でした。
支配人が夜もやるべきだと云うことになりました。
ポーランドでは色々なところでやりました。
その時にオランダ人がいてオランダにも来てほしいと云うことでした。
スウエーデン、ドイツにも行かなければいけなかったので、無理だと思ったが、スタッフが1日あるから大丈夫だと云うことになってしまいました。
劇場が無くて、映画館を借りて映画が11時に終わるので、終わった後「土佐源氏」の仕込みをやって1時開演ではと云うことだったが、やりました。
或る30代半ばの男性が会いたいと涙を流しながらきてくれて、僕の手を握って帰って行きました。

ストーリーと云うのはあまりないが、人の嫁さんを寝とるという内容なので、しかし本当に素晴らしい爺さんのエロ話です。
浮気をしてそのうちに目がみえなくなって、婆さんの所に帰ってくるが、目を治そうと四国八十八か所めぐりをするが目は治らない。
橋の下で水車番をお婆さんと一緒にやっていたらしいが宮本先生が一晩話を聞いて、それがこの「土佐源氏」なんです。
岡本太郎さんは最高の文学だと言っています。
全部で1190回になりました。
ペルーとブラジルに行ったときは、年に100回やりました。
お客さんがなかなか楽屋から帰りませんでした。
ドイツのボンのセントラルシアター(ヴェートーベンの生家の近く)でやった時は支配人が終わった途端で舞台に上がって来て、「日本の俳優の坂本が私が作った床の上に汗をしみ込ましてくれた。」と言うんです。
これは嬉しかったですね。(外国は直に感動が来ます)

今は中学生に見せたいと云うこともありましたが、アンケートを見せてもらいましたが、「いままで〇〇ちゃんを虐めていましたが、明日からは優しくしてあげたいと思いました。」とあり、中学生でも全然わからないわけではないと思いました。
60代位までは、腹から声をだしますので、頑張りすぎて疲れました。
胃癌を患いましたが、今は元気に頑張ってやっています。
「土佐源氏」に関してはこのお爺さんに惚れ込んでいます。
忘れられないせりふ「良い百姓というものは神様みたいなもので、石ころでも自分の力で金に替えよる。」
「牛というものは、何年たっても逢うと必ず懐かしそうに鳴いてくれる。」
このセリフを言う時3・11の牛が右往左往している姿を思い起こします。
「女というものはかまいはしたが、決してだましはしなかった。」
その辺の爺さんの生きざまは、単なる女好きではないと、お客さんが判ってくれれば最高の文学だと思います。




















2018年2月13日火曜日

平賀勝利(日本学生相撲連盟副会長)   ・勝負は一瞬、学ぶは一生

平賀勝利(日本学生相撲連盟副会長)   ・勝負は一瞬、学ぶは一生
1942年(昭和17年)山形県の米沢市生まれ。
生まれた家には土俵があり父親も相撲が大好きという環境に育ちますが、10歳のころから柔道を始めて大学進学後も柔道部に入るつもりが入部したのは相撲部でした。
相撲に関わって57年になります。
東京医科大学時代は相撲部を強くするためにつてを頼りに大相撲の春日野部屋で指導を受けました。
その頃から禅も始めました。
平賀さんは学生相撲の全国大会や選抜大会に出場した経験もあり、医科歯科系の大学の全国大会では3年連続の優勝の経験もあります。
現役を退いた後、母校の指導や監督の他、1985年に始まった腕白相撲の全国大会では副審判長を務めました。
平賀さんは平成26年に日本相撲連盟から相撲功労賞、去年は日本武道協会から武道功労賞を授与されています。

本業は外科医です。
日本学生相撲連盟副会長、財団法人日本体育協会公認スポーツドクター、JOC強化スタッフ。
東京オリンピックの時に第一回パラリンピックがあり、ボランティアとしてやりました。
選手誘導、日常生活について回ったりしました。(東京医科大学の3年)
友人が選手として選ばれました。
日本の選手がみすぼらしかった、車椅子そのものが酷くて木の背もたれだったりしました。

祖父が東京高裁にいまして、両国に始終相撲を見に行っていたらしいです。
横綱常陸山の記録をかなり克明に残しています。
父親も学生相撲の選手でした。
いとこも3人いて、拓大の相撲部に入りました。
相撲はやる気が無かった、10歳から柔道をやっていました。
大学に入学すると柔道部に入部届けを出しました。
柔道場に上級生が来なくて、隣の部屋では巨漢がぶつかり合っていて、面白そうだと思って私もまわしをまいていいですかと言って始めたのが最初でした。
相撲は競技は単純ですが、奥の深いものがあります。
現在は166cm、60kgそこそこですが、学生時代は78kgありました。
当時春日野親方(横綱栃錦)に単身で伺って稽古をさせてもらったり、派遣させてもらうように交渉しました。(相撲部に入って2カ月後位の頃)
春日野親方は実に柔和な方です。
春日野では万事に厳格でした。
稽古場では弟子たちにまわしを触らせないで押すだけです。
相撲の稽古は本来そういうことなんですね、まわしをもってなんかすると云うことは何時でもできるんだと云うことが栃錦さんの考え方ではなかったかと思います。

春日野親方(横綱栃錦)の前の親方、栃木山の化粧回しには「丈夫玉砕、瓦全を望まず」と縫い取ってあった。
相撲精神そのものを表しているのではないかと感銘を受けました。
丈夫=もののふ(武士)、信念と勇気を持つ立派な男性。
瓦全=何もしないでいたずらに身の安全を保つこと(「瓦」とはつまらないものの象徴として使われています。)
「もののふたるものは玉と散る、かわらけとして全うすることはのぞみません」という意味。
かわらけ=瓦(かわら)笥(け)=釉(うわぐすり)をかけてない素焼きの陶器
与えられた狭い土俵(15尺)で懸命に100%の事をやると云うスポーツですね。

私はがむしゃらに人の3倍ぐらい稽古をすると云うことをしました。
相撲の選手は走らせなかったが長距離走ったり、つま先立ちだけで生活したりしました。
しこ立ちのまま階段の上り下りもしました。
私は精神主義の稽古をしました、禅もしました。
指導者になってから自分の様ながむしゃらに稽古すると云うことは駄目なんじゃないかと思いました。
もっと効率的な稽古方法をしなければいけないと思って、相撲を科学しようと思って、ノートも取らせました。
大学には明治、大正時代から相撲部がありました。
去年、95回の学生相撲選手権を記念して、長期連続出場の学校、学生横綱を出した学校、優勝経歴のある学校を抽出して、表彰しましたが、無くなってしまった学校もあります。
早稲田大学が100年迎えたりしています。
東京医科大学も100年を迎えます。

番付けを調べましたが、外国人力士が幕内に11人いますが、学生出身が14人、高校相撲の出身が9人。(外国人力士とダブるところがあるが)
腕白相撲の参加者は4万人以上いるが、相撲のスポーツとしての土壌が実は極めて痩せこけている、というか狭いということです。
中学生大会で優勝した人とか2,3位が、全員大相撲の大関になったと言う年もあります。
それだけ競技人口が少なくなったと云う反映だと思います。
初期の頃の少年相撲の判定は難しかった。
今は相撲らしい相撲を取るようになったので判定に苦しむことはなくなりました。
クラブチームは今80数チームあり優秀な子もいますが、中学に入ると学校の中で相撲を取るチャンスがない、指導者がいない、土俵もない、他に色々なスポーツがあり、結果として惜しいなあと思います。
友達との接点の無かった子たちがきちんと挨拶が出来るようになる。
武道は私達の身体を鍛えることによって、武技を学ぶことによって尊重したり礼節を守る、ずるはしない、正しいことが出来る、そういう子供たちに育ってもらいたいと考えています。
与えられ土俵で常に一生懸命にやると云うことは相撲が教えてくれたことで、普通のことをきちんきちんと普通にやる、必ずしも名選手にならなくてもいい。
修羅場にあってもたじろかない、道を究めると云うことはそんなに難しいとは思わない。
「至道無難,唯嫌揀択」「至道(しいどう)は無難なり 唯だ揀択(けんじゃく)を嫌う」
「ああでもないこうでもないとか、好きだとか嫌いだとか、そういうことを排除すれば、真っ直ぐに正しい道をいけるのではないか」と言うことを相撲から学びました。
わだかまりを捨てて与えられた事に全力投球する。
至道とは真理に通じる道、いわゆる悟りに至る大道
日本家屋の畳の生活(立ち居振る舞いなど)は大切な心とトレーニングの方法が隠されていると思います







2018年2月12日月曜日

原田雅彦(雪印メグミルクスキー部監督)  ・【“2020”に託すもの】どこまでも遠くへ、自分らしく飛べ!

原田雅彦(雪印メグミルクスキー部監督)・【“2020”に託すもの】どこまでも遠くへ、自分らしく飛べ!
オリンピックのスキージャンプでは長野大会での団体金メダルなど3つのメダルを持つ、原田さんに伺います。

平昌冬季オリンピックの解説者としてなるべくどういうふうに飛んでいるのか、判りやすくと云う説明をしたいと思っています。
1968年5月北海道上川町で生まれる。
東海大学第4高校、1987年の雪印乳業に入社。
現在は雪印メグミルクスキー部監督をしていて、全日本スキー連盟の理事もしています。
1992年アルベールビル、1994年リレハンメル、1998年長野、2002年ソルトレイクシティ、2006年トリノの計5回の冬季オリンピックに出場。
リレハンメルオリンピックで団体で銀、長野オリンピック 個人で銅、団体で金を獲得。
世界選手権を合せると9個メダルを獲得。
ジャンプを始めたのは、10歳小学校3年生でした。
札幌オリンピックの強化のために子供のジャンプ台が上川町にありました。
好奇心から飛びたいと思って入って行きました。
最初に飛んだ時には多分4~5mだったと思いますが、飛んだと思いました。
もっと飛びたいと直ぐ思い、私のスキージャンプ人生は始まりました。
1972年札幌オリンピックが有ったが記憶にないです。(4歳)
笠谷選手の歴史を知って凄いなあと思いました。

ジャンプがV字に変わって行くが1991年夏に変えて行きました。(アルベールビルオリンピックの前年)
最初変えるには怖かったが距離の伸びる感じが違いました。
1994年リレハンメル、団体戦で西方仁也 、岡部孝信 、葛西紀明、原田雅彦、のメンバーで1回目では日本はトップ、2回目のアンカーが私でした。
メダルは取ったことが無かったので、取れるのではないかと思っていました。
知らず知らずに1位のプレッシャーがかかってきたと思います。
飛び出してすぐに距離が伸びないと判りました。
順位が2位となった時には頭が真っ白になりました。
3人が寄って来て、肩を叩いてくれて、「良かったじゃないですか、2位になったんだから、胸を張りましょう」と言ってくれて、その言葉がなかったら今でも頭を抱えていました。
素晴らしいチームメイトだと思いました。
周辺から色々ありましたが、スキーで見返しをするしかなかったので、原田は頑張っているなと見せたかったが、焦りが有ってなかなか復活できなかった。

長野オリンピック、ノーマルヒル 1回目トップ 2回目で5位 ラージヒル1回目6位
風が難しかった。
強化合宿をして風のことも色々研究はしてきましたが、難しかった。
自分らしく飛ぼうと思って飛びました。137m飛びました。(悔いはなかった)
ラージヒルで銅、団体で金メダルを取ることが出来ました。
舟木選手はアベレージを出すのには低いジャンプが理想で、今もそうです。
私は数少ないチャンスをどうやって勝利に結びつけるかと、違ったタイプでした。
団体戦 1回目79.50m、雪が降って助走のスピードが奪われてしまいました。
2回目 競技が出来るかどうかという状況だった。
今回は金メダルを取れると云う状況できたが、1回目の結果は4位だった。
2回目が行われなければメダルを取ることが出来ない状況だった。
2回目が行われることになり、岡部選手137m、斉藤選手も凄いジャンプをした。
二人に助けられました。
2回目は向かい風も吹いていて、雪も降っていなくて、思いきって飛びました。
飛び出したときに物凄く距離が延びると思いました。
自分のジャンプを終えてホッとしたと云うのが正直なところです。(プレッシャーから解放されて立っていられなかった)
舟木選手が飛んできて、「ふなき〜ふなきい…」に関しては、インタビュアーに「今は船木が飛んで金メダルを取れるから一緒にみようよ」と言いたかった。

後輩には、自分らしく飛んでほしいと思います。
最後は自分はこうなんだと、飛ぶ人が必ず結果を出すと思います。
歴史が繋がって行くのは、その間に沢山の先輩後輩たちが歴史を繋いでいるので、いろいろドラマがあるが、感動させてくれる。
東京オリンピックが2020年に行われるが、凄いドラマ、歴史が生まれることを期待しています。







2018年2月10日土曜日

清田悠代(NPO法人 しぶたね 理事長)   ・病気のこどものきょうだいたちをサポートしたい

清田悠代(NPO法人 しぶたね 理事長)・病気のこどものきょうだいたちをサポートしたい
家族に慢性疾患や難病の子供がいたり障害のある子がいたりすると親たちは、入院に付き添ったり生活に追われたりします。
するとそうした子供の兄弟姉妹たちは自分の思いを抑えて我慢することが増えると言います。
そうした兄弟児たちを支援しようと云う取り組みを始めたのが大阪のNPO法人しぶたねです。
兄弟児の居場所作りを支援したり、兄弟児のサポーターを要請したりする取り組みを今全国に広げています。
しぶたね、ちょっと変わった名前、この活動を始めたのは自身の悲しい体験がもとになったと云うNPO法人理事長清田さん41歳です。

「しぶ」は英語のシブリング(sibling)からきていて、兄弟たちが安心していられる場所、安心して自分の気持ちを話せる人を増やすために種を増やして行きたいと思って「 しぶたね」というネーミングにしました。
普段は大阪医療センターで活動しています。
廊下で待っている兄弟をスカウトして一緒に遊ぶことをやっています。
病院に来ても兄弟が病室のエリアに入れないので。
声を掛けてボランティアで来ていることを話して、遊びに誘います。
2003年11月から3人でスタートしました。
大学の先輩が保育士の資格を持っているので先輩を誘って、心理学を学んだ大学生と3人で始めました。
アメリカでシブショップが有って、それを日本で最初に開きたいと思いました。
病院と4年交渉して2006年から始まりました。
当時前例が無かったので事故が有った時に対応しきれないと云うことで慎重になっていました。
2016年に法人化されました。
サポートする人を増やしたいと研修を始めることにして、それに合わせて法人化しました。

2年間で200人のサポーターがいて看護師、病院の保育士、特別支援学校の先生とかが参加しています。
声をかけるだけで安心して、声を掛けてもらった嬉しさがずーっとそのあとも続いていくと云う例もあり、その事を話すと納得して声を掛けていいんだと参加して下さいます。
4つ下の弟が心臓病で病院に行く事が有って、その時の経験が芯になっているのかなあと思います。
父は中学校の国語の先生で熱血漢の先生でした。
弟のじゅんとは喧嘩などしていましたが、正義感の強い子でした。
私が中学1年の時に弟の病気が判りました。
最初症状の原因が判らなかったが、国立循環器病院に行って調べてようやく肥大型心筋症(心臓の壁が厚くなってしまう病気)ということが判りました。
運動していて突然死するとか、寝ている時でも死んでしまうことがあると言われました。
母は弟が学校に行くのにも付き添ったり、色々フォローに負荷がかかりました。
高校入試の2日前に弟が通学途中で倒れてしまって、母を呼びに行ったがパニックになってしまって、入院準備を私がして、弟は命を取り留めて高校入試は普通に行きました。

ICUの前で、入試の事弟のことなどで頭が混乱して泣くしか無かったが、知らない人が温かいお茶をもってきていろいろ話をしてくれて、安心するようにしてくれました。
その経験から本で調べて病院のソーシャルワーカーになりたいと思って、社会福祉学部を希望しました。
社会事業大学が東京にあり、読んだ本の著者もその大学の先生でしたので、この大学を受けました。
補欠合格でしたが、いざとなると母からどうしても行くのと言われて、私がいなくなった後の母の負荷の事を考えると、地元の大阪の大学へ行くとしか言えなかった。
1年浪人して大阪府立大学社会福祉学部に合格しました。
大学3年の時にまた弟が倒れたことを知らされました。
母と弟が病院に行く途中の駅で倒れてしまいました。
弟とは玄関でたわいない会話をして、それが最後の言葉になってしまいました。
弟は最寄りの病院に運ばれていました。
ICUに弟がいて心肺蘇生をしていて、待合室で待たされました。
弟はそこで亡くなってしまいました。(1998年6月20日)

大学に行く意味が無くなってしまって、家で母と過ごしていました。
先生から手紙が来て、先生も母親を若くして亡くしてしまって、悲しい気持ちは何十年たっても消えることはなくて、悲しいのはそのままでいいんだと云うような内容の手紙をいただきました。
中途半端な気持でも歩きだしていいんだなと感じて大学にもいけるようになりました。
パソコンを通してインタネットで自分と同じような境遇の人とつながれるのではないかと思ったが、なかなか日本では見つからなかったが、たまたまアメリカで兄弟支援をやっているかたが開いてるメーリングリストに繋がるんです。
そこに投稿すると、アメリカだけではなくほか国からも返事が来て、色々なことを心配してくれました。
同じ立場の人が一杯いることに気付きました。

カウンセリング、ソーシャルワーカーが相談に乗っていることなどが判り、そういったことが日本にはないんだということも気付きました。
東京でそのメーリングリストにも入っていて、日本でもそういった連絡出来ると云うことを知って、日本でトレーニングをしようとしている段階なので、その講演会に出ると良いということも知らせてもらいました。
日本にワークショップを導入しようと思っていたちょうどそのタイミングで、その方と出会うことが出来たのが幸運でした。
2日間の講習を受けましたが、アメリカのドナルド・マイヤーさんがワークショップを作って兄弟支援を作った方で、トレーニングについて指導してくださいました。
マイヤーさんから「君たちは一人じゃないんだよ」と言われて、涙が止まらなくなり、日本の同じ様な境遇の人に「君たちは一人じゃないんだよ」と伝えたいと思うようになりました。

或る時「しぶたね」では楽しそうにクリスマスのリース作りをしていました。
兄弟、親御さんだけでしんどさを抱えるのではなくて、社会のいろんな人が関わっていけるんだと云うことを兄弟達が教えてくれているので、世の中に支えてくれる人が一杯いてくれたらいいなあと思っています。
研修を全国に広げていって年間100人ぐらいずつシブリンブサポーターが増えていけたらなあと思います。
アメリカでは兄弟の為のワークショップは政府、州、病院などが主導して当たり前のこととして兄弟支援が行われている。
イギリスでも子供のホスピスにはその兄弟の為のソーシャルワーカーがいることが当たり前になっている。
日本ではまだ不安定な活動で支えられている。
職業として成り立つようにしていきたい、そのためにまず研修を広げています。






2018年2月9日金曜日

松永正訓(小児外科医)          ・授かりものの命を支える

松永正訓(小児外科医)          ・授かりものの命を支える
松永さんは重度の染色体異常の赤ちゃんを自宅に連れ帰って在宅で家族そろって暮らしたいという両親の希望を受け、地元の担当医となることを大学病院から依頼されました。
長く生きられないと云う定められた障害をもった赤ちゃんと、その家族の子を丁寧に救いあげ記録にまとめたものが、2013年第20回小学館ノンフィクション大賞を受賞し、静かな関心を呼んでいます。
授かりものの命を支える、松永さんに伺います。

小児外科医として千葉大学で小児がんの治療、研究に取り組んでいて、2006年から千葉市内でクリニックを開業。
30年近く赤ちゃんと向き合ってきました。
この10年間を見ると少子化の影響の傾向がより見られます。
母親の高齢化も確かにあります。
現在56歳ですが、5歳の子供を連れてくる母親が45歳ぐらいだったりします。
1500g未満で生まれた子、1000g未満の児がいくらでも見られるようになりました。
20,30年前にはめずらしかったが。
大学を辞めたのが11年前ですが、その頃1400gのあかちゃんのオペをしたこともありました。
小さい子にたいする医療の進歩がありました。

少子化と同時に兄弟が少なくて、一人っ子とか、3人以上はほとんど見られない。
孫にたいして大事に思って、軽い体調不良でも直ぐ病院に来るようになりました。
赤ちゃんの重い病気が発見された時には母親は物凄く悩んだり苦しんだりしますが、お父さんは案外お前に任せると云うような態度をとり、祖父母は微妙な立場にあり、家系を守ってきたとか家がらを守ってきたとか有るので、障害や病気をもった赤ちゃんが妊娠した時に、治療に消極的な態度をとる祖父母がたまにいて、お母さんはどこに解決の道を見出したらいいのか非常に苦労される方がいます。
子供の幸せを一番よく知っているのが親であるが、親の希望をよく聞いて治療するのが小児医療のスタンスですが、親の希望が赤ちゃんの利益と合致することがない場合がたまにある。
内臓に重い奇形が有って手術をすれば完治するが、顔などに小さな奇形がある場合こだわりを持って否定的になることもある。
内臓手術に関して命が亡くなる可能性がある場合があるが、親権を止めて手術をしたかったができなくて、最終的に両親から手術同意書が貰えなくて、非常に不幸な転機を取ったたこともあります。

宗教の問題は非常に微妙で、輸血を拒否する親御さんもいます。
小児がんの子供が入院してきて、手術だけだとほぼ100%再発するので、抗がん剤治療を1年間する訳ですが、必ず輸血が必要になります。
骨髄抑制と云う現象が起きて赤血球、白血球、血小板などが少なくなってしまうから、どうしても輸血が必要になる。
輸血を前提に抗がん剤治療をやりますと言ったとたんに、両親から治療は拒否しますと言われてしまう経験があります。
親の一存で子にも信仰の道を歩ませるという判断なんです。
本当に子供の利益を代弁しているのかと言うと非常に問題がある。
その子は手術だけして、再発して1年後に亡くなっています。
親が100%子の利益に立っているかと言うと、云い切れないところに難しいところがあります。
新生児の手術にたいしては考える時間が短いので、早く手術をしないと命が助かりませんと言うような状況の時に、初対面の状況で命の説明して同意してもらうことは難しさがあります。
障害をもった赤ちゃんにたいする生命倫理観と言うものは、とにかく命を救う、その一点です。
赤ちゃんの命は赤ちゃんの為に救ってあげないといけないと云う単純な気持ちで仕事をしていました。

重度の染色体異常の赤ちゃんを自宅に連れ帰って在宅で家族そろって暮らしたいという両親の希望を受け、地元の担当医となることを大学病院から依頼されました。
突然ある先生から在宅の主治医になってくださいと電話で貰いました。
13トリソミーと云うものがあります。
人の命は父親から23本、母親から23本合計46本の染色体が合わさって生命が誕生するわけですが、染色体の中にはDNA(遺伝子)が入っていて、その数が増えていても足りてなくても生命として成立しなくて流産をしたりするわけです。
染色体には大きい順に番号が付いていて13番、18番、21番の3つに関しては染色体が2本でも3本でも生まれることはできますが、3本の場合をトリソミーと言います。
21番染色体が3本ある21トリソミーの事を一般的にダウン症と言います。
知的発達が遅れて特有な顔付きがあったりしますが、医学の発達もあり長く生きることが普通ですが、13および18トリソミーの場合は非常に重い奇形を多数持って生まれてくる。
長期に生きることが難しい、50%は1カ月しか生きられない、90%のお子さんが1歳までの命。
心臓に奇形がある場合が多い、脳がきちんと成長しないので呼吸が非常に弱い。
両親も在宅を希望して、その総合病院でも在宅に持っていこうと云う意志があったようで、考えが一致したようです。
生後7カ月で、それまでも無呼吸発作を起こして酸素を肺の中に送り込むことを何度もして、呼吸状態が安定したところで家に帰ろうと云うことになりました。
話を受けた時には非常に複雑な思いでした。
1990年ぐらいまでは治療をしてはいけないと云うことが圧倒的でした。
手術しても数カ月でなくなってしまうと言うことは、小児外科医療としては成立しないという考え方で、むしろ治療することはタブーと言うことが当時強かった。

2011年時点で生後7か月の子が在宅に移行するので主治医になって欲しいと言われて、時代が変わったと思いました。
病院は治療を施す場所で生活する場所ではないので、次には赤ちゃんを育てることなので、家に連れて帰ることがあこがれであり夢であった。
僕自身もどう対応していいか判りませんでした。
知っている中で13トリソミーの一番長く生きた人は20歳でした。(例外的)
数か月で亡くなる子がほとんどでした。
両親に話を聞いてアドバイスを求められれば、知っていることを話すが、むしろご両親から学んでみたいと云うような思いがありました。
御父さんは世間体を気にしない人で、顔面にも奇形があり手術もしなかった。
お母さんは顔の事を気にしていて、散歩には出かけようとしない。
手術をして顔を変えたくないと云う思いもあったようです。
心臓にも軽い奇形がありましたが、ありのままのあさひ君を受け止めていました。

胎児の段階で色々な診断が出来るようになりましたが、胎児の段階で治療すると云うことはまだ出来ていないが、未来の医療の在り方として必ず来ると思います。
検査をする人が増えて来ましたが、それで社会が幸せになれるかということは非常に難しい問題で、治療は診断を付けるだけでは問題で、治療が伴わないといけない。
ゲノム編集技術は13トリソミー、18トリソミーは治せないが、10,50100年たてば変わる可能性はある。
出生前診断と出生前治療はいつか必ず車の両輪にならないといけないし成るべきだと思います。
お腹の中の命をどうするかという問題は当事者以外が意見を言うのは難しいことですが、染色体異常の子を産んだ子のお母さんの場合、死産となりましたが、又妊娠した時に、染色体の情報が欲しいと云うことで検査を受けて違うところの染色体異常がみつかってしまって、大変悩まれて、生まれても数日から1カ月しか生きられない重い染色体異常で、産むのかどうか判らなくて相談を受けると、こちらとしてもどうしたらいいか言えない。
生命倫理、一人ひとりの人間が自分の胸に手をおいて自分の心の奥に向かって問いかけるのが倫理なので、医師でも人様の胸に手を突っ込んでこうしなさいと云うことは間違っていると思います。
多くの障害児と接して、色んな事を学んできて、自分の中にある生命倫理観に色々なものが付加されて強くなって行ったと思います。
障害をもった赤ちゃんを授かるときに、どの親も赤ちゃんを受容することに凄く悩み苦しむと云うことです。
あさひ君のお母さんも出来る限り生かしたいと思うと同時に、この子が生まれてきた意味は何だろうと考える訳です。
障害をもった子を受容するにはステップがあることがわかってきました。
最初に感じる心の動きは無力感、あきらめで、何かを捨てて諦める、それが受容の第一歩なんですね。
苦しかったことを克服して行って、今まで持っていた価値観をもう一回作りなおしてゆく。
価値基準がちゃんと出来ると、親はこれでいいんだと肯定する気持ちが入って来て、これが重要だと思うんですが、しかしこれには物凄く時間がかかる。
医師はその間に何が出来るかと言うと何にも出来ない、ひたすら待つことが大事。
40代前頃まではひたすら命を助けると云うことだけを考えましたが、障害を生きることの意味には十分な意味が有って、どんなに障害が重くても人間には尊厳があると云うことを当時は伝えられなかったと思う。
この思いでもし30代に戻っていたらもっといい治療が出来たかも知れない。
13,18トリソミーの子がどこの施設でも十分な手術、治療が行われているかと言うと実はそうでもないと思う。
手術はしませんという病院もあるし、学会の大御所が否定的な発言をすることがないわけではないが、若い先生たちは何故手術をしてはいけないのか、逆にそういった発想を持っているので変わって行くと思います。
障害が有ってもなくても家族は家族。
障害を持っていても自由に生きようと思えば実は生きられる。
障害が有ってもなくても家族の一員であると云うことには変わりがない。
あさひ君は口唇口蓋裂症があり、目も見えない、耳も聞こえない、ミルクを飲むこともできない、でもそれは関係ない、この子は家族の一員でいてくれて幸せを感じる事が出来る、それがあさひ君のおかあさんの答えでした。
授かった命を丸ごと無条件に受け入れると云うことはそう簡単なことではない。
人によってはできない人がいると云うことはその通りだと思いますが、その人を説得することはできないにしても、社会全体の意識を変えて行くのはメディアとかの活動を通じて可能だと思います。
障害者を受容することは決して簡単なことではないので、両親は悩んだり苦しんだり時間がかかると思うが、医師は根気強く手伝い、支え、アドバイスを与えながら生活の中の一部に力を添えてあげられる存在でありたいと思っています。












2018年2月8日木曜日

佐藤剛(作家・音楽プロデューサー)    ・日本発のスタンダードナンバーを

佐藤剛(作家・音楽プロデューサー)    ・日本発のスタンダードナンバーを
1952年生まれ65歳、音楽業界紙の営業、編集に携わった後、音楽プロデューサーとして、甲斐バンド、THE BOOM、中村一義、小野リサなど数多くのアーティストの作品、ライブ、イベントをプロデュースしてきました。
2011年に最初の著書「上を向いて歩こう」を出版した後、活動の中心を著述に移して、2014年に「黄昏のビギンの物語」、去年は美輪明宏の「ヨイトマケの唄」を出版、後世に歌いつなげるスタンダードナンバーがどのように生まれたのかを明らかしました。
佐藤さんご自身の音楽活動の道のりと日本のスタンダードナンバーへの思いを伺います。

「阿久悠と歌謡曲の時代」を連載、半年になります。
週一回で1週間に原稿用紙で25枚相当になります。
それ以外に3本位連載を書いています。
1週間のうちに6日間、12,3時間は原稿を書いています。
朝4,5時に目が覚めて直ぐ仕事を始めて昼まで執筆します。
午後は雑事の対応もして、夜は人と会ったりコンサート観たり、資料を読んだりしています。
中学生になったころからなんとなくプロデユーサーをやりたいと思いました。
音楽が好きで聞いていましたが、新しい曲では誰が作詞作曲、企画、何処で誰が演奏しているのかなどに興味がありました。
裏方の方に興味がありました。
学生時代からコンサートをプロデュースしていました。
1970年に入学して最初の2年間は学校が無かった時代(ロックアウト)でした。
自己流に社会勉強していて、映画、音楽を研究してコンサートを開いたりしました。
大学卒後音楽業界誌、ミュージックラボに入ることになりました。
3年で辞めさせてもらて、甲斐バンドを引き受けることになりました。(マネージメントとプロデュース)
自分にとって近さも感じました。

甲斐バンドはデビュー3年目の頃の時でした。
「アンナ」をプロデュースして大ヒットになりました。
主語の変更から始めました。(「僕」(子供っぱさがある)から「俺」へ)
10年ぐらいやって、一旦音楽は撤退しようと思いました。
作家、漫画家のページェントとマネージメントをやろうとおもって新会社を作って、仕事を始めました。
マイケルジャクソンが1987年、ムーンウオークの自叙伝を出して、翻訳、装丁などを引き受けました。
THE BOOMと云うバンドとの出会いがあり、新しい音楽の世界へ旅をすることが出来ました。
沖縄音楽、アジア、中南米の音楽とかに出会って、バンドのメンバーと関心が向いて行って、新しい人との出会いがあり、沢山の音楽との出会いがありました。
東南アジア、台湾、沖縄、色んな新しい発見がありました。
「島歌」は、僕にとって神様が降りて来るような歌でした。
キューバ、ブラジルでも同じ様に神様が降りて来るような感覚があり、得難い体験をずーっとしてきました。

歌は結局訴えなので、言葉にならない思いが有るわけだからリズム、メロディー、ほかの楽器との共鳴で表現するので、言語は違って判らなくても、歌っている感覚と何を訴えて聞けるのかということはそんなに間違わない。
喜び、悲しみなど伝わってくる感覚は音を付けてみれば判るような感覚だと思います。

経営者になると云うことは全くありませんでした。
音楽を目指す為の人のために、音楽をやっている人のために、役立つことを自分なりに何か書いたり形にしたいなと思っています。
音楽プロデューサーとしてやり残したことはないと思っています。
「上を向いて歩こう」を調べたのも、日本語の歌なのにアメリカで1位になったのかだれも正確に言えなかった。
どういうシステムでどういう流れでアメリカで100万枚売れたのか、誰もしらなかった。
調べて行ったらきちっと裏で仕事をしていた人たちがいる、このメロディー、リズムは世界で通用する音楽だと云うふうに判断した人がいて、楽譜など世界の出版社に売り込んで実際にカバーされてヒットしてから、オリジナルに火が付いた訳です。
きちっとやっていた人がいなければこういった奇跡は起きないんですね。(裏方)
広まって行くためにも伝達の仕方によって、良くもなれば失敗もするので、或る楽曲について情熱をもってやってくれる人がたくさん出てこないと、こういう奇跡的な歌は生まれないと云うことが分かったわけです。

日本にもいい歌がたくさんあるが、なされていないだけで、そういったことをやってくれる人が増えてくればいいなあと思って書いたり人前で話したりしているわけです。
「上を向いて歩こう」は1961年に日本でヒットして、63年に世界でヒットして80~81年でもう一回世界でヒットして、1994~5年にかけて世界でヒットしている。
300年前、200年前にヨーロッパでも沢山歌われたが、限られた数しか残っていない。
ヴェートーベン、バッハ、モーツアルトなどの歌が何で残っているのか、となると、常に様々な時代に様々な音楽家がそれを解釈に依って演奏したり歌ったり記録したり、手を加えながら色んな事をやって来たから生きている。
日本の歌謡曲、ポップスだって同じことかなと思いました。
その時代の人しか受け取れない感覚はあると思うので、新しいエネルギーだったり新しい生命力を吹き込んでもらうことに依って、生きてくる歌はたくさん眠っていると思う。
世界中がインターネットでつながって来ているので、良い歌、作品を見つけ出して、ぴかっと光って気が付く人が出てくると言う状態に持ってゆくことは必要だと思っています。
「黄昏のビギン」30数年ほとんど誰にも歌われないままで居たが、ちあきなおみさんによって歌われたことで良い歌だと感じて、大変な数の人に歌われて、いまでは日本のスタンダードナンバーの5本の指にはいるかなあと言うことになっている。

「ヨイトマケの唄」は1963年NHKの「夢で逢いましょう」で歌ったのを聞いて、吃驚した覚えがあります。
その後桑田 佳祐さんとか色々な人が歌ってきました。
名曲は個人のもので、スタンダードナンバーは良いと思う人の共有感覚と云うものがスタンダードナンバーを生んでいくと思います。
ランキングに入ってこなかった歌でも、そのうちにクラシック的な扱いになっている、それがスタンダードナンバーの条件だと思います。
技術を越えた多くの人の心みたいなものが何かの瞬間に凝縮された時に出来上がった結晶みたいなものが素晴らしい歌だと思いますが、常に水や光を与えていないといけないものが歌だと思っていて、そういった総合力の成り立ちを広めていけば世の中に潤いが生まれるのではないかと思います。
そういう音楽を見付けて伝えて、物語を解明してと云う仕事をやって行きたい。

























2018年2月7日水曜日

柳田恭子( てーねん・どすこい倶楽部 理事) ・介護職試験 ことばの壁を乗り越えろ

柳田恭子(NPO法人 てーねん・どすこい倶楽部 理事)・介護職試験 ことばの壁を乗り越えろ
「てーねん・どすこい倶楽部 」は東京墨田区で活動しているボランティアグループで会社などで退職した人たち、70人が参加しています。
柳田さんは75歳、クラブのグループの中の一つ、日本語教育支援の代表で日本で介護職につこうとする在日外国人にたいして、無料の日本語講座を開いてサポートしてきました。
これまでに講座の受講者の中から介護福祉士の国家試験に3人の合格者を出すなど成果を上げています。
介護を担う人材が不足する中、言葉の壁を乗り越え新たな介護職を誕生させようという柳田さんの取り組みは、どの様に展開されているのか、そこにかける意味合いは、柳田さんに伺いました。
墨田区には国技館があり相撲の部屋が沢山あり、定年を迎えた方がきていますので、「てーねん・どすこい倶楽部」 にしました。
平成14年に発足しました。
平成19年にNPO団体として認証をうけました。
定年になって、やってきたことを還元出来たらいい、ノウハウを伝えていけたらいいと思って出来上がりました。
現在70名位が在籍しています。
色々な職業に携わってきた人たちが参加しています。
平均年齢は70代が一番多いです。
セミナー部、情報部、シニアー人材部部など色々あります。
私は日本語教育支援部でやっています。
介護の仕事に就いている人達に、言葉の読み方と意味を教えています。

以前私は自営業、柔道の畳の製造販売をしていました。(まだ半分やっていますが)
或る方に誘われて入りました。
日本語教育支援は早稲田大学大学院の日本語教育研究科の宮崎里司教授が外国人に対して、仕事をやらせてあげたいと云う思いがあり、介護の仕事にたいして力になれないかと言うことで、クラブが出来上がり、補佐する部署がほしいと云うことで私たちの事務所に来られて、こういうことをやる様になりました。
対象の方は日本人と結婚されている方がほとんどです。
フィリピン、タイ、ペルー、中国、ロシアとかが来ています。
介護をしている方がほとんどです。(介護2級をとられてから来ています)
介護で記録を付けますが、その記録したものを理解したいと云うことでした。
週一回2時~7時半まで私は行っています。
授業は最初自習復習、次に漢字の読み書き、試験の問題を解く練習、専門の先生が施設から来てくれて専門の話をして貰います。
授業に私たちも参加しています。(介護の経験知識がないので)

進捗レベルに応じてグループ分けられていて、そこにそれぞれについてサポートしています。
日常会話の中でもわからない言葉もありますから、それを理解してもらうこともやっています。
「褥瘡(じょくそう)」=床ずれ 「誤嚥(ごえん)」こういった言葉も難しい。
ひら仮名で書くにしても小さい「ょ」と大きい「よ」も理解してもらわなくてはいけない。
受かったことによって、自分に自信が持てるようになります。
より高度な仕事をするように希望を持ちます。
試験の内容は多岐にわたっていて(憲法などもある)、問題は125問になりました。
最初2013年3月に介護福祉士の合格者が一名出ました。
周りの人たちが私たちも夢ではないと、勉強を続けようと云う気持ちになりました。
その後、彼女は2014年10月にケアマネージャーに受かりました。
2015年3月には介護福祉士に2名受かりました。

受かった人達も他の人たちに、どうやって理解したかを母国語(タガログ語)で教えてくれたりしています。
広がりもより広くなってきていると思います。
試験のあり方について要望書を出しました。
厚労省に要望として、ルビーを振ってもらう事を要望しました。
EPAで来ている人は1.5倍の試験時間があるので、それと同等にして欲しいと要望書を出していますが、実現はしていません。
(EPA=経済連携協定(Economic Partnership Agreement))
働いた金も一部送らなくてはいけないとか、重圧を感じながら勉強しているようです。
彼女らが介護を担ってくれるという事は大賛成だと思います。
フィリピンの人達が一番多いのですが、フィリピンの人たちはコミュニケーション能力はあると思います。
「人には添ってみろ」という言葉がありますが、彼女たちからどれだけ彼女たちから教えられて、温かい気持ちになれたか、そういう思いです。
私達も寄り添ってあげたいと思います。
彼女たちが一生懸命やっているから、私たちも一生懸命に勉強して頑張っています。
今後について、伸び悩んでいることもあり、後輩を育てなくてはいけないと思っているし、新たに勉強したい人を連れて来てここに来て良かったと思えるように目指したい。























2018年2月6日火曜日

鶴賀若狭掾(人間国宝 鶴賀流11代目家元) ・江戸の情緒“新内”を次世代へ

鶴賀若狭掾(人間国宝 鶴賀流11代目家元) ・江戸の情緒“新内”を次世代へ
昭和13年東京の神楽坂で新内の家元の家に生まれました。
三味線の音と共に育ち、61歳で11代目鶴賀流家元になりました。
この新内、江戸時代に中頃に生まれ三味線に合せて物語を語る芸として人気を博しましたが時代とともに関心が薄れてしまいました。
鶴賀さんは新内の基本は崩さずに、楽しくて判りやすい作品を作り続け、多くの人に見ていただくために国内はもとより国際交流基金などと協力して海外にも出かけていきました。
そのような活動が認められ人間国宝に平成13年になりました。

新内流し
新内は流しかと言われるが、本当はそうではない。
男性は吉原かむり、女性は吹き流し、営業的に二人で三味線を弾きながら歩いて柳橋、深川などの二階から声がかかって、お客さんに所望されて歌う。
新内は浄瑠璃の一派で表でやったりちょっと語るものではなくて、1曲1時間から3時間ぐらいまであります。
三味線に合せて語るものです。
歌ものと語りものに大きく分かれます。
歌ものは、長唄、端唄、小唄、地唄、荻江、歌沢、宮薗など、語りは浄瑠璃物、義太夫、常磐津、新内、富本、清本、一中、などがある。
語りにはふしと言葉がある。
新内は250年繋がっている江戸の浄瑠璃の一派です。

母音を伸ばすので理解するのがなかなか難しい。
歌詞も昔の言葉で難しい。
若い人に受けない最大の要因かなあと思います。
代表作は①明烏夢泡雪 ②若木仇名草(蘭蝶) ③帰咲名残命毛(尾上伊太八)
義太夫から移曲しているのが多い。
今、新内のプロのなかで弟子は減っている。
後継者が不足していてどうやって解決するのか、私の課題です。
文科庁と協力して動いていますが、効果はそうでていない。
新内では私が初めて人間国宝になりましたが、責任を感じます。

義太夫の若手と組んで演奏会をやって評判が良かったです。
見て聞いて楽しいそして判りやすい新内にしないといけないと思っています。
古典芸能は素晴らしいが、今の若い人に見せるのにどうしたらいいかを色々考えています。
観てもらって判ってもらわないとだめですね。
コラボレーションをやっていて、能、西洋音楽、クラシックバレエ、ジャズ、タンゴなどともやっています。
新しいものを取り入れた新内にしないといけないと思っています。
国内、海外(40カ国以上)にも足を運んでいます。
八王子に車人形があるが、それと一緒に小学校にいったりして、文化庁の仕事で回ったりしています。
舞踊を必ず付けないと難しい。
石川県へは伝統芸能の芸術監督として毎年やっています。
飛騨の高山でも古い家並みを流したりしました。
徳島では人形浄瑠璃の発祥の地なので、農村舞台が壊れてしまって復活しようと云うことでそのお手伝いもしました。(50年振りとか)
山形でも沢山やりました。
あちこちに新内の種をまいてきましたが、少しでも残っていれば僕のやったことの意義があると思っています。
のめり込むということは喜びがあると云うことです。

平成11年頃に車人形に誘われて南米に行きました(ブラジル、ウルグアイ、チリ)
「野次喜多」、「新内流し」をやったが、皆ぽかんとして見ていました。
なにもうけなかったので何とかしてほしいと言われてしまった。
ポルトガル語でやろうと思い付きました。
そうしたら大変受けました。
別の国ではスペイン語でもやり、これも大変受けました。
アメリカでは英語でやりました。
ロシア、フランスなどは出来なくて駄目でした。(判らないところは英語でやりましたが)
イギリスでも小学校から大学まで色々行きました。
伝統芸能にたいして日本人とは違って真剣に聞いてくれます。(尊敬の念を持ってくれている)
人間国宝に平成13年になり、新内が認められたと思いました。

10歳の時に父親から新内を習い始める。
母親が小料理屋をやっていてスポンサーで、それだから新内が出来たと思っています。
店には古今亭志ん生師匠とか文士、出版関係とかが来ていました。
おふくろの店がなかったら今の自分は無かったですね。
天皇皇后両陛下の前でも披露することが出来、嬉しかったです。
「若木仇名草(蘭蝶)」をやりました。
いかにして新内を後世に残すか、それが僕に与えられた使命だと思っています。

















2018年2月5日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)    ・【近代日本150年 明治の群像】上村松園

本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・【近代日本150年 明治の群像】上村松園
講談師 神田蘭
明治の美人画家の第一人者、はがねの様な女性。

講談に依る紹介
上村松園は明治が生んだ女流日本画家の先駆者、女性初の文化勲章を受章。
明治8年京都の茶屋(お茶っ葉を売る)に生まれる、名は「上村 津禰(うえむら つね)」。
生まれる2カ月前に父親が他界、母親は再婚することなく女手一つで育てる。
小さいころから絵を描くことが好きで、小学校を卒業後日本初の画学校に入学するが、物足りなさを感じ、翌年学校をやめて鈴木松年に師事する。
松園という雅号を貰う。
女に学問いらないと云うのが当時の風潮で親戚など周りが反対するが、母親だけは違っていた。
母親は絵の才能を伸ばしてあげたいと思い、支えて行く。

15歳の時に第3回内国勧業博覧会の時に「四季美人図」を出品、これが英国王子のお買い上げとなり、天才少女現れると一躍脚光を浴びる。
画家としての力を上げるため師匠を変えて行く。
当時は女性への偏見差別がかなりあった。
明治37年、第9回新古美術展に「遊女亀遊」を出品するが、何者かが落書きをする。
(*亀遊は異国人相手に身を任すことを潔しとせず、辞世の句を遺して自害。
 「露をだにいとふ大和の女郎花 降るあめりかに袖はぬらさじ」)
事務局が落書部分を書き直すように指示するが、落書きされたままを出品する。
後年「戦場の軍人と同じ血みどろの戦いでした」と口述している。
61歳の時「序の舞い」を完成、「何物にも侵されない女性のうちにひそむ強い意志をこの絵に表現したかった。 一片の卑俗なところも無く清澄な感じのする香り高い珠玉の様な絵こそ私の念願するものなのです。」
「序の舞い」は彼女自身を描いたものかもしれない。

明治時代にプロの画家を目指すことは特に珍しい。
現代でも女性にたいしては厳しい対応をすることがあるのに。
明治8年京都四条通御幸町の葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれた。
母親は女手一つで育てるが、この時26歳。
母親の考え方がすごかった。(絵を描くことを応援する)
明治14年小学校に入る。
明治20年京都府画学校に入学、四条派の鈴木松年に師事。
明治23年  第3回内国勧業博覧会に「四季美人図」を出品一等褒状受賞(この絵を、来日中の ヴィクトリア女王の三男アーサー王子が購入し話題となった)。
明治26年  幸野楳嶺に師事。亡くなると竹内栖鳳に師事。
明治33年 日本美術院展で『花かざり』が銀牌(三席)
明治35年 長男・信太郎(上村松篁)が誕生。未婚の母となった松園は多くを語っていない。(27歳)

大正8年 「焔(ほのお)」 を出品 
(*謡曲「葵の上」に想を得て源氏物語に登場する六条御息所の生霊を描く。美人画作家といわれる松園の作品の中では異色の主題。髪の端を噛んで振り返る青い顔には嫉妬に翻弄される姿が現われ,白地の着物に描かれた清楚な藤の花にからむ大きな蜘蛛の巣が,執拗な怨念を不気味に暗示させる。嫉妬の化身となった生霊を品格を損なわずに造形化した本図は,近代日本画の水準を高めたと評価される松園の実力を鮮やかに証明している。)
中年女の嫉妬の炎、一念が燃え上がって炎のように焼けつく形相を描いたものです。
最初は「生霊」としたかったが、相談して「焔(ほのお)」 と決めました。
行き詰まった時、仕事の上でどうにも成らなかった時には思いきって大胆な仕事をするのも局面打開の一策と成るのではないでしょうか。
あれは今思い出しても画中の人物に恐ろしさを感じるものがあります。
次に描いたのが「天女」で「焔(ほのお)」とは正反対。

大正11年「楊貴妃」
昭和9年  母・仲子死去。(86歳)
第15回帝展に「母子」を出展、母性愛にあふれる感じの絵(59歳)
(*第十五回帝国美術院展覧会出品作で、班竹の簾を背景に、眉を剃りお歯黒をした女性が幼児を抱き上げ慈しむような視線を向ける様子を、ほぼ等身大に描く。明治期京都の町家の婦人の姿であり、幼児の無垢で純真な性質と、美しくも安心感のある母親の頼もしさを表現する。)
母の男勝りの気性は多分に私の内にも移っていった。
私も又世の荒波と戦って独立して行けたのは、母の男勝りの気性を身内に流れこませたからであろう。
母は決然と身を粉にして働いてくれ、一生懸命に絵を描くようにといってくれた。
私の母は私を産んでくれたとともに、芸術までも産んでくれたのである。

昭和11年 「序の舞」を出品 (61歳)
(*「序の舞」は文部省招待展に出品され、完成度・格調ともに優れて世評高く、政府買い上げとなった作品で、現代の令嬢が謡曲を舞う姿を描いている。)
私の作品の中でも力作です。
この絵は私の理想の女性の最高のものと言っていい、自分でも気に入っている女性の姿です。
ごく静かで上品な気分のするものでありますからそこを狙って、優美な中にも毅然として犯しがたい女性の気品を描いたつもりです。
息子の嫁をモデルにして構図を取ったものです。
(*1965年(昭和40年)発行の切手趣味週間の図案に採用されている。)
昭和23年 女性として初めて文化勲章を授与される。
昭和24年 肺がんで死去。(74歳)

東西美人画の名作と言う展覧会が3月から行われる。(3月31日~5月6日迄)
東京芸術大学大学美術館。













2018年2月4日日曜日

大杉久美子(アニメソング歌手)     ・【時代を創った声】

大杉久美子(アニメソング歌手)     ・【時代を創った声】
歌手としてデビューして55年目、13歳の時に歌謡歌手としてデビュー、初めてのアニメソングの歌を歌ったのは18歳の時の「アタックNO1」の主題歌でした。
その後「エースをねらえ」、「母をたずねて三千里」、「ドラえもんの歌」など様々なアニメの主題歌を歌ってきました。

「アタックNO1」は作曲家の渡辺岳夫先生は曲に対してイメージが有って限り無く近づけたいと云う方だった。
絞られて絞られて出来上がった歌でした。
あとで考えるとそれがありがたかったです。
「アタックNO1」は今までセリフのある歌を歌ったことがなかったので難しかった。
デビューは歌謡曲だったがなかなかヒットしなかったが、これは毎回TVで流れるのでほんとうに嬉しかったです。
新しいレコード会社が出来て宣伝のために一般の人から募集しようと云うことで母から言われて仕方なくコンクールに出て、優勝するとはおもわなかったが、優勝してしまいました。
歌手になりますかと言われて、何故か歌手になりますと答えてしまいました。
芸能界には違和感もあったが、子供なので良く判らないことが色々ありました。
シングルレコードを3枚だしたが、ヒット曲には恵まれなかった。
上手いだけではヒットしないと言われました。
気持でも迷いがあり、仕事もセーブさせてもらって、あるコーラスのおねえさんの処にレッスンに行っていたときに、アタックNO1の歌い手を探している人がたまたま来て居て、オーディションがあるからと言われて、出かけたらそれが「アタックNO1」の曲でした。
童謡とかコマーシャルソングとかの依頼がありました。

その後も、歌謡曲を出したが、やはり駄目でした。(人生経験も浅く何かが欠けていたと思う)
アニメソングを歌って、アニメソングがヒットして行く。
私を必要としているのはアニメなのかなと思いました。
そんな思いで歌い始めたのが「アルプスの少女ハイジ」でした。
この歌は森の中に住んでいる思いもあるので、優しく力をぬいたような感じで歌いました。
こういう歌を歌いたかったのかもしれないと思いました。
出演する機会があるようになり、子供達のまえで歌うことが喜びになって来て、色々研究するようになり、学んで、一生懸命頑張るようになりました。
きちんと歌わなければいけないのが一番大切なことかなと思います。
個性を出し過ぎるのも良くないと思います。
主人公になった歌が多かったので、その気持ちになって歌いました。
1993年あたりぐらいから歌わなくなってきた。
主題歌も変わって来て、アニメソングではなくてポップスの様な歌も出てくるような時代になってきました。
私が歌っていた歌とは違うような感じの歌もあった処に、何十年も一緒に仕事をしてきたマネージャーが病気になり4,5年入院生活後に亡くなってしまいした。
すごくショックで、歌を歌っても今までの様にのめり込めなくて、精神的なことが影響しているのかなあと思いました。
周りもそーっとしておこうかなと言うような感じでした。
娘も受験時期を迎えていて彼女に力を注ぐべきかなと思いました。

一杯名曲があり、周りからも歌えよといわれて、レッスンを始めたりし始めました。
歌うとやはり楽しいので、少しずつ頑張れるようになり、ステージに呼んで下さるようになりました。
今は歌って行こうと凄く気持ちが湧いてきました。
自分を支えてくれる人、自分が支えてあげないといけない人を作っていかないと私って駄目なのかなあと思いました。
家族が有ったこと、仕事が有ったこと、周りの人が温かく支えてくれたことなどが有って辛い時期を乗り越えたのかなあと感じます。
母がずーっと病気でいつ亡くなるか判らないような状況が続きましたが、亡くなったのは去年で93歳でした。
母は病気と寿命は違うんだと言って乗り越えて来た様な生活でした。
若い人には何が必要なのかということを早い段階で見極めると云うことが必要かと思います。
アニメは正確な歌が要求されるが、今はそれプラスリズムだったり、ダンスも出来なくてはいけないとか有るので、沢山勉強することが一杯あると思う。
表現するためには自分の中に溜めこんだものがないといけないので、人として魅力的な人になるのにはどうしたらいいのか、色んな人と会って色んな話をしたり、本を読むとか、芸術的なこと、芝居を見るとか、色々勉強しないといけないと思う。
若い時は遠くをなかなか見られないけれども、長いこと自分の人生を生きて行く事も考えて行った方がいいと思います。
























2018年2月3日土曜日

永田和宏(歌人・細胞生物学者)      ・いのちを詠う(うたう)

永田和宏(歌人・細胞生物学者)      ・いのちを詠う(うたう)
70歳、京都産業大学 タンパク質動態研究所の所長を勤める永田さんは去年タンパク質研究の功績が認められ国際的に権威のあるハンス・ノイラート科学賞を受賞、日本人で初めての快挙となりました。
科学者としての永田さんを支えてきたのは妻の河野裕子さんです。
河野さんも日本を代表する歌人で7年前、癌で他界しました。
二人は出会いから亡くなるまでの40年間歌で互いの想いを交わしつづけました。
河野さんが亡くなって7年余り、永田さんに夫婦のありよう命のありようについて伺います。

専門が細胞生物学、細胞も細胞の膜によって外界から区切られたときにはじめて生命としてスタートした。
細胞膜は水も通さないが、水を通す穴があり、閉じたり開いたりして水を通す。
閉じたり開いたりしないと生命が維持できない。
私が学生たちにいつも言っているのは、サイエンスには知らないものを知りたいと云うロジカルに色々なことを論理的に考えて一つのことをやって行くと云うことも大事なことですが、その根底には自然に対する驚き、こんなに良く出来ているのかという感動、この驚きと感動が研究者には必要だと言ってます。
高校の時に物理が好きで、シンプルな原理で世の中を記述できることに引かれて、物理をやろうと思いました。
物理から落ちこぼれる理由が3つあって、
①学園紛争の時で授業が1年間出来なくて、学問に対する興味を失ってしまった。
②短歌を始め、短歌浸けの生活が始まった。
③最大の理由は河野裕子に出会ってしまった。(短歌と恋人がリンクしてしまっていた)

河野さんの短歌
「たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらって行ってはくれぬか」
永田さんの歌
「きみに逢う以前のぼくに遭いたくなって海へのバスに揺られていたり」
(出会う前の自分に出会いたくなる、自分を探しに海に探しに行くと云う歌)
大学卒業後間もなく結婚。
歌人夫婦として歩み始める。
大学の研究員だったが、無給の為夜遅くまで塾講師を勤めながら多忙な日々を送る。
妻は家事子育てをしながら夫を支えてくれる。
「しっかりと飯を食はせて陽にあてしふとんにくるみて寝かす仕合せ」
夜の1時以前に家に帰ることはほとんどなかった。
帰ってから、妻と一緒に1時ぐらいから4時ぐらいまで歌を作ったり、評論を書く生活をしていました。
彼女が頑張っているからやらなければとか、妻も同様に私を見て頑張らなくてはとの思いがあったようで、お互いに負けたくないと云うような思いもありました。
お互いが我が強いので喧嘩もよくやりました。
喧嘩をしてもお互いの評価はしていました。
自分を認めてくれて背中を押してくれる存在が直ぐ横にいてくれる安心感と言うのが同じ様に強かったように感じます。

平成12年9月、妻の左胸に腫瘍が見つかり、乳がんと診断される。
突然なのでなんでという思いが強かったが、平然としているしかなかった。
それが妻が精神的に不安定になって行くと云うことに、あとになって気が付く。
手術は無事成功したが再発の恐怖と、術後の体調不良の苦しみを次第に妻を追いつめてゆく。
「文献に癌細胞を読み続け私の癌には触れざる君は」?(河野)
もっと自分の傷跡に触って手を当てて一緒に感じて欲しかった。
科学者としてどうすれば一番いい可能性が探れるかを思っていて、妻にも言っていたが、妻としては私の悲しみはだれも判ってくれないと駆り立てていったと思います。
行き場の無い怒りを私に向けました。
精神が不安定になり激しく怒って、包丁を突き付けることもありました。
「この人を殺してわれも死ぬべしと 幾たび思ひ 幾たびを泣きし」(河野)
どこに出口もない時間が長く続くと終わらせるのには、お互い死んでしまうしかないと云う、いまでも介護でそういうことを聞きますが、個人的には非常に良く判ります。

「あの時の壊れたわたしを抱きしめてあなたは泣いた泣くより無くて」(河野)
と云う歌を見付けて、妻が自分で覚えてくれているんだと想えた時は本当に救われたという気がしました。
修羅場を妻が覚えてくれたと云うことに、なにかとてもうれしかった。
私がどうしようもなくて彼女を抱きしめて泣いたと云うことを彼女自身が記憶していたと云うことはやっぱり有難かった。
手術から8年後乳がんの再発と転移が見つかる。
5年目をクリアした時はワインで酒盛りをして6,7年目もそうしていましたが再発と言うことになって、又あのひどい状態が来るのかと、一番最初に思いました。
「まぎれなく転移箇所は三つありいよいよ来ましたかと主治医に言えり」(河野)
妻なりに死と言うものに折り合いを付けていた時期があの時期だったと思います。
2度目に宣言された時には、いよいよ来ることが判っていたような口ぶりで受け入れた、そんなような気がします。

旅行するとかという様なことは一切しないで、京都歌紀行というエッセーを書くことになり、京都、滋賀周辺を訪ねて歌を紹介して、訪ねたことをエッセーに書いて最後に歌を作ると云うようなことをしました。
京都、寂光院の本尊の左手に結ばれた五色のひもをしっかり握りしめ静かに祈っていた。
妻は普段そんなことを絶対しない人でしたが、吃驚するぐらい長く紐を持ってじーっと目を瞑っていましたが、切なかったです。
死ぬ準備をしているんだ、そんな感じでした。
「 みほとけよ祈らせたまえあまりにも. 短きこの世をすぎゆくわれに」(河野)
再発してしまうと容易ならざることだと思っていました。
今度は僕の方があられもなく泣いたりしました。
妻の膝で泣いたりしましたが、それは妻にとって嬉しかったようです。
これから引き算の時間を生きていくんだと云うことは強く思いました。
「一日が過ぎれば一日減っていく君との時間 もうすぐ夏至だ 」(永田)

この歌は妻自身が読むのでもうすぐ死ぬんだと云うことを宣言するような歌なので、この時ばかりは出していいかどうか子どもと相談しましたが、出すべきだと言われて出すことにしました。
この歌を作っていなかったら、どんなふうに僕が彼女の死を悲しんでいるかということを上手く伝えられなかったと思う。
字を書くことも難しくなると、語るようになりました。
*亡くなる2日前のやり取りの声が流れる。(上手く聞き取れない)
歌だけが口から洩れて来る状況で、それを書きとめることは凄く辛い。
崇高な場面に今立ち会っていると云う感じがしていたのを覚えています。
「長生きして欲しいと誰彼数えつつつひにはあなたひとりを数ふ」(河野)
「さみしくてあたたかかりきこの世にて会い得しことを幸せと思ふ」(河野)
出会って40数年たちましたが、出会ったときからお互いに魅かれあったと云うことは判りますが、さみしかったが温かかった、あなたと会ったことが幸せと思う、そういってくれたのは・・・・なかなか・・・彼女にとって一番心残りだったのは僕のことだったと思います。

妻が亡くなって7年、孫の「あかり」は妻が亡くなって3年後に生まれました。
今度新しい本が出ますが、妻を想う歌が出てきていて、だんだんと妻を亡くしたと云うことから抜け出でて行く自分がこの歌集を読むと感じます。
「今日は三度も大声を出して笑ったと懺悔のごとく風呂に思える」?(永田)
妻が死んだという呪縛から知らず知らず抜けて行っている、寂しいことだが、彼女が遠ざかってゆくことではない。
どっかでおいどうしたらいいんだと云うような感じで河野裕子の存在を呼び出している、感じている、そういう自分がいると云うことを凄く感じます。
人間どんなにちかしい人でもどんなに上手くいっている人でも、自分の一番言いたいことが全部伝わっているかと言うと、ほとんど伝わっていない、そう言う存在であると云うことは間違いないと思います。
歌があるおかげでそう言うことに気づくことが他の人よりも多かったかもしれない。
河野がこの子(あかり)を楽しめなかった分、自分がこの子と共に楽しんで自分の時間を生きてあげなければ河野がかわいそうだと思いました。
自分の時間をきちんと生きてあげなければ駄目だなあと、そんな気がします。
「授かりし小さき命鳴く声のほのぼのとして開く手の指の細さよ」?
「我妻の指を告げるや亡き妻のつめにみるとや」?
「昼下がりの陽だまりのごと風にそよぐひめじょうもまた」?
「水に浮く笹船のごとつつましきされどたしかな」?
「生きるべし生きて居よとの君よりの声」?






2018年2月2日金曜日

岩田喜美枝(21世紀職業財団会長)    ・ラジオが元気の源

岩田喜美枝(21世紀職業財団会長)    ・ラジオが元気の源
岩田さんは1971年に労働省に入られてから、官僚としても民間会社の経営者としても常に働く女性のパイオニアとして活躍してこられました。
現在も21世紀職業財団会長や民間会社の社外取締役を複数兼務するなど、多忙な毎日を送る岩田さんにとってラジオはどんな存在なのか、これまで先頭に立って働く女性のために歩んで来られた仕事を含め伺いました。

21世紀職業財団は一言でいえば、企業などでダイバーシティ(Diversity 多様な人材を積極的に活用しようという考え方)の推進する事のするお手伝いをする、と云うことになります。
理念は、あらゆる人がその能力を十分に発揮しながら、健やかに働ける環境を実現する。
キャッチフレーズが「多彩な力が生きる社会に」となっています。
人は性、年齢、国籍など多様性があります。
体力の制約がある中で頑張っている方、職歴が違うとか、違いがありますが、それを理由に差別はしてはいけない。
土壌として多様性が大事だと云うことでそのお手伝いをするという団体です。
女性が職場でもっと活躍するためにはどうしたらいいか、育児介護などの時間制約のある方、病気で治療しながら仕事を続けている方等、制約がある方が職場で活躍してもらう為にはどうしたらいいかとか、長時間労働が当たり前とか、労働時間管理などもっとフレキシブルにした方が一人ひとりの能力が発揮しやすくなるのではないかとか、ハラスメントが認識される様になったがそれがないようにするとか、企業のお手伝いをしています。

今年で32年になります。
男女雇用機会均等法が施行され、職場で実現するためのどうしたらいいかという戸惑いがありました。
1986年に法律の施行と同時に出来ました。
最初「女性職業財団」と言う名前でスタートしました。
2012年私が会長として就任することになりました。
女性だけの問題では終わらないで、全ての人のワークライフバランスが実現できるように働き方をどう変えていったらいいか、ハラスメント全体にもかかわるようになっています。
子育てをしながら仕事を続けられるようにするにはどうしたらいいか、と云うことがワークライフバランスの最初のテーマでした。
仕事以外にやらなくてはいけないことを皆持っているので、限定した問題から全ての人に対してどうしたらいいかというふうに広がっています。

1971年労働省に入る。
当時、結婚退社が当たり前の時代だったが、ずーっと仕事をしたかったので民間では無理だと思いました。
労働省に婦人少年局が有ったので、女性が活躍しやすいところでここだけ毎年取っていたので採用されました。
10年単位で振り返って見ると、随分女性が活躍しやすい環境になったと思います。
男女雇用機会均等法は一番思い出深いことで、課長補佐として立法する作業の一員としてかかわりました。
検討から成立するまで10年近くかかっていますが。私は3年数か月関わりました。
そこに関われたことは幸せだったと思います。
女性は弱い存在だと云う保護規定が有って、それが逆に活躍の障害になったり、差別をする理屈に使われるような面があったと思う。
そのため労使の対立はおおきかったです。

2001年に厚生労働省の初代雇用均等・児童家庭局に就任。
行政改革で労働省の婦人局と厚生省の児童家庭局が一緒になりました。
内容は近いがベクトルがなかなか合わなかった。
保育の問題と社会福祉の問題とか、あり難儀でした。
その後退官して第二の就活をしました。
企業で働く気持ちが強くて、女性社員が多い化粧品メーカー資生堂に就職しました。
公務員時代は男性社会の中でやってきたので、いかに同化するか無意識にやっていました。(服装も黒っぽい地味な服装)
会社に入ってみると女性の方がおしゃれで個性的で人と違うことがいいことだと云う社風でした。
男性もおしゃれでした。

1990年代に福原さんが社長を10年位されて、その時に仕事と子育てについて先進的に手を打った。
結婚、出産退職は無くなって、配偶者が転勤になると辞めると云うことがありましたが、同じ地域に転勤するなどの手を打ちました。
キャリアアップの面ではまだまだでした。(管理職に占める割合は10%程度だった、当時の日本では高かったが。)
女性にたいする育成が足りなかったと思います。
2013年(10年後)には抵抗もありましたが、女性管理職を10%以上にするという目標を設けて、能力次第で登用する方向で進めることにしました。
2008年に資生堂の副社長になる。

現在家族は夫と二人で、娘たちは独立しています。
子育て時代は保育所だけではだめでベビーシッターを雇って対応したり色々なことが大変でした。
大変だったが幸せでした。
実家は香川県で母親は妹が面倒を見てくれて、妹の負荷を考えて私は度々行くようにしました。
元気を与えてくれたのがラジオでした。
20年ぐらい使っています。
特に子育て、介護などの時にはゆっくりできなかったので、ラジオを通じて世の中の情報を知りたかったし、癒されたいと思っていつも身近にありました。
今は夜も聞いていてラジオ深夜便もよく聞いています。
11時台の「ナイトエッセー」と早く目が覚めたときには「あすへの言葉」は良く聞いていて一番好きです。
それには松原亘子さん、労働省の事務次官でしたが、出ておられました。
他に医師の友達、坂東眞理子さん、藤原智子さん(2008・11・18、19に出演 「蘇る記憶の中の人々 記録映画に魅かれて」 )等が出ていて、知っている方が出ていて私自身の誇らしい気持ちにもなりました。

映画「ベアテの贈りもの」、ベアテ・シロタ・ゴートンさん 日本国憲法の女性平等に関わる。
GHQが起草段階で関わるが、そこにベアテさんがいて、父親がレオ・シロタという有名なピアニストで山田耕作さんに乞われて日本に来て、ベアテさんが生まれて少女時代を過ごした。
太平洋戦争になり、ベアテさんはアメリカの大学に留学していて、帰れなくなり、両親は日本にいて、戦後日本に文族というステータスで来て、両親とも再会できて、起草段階でなんとか日本の女性のために良い憲法をつくりたいと云うことで、男女平等、家族の条文の処の下書きをした人でした。
記録を撮り残したいと言うことで映画製作委員会ができて、赤松良子さんが会長で私が事務局長で藤原さんに監督をして貰って、映画を作ったのが2004,5年ぐらいでした。
藤原さんも結婚、出産などで長い間仕事を辞めていました。
60代になってからまた本格的に仕事を始めました。
その映画の時は70代で、凄いと思いました。
資生堂を64歳で辞めて70歳で色々なことも引退しようと思っていたが、80代で活躍している人もいるのでそうは言っていられないと思います。


















2018年2月1日木曜日

井茂圭洞(書家)             ・書道を世界の遺産に

井茂圭洞(書家)          ・書道を世界の遺産に
81歳、兵庫県出身のかなの書家。
高校入学と同時に書道部に入部、そこで昭和を代表するかなの巨匠深山竜洞氏の指導を受けました。
平成13年に日展で内閣総理大臣賞、15年に芸術院賞、24年には芸術院会員になりました。
いま書道をする人たちが減っていて、書道の関係者は危機感を持っています。
是非書道にもっと関心を持ってもらいたいと言うことから、平成27年の4月に日本書道ユネスコ登録推進協議会を発足し、書道文化を無形文化遺産に登録してもらおうと活動しています。
その運動の中心的な存在が井茂圭洞さんです。
書道の無形文化遺産登録への思い、書道を次世代にどうつないでいくかなどを伺います。

美しい整った字が書きたいと、これが一番初めに習うことが多い訳です。
たまたま深山竜洞氏がかなの専門の先生だったので自然とかなが専門になりました。
やはり漢字の練習から入るのが普通だと思っています。
高校入学と同時に書道部に入部、美しい整った字が書きたいと思いました。
日展の副理事長で、日本書道ユネスコ登録推進協議会の副会長です。
2009年に漢字が中国によってユネスコ文化遺産に登録されたわけです。
かなも日本で生まれたものなので登録していただきたいという思いがあり日本書芸院などの先生方に相談して4年前に理事会を開いて応援すると云うことなり、平成27年4月に日本書道ユネスコ登録推進協議会が立ちあがりました。
書き初めの方が登録に適していると云うことで登録させていただいています。
書き初めは他にはないので適しているのではないかと指摘を受けました。
2020年が次の指定になり、そこが目標になっています。

1936年昭和11年生まれ。
物心ついた時には空襲などがあり、2年生の時には姫路に疎開しました。
1年生の終わりごろに結核性の右膝関節炎になり、治療の方法がなくて静養するしかなかった。(結核菌を膝に封じ込める方法)
松葉つえを付いていたが、その後ゴルフもしたし普通の生活は出来ました。
中学時代は医学部に入って役に立てたらと思っていましたが、或る時蛙の解剖があり、出来なかった。
高校の時に内科の先生になると言ったが駄目だと言われてしまいました。
整った文字が書きたいと思いもあり、家のあとを継ぐことの問題もありましたが、書道部に入りました。
深山竜洞先生の様な人生を送れたらいいなあと云うことを思うようになりました。
西洋文化に依り書道が無くなってしまうのではないかと危惧して、先生はいろいろ活動されて、先生の考えに共鳴しました。

先生から「伝統文化の一つである書道を後世に伝えるようにしているが、君もやってくれないか」と言われました。
書道で生活が出来るのかを質問したら、高等学校の先生にはなれる、書道は私が教えると言ってくれました。
京都学芸大学に入学、その後女子高に9年間勤める。
卒業後日展に初入選、8回通るが昭和44年の日展で落選した。
学校の先生との両立は難しいと思って退職しました。
家内と塾を経営しながら生計をたてました。
深山竜洞先生の生きざまを見せていただいて、自分の勉強の時間を取ることが大事だと思って退職しました。
大学の終わりにはもう手本か渡さないから自分で工夫しなさいと言われました。
何回も直してもらうと手本と同じようになる、書いて訂正していただくことは自分と先生との考え方が違うことが判る。
手本を真似していると、こういうものだということは理解できても、ものを作って行くと云う勉強にはならないので、私は先生に有難い指導をしていただいたと思います。

かなの一番特徴は流れの美しさ、一つの文字の美しい形と言うのはバランスが取れている。
バランスの取れた文字を二つ、三つ並べても、三つが一つ、二つが一つには見えない。
アンバランス、一つの文字としては整っていない、どっか欠けている、これを二つたすと完全になる。
完全と完全をいくら足して行っても不完全になる。
文字は美しい文字をいくら重ねても、美しいとは言えず、どっか欠けた所が次の文字を補い、欠けたところを次の文字が補い、4,5の文字で綺麗な形になる。
習字は一つ一つの字が美しければいいが、書道は不完全と不完全を足して完全にすると云う考え方、習字プラスアルファ書道。
読んでいきたいと云うことは文学を理解したい、書の形の美しさを理解したいと云う時には読めなくても抽象絵画的に見る美しさ、書道の場合は学芸と言った方がいいかもしれない。
岡倉天心先生は書については「文字は意思伝達の記号であるが、錬磨考究すれば美術の領域に達する」と、言っています。

バランスの取り方で書の作家の製作態度が変わって来る。
先達の真似をすることから始まり、古典に対しては受け身の感じですが、先達の名筆のなかに、どこか一般の自然の中からも得られるが直接的なものはかなの古筆、古典なので、
そのなかの鉱脈みたいなものを能動的に探しに行くと云う勉強にここ1年ぐらい変わって来て、考え方は日本の伝統のわびさびの世界の古筆から鉱脈を見付ける訳ですが、書いた作品自体は出来るなら今迄にない作品を書きたい。
一つ一つを見れば古筆の処にあるが、全体をみたらこういうものは今までになかったと、そういう作品を書きたいと思っている。
できるかできないかは未知数ですが。
書道人口は減っている、書をこれから盛んにするには、展覧会があれば足を運んでくれる人が多くなれば良いと思うので、そのためには作家がいままでに無かったものを発表するそういうことがこれからの書家が伝統文化を将来に向けて受け継いでいく、盛んにするという言葉になるのでしょうか。