2018年2月3日土曜日

永田和宏(歌人・細胞生物学者)      ・いのちを詠う(うたう)

永田和宏(歌人・細胞生物学者)      ・いのちを詠う(うたう)
70歳、京都産業大学 タンパク質動態研究所の所長を勤める永田さんは去年タンパク質研究の功績が認められ国際的に権威のあるハンス・ノイラート科学賞を受賞、日本人で初めての快挙となりました。
科学者としての永田さんを支えてきたのは妻の河野裕子さんです。
河野さんも日本を代表する歌人で7年前、癌で他界しました。
二人は出会いから亡くなるまでの40年間歌で互いの想いを交わしつづけました。
河野さんが亡くなって7年余り、永田さんに夫婦のありよう命のありようについて伺います。

専門が細胞生物学、細胞も細胞の膜によって外界から区切られたときにはじめて生命としてスタートした。
細胞膜は水も通さないが、水を通す穴があり、閉じたり開いたりして水を通す。
閉じたり開いたりしないと生命が維持できない。
私が学生たちにいつも言っているのは、サイエンスには知らないものを知りたいと云うロジカルに色々なことを論理的に考えて一つのことをやって行くと云うことも大事なことですが、その根底には自然に対する驚き、こんなに良く出来ているのかという感動、この驚きと感動が研究者には必要だと言ってます。
高校の時に物理が好きで、シンプルな原理で世の中を記述できることに引かれて、物理をやろうと思いました。
物理から落ちこぼれる理由が3つあって、
①学園紛争の時で授業が1年間出来なくて、学問に対する興味を失ってしまった。
②短歌を始め、短歌浸けの生活が始まった。
③最大の理由は河野裕子に出会ってしまった。(短歌と恋人がリンクしてしまっていた)

河野さんの短歌
「たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらって行ってはくれぬか」
永田さんの歌
「きみに逢う以前のぼくに遭いたくなって海へのバスに揺られていたり」
(出会う前の自分に出会いたくなる、自分を探しに海に探しに行くと云う歌)
大学卒業後間もなく結婚。
歌人夫婦として歩み始める。
大学の研究員だったが、無給の為夜遅くまで塾講師を勤めながら多忙な日々を送る。
妻は家事子育てをしながら夫を支えてくれる。
「しっかりと飯を食はせて陽にあてしふとんにくるみて寝かす仕合せ」
夜の1時以前に家に帰ることはほとんどなかった。
帰ってから、妻と一緒に1時ぐらいから4時ぐらいまで歌を作ったり、評論を書く生活をしていました。
彼女が頑張っているからやらなければとか、妻も同様に私を見て頑張らなくてはとの思いがあったようで、お互いに負けたくないと云うような思いもありました。
お互いが我が強いので喧嘩もよくやりました。
喧嘩をしてもお互いの評価はしていました。
自分を認めてくれて背中を押してくれる存在が直ぐ横にいてくれる安心感と言うのが同じ様に強かったように感じます。

平成12年9月、妻の左胸に腫瘍が見つかり、乳がんと診断される。
突然なのでなんでという思いが強かったが、平然としているしかなかった。
それが妻が精神的に不安定になって行くと云うことに、あとになって気が付く。
手術は無事成功したが再発の恐怖と、術後の体調不良の苦しみを次第に妻を追いつめてゆく。
「文献に癌細胞を読み続け私の癌には触れざる君は」?(河野)
もっと自分の傷跡に触って手を当てて一緒に感じて欲しかった。
科学者としてどうすれば一番いい可能性が探れるかを思っていて、妻にも言っていたが、妻としては私の悲しみはだれも判ってくれないと駆り立てていったと思います。
行き場の無い怒りを私に向けました。
精神が不安定になり激しく怒って、包丁を突き付けることもありました。
「この人を殺してわれも死ぬべしと 幾たび思ひ 幾たびを泣きし」(河野)
どこに出口もない時間が長く続くと終わらせるのには、お互い死んでしまうしかないと云う、いまでも介護でそういうことを聞きますが、個人的には非常に良く判ります。

「あの時の壊れたわたしを抱きしめてあなたは泣いた泣くより無くて」(河野)
と云う歌を見付けて、妻が自分で覚えてくれているんだと想えた時は本当に救われたという気がしました。
修羅場を妻が覚えてくれたと云うことに、なにかとてもうれしかった。
私がどうしようもなくて彼女を抱きしめて泣いたと云うことを彼女自身が記憶していたと云うことはやっぱり有難かった。
手術から8年後乳がんの再発と転移が見つかる。
5年目をクリアした時はワインで酒盛りをして6,7年目もそうしていましたが再発と言うことになって、又あのひどい状態が来るのかと、一番最初に思いました。
「まぎれなく転移箇所は三つありいよいよ来ましたかと主治医に言えり」(河野)
妻なりに死と言うものに折り合いを付けていた時期があの時期だったと思います。
2度目に宣言された時には、いよいよ来ることが判っていたような口ぶりで受け入れた、そんなような気がします。

旅行するとかという様なことは一切しないで、京都歌紀行というエッセーを書くことになり、京都、滋賀周辺を訪ねて歌を紹介して、訪ねたことをエッセーに書いて最後に歌を作ると云うようなことをしました。
京都、寂光院の本尊の左手に結ばれた五色のひもをしっかり握りしめ静かに祈っていた。
妻は普段そんなことを絶対しない人でしたが、吃驚するぐらい長く紐を持ってじーっと目を瞑っていましたが、切なかったです。
死ぬ準備をしているんだ、そんな感じでした。
「 みほとけよ祈らせたまえあまりにも. 短きこの世をすぎゆくわれに」(河野)
再発してしまうと容易ならざることだと思っていました。
今度は僕の方があられもなく泣いたりしました。
妻の膝で泣いたりしましたが、それは妻にとって嬉しかったようです。
これから引き算の時間を生きていくんだと云うことは強く思いました。
「一日が過ぎれば一日減っていく君との時間 もうすぐ夏至だ 」(永田)

この歌は妻自身が読むのでもうすぐ死ぬんだと云うことを宣言するような歌なので、この時ばかりは出していいかどうか子どもと相談しましたが、出すべきだと言われて出すことにしました。
この歌を作っていなかったら、どんなふうに僕が彼女の死を悲しんでいるかということを上手く伝えられなかったと思う。
字を書くことも難しくなると、語るようになりました。
*亡くなる2日前のやり取りの声が流れる。(上手く聞き取れない)
歌だけが口から洩れて来る状況で、それを書きとめることは凄く辛い。
崇高な場面に今立ち会っていると云う感じがしていたのを覚えています。
「長生きして欲しいと誰彼数えつつつひにはあなたひとりを数ふ」(河野)
「さみしくてあたたかかりきこの世にて会い得しことを幸せと思ふ」(河野)
出会って40数年たちましたが、出会ったときからお互いに魅かれあったと云うことは判りますが、さみしかったが温かかった、あなたと会ったことが幸せと思う、そういってくれたのは・・・・なかなか・・・彼女にとって一番心残りだったのは僕のことだったと思います。

妻が亡くなって7年、孫の「あかり」は妻が亡くなって3年後に生まれました。
今度新しい本が出ますが、妻を想う歌が出てきていて、だんだんと妻を亡くしたと云うことから抜け出でて行く自分がこの歌集を読むと感じます。
「けふは三度も大声出して笑ったと懺悔のごとく風呂に思える」(永田)
妻が死んだという呪縛から知らず知らず抜けて行っている、寂しいことだが、彼女が遠ざかってゆくことではない。
どっかでおいどうしたらいいんだと云うような感じで河野裕子の存在を呼び出している、感じている、そういう自分がいると云うことを凄く感じます。
人間どんなにちかしい人でもどんなに上手くいっている人でも、自分の一番言いたいことが全部伝わっているかと言うと、ほとんど伝わっていない、そう言う存在であると云うことは間違いないと思います。
歌があるおかげでそう言うことに気づくことが他の人よりも多かったかもしれない。
河野がこの子(あかり)を楽しめなかった分、自分がこの子と共に楽しんで自分の時間を生きてあげなければ河野がかわいそうだと思いました。
自分の時間をきちんと生きてあげなければ駄目だなあと、そんな気がします。
「長歌」の一部
「授かりしちひさき命 泣く声のほのぼのとして 
ひらく手の指のほそさよ わが妻の 指を継げるや 
亡き妻の 爪に似るとや」

「ひるさがりの陽だまりのごと 風にそよぐ姫女苑また水に浮く
笹舟のごと   つつましき されど確かな   生きるべし 
生きてゐよとの   きみよりのこゑ」

上記の長歌の全文は下記のとおりです。
 「母系ふたたび」

しんしんと ひとすぢ続くと 薄明に 蝉鳴きゐると かの夏に
汝は詠みにき みづうみの ほとりの産院 われらまだ
父としてまた 母として 若すぎる腕に 初子抱きし

蝉声と ともに逝きしは 三歳まへ 葉月のゆふべ わが腕に
息も敢へなく 汝が手を 握るほかなく 汝が顔を 撫づるばかりぞ 術を無み
ただに泣きにき 逝かしめたりき

かしのみの 孤りのわれの〈時〉に追われ〈時〉に急かさる
あしねはふ 憂き老いの日々 楽しむこと つひになき日々
「後の日々」はまこと生くるに 喜びぞなき

この葉月 暗き葉月よ じりじりと 地はほのほだち じんじんと 蝉は鳴きたつ
我が庭の 桜古木に 背を割りて すがる空蝉
背を割りて 生るるいのちは わが妻ゆ わが娘を継ぎて
たまのをの 継ぎて伝ふと ただ蝉ぞ鳴く

授かりしちひさき命 泣く声のほのぼのとして
ひらく手の指のほそさよ わが妻の 指を継げるや
亡き妻の 爪に似るとや
ほのかなる午後のひかりに 顎ささへ 娘は乳を与ふ はじめての仕草あやうく
小さき顔を はみだす乳房 忘れゐし かの産院に若かりし
われらが夏の 妻と思へる

名を持たぬ ちひさきものよ あえかなる こゑに泣きたり
ひるさがりの陽だまりのごと 風にそよぐ姫女苑また水に浮く 笹舟のごと
つつましき されど確かな
生きるべし 生きてゐよとの
きみよりのこゑ