2018年3月1日木曜日

南伸坊(イラストレーター)       ・異才が描くのほほんアート

南伸坊(イラストレーター)       ・異才が描くのほほんアート
丸刈りでおむすび型の頭をトレードマークにされているイラストレーターとして知られています。
1947年東京生まれ、ガロと言う個性あふれる漫画家を数多く輩出して日本のサブカルチャー界をリードした漫画雑誌の編集長を長年務めた後フリーとなりイラストレーターを始め装幀デザイナー、エッセーイストとしても、マルチな才能を生かして活躍されています。
歴史上の偉人や有名人に扮して本人に成り切る本人術のシリーズも人気です。
古希を迎えられた南さんに伺いました。

見て気持ちが和む作品。
イラストレーターはそういった感じのものが頼まれる方が、いろんなものが来るので、必ずしも狙ってというものでもない。
絵と云うのは割と芸術とかはそこに主張があるものが正しいというか、言葉で判ることをわざわざ絵にするのはおかしいんじゃないかなあと思って、言葉で言うに言われない様な事をその絵を見ることによって伝わるのだったら、僕はその絵のほうが優れていると思う。
メディアに合った表現、例えば絵なら絵でしか表せないものが描けたら一番いいなあと思います。
小学校の6年生位にグラフィックデザイナーになりたいと言っていたことは覚えています。
おじさんが室内装飾などをする仕事をはじめて、自動車を買って乗せてもらっている間に、遠い親せきの家に行って大学生の女性がレタリングをやっていて、その女性が凄くかわいかった。
そっちに目がくらんだのと、そのお姉さんがグラフィックデザイナーになると云うことを聞いたんだと思います、それが一緒に成って自分もグラフィックデザイナーになろうと考えたものと思います。
中学2年に成った時にはグラフィックデザイナーに成るにはどこの学校に行ったらいいか等を考えていった。

週刊誌に掲載されている和田誠さんの広告を一生懸命見ていました。
映画も観に行くようになり、黒沢明が面白いと思いました。
羽仁 進さんの「不良少年」、ドキュメンタリー風の名作を見て、黒沢明は二番に成りました。
水木しげるさんの「河童の三平」 なまな感じで、作者が自分の書きたいものをダイレクトに出ていて、吃驚したし、感動しました。
高校受験で色々落ちてしまって浪人して、都立高の定時制に行って、編入試験を受けて受かろうと思ったが勉強してなかったし受からなかった。
もう一回高校受験をやって工芸高校に行って、水木さん和田さんにも会いました。
雑誌が図書館に置いてあって、澁澤 龍彥さんが「季刊みづゑ」で美術エッセーを書いていて、面白いと思いました。(図版が面白かった。初めて見る絵ばっかりだった。)
友達がガロと云う雑誌を持っていて、回し読みをしていて、どっかで読んだことがあると思ったのは水木しげるさんだった。
神保町の古本屋のデザイン雑誌を立ち読みすることをいつもやっていました。
水木さん、渋沢さん、(和田さん、羽仁さんは以前から知っていたが)、4人を知りました。

「話の特集」イラストレーターに宇野亜喜良、後藤一之、松永謙一、水田秀穂ら、写真家に篠山紀信、立木義浩、藤倉明治、小川隆之らを配していた。
その人たちが暫くするとどんどんメジャーに成って行く。
「話の特集」の愛読者だったと云うことが、自分にとって影響を受けました。
高校で数学で赤点を取っていて、何とか卒業しましたが、卒業式には出ませんでした。
東京芸大を受けたが、駄目で、デッサンの予備校に通って(3年間)、美学校のポスターを見て(時代錯誤の文字でしか書いてない)、有名人の名前がずらっと書いてあった。
木村恒久さんの名前も書いてあったので教室に行こうと思いました。
木村さんは難しい文章だった。
話も生徒に対して自分と同じレベルといった感じで話すが、難しい、初耳の話であったり、とにかく面白かった。

美学校は卒業証書もないし、就職の世話をする訳でもない、いつでもやめられる。
1969年(木村講師)、1970年(赤瀬川 原平講師)と行来ました。
漫画専門出版社の草分け的存在の青林堂に就職。(長井勝一氏が社長)
少人数ではあるが、編集長を務める。(7年)
イラストのアルバイトをしたり美術エッセーを書いてほしいとの要望があり、楽しくさせていただきました。
その時その時の人に支えられて、1980年に完全にフリーとなりました。
枝道を行って外れたと言っても、そこから行く道があると云うのは凄く思います。