2018年4月29日日曜日

前田吟(俳優)              ・【私の“がむしゃら”時代】

昭和19年山口県防府市で未婚の母の子として生まれた前田吟さん、生後間もなく血縁のない家の養子となり養父から厳しく育てられました。
そのため小学生から人と人の間には必ず壁があり、どんなことがあっても一人で生きていかなければならないと思うようになったと言います。
一方で学校ではいつも明るく学芸会での劇を担任の先生から褒められてからは俳優になるという夢を抱きます。
12歳で養父が亡くなってからは山奥にある養父の親戚の家で暮らし、電気、ガス、水道の無い家で家事にも追われる中、学校の成績もぐんぐん伸びて山口の進学校に入学しました。
しかしその高校を 1年で中退し大阪の家具店に就職しばらくは懸命に働きますが、空いた時間で演劇研究所に通いたいという願いが叶わず、今度は新聞販売店で住み込みで働くことになります。
高校卒業の資格を取る為の勉強もできるようになりました。
しかし、・・・というのが前回までの話。

2カ月位しか良い時は持たなかった。
演劇学校の事務員の人がお金を持って逃げてしまって、学校が潰れてしまう。
潰れてしまっても出かけて行くのが10人ぐらいいたが、その内に3,4人位になってしまった。
たまたま公園で台詞の発生とかいろいろやっていたら、新国劇を作った澤田正二郎さんと一緒に新国劇を作った倉橋仙太郎さんが週に一回教えに来て居ていたが、倉橋さんから声を掛けられた。
色々話をしている中で先生の弟子は大河内伝次郎、大友柳太朗、上田 吉二郎とか有名な弟子が一杯いるということでした。
夜幼稚園を借りて稽古をしているので来るかと聞かれましたが、時間の調整が出来なかった。
それなら就職も紹介しようと言うことになりました。
結婚式場に就職することになりました。(休日、大安以外は暇ぎみなので稽古ができた)
ここでは定着しました。
映画も見れたし、通信教育も出来ました。
掃除から精神的なことまで色んなことを学びました。
1962年(18歳の時)に大阪から上京しました。
東京芸術座の研究所に行って、大阪での縁で上田 吉二郎さんから紹介されて、NHKの「事件記者」とかの通行人で一杯でました。
新宿の「ともしび」という喫茶店で舞台に出たりしました。
東京芸術座の養成所に受かりました。
花の5期で栗原小巻、原田芳雄、村井国夫、林隆三、地井武男などがいました。

自分より上の人だと思っていたら、全部学生っぽいし、朗読とかは上手いが味が無いように感じて、生活感のある路線があるなと思って、周りは演劇青年といった感じなので、TVが出てきて芸術祭作品が盛んに作られてドラマも一杯作られるようになってきていまして、同期生の演劇青年がやるような役はなくて、生活に根差した役がありドラマにださせてもらいました。
それがうまく繋がって「寅さん」になって行っているんだと思います。
「ドレイ工場」で主役が受かりました。
大阪弁とか地方弁とか混ざってしまっていたので、標準語を話すことが難しくて本当に苦労しました。
原田芳雄さんには話すことに関しては延々と稽古をして貰い、本当にお世話になりました。
1964年には結婚しましたが、独身ということで売り出すと言うことで、タレントとして雑誌などに家族のことを聞かれるが、独身ということで別々に住むようになりました。
子供もすぐに生まれてしまいました。
結婚しているということが判ると絶対に売れなくなるということで、一緒に住むようになるのは大分後になってからです。

自分の為に働いたことはないです、働いていれば家族が生活できるだろうと生活の為に働き続けました。
仕事を取る為にオーディションでも目立たないといけないので、目立つような言葉しぐさなどを考えました。
「ドレイ工場」を山田洋次監督がたまたま見にきてくれていて、面白いから今度連れてきてと言われて、それが縁で「寅さん」シリ-ズの義理の弟のひろし役をやることになり、本来教師役だったが工員ということになり、裏が印刷工場になるわけです。
撮影は始まっていたが、書き変えをしました。
第一作が爆発的にヒットしましたので、その後を直ぐに続けて作ることになり、26年間48作全てに出ることになりました。
毎回必ず一つ一つ心に残ることだらけです。
今見るとはずかしいが、前半は引いてしまっていますね。(芝居が前に出ていない)
ひろし役から脱皮しないといけないと思って、それが銀河TV小説の「隣の芝生」でした。
内容は嫁姑のバトルで、その頃から脱皮しました。
その後色々役をやって来て、明るい役をやらせてもらっています。
TVは明るくやらないと食えなということが持論です。
「渡る世間は鬼ばかり」は20年以上続きました。

同じ役を長くやっていて余裕に甘んじていたら、必ずしっぺ返しが来ると思っています。
自分なりによくやったなという仕事もしたいと思っています。
俳優の仕事はしたたかにやらなければいけないし、心してやらないといけない、傲慢になってはいけない。
辛くても台詞必ず覚えて行かないといけないから、栄光の日々の時分を見ることは少ないです。
明日からやる仕事が一番大事で或る意味怖いところがあります。
一つ一つを大事にやっていかないといけないと思っています。
台詞を覚えて行く過程で、これが言えるかなあこれが言えたと思う時が楽しいです。
現場に行くと相手とのテンポと合わなかったりして、大変さの連続で、これのずーっとのくり返しです。
20代から70代までずーっとTV、映画で演じてきて、70代の自分は良いなあと思うようになったが、80代の自分を見てみたいという気持ちはあります。





2018年4月28日土曜日

和波たかよし(バイオリニスト)     ・命綱は点字楽譜

和波たかよし(バイオリニスト)     ・命綱は点字楽譜
1945年東京生まれ、生まれ得て時から目が不自由で、4歳からヴァイオリンを始めました。
1962年日本音楽コンクールで優勝、国際コンクールでも上位入賞し、ソロの演奏の他国内外のオーケストラとも数多く演奏しています。
和波さんは演奏活動のほかに点字楽譜利用連絡会の代表として点字楽譜利用の促進に力を入れています。

18歳で楽団デビュー、現在73歳。
色んな仕事をしていますが、若い人たちに音楽の良さを伝えて行く、あるいは後輩たちを指導すると言うことで八ヶ岳の方で毎年サマーコース&コンサートを32年前からやっています。
今年は7月29日から8月9日まで開催します。
弟子の古澤香理さんを呼び寄せて一緒に室内楽をやります。
40年以上一緒にやっている妻の土屋美寧子(ピアノ)、田島 高宏さん(ヴァイオリン、札幌交響楽団コンサートマスター)、林 詩乃さん(チェロ)などが毎年やってくれています。
大学時代の同級生の岩崎洸さん(チェリスト)も来てくれたりします。

今年の秋には大分に行って芸術短期大学の先生と学生達と一緒にステージをやることにしていて、音楽家のスキルアップを図りたい。
最近はビオラ、ピアノの練習などしています。
視覚障害者の場合は点字の楽譜を使うことになります。
楽譜を使わず人が演奏してくれるのを聞いて覚えてしまう方法もあります。(個人差がある)
邦楽、ジャズなどは楽譜を使わないこともあります。
明治時代になって邦楽も楽譜を使うようになりました。
楽譜が見れないということはやはりハンディーがあります。
しかし邦楽を楽譜にすることはいろいろ難しいところがあります。
クラシックの方は外国でヨーロッパで作られたものをそのまま使います。

4歳の時にヴァイオリンを始めて、弘田 龍太郎先生の勧めで始めました。
音楽をやるのなら点字の楽譜を習いなさいとその時にいわれました。
小学校に上がる時には日本語の点字、楽譜も読めました。
それは非常に助かりました。
数十年前は点字楽譜を書けるのは、日本では一桁と言っていいぐらいでした。
母は私をどうやって育てていこうか手探りで一緒に楽譜を習ってきて、母も点字を覚えて、点字の楽譜を書き始めました。
クラシックになると難しく母はずーっとやってくれていたおかげで、芸術祭優秀賞をいただくようなCDを作ることができたんです。
邦人ヴァイオリン作品集とかの曲によるレコーディングも母が書いてくれた楽譜で勉強してレコーディングしました。
母の点字楽譜は膨大になっています。
私に深い愛情を注いでくれたと感謝しています。
点字は一桝に6点打つので、大変な作業です。
日本で点字タイプライターが売り出されるようになって母は直ぐに購入して使いました。
母はローマでひったくりに会った時に左薬指を怪我をしてしまい、以後力が入りにくくなりました。
僕が40代になるまで母が点訳をしてくれていました。

80年代にコンピューターで文字、楽譜を点字を打ち込むようになってきました。
紙に点のマークを付けていたが、パソコン画面上に表せるようになり、点訳する人も三桁位に増えました。
点字を考案した人はフランスのルイ・ブライユ
彼は5歳で全盲となった。
オルガンの勉強をしていたが、盲学校で中学生のころに文字を浮き出し文字みたいにして図形を描いて、見えない人に認識して文字を教えると言うことをやっていたらしい。
その後横2×縦3の現在の6点式の点字を発明した。
友達にも教えて点字の優位性を広めていった。
43歳で亡くなるが、その時には点字はまだそれほど認められていなかった。
日本では文明開化で西洋から入って来て、明治23年に日本点字が制定される。
楽譜のマニュアルも出来て、点字楽譜も日本でも始まった。
普通の楽譜が作られてから点字楽譜が出来るまでが日本では20年位で、ヨーロッパでは200年ぐらいかかっている。

私の場合は母が古希になるまでは母がやっていて手に入れていましたが、コンピューターでボランティアの方々がやってくれるようになって、いくつかのグループが出来て楽譜を作ってもらう様になりました。
飛躍的に沢山の量が出来るようになりました。
オーケストラでどの楽器がどういうふうにやっているのかは聞くだけだったが、それも全部やってもらえるようになりました。
クラシックは楽譜によって伝えられてきた。
楽譜にリファーしながら解釈して行くのが面白い。
ワーグナーの音楽が20世紀の前半は重くゆっくり演奏したが、ナチスドイツが国威発揚に使ったと言われている。
最近のワーグナーの演奏は変わって来ているが、大筋は変わってきていない。

点字楽譜利用連絡会。
ボランティアで各地でやっていて、プリントアウトすることが出来れば他の人にも共有してもらえるのではないかということで、2005年にグループが出来ましたが、それは皇后陛下のお力でした。
楽譜はメジャーの点訳ではなかった。
楽譜の為の寄付があったが、皆で恩恵を受けられる方法が思い付かなかったが、2005年に日本点字図書館を通じて宮内庁からあって、何人かの人が相談して共有できるカタログ作りをしようということで始まりました。
会員組織にして僕が代表をやって12年間続いてきました。
日本全体での情報交換をしようということで年に2回全体の会合も行っています。
視覚障害者の人がこれから音楽をやりたいと言う人に対して、楽譜の指導をすることが我々で出来るのかなとテーマは沢山あります。
昔はマッサージか音楽かというぐらい音楽は力があったが、他分野へのひろがりもあったりして、今は衰退してきていて残念な思いはあります。
点訳グループの高齢化もしてきていて、若い人にも参加して欲しいと思います。
データがあれば自動点訳も可能になるように研究もされて来つつあります。
クラシックの様な音楽を担う人材も視覚障害者の中から育ってくる様にするには楽譜の存在は絶対不可欠ですので守っていけたらいいなあと思います。




2018年4月27日金曜日

柚木沙弥郎(染色家)          ・【人生のみちしるべ】愉快に今を生きる(1)

柚木沙弥郎(染色家)          ・【人生のみちしるべ】柚木沙弥郎(1)
大正11年生まれ、95歳、柚木さんが生み出すもんようが染められた布の作品は日本だけでなく海外でも高く評価されていて、2014年にはフランスの国立ギメ東洋美術館に作品40点が収蔵され、併せて個展も開催されました。
父親が洋画家だった柚木さんは美術史を学ぶために東京大学に入学します。
しかし大学生活は戦争で中断されて、学徒動員、染色の道を志したのは敗戦後でした。
日常の暮らしの中で使われる手仕事の品に美を見出した運動、民芸運動の提唱者柳宗悦の思想に啓発され、染色の道に進みます。
以来70年、型染めの第一人者として製作を続ける一方で70歳を越えてから次々に新しい分野に挑戦を始めます。
絵本、版画、人形、水彩画など新たな表現を目指して意欲的に創作を続けています。

舟、色んな動物たちがならんでいたり、オモチャ、陶器、絵、人形、彫刻などが飾ってありますが、こういったものと、出会った時の思い出があるので、一つ一つ忘れられないパートナーになります。
出会った時にはピピッとお互いに信号を交換するんですね。
それぞれのものには形があるが、どうしても長い間には壊れててしまうことがあるが、そういう中に無くならないもの、物の持っている物語、歴史、生きざまというか、そういうものなんですね。
本質に触れると言う事、それを知る、捕まえる、それを自分がキャッチすることが僕の出会った日本民芸館の初代館長の柳宗悦先生の言わんとすることだと思うんです。
先生の全人格を表しているのが日本民芸館。
生まれた時から今日までの身体の根幹になって今日まで私は仕事をしているわけです。
或る訓練は必要ですが、段々心がけて来るとどんな人にも出来ることだと思います。
それを育てるように努力する、それによってレベルが上がって行くと思います。
日常生活の中で気を付けていると、いままで見あきるほど見ているものの重みを見ていない場合が多いです。
よく見ると何か気が付く訳です。

日本人は多神教で、どんなものにも命があって、生命の無いものにも、自分が愛着を持っていれば自分に対して発信して来るものがあるんです。
物と人間とのやりとり、交信、そういうことが日常にある。
物であるあなたと長く付き合うと言うことで日付けを入れて行く。
物の経験した時間というものを、物が生きているという、そういうことをインドに行った時に感じました。
手仕事は手間暇掛けてしていると言うことです。
時間も同じで、一日をどういうふうに使うか、今日は良かったと思う日もあるし無駄に一日過ごしたということがあるかもしれないが、時間に捉われない生活というのは今の日本では無理です。
それでもそういうことを心掛ければ出来るのではないかと思う。
勤めを辞めてからの時間が長くなってきているので、その使い方はやろうと思えばできると思う。
自分が主体にならないと駄目。
面白いと思うものを見付けること、出来たらそれを自分から発信する、こういうことをやっているぞ、こういうことに興味を持っていると。

2007年(85歳の頃)にパリで展覧会をやっている時に、今あなたは何に興味を持っているのか、今何をしているのか、どんな仕事をしているのか、と言われた。
学歴とかどういう仕事をしてきたのかとか過去のことを聞かない、今の事を聞いて来る。
柳宗悦先生の言葉に「今よりなきに」という言葉がある。
今というものを大事にするかしないか。
済んでしまった事をとやかく言うのはつまらないと思う。
未来に期待する。
今ヘルパーさんが週に二回、マッサージが来るので、自分だけの時間は日曜、火曜、木曜
の3日間。
本当に考えるのは夜明けで、良い考えが浮かびます。(ノイズが入らない)
5月に民芸館で講演会を行うが、どういう内容を喋るかなどを考えたりします。
無駄な事を省いていくと本当のことだけがいえると思います。
かっこ悪いのが嫌で、かっこ悪いというのは言いわけをしたり、前置きをしたり、挨拶が多くて早く本当のことだけを言ってほしいと思う、じれったくなる。

かっこいいものは今生きているものだなあと感じるんです。
シャープで要らないものをとってしまって、飛行機などもパンダの絵とか余計なものを描かなくていい。
颯爽としているそういうものでありたい。
生まれは東京田端、大正11年生まれ。
明治では田端は文士が多く居て、大正のころは名残があった。
室生犀星さんは家の前にいらっしゃいました。
田端では芥川龍之介がダントツで、僕の兄弟は芥川比呂志さんだとか子供さん達と遊んでいました。
父も洋画家でした。
僕は絵が好きだったので爆弾三勇士に関する絵を描いて学校に持っていったりしました。
家にフランス製映写機があって、チャップリンが出てきたりしていました。
母親の記憶はあまりなくて父親と一緒に居ることが多くて、色んなものを作ってくれました。
父と一緒に新聞を濡らして糊を使って粘土替わりにして色々作りました。
当時の絵描きは絵以外に手仕事が好きでした。

戦争の時代になり、もうおしまいだと言うか絶望感、捨てバチというか、もうしょうがないという感じでした。
和辻哲郎の「古寺巡礼」という本が当時よく読まれていて、見おさめと思って奈良に旅行に行っています。
ぼくらの時が一番仲間が亡くなっています。
今から思うと消耗品で特攻隊も予科練と予備学生を使う訳です。
その人たちの分まで生きて何かしないとつまらないと思う。
何の為にそういう自分の命を引き変えたかということは説明付きませんね、当時。
復員して24歳で結婚、大原美術館に就職することになる。
食うや食わずの時代で美術など見に来る人はいなかった。
美術館長の武内 潔真 (きよみ)さんは柳宗悦先生を崇拝していて、展覧会などしていて、倉敷の一部では民芸の作家たちの物が行き渡っているくらいでした。
日常のその時代には皆が民芸品を使っていたが、それを美の対象とは思っていなかった。
和紙に大胆な民芸模様を型染めした暦に出会い、染物の作品が綺麗だと模様に感激しました。(芹沢 銈介
戦争後これから何をしようかと思って、民芸に興味を持って、染色に行き合う訳です。
民芸に夢中になっていたので東京に行きたくて、芹沢先生の所に弟子入りします。



















2018年4月26日木曜日

杉本昌隆(将棋棋士)           ・“藤井聡太”の師匠として

杉本昌隆(将棋棋士)           ・“藤井聡太”の師匠として
史上最年少の14歳2ヶ月でプロ棋士になった藤井聡太6段、その活躍は空前の将棋ブームを巻き起こしています。
名古屋を拠点に活動する杉本さんは現在49歳。
本格的に将棋を差したい少年少女が集まる日本将棋連盟東海研修会の幹事や、杉本昌隆将棋研究所を主宰し後進の育成にも力を注いでいます。
杉本さんは藤井6段が小学1年生の時に初めて出会い、4年生の時から弟子として指導を始めました。
藤井6段との師弟対決が先月実現、結果は藤井6段が勝利を納め将棋界で公式戦で弟子が師匠に勝つ恩返しを受けました。

弟子と公式戦で戦うことは嬉しいです。
負けてしまった自分としては悔しいですが。
私はあれだけメディアが集まって指すことは初めてでした。
中学2年生の9月に昇段を決めてプロ棋士になり自分でも感動しました。
昨年6月に29連勝という新記録を達成しました。(デビュー以来の連勝)
普通デビューしたての新人は将棋が未完成ですから、大きな連勝は普通できる訳が無いですが、藤井の場合は違ったのですね。
これにはびっくりしました。
普通プロの場合は勝率は5割なんですが、デビュー以来の29連勝は今後でないと思います。
彼は今では400年に一人の人と言われています。

初めての出会いは小学校の1年生の終わりごろでした。
日本将棋連盟東海研修会に入会してきました。
何気なく見た将棋がいい内容で、いっていることが大人びていたのが印象でした。
中学生と対戦した時に、ここに歩を打っておかないと勝ちがないと言っていたのが印象的でした。(先の局面を見る能力がある)
小学校の4年生の時に弟子入りしてきました。
当時40人ぐらいいましたが、周りとは別格でした。
負けた時は悔しがり方が尋常ではなかった、将棋盤を抱えて号泣するんです、それが5分位続くんです。(しかし切り替えは早かった)
負けを真正面から全身で受け取っています。

私は小学校2年生の時に父に教わって始めました。
駒に役割があり、それぞれ能力があり魅力を感じました。
小学校4,5年の時にプロになりたいと思いました。
6年生の時に奨励会に入りました。
板谷進9段が師匠でした。
豪快で細かいことを言わない師匠でした。
「沢山食べてどんどん将棋を指せ」ということをよく言っていました。
将棋の戦法は大きく分けると、居飛車、振り飛車とがありますが、私は振り飛車が好きでした。(師匠は居飛車で、居飛車はオーソドックスです)
門下では振り飛車は当時御法度でした。
入門後勝てない時期があって、自分では振り飛車の方が向いているのではないかと思いました。
スタイルを変えたのですが、師匠からは何も言われませんでした。

相撲の世界などでは教える側と教えてもらう側がはっきりしていますが、将棋の世界では全くなくて、師匠に金銭的なメリットは何にも無いです。
師匠がいくら弟子に教え込んでも弟子が勝ってくれないと全く意味をなさない。
師匠は弟子を勝たせるのが役目なので、礼儀正しい好青年を育てることにはまったく意味がないです。
弟子は若いので師匠の言葉は重たいです。
押しつけになってしまってもよくなくて、自分で考えた末に結論を出してほしい。
彼の場合は自ら学んでゆくタイプの弟子でして、こんなに手のかからない弟子はいないと言うほど楽な子でした。
自分の意見を述べますし、沈黙が流れる事もあります、素直な弟子という表現はもしかしたら当てはまらないかもしれませんが、頼もしい弟子です。
自分の信念を持っていると思いました。
彼の持っている才能はやはり今まで類を見ないほど凄いものがありましたので、あくまでも常識的な教えはしない方が彼の才能を蓋をしないのではないかと思って、私は意識的に指す機会は減らしていました。
兄弟子たちと指して後で私がアドバイスをするという立場でやっていました。

技術的な他に人と人との相性というものがあると思うので、私と藤井とは相性は悪くないと思っています。
伸び伸びと勉強しやすい空間を作ることに関しては意識しました。
畠山8段とは小学校5,6年生のころからのライバルであり友達で、将棋の世界独特のものがあるかもしれません。
将棋は二人で戦えば必ずどちらかが勝って、どちらかが負けるので、勝ち負けが日常的にあります。
素晴らしい良い結果が出るか、負けて悔しい思いをするか、まあまあということはないです。
一生懸命やった過程を重視してそれを評価するのが保護者、指導者の方の役割なのかなと思います。
一局が終わるまでは一人なので誰も助けることはできないので、私達の決断は最後は自分で決めなくてはいけない。

若い人は見ているとこちらが勉強になることもあります。
棋士になって30年近くなりますが、お互い学びたいと言うこともあります、お互い強くなりたいと言う思いがあるので。
私が負けたら段が落ちてしまうという局面があって将棋の世界から足を洗うようかもしれないと思っていた時に、師匠がニヤッと笑って「面白い勝負だな、お前がこの先どの位将棋を指すか判らないが、今後このぐらい面白い勝負はないかもしれない、だから一生懸命やるんだな」と言ってくれて、気分が落ち込んで居た時に、この勝負は面白いんだと思うことで、勝つことができました。
師匠の一言が大きかったと思います。
私が19歳の時に師匠は47歳で亡くなられてしまいました。
藤井と一緒に上を目指せていけたらいいと思っています。



















2018年4月25日水曜日

水木悦子(エッセイスト)         ・ゲゲゲのお父ちゃんの背中

水木悦子(エッセイスト)         ・ゲゲゲのお父ちゃんの背中
漫画家水木しげるさんの次女、1968年にアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」が初めて放送されて今年で50年、いま改めて水木さんの作品が注目されています。
悦子さんは水木さんが93歳で生涯を終える間30年の間、同じ仕事場で漫画家生活を支えて来ました。
悦子さんは昨年発表したエッセー「ゲゲゲの娘日記」中で多忙な日々の中で見せた水木しげるさんの父親としての素顔や優しさに触れています。
そうした思い出話を伺いました。

部屋一面に本があるが、資料、描いた本とかがあります。
新聞の切り抜き、自分が載っていた記事などスクラップブックにしています。
色んな本を読んで勉強もしていました。
漫画のセリフを考えている時は鬼気迫るものがあり近寄れなかったです。
ご飯を呼ぶ役割を担当していましたが、呼ぶと集中していましたが、「おうそうか」と返事をしていました。
主に父の遺品の整理、父の載っている記事のコピーなどの整理をしています。
つい読んでしまったりして仕事が進まないです。
未完成な物があったりして驚きました。
予定帳の様なものがありますが、文章も詰まっていてネタ帳に近い様なものです。
私のテストの日なども書いてあり、気にしていたんだなあと思います。

父と一緒に家から会社まで歩いている時に、急ぐなと言われて、「お前の足元を見てみろ」と言われてゆっくり歩くことで植物の移り変わりが見られたりするので、「お前は損をしている」と言われました。
「季節の移り変わりも判るし、虫もいるし楽しいぞ」と言われてそういうものかと思いました。
子供のころから父の漫画は読んでいました。
「ゲゲゲの鬼太郎」、「河童の三平」などが好きです。
父の本を読んで「この世の中においしい話なんてあるわけがない」と身に浸みて判りました。
「錬金術」の本の中で、「いつまでたっても金が出ないではないか」、ということに対して「錬金術は金を得ることではなく、そのことによって金では得られない希望を得ることにあるんだ、人生はそれでいいんだ。
この世の中にこれは価値だと声を大にして、叫ぶに値することがあるかね、すべてまやかしではないか、はっ」、ここのセリフを読んだ時、全てがまやかしなんだこの世の中は、て。

大人になって感じることは、見えない世界は有るんだよと伝えたかったのかなと思います。
妖怪も眼には見えないけれどいるんだよ、ということだと思います。
お化けは怖いだけではなくて愛嬌が無いといけないと、必ず愛嬌を入れていました。
父がスランプになって急に妖怪はいないんだと言い始めた時に、京都に修学旅行に行った時に、障子に目の形に並んで、増えて行くのを見たんです。
妖怪なのかなあと思って、家に帰ってから障子に映るお化けはいるのか聞いたら、父はもくもくれん(目目連)というんだと説明しました。
父の目が輝き始めて、やっぱりいるんだと元気が出ました。
たったの一度見たもくもくれん(目目連)はスランプを救った妖怪でした。

「ゲゲゲの鬼太郎」については父はあまり話さなかったです。
小学校6年生の時に、いじめに遭った時があり死んでしまいたいと言う思いがあって、幸福の量を研究している人がいるということを父が話し始めて、その後「ゲゲゲの鬼太郎」の話になって、悪いことをした妖怪を普通ならやっつけて殺してしまう様な事を、父はそうはしたくなかった。
なんでかと言うと戦争でいやというほど友達、親友を10人位死んでしまった、そういうものを見てきているから、漫画の中でも殺す、死ぬと言うことをしたくなかった。
妖怪を諭して元に帰ってもらうと言う本にしたんだと言っていました。
私が死にたいと思っていたことを父は察したのではないかと思います。
「生きていればいい事もある、それは他人が判断するのではなくてお前にしか判断できない、お前にしか見つけられないことだから、もうちょっと生きて見ないか」と言われました。
その言葉が今も支えになっています。
本当は見ていてくれたんだと嬉しくなりました。
父の言ってくれた言葉に対して楽観的になりました。

「ゲゲゲの鬼太郎」では諭して、妖怪が怒るに至った原因を突き詰めて妖怪に謝ってもらう様な形を取って、元の場所に戻ってもらう。
父の戦地での経験がそういう方に生きているんだなと思いました。
戦地ではたったの2年だけれども、20年30年の経験だったものと思います。
父の戦記ものは読んだあとに凄く落ち込むんです。
なんで人間は殺し合いをしなければいけないのだろう、殺し合いの先に何があるのだろうと思う。
99%の真実に1%の誇張をいれて書いていたと言っていました。
面白い部分もあるが、読後感は凄く落ち込みます。
「生まれたら生きぬかないといけない」、というふうに言っていました。
「命は大事にするもんだ」、というふうには言わないですが。

厭なこと、いじめがあった時に落ち込んでしまうことは凄く良く判るが、その人にしかわからない楽しさ、幸せを感じることは必ずあるのでそっちの方もあるんだよということを伝えたい。
生きてほしいということは伝えたい。
粘り強く生きるように。
体験した戦記ものが出てきて、中隊長が生きられるかも知れないのに自殺してしまうくだりがあり、どんなところでも人間は生きようとしないと、神様も助力することができない、粘り強く生きようとしないと駄目だ、と書いてあります。
父は戦争からはなにがなんでも生きて帰ってやるんだと言う気持があったと言っていました。
口に出しては言わないが、行動の一つ一つが背中で物語っていて、父の背中は大草原の様な背中です。








2018年4月24日火曜日

安藤忠雄(建築家)           ・人生はいつでも挑戦

安藤忠雄(建築家)           ・人生はいつでも挑戦
世界で活躍する建築家の安藤さん、77歳、大阪で生まれ工業高校を卒業後、プロボクサーを経て独学で建築を学びました。
1級建築士の資格を取り独立、安藤忠雄建築研究所を設立、1979年に住吉の長屋で日本建築学会賞を受賞、代表作「光の教会」を初めコンクリートの素材を使って空間や光を取り入れた斬新な作品で注目を浴びます。
東京大学やハーバード大学で後進の指導にもあたり、2005年には国際建築科連合ではゴールドメダル賞を受賞、2010年に文化勲章 2013年にはフランス芸術文化勲章を受章するなど国際的にも高い評価を受けています。
現在も精力的に活躍している安藤さんですが、2009年にがんが発見されて、胆のう、胆管、十二指腸を切除、そして5年後2014年には膵臓、脾臓も切除しています。
5つの臓器を取りながらも手術後は規則的な生活で、医師も驚くほどの健康を取り戻しました。
人生はいつでも挑戦と、今はフランスでの新しいプロジェクトに取り組んでいます。

毎日1万歩、歩くことを目標にしています。
朝6時45分位から40分位歩いて、5000歩位になり、後は仕事などで歩いているうちに1万1000歩位になります。
4年前に手術した後に、内臓が無いので筋肉でカバーして消化を支えないといけない、そのためには毎日1万歩、歩かないといけないと言われました。
朝は10分位で食べていた時間を40分、昼も40分、夜はもう少し長く時間を掛けて食べています。
体重も64kgでほとんど変わっていません。
2009年の7月に小澤さんらと食事をしていた時に体力には自信があると言っていたんですが、8月末に病院から呼び出されてがんがあるので、胆のう、胆管、十二指腸を切除しなければいけないと言われました。
10時間位の手術で3つの臓器を取りました。
11月に小澤さんもがんになって、自信を持っていたらいけないと思って、その後、食べ物をゆっくりするようにと言われ、仕事ももっと控えるようにとも言われました。
山中さんらとの対談があると言うことでしたが、また膵臓脾臓にがんがあると言うので直ぐに取らないといけないと言われました。
膵臓を全部取って生きていけるのですかと聞いたら、全摘で生きている人もいますが、元気になった人はいませんと言われてしまいました。

7月10日に講演会を6時~8時までして、8時~9時までパーティーをして翌日の8時から11時間の手術をしました。
その後山中先生からは出来るだけ早くiPSを作りますとは言われましたが。
食事は40分、仕事を少なくする、それを決めて規則正しくやっています。
痛い、しんどい、下痢、便秘だとか全然無いです。
希望が前にあれば元気よくいけるんです。
私は病院で出てくる食事は薬だと思って全部食べました。
中国から色々仕事が来ます。
5つも臓器を取って元気にしているのでこんな縁起のいい人はいないので、縁起のいい美術館をつくってほしいということで話が来たりします。
去年秋に新国立美術館で美術展があり「光の教会」をそのまま建てて30万人来ました。
場所は借りられるが他は事務所の自前費用、15万人来れば何とかなると思ったが厳しい。
「光の教会」に7000万円、他の展示に7000万円、トータル1億5000万位掛かる。
20万人でプラスマイナスゼロ位かなと思いました。

カタログを沢山売ればいいと思って交渉したが2300円ということだった、別のところで交渉して3万5000部だったら710円ということだった。
その代わり全部の本にサインをするということだった。
その後2万5000部、また増えていって結局10万部売れましたが、サインは大変でした。
大阪人は発想が大胆、合理性があり、強引なところあり、東京では嫌われる、厄介なんです。
日本では女性が長生きで元気なのが売りで、映画、音楽会、本を読んだり色んな事をするが男性は飲んで寝る、これでは頭がしっかりで長生きは難しい。
私は自分が今なにが出来るかということを真剣に考えている間は何とかなるだろうと思っています。
自分が社会に何ができるか自分の建築の設計に何ができるか、ということを考え続けている間は元気だろうと思っています。
フランスで古い建築の中に新しいアイディアを、という話がありました。
2018年10月10日から12月一杯日仏友好160周年記念の中で実施。
古いものから貰えるオーラみたいなものがあるので、ベニスでサン・マルコ広場の前に古い建物の中にピノンさんという人が新しい世界を作った。
パリで同様の事をやる事になり私の処に話が来て、今年中に出来て来年の秋にオープンします。

食生活は大切にしないといけない。
朝はほとんど食べない、昼は簡単、夜コンビニでは長生きしない。(そうすると寿命は63歳だそうです)
朝から晩までパソコンをやっていると、いけない、食べながら一緒にやるとか。
人生を楽しまないといけない。
日本の建築技術は世界一だが値段が高い。
日本では生き生き働いている様には見えない、イタリアでは働いている人が生き生きしている。
古い建物を残して中にあたらしいものを作ることは、手間もお金もかかるかもしれないが、いいものを残すということが大事です。

被災地の古民家のなかを改造して子供の図書館をつくりませんかと、東北の三知事に話しました。
大阪でも作ろうと(中之島の公会堂に)話を持ちかけましたが、建築費が無いということで、では私のところで出しましょうと言って、運営費は30万円ずつ払ってくれる所を200軒集めたらどうかと言ったら反対も無く、上手く動いて行きました。
本を外でも中でも読めるようにしようと考えました。
上手くいかないことも一杯起こりますが、あきらめずにやってきています。
自分の出来る範囲の事をそれぞれがやればこの国は良くなりますよ。
日本は自然と共に生きていたからいいと言うならば、もっと自然を大切にしたほうがいいのではないかと思います。
下町で育って文化的なものがない、大学にも行けず専門学校にも行けず、そういった中で生きてきたので、壁があってもよじ登る、そうすると全国の人から、大阪の人から嫌われる、でも又壁をよじ登ってきたという人生だからいいんじゃないですか。
だれでも自分の職業を一生懸命やっていたら、楽しい人生を送れますよというものでないといけない、今はそういうふうになっていないでしょう。
生きている限り自分の出来ることをやる。
1000円募金で30万坪を森にしましょうということで、何回講演会をしたかわかりませんが、7億5000万円位集まり、1本100円~300円の苗を植えて10年たって森になっています。(海の森)
なんでも地道に時間を掛けてやっていれば出来るという見本ですね。
一流大学を出た人は失敗を恐れます、私は開き直り、覚悟だけはあります。





2018年4月23日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】川端康成

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】川端康成
「言葉が痛切な実感となるのは痛切な体験の中でだ。」 (「虹いくたび」 川端康成
日本人で初めてノーベル文学賞を受賞、今年2018年は川端康成の受賞50周年に当たります。
命日が4月16日、昭和47年に72歳で亡くなっている。
川端康成は生まれたのは明治32年6月14日、ヘミングウェイ、アル・カポネ、田河水泡、が同じ年生まれ。
ガブリエル・ガルシア=マルケスが褒めていた「眠れる美女」を読んで見たら、吃驚するほど凄くて、それから大ファンになりました。

カフカの名言集、「一番上手く出来るのは倒れたままでいることです。」
私自身が難病でベットで倒れたままでしかできないでいる時に、読んでみると実に痛切な言葉です。
(頭木氏は20歳の時に難病潰瘍性大腸炎を発症、13年間に渡る療養生活を送りました。
その経験から悩み苦しんだ時期に心に浸みいった言葉を絶望名言として、番組、書籍で紹介しています。)
先に色んな言葉に触れていることは大事です。
痛切な体験をした時に、それに対応する言葉が無いよりは、思いだしてあーあれだという言葉がある方が、何にも解決する訳ではないが、心の持ちようとしては有るか、無いか大きく違うと思う。
いつか痛切な体験をした時に思いだして、こういうことを言った人がいたなあと思えば、それは随分違うのではないかと思います。

「忘れるに任せると言うことが、結局最も美しく思い出すということなんだな。」
(川端康成の小説「散りぬるを」からの言葉)
「16歳の日記」は川端康成が実際に16歳の時に病気で寝たきりのおじいさんを介護していた時の日記で、この時におじいさんと二人暮らしだったが、このおじいさんが最後の肉親だった。
両親は川端康成が3歳になるまでにどちらも亡くなっている。
おばあさんも7歳の時に亡くなって、4つ上の姉も10歳の時に亡くなっている。
若いうちから随分身内の死を経験している。
「16歳の日記」はたまたま10年後に見つかり、発表される。
これを読んで川端康成は「この祖父の姿は私の記憶の中の祖父の姿より醜かった。
私の記憶は10年間、祖父の姿を清らかに洗い続けていたのだった。」
と言っている。
おじいさんは目が見えなかった。

大事な想い出なのに当事者の二人が全然違って覚えているということが結構あります。
大抵は自分の都合がいいように変えてることが多くて、変えられてしまった方は腹が立つわけです。
でも本当は悪い方に思いこんでしまってる場合もあるし、いずれにしても記憶は不確かなものです。
記憶は自分にとって大事なところが印象に残って、大事なことだから自分なりに変更する。
非常にオリジナリティー溢れる面白いものになる。
人間は過去の積み重ねで出来ているわけで、その過去の記憶がある程度自分が作り替えているとしたら、自分自身ももしかすると自分の一つの創作物かもしれない。
明るい気分の時は記憶の明るい引き出しを引き出しやすくて、暗い気分の時は記憶の暗い引き出しを引き出しやすい、というふうになりやすい。

「なんとなく好きで、その時は好きだとも言わなかった人の方が、いつまでも懐かしいのね。 忘れないのね。」(「雪国」の中の一節  芸者駒子が語った言葉)
NHKの「友達」山田太一脚本の中の言葉
「キャバレーなどバーなど色んなところで働いてきたけれど、性の有ったお客さんで最後まで行かなかった人が一番なのよ。  いいもんなのよ。
行くとこまで行っちゃえばそれだけのことだけど、両方でなんだか辛抱しちゃったお客さんっていまだにね、いい思い出。
人間の付き合いの中でも相当上等な付き合いじゃないかと思ってるの。」
川端康成に似ている言葉だと思う。
好きだけど言わない、そこにはそれなりの味があると思う。
人生のほとんど本当は辛抱したり、やらなかったり、言わなかったりすることが大半で生きているんじゃないかと思う。
じーっと我慢し続けて押さえてきた結果、身に付くものも有りますし。

宮城道雄作曲の中の「春の海」 琴 宮城道雄 ヴァイオリン ルネ・シュメ 
川端康成が感動したと言われる曲
宮城道雄は7歳の時に失明。話を聞いて感情がわかるという耳の敏感な人。
川端康成は目の作家と言われる。
観察力があり、目で見たものを書くと言うのが非常に特徴的。

「何の秘密もない親友なんていうのは病的な空想で、秘密が無いのは天国か地獄かの話で、人間の世界のことじゃないよ。
何も秘密の無い所に友情は成り立たないよ。 友情ばかりではなく、あらゆる人間感情は成り立たないね。」 (1954年発表 「湖」の一節)
秘密が無い方がいいということに一方あるが、親しい関係だからこそ秘密が多くなるということもある。
親友の相手がどういう行動をするかは判っていても、親友の内面の気持ちはほとんど判らない、胸の内まではつかみ切れていない。
人間というものは意外で、思いがけない面白さでもある。

「いかに現世を厭離するとも自殺は悟りの姿ではない。
いかに徳行をしても自殺者は大聖の域に遠い。」  (随筆「末期の眼」より)
川端康成は自殺している。
「僕は生きている方に味方するね。 きっと人生だって生きている方に味方する」と言っておいて自殺してしまった。
何故自殺したのか本当の胸の内は判らない。
自分でも思いがけないことをしてしまう、そういう自分というものはあるんじゃないでしょうか。
してしまうかもしれないという、おびえを持っている方が却って、しなくても済む面があるかもしれない。

「晴々と眼をあげて、明るい山々を眺めた。 まぶたの裏がかすかに痛んだ。
二十歳の私は自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂欝に耐えきれないで伊豆の旅に出てきているのだった。
だから世間世間尋常の意味で自分がいい人に見えることは、いいようなくありがたいのだった。」 (「伊豆の踊子」からの一節)
下田に着くような帰り道に踊り子たちがいい学生さんだと会話をしているが、それを聞いている自分が思っているということを書いている。
川端康成が自分が孤児だった為に人の顔色ばかり見てたのでは無いだろうか、というような思いを書いている。
子供って、自分だけでは生きられない弱い存在として世の中にいる時に、心細さみたいな、人目を気にしてしまう、よるべなさは幼児体験としてあるのではないでしょうか。
孤児の場合はそれが倍増する訳です。
私が個人的に川端康成に感じる魅力は一貫性の無さです。
自殺は駄目と言いながら自殺してしまう一貫性の無さ。
余り一貫性を重要視しない揺れ動いている、それの方が自然なことかもしれない。
川端康成は自分自身を自分自身にもよく判らないものとして見ているところがあり、そこがとっても魅力的です。
川端康成はゆらゆらしているものとして人間を捕えていたのではないか。













2018年4月22日日曜日

早川文代(食品研究部門 上級研究員)   ・【“美味しい”仕事人】味覚の日本語

早川文代(農研機構食品研究部門 上級研究員)・【“美味しい”仕事人】味覚の日本語
おいしい食べ物が溢れている日本の食、食べ物のおいしさを構成する要素のうち、味や香りがありますが、加えて食感が重要視されるようになってきています。
食感を測る方法の一つに人の感覚を使って、食べ物の品質を評価する方法があります。
この時にサクサク、モチモチなど食感を表す言葉が重要になります。
茨城県つくば市にある農研機構食品研究部門、上級研究員の早川さんは食品や農産物の食感についての用語体系を纏めています。
或る食べもののおいしさを評価する際の言葉を探る事によって、食品のおいしさを高める為の研究に取り組んでいます。
味覚の日本語について伺います。

私は食品の分析や評価が専門です。
分析も色々ありますが、私は実際に人が食べたり、匂いをかいだりする、官能評価が専門です。
味、香り、食感などは機械で測りきれないので、実際に人が食べたり飲んだりして人が評価する必要があります。
製品開発をする時に人で評価するので、より信頼性の高い方法として導入していただいたり、農家の生産者さんからの問い合わせでよりおいしい野菜や果物の評価の方法として導入していただいたりしています。
糖度の場合は、実際に食べた時はそれに併せて酸味、香り、硬さなどでも甘さの印象は変わります。
人が食べた甘さの評価は必要だと思います。
ある一定の感度をもった方を募集して、評価してもらっています。

予め項目を選んでおいて、評価員さんたちにサクサク感などを合わせておいてその後に評価します。
触感の語彙も確認しています。
「食品農産物のテクスチャー用語体系」味覚を言葉に置き換えたもの、予め整理しておかないと言葉を選ぶのが大変で、食感表現をリストアップして整理したものです。
広い意味でのおいしさに関して言えば、味、香り、食感はどれも大事なものだと思います。
食感は言葉がたくさんあるので、分析には使いにくいという背景があったので整理しておく必要がありました。
リストアップしたのが445有ります。
それぞれの言葉がどんな食べ物によく使われるかというデータも併せて調べています。
445を物理的な要素で分けています。
グループ名を付けています。(かみごたえなど)

べたべた、べとべと、ぺとぺと、ぺたぺたなどもちょっとニュアンスが違うと思います。
べたべた=ジャム、蜂蜜、べとべと=チョコレートなど溶けてくっつく感じ、ぺとぺと=くっつく感じが軽い。
まとわりつく=納豆、水飴、オクラなどがあります。
からみつく、くっつく、にちゃにちゃ、ぬちゃぬちゃ・・・・。
一つのグループのなかでも沢山あります。
アンケート、文献、辞書類などで調べてリストアップしてきました。

一般的には食べ物の状態をお互い伝えあう為の語彙の資料にはなっていると思います。
こういう食感が好きなのかと言葉にして貰った方がより判りやすいです。
日本語独特の特徴であったり、日本人特有のセンス、好み、価値観みたいなものが当然浮かび上がってきます。
外国でも同様な食感の表現を整理することをやっていますが、日本語は言葉の数が多いです。
英語では100位、フランス語だと235、日本語では445です。
粘り、ぬめりだとかは外国語では日本語ほど細かい表現はないと思います。
日本人は粘り気のあるものが好きだと思います。
音を擬音化して、言葉にして表現することは日本語では多いと思います。(さくさく、とろとろ、どろどろ・・・・)
とろとろというといいイメージを与えると思いますが、どろどろはイメージが落ちる感じがします。

昭和のなかばごろにも触感の研究はやっていましたが、その時には、ぷるぷると言う言葉はあげられていませんでした。
その後からよく使われるようになったと思います。
1980年代、ゼリーにする(ゲル化剤の研究)研究が進んで、色んな食感のゼリーが作られました。
それで表現も増えて行きました。
ぷるぷる、ぷりぴり、ぷるんぷるん、・・・・。
新しい言葉も増えて来ましたが、消えて行く言葉もあります。
しゅわしゅわも以前は使われていなかった。(炭酸飲料)
すかすかと言う言葉、すいか、大根、きゅうりなど以前は生産、保存技術が劣っていたが、最近はそういったものが出回らなくなって、言葉として使われなくなってきている。
あまり食べられなくなって行くものの表現は、出番が無くなって行くことはあると思います。

ずーっと引き継がれてゆく言葉もあります、さくさくは1000年以上使われています。
かりかりもそうだと思います。(果物の硬いものに昔はつかわれていた)
みずいずしい、ふっくら、ほかほかと言う言葉は好きです。
みずみずしいと水っぽいは全然違います。
ほかほかはあったかい感じがして、柔らかくて、出来たて、でんぷん系の食品に使われます。(炊き立てのご飯、蒸したての饅頭、・・・)
言葉にすることで愛着がわいたり、記憶に残ったりすることはあると思います。
食べることは身近な幸せなので、幸せな記憶だと思います。











2018年4月21日土曜日

勝部麗子(福祉推進室長)        ・声なきSOSを見つけ出す

勝部麗子(大阪府豊中市社会福祉協議会福祉推進室長) ・声なきSOSを見つけ出す
豊中市は人口40万人、千里ニュータウンなど集合住宅が増え都市化と高齢化の中で浮かび上がってきたのが、孤独死、ゴミ屋敷、引きこもり、ホームレスなど役所の担当窓口がない狭間の問題でした。
一方住民と行政を繋ぐために、全国の行政区ごとに組織されている社会福祉協議会も制度の狭間の問題については動くことができませんでした。
こうした問題にも取り組めるコミュニティーソーシャルワーカー(CSW)と云う新しい専門職の配置を大阪市に提案、2004年全国で初めて大阪府内の自治体ごとにCSWが配置されました。
勝部さんの取り組みは豊中方式といわれて、全国から注目され,NHKでドラマになり、「プロフェッショナル仕事の流儀」でも取り上げられました。

社会福祉協議会は地域福祉を推進するということが目的ですが、住民のボランティア活動であったり地域活動を推進しながら行政と住民の間に入ってなかなか救えないような人を発見して、社会の中で居場所を作れたりとか、生活が再建できるようにお手伝いして行く仕事です。
本当に困っている人は相談に行くことすら思いつかないとか、相談に行くためには休まなくてはいけないので日当が貰えないから時間が取れないとか、本当に困っている人は実際なかなか来られない。
豊中市は交通の便が良くて、ベットタウンとして成り立っています。
千里ニュータウンは大阪万博の時に出来たニュータウンです。
人口は40万人で年間で2万人が入れ変わっていて流動しています。
集合住宅が全体の66%、人口密度は高いです。
阪神淡路大震災後に地域の中でのつながりを意識しています。
震災後に孤独死が出てきました。
仮設住宅には高齢者、障害者、子供を育てている人たちが優先的に入れたが、孤立死が起きた。
全国から集まってきた街で、繋げても繋げてもバラバラになってしまう。
震災からの23年間は孤独死や、地域の繋がりを作ると言うことを何度も繰り返しやってきました。

震災後、見守り活動を住民の方と一緒にやったんですが、いろんな心配な方が出てきました。
最初、一人暮らしの方、老老介護、認認介護(認知症の人が認知症の人を介護)、そういった方を見守りますが、その時、ゴミ屋敷の問題が出てきて行政に相談すると、相談窓口がない、管轄に無い話は行政が受け止めてくれないので、制度の狭間があって、解決者がいないと自分でやらなければいけなくて、そのうちに見て見ぬふりをするようになって、丸ごと受け止める部門が無い限り、住民力は上がらないのではないかと大阪市に提案して、大阪府全体の制度になって、平成16年から豊中市でも受け止めますと言うCSWがおかれるようになり、わたしも第一期生になり、現在も活動をしています。
ばらばらになっているのをもう一回繋げ直して行く専門職の配置がある事が、街作りに大事なんだということを提案したのが、その当時の状況でした。
コミュニティーソーシャルワーカー(CSW)は制度の狭間の問題を引き受けることで、解決策は無いが、住民の人と一緒に解決したり、制度がなければ新たに制度を作って対応しています。
10年間で40を越えるプロジェクトを立ち上げて、SOSメールで徘徊者を街ぐるみで探したり、ゴミ屋敷の問題などを皆でルール化をして解決してゆくという事をやってきました。

解決する仕組みまで作れるようになったので、10年前では救えなかったような人達も救えるようになっています。
40万人の人口に対して18人のCSWしかいません。(約2万/1人)
各小学校ごとに100~200人のボランティアの方が見守り活動をしています。
見守りローラー作戦、近所との付き合いが無い所などに訪問して気になる人を発見してもらう、住民ベースで活動をしています。
「8050問題」、80歳に50歳代の無職の息子さん娘さんが同居していて、近隣から孤立していて、80歳代の年金で子供を食べさせている状況の家が孤立していますが、自身で相談に来ることはないので地域の方が声を掛けて、訪問させていただいていることもあります。
80歳代の父親が息子の家庭内暴力の事で電話がありました。
母親は寝たきりで、50歳台の息子が引きこもっていました。
相談先が何処にもないと言うことでした。
父親は自分の育て方も悪いと思っていたようです。
注意しようと息子に言葉を掛けた瞬間に家の中で暴れ出すので、ずーっと暮らしているうちに5年、10年、30年が経ち「8050問題」になってしまったということでした。

福祉の相談は待っているだけではだめだと思いました。
100軒行くと5軒は何か色んな課題があります。
80歳台の人がお金がなくてライフラインが止まっているということもありました。
通帳にはお金はあるがおろし方が判らないということでした。(認知症の始まり)
引きこもっている若者の本人の心を引き出してゆく、本人が出来ることから応援する、などやっています。
漫画を描くことが得意な引きこもりの子に、CSWの取り組みを漫画にしているので、それを依頼してその後一般漫画書籍として出版するようになりました。(4作)
NHKのドラマの「サイレント・プア」もこの本がきっかけになったわけです。
2014年 「プロフェショナル 仕事の流儀」でも 「地域のきずなで無縁を包むコミュニティーソーシャルワーカー(CSW) 勝部麗子」として取り上げられる。
ゴミ屋敷の問題、文句を言う側と捉えられるとなかなか会ってもらえないので、その人の困っていることから応援を地道に続けて行くことで、段々心を開いていってくれる。
行くたびに名刺に一言書いてドアの間に挟んで、心配していることをメッセージとして届てゆく。

ゴミが出せないことで困っている、と云うことがある。(体の問題その他)
片づけが出来ないと言う人もいます。
本人の困り感に寄りそうと言うことが大事だと思います。
問題を理解しないと周りとの関係が悪化して孤立して行くが、困りごとに関わって行くことで、周りも理解するようになると悪かった関係も戻って来る。
「プロフェショナル 仕事の流儀」にでた彼女は昨年亡くなったが近所の人が地域葬を行いました。
いつ自分がどうなるか判らないので、こういう組織は羨ましいと言っていました。
いつ自分が社会に中から落ちこぼれるか判らないと思った時に、そういう人達を排除しないということを作って行くことによって、結果的に自分も助けられてゆく、そういったことを改めて思いました。
ある先輩が「知ることによって優しさって生まれるよ」と言ったんです。
なんで手伝う必要があるかが判ると、より主体的に支えられる。
ボランティアの人が近所で問題を発見して、発見と解決は両輪で、両輪がしっかりしているのが豊中市の大事なところだと思います。
ゴミ屋敷、400軒以上のゴミ屋敷を解決してきています。

元々教員志望で、教育実習に行った時に子供がスタートラインに立てない子が一杯いることを目の当たりにしました。
忘れ物をしてくる子(ゴミ屋敷かも)、遅刻してくる子(シングルマザーの子かも)を福祉の面から支えるべきだと思いました。
労働福祉センターでアルバイトをして、日雇労働者の暮らしを目の当たりにしました。
社会福祉協議会を知って魅力を感じて、この仕事に入りました。
ボランティアの人を探すのが君の仕事だよと言われました。
ボランティアの人を探し、繋いでいくうちに、現在では8000人のボランティアになりました。
最初の頃千里ニュータウンでエレベーターが無くて寝たきりの主人が階段を下りられないので病院に行けないとの電話がありました。
若いボランティアを頼んで対処したが、相手の都合で次の機会に上手くマッチングしない時もある。
階段昇降車を助成金等で購入することができて、それを使うとあっちこっちに困っている人がいることが判ってきました。
仕組みを作って行くと助ける人がたくさん増えて行くことを知りました。
介護者の会を作りました。(介護保険の無かった時代)
80人参加したいと言うことで、会場を用意しましたが、蓋を開けてみると13人しか来てくれませんでした。
次に8人までに減ってしまいました。
或る介護師が「やっと友達、仲間が出来てトンネルの向こうに光が見えたのに閉じるんですか」、と言われて、少なくても助けなくてはと思って会を発足したら、その後80人が入会しました。(参加したくても行けなかったと云うこともある)

引きこもりについては、家族会をおこなって、外に出られるプチバイトを考えて、その人ができることからやって、いくばくかのお金を貰えるようになって段々と自立して行くことが判ったので、就労体験、一般就労ということで支援をしています。
引きこもりだった人が今は支え側に変わってきています。
電球交換(高齢者にできない)、草むしり、ゴミ出しなど。
支えられる側が支え手に代わって来ています。
全ての人が居場所と役割を持つことがとっても大事です。
日本の男性が世界で一番孤独だという数字が出ているそうですが、定年をきっかけに孤立して行く。
役割を担ってもらう事で元気になって、70人の男性が地域で野菜を作って喜ばれています。
その野菜は子供食堂で使われたり、買い物困難な地域に運んだりしています。
大事なことは「一人も取りこぼさない」ということです。
そのためには住民と、専門職が繋がって支えていくという重要さを思います。
排除されていた人が同じ様な課題を持っていた人だったということを理解して貰う、排除の無い社会をどう作って行くか、これからもっと大事になって行くことだと思います。














2018年4月20日金曜日

ジュディ・オング(歌手・女優)         ・【わが心の人】ペギー葉山

ジュディ・オング(歌手・女優)         ・【わが心の人】ペギー葉山
ペギー葉山さん、昭和8年東京生まれ、青山学院女子高等部在学中から進駐軍のキャンプで歌い始め昭和27年「ドミノ」でレコードデビュー、昭和34年には「南国土佐を後にして」で大ヒット、歌謡界での人気を不動のものにしました。
又ミュージカルや司会などでも活躍し、更に「ドレミの歌」を自ら訳して歌い広く紹介しています。
2007年からは女性で初めての日本歌手協会の会長も努めました。
昨年4月12日亡くなられました。83歳でした。

元気な姿を見てから台湾に行ったんですが、悲しい知らせでした。
オシドリ夫婦と言われた夫の根上淳さんが2005年に亡くなられました。
ご夫婦は子役としてのジュディー・オングを見ていて下さった。
私はその後17歳になった時に歌手としてレコードを初めて出しました。
父が仕事で台湾からGHQの仕事できて、ラジオ局のチーフを勤めました。
小さい時は寝る時にジャズを選択していたので聞きながら寝ました。
ペギーさんの声にはあこがれました。
TV番組でペギーさんとはNHKの「ザッツミュージック」と云う番組で長い時間ご一緒しました。
その時になんと素敵な方だと思いました。
その時に歌の事、声の出し方など細やかにアドバイスして貰いました。
ペギーさんがルイ・アームストロングに会いに行った時に、赤い振袖を着て行って、黒のドレスの上にそれを肩からパーっと長く付けて凄くかっこ良かったです。
舞台に立った時に後光が射すように姿勢がぴしっとしていました。
言葉も綺麗であこがれの女性です。

ペギーさんに大切にしていただいたということを感じたのは、お葬式の時に一度も会ったことの無い御子息が走って来て、「僕はジュディーさんに会いたかった、いつも話にでていたから」と言われて泣いてしまいました。
根上淳さんは先生のような存在で歴史を面白おかしく、話してくれました。
私は台湾から2歳の時に日本に来ました。
劇団に入って子役としてTV、映画などに出ました。
1961年に日米合作映画『大津波』で映画デビューしました。
のちNHKのテレビドラマ『明日の家族』を2年位続きました。
ペギーさんは細やかで人を大切にして、品も良くて教わることは多かったです。
「出番の前は早く袖にいなさい」ということはよく言われました。
気合いを入れて舞台に立つ直前の姿までが大切である、という事をよく言われました。
常に上を目指していて、「努力をしないと後ろに下がってしまうので、努力をして初めて維持する」、とおしゃっていました。

ペギーさんは新しいことにも貪欲でした。
ドレミの歌も、ニューヨークに行ってブロードウェーで見て大感動して帰って来て、日本の子供たちに是非歌ってほしいという思いからホテルで書いたと言っていました。
ミュージカル、舞台、お芝居、なんでも自分の世界にしてしまうような方でした。
ペギーさんの「ケセラセラ」が好きで、今回シンガポールのレコーディングで「ケセラセラ」を入れました。
一つ一つ曲への思い出を書いたんですが、それにはペギーさんの事を書きました。
「魅せられて」 扇が広がるようなドレス、私自身でデザインしました。
エーゲ海を映したかったが、映像が間に合わなくて、後ろからライトを当てたらいいんじゃないかということで、結構いいじゃないかということで定番になってしまいました。
紅白でもっと大きいドレスにしようと言うことで、手に持って広げて「おーっ」と皆が言って好評でした。
それから大きな衣装が登場するようになりました。
自分の洋服はほとんど自分でデザインしています。(今はチームがしっかりしていますので、スクリーニングに行きます。)
ステージでの衣装は全く自分の手書きのデザインです。
余り横とか後ろは気を使わない事があると思いますが、ペギーさんの後姿の綺麗な事、いつも思っていました。

私は3月21日に「微笑をありがとう」というCDを出しました。
微笑むと言うことは愛に充ち溢れているから微笑む、幸せな気分になる。
版画家としてもやっていて、8月に版画展を名古屋で行います。(版画とスケッチ)
5月に介助犬フェスタがあり3000頭位来て、Tシャツを売って介助犬のサポートにしましょうということで、絵を描いて多くの方に介助犬の事を知っていただきたいと思います。
人生今日が一番若い日、だからこの一瞬一瞬を大事に楽しくということがあります。
絵を描いている時は身体の中が気がバーっと回ってじっとして坐っているという感じではないです、頭がぐるぐる回っています。
台湾は生みの親で日本は育ての親です、どちらも大切です。
生涯現役、身体の細胞を活性化させながら生涯現役を生きたいなあと思います。













2018年4月19日木曜日

假屋崎省吾(華道家)          ・美をつくる 夢の力(2)

假屋崎省吾(華道家)          ・美をつくる 夢の力(2)
自分は決して有名になりたいとは思わなかった。
子供のころは引っ込み思案だった。
作った家はエネルギーをチャージする場所だと思っています。
父親が鹿児島出身で次男坊で、東京の大学の建築科を卒業して、中央区役所で働いていました。
母は長野県の上田で代々質屋をやっていた家で次女として生まれて、銀座のOLになって、父と出会って結婚しました。
都営住宅に住んでいました。
庭が広くて、二人とも園芸が大好きで、日曜園芸をやっていました。
父はゆくゆくは鹿児島に帰るつもりでいた様です。
父は都市計画を担当していて付け届けがあったが、硬物ですべて断っていました。
預金をする訳ではなかったので食べ物、エンゲル係数は高かったです。
「趣味の園芸」、「婦人百科」の番組がありテキストを買って勉強していましたが、月に一回生け花があり、今までは花を作ることが専門だったが、生け花と出会ってやってみたいと言うことを強く思うようになって生け花の教室に通うようになりました。(大学2年)

子供のころからスポーツは苦手で、教室で答えを発表することも苦手だった。
薔薇の花が咲いた時に、母を呼んだらその花を切ってしまって、「学校に持って行きなさい」と言われて、教壇の上に一輪ざしで活けてくれて、「綺麗だね」とあちこちから聞こえました。(小学校1年生)
母は家族で花を楽しむのもいいけど、学校の皆が花の美しさを感じてくれることが素敵なことだと教えてくれたんだと思いました。
これが原点になりました。
生け花の教室に通う様になったら本当に面白くて、その後師範になりました。
銀座、神田とかの画廊で展覧会をやっていて時間を作って通うようになりました。
就職したが比較的早く辞めてアルバイトをしていたが、個展をしたいと思うようになってはみたものの、画廊は借りれない。
母に個展をやりたいとポロっといったら、母が100万円出して「これを使いなさい」と渡してくれました。(父はすでに他界していた)
それで個展をやることができました。

父と母のお陰で生け花に巡り会えたし、父と母と云えば園芸、土いじり、土を素材にしてなんかやってみたいと思って、色々アイディアが膨らんで土の作品を作るようになりました。
現代美術の批評家が面白いと注目してくれて、企画展がありお金も出していただいて、色んな人に見ていただき、そのうちに花を教えてほしいということに繋がりました。
空間が自分は好きだったので空間構成を色々手がけて、世界が広がって行きました。
その後自分のスタジオを持つようになりました。
ユニークさが評価されたと思います。
母も他界してしまい、借金をして家を建てました。
私も母も美輪さんが大好きでした。
小劇場で月一回の美輪明宏さんのコンサートがあり、壁に寄りかかって始まるのを待っていた時に「これからは美輪さんのお世話になるんだよ」と云う母の声が聞こえたんです。
それからは足しげく通う様になり、交流が始まりました。
人生色んなことがあるが乗り越えて行くしかないですね。

母は明るくて自分のことよりも人の事を思うような人でした。
私は本当はピアニストになりたかったが、コンサートなどはよく行きました。
園芸、料理、ピアノなど父や母から育ててもらったものだと思って感謝です。
物心ついたころから一般的な男の子とは違っていましたが、虐められるということはなかったです。
虐められるようになったのはお花をやるようになってからです。
新しい事を発表しても真似されるんです。
嫉妬心、ねたみなどほっぽらかしておくしかないと美輪さんから教えられました。
見ざる、言わざる、聞かざる、それに関わらざる、これが秘訣といわれましたがつくづくそう思います。
着物は日本の伝統文化なのでもっと気楽に楽しんでもらえた方がいいと思います。
父母は他界しても存在しているような気持です。












2018年4月18日水曜日

假屋崎省吾(華道家)          ・美をつくる 夢の力(1)

假屋崎省吾(華道家)          ・美をつくる 夢の力(1)
子供のころから両親の影響でNHKの「趣味の園芸」を観て、庭で植物を育てるのが得意だったという假屋崎さん、大学生の時に生け花と出会い、空間を大胆に使う斬新な作風で注目されるようになります。
今では生け花に留まらず、TVでのタレント活動や、着物のデザインなど幅広く活躍する假屋崎さんの話を伺います。
35年の華道家生活を振り返ります。

TVに出るようになって時間的に難しくなって髪の毛を切る時間が無くなり長くなってしまって、黒だと重たいので金髪にしました。
服装も花柄など選んで着るようになりました。
TVなどに出る時も自前でやっています。
華道歴35年になりました。(59歳)
一日一日が早すぎて、あっという間に過ぎました。
展示会などで作り上げてしまうと、もうそれは過去のものとなってしまいます。
振り返るとああすればよかったこうすればよかったということが一杯あり、嫌悪感があったりするので振り返らないようにしています。
小さい頃は人見知りする性格でした。
今ではサービス精神が旺盛でついお客様の立場にたって思ってしまいます。

26時間位製作にあたって、スタッフも入れ替わりしましたが、展覧会の会場で行ったこともあります。
枝ものはありとあらゆる花木があり、3m位なものもあり、枝ぶりを観てその場でどこにしようか、配置を決めます。
いろんな角度、広がり、色のコントラスト、香り、など迫力あるものが楽しめると思います。
自然の色を謳歌してもらうようにしたことと、枝に色を塗ることによって再生するとか、具体的には竹を割って内側に何色も塗って構成した作品もありました。
自然の色の良さと人工的な色彩との対比、そういった形で構成しました。
土を使った作品、「舟」という作品も作りましたが、人気がありました。
園芸店で買った黒い土を300袋使用して半分水を使って練って作りましたが、段々乾燥してくるとひびが出来てしまいます。
最終日近くには芽が出てきて、植物は土から色んなものが成長する、輪廻転生みたいなものを感じました。
タイトルとか説明とかを余りしたくは無い方です。
観る人がなんでも感じてほしいと思います。

生け花は活ける空間がとても大事で、花材、器、活ける人、この4つの出会いで生け花は成立するが、活ける空間を一番大切にしています。
小さいころから好きだったのが古い建物でした。
神社仏閣、歴史的な建築物に花を活ける展覧会を数多くしてきましたが、ライフワークと言えるのが城で活けると言うことをやってきました。
松山城で活けさせてもらったことがありますし、名古屋城本丸御殿で絢爛豪華な空間の中で、お花を活けさせて貰ったのも思い出深いものです。
古い建物(目黒雅叙園の保存建築「百段階段」)の開かずの間がありそこでもやらせていただいたこともあり、一番多い時で7,8万人来て下さった年もあり、毎年恒例の行事になりました。
長い階段があり両脇に部屋があり一つ一つの部屋に作品があります。
朝から晩まで3日間かけて搬入して作品化して、全エネルギーを注ぎ込みました。
花と建物が融合するように個性的に毎年テーマを決めてやってきました。

生け花は日本独自の文化です。
エネルギー源だし、四季を感じさせるし、癒してくれるし、これからも身近に感じていただければと思っています。
日本の建物に花を活けると本当にしっくりします。
色は自然界が生みだしたもので、生きていると言ったものをいとおしむとか、大切にするとかそういったものを日本人は忘れてはいけないことで、そういうものも感じさせてもらえる。
つぼみが段々と咲いて花が開いて、散って行くさま、刻一刻美しいという思いをさせてくれます。
花は自然の中で一旦完成形として出来ているものだから、それを活けると云うことについては襟を正すような思いで向き合っています。
一旦自然界が完成させた美を、自分の手によって新しいものに創造させるということが自分の生け花だと思っています。
父が59歳で他界して10年たって69歳で母がこの世を去ったので、一日でも長生きしていろいろ経験して感動してもらえるように取り組んでいますが。

TV、教室、デザインなどよくこんなにやらせていただけているかなと思います。
糖尿病なので主に自分で作って食べています。
海外旅行が大好きで1~2カ月に一回行っています。(自分が好きなことができる時間、美の探索)
やりたいことはいっぱいあり、花は若い方に教えたり、活けたことのない空間があるのでチャレンジしたい、作風ももっと違うものを生み出せるように挑戦したい。









2018年4月17日火曜日

田辺鶴瑛(講談師)            ・泣き笑い介護40年

田辺鶴瑛(講談師)            ・泣き笑い介護40年
昭和30年函館市生まれ、若いころから3回親の介護、(義理の親を含め)初めての介護は大学入試を目指している時期に母親の付き添いの看護をし、母を見送った後、その後、陶芸家、女優など様々な道を目指します。
その後夫と出会って26歳で結婚、子育て、夫の母親の介護を次に経験、その母を見送ってその後出会ったのが講談で、33歳で講談師田辺一鶴に弟子入りします。
3度目の介護は夫の父親の介護でした。
認知症と寝たきりの父親の自宅の介護、ストレスがたまって家族が崩壊するのではないかという危機を迎えたそうですが、介護の仕方に工夫を凝らして危機を乗り越えたそうです。
その自分の介護の経験が介護で悩んでいる人に役に立てばということで、思い付いたのが現在田辺さんが行っている介護講談です。

今は女性の講談師が増えていて1/3が女性になりました。
やる気のある優秀な女性が多いです。
母親がうっとうしくて逃れたくて東京の大学を受験しましたが、いずれも落ちてしまって予備校に通っていたころに、母に脳腫瘍があるのではないかということで、記憶をつかさどる所に障害が出て、認知症に近い症状でした。
母は美人でおしゃれだったが、病気になって母に対してつっけんどんでした。
手術したところ、脳動脈瘤で近いうちにその手術をしようということだったが、その夜脳圧が上がって痙攣を起こして、緊急手術になりました。
脳が痙攣を起こしてしまって脳がぐしゃぐしゃになり意識の回復がありません、と云われました。
医学が進歩して何年でも生きられると言われました。
母に暴言を吐いたことが罰があたったんだと思って一生懸命看病しようと思いました。
半年、1年と続くうちに孝行はどこかにふっ飛んでしまって、自分だけどうしてこんな目に会うんだろうと思いました。
母の介護が地獄のようで、いやいや介護をしていました。

母は4年ほどで亡くなりました。
好きなことができる自由になり、絵描きだとか女優になりたいと思っていました。
本屋で「マンハッタン自殺未遂常習犯」草野弥生さんという本に目が留まりました。
難解な文章で、この人に逢いたいと思いました。
電話をして会いに行きました。
函館弁で喋って見てといわれてかっこ悪くて話せなくて、荒井由美さんの歌を歌ったりしたら喜んでいました。
草間さんの助手になって、草間さんからあなたの人生を全てを私にかけてと言われて、わたしは自分の花を咲かせたいと思って辞めました。
当時夫は川崎の看護師さんに絵を教えていました。
独身主義ですといわれたが、私は惚れっぽい性格で、プロポーズ大作戦を開始しました。
夫は親友から紹介されましたが、函館の実家の片づけがあり3人で一緒に1週間ほど過ごす機会がありましたが、その時に「1週間もいると情が移るもんだよね」と言ったので、「じゃあいっしょに住みましょう」と言ってしまいました。

夫から言われたのは、おふくろは広島で原爆に遭って腎不全になっていて沢山薬を飲んでいるから、おそらく老後は介護ということになると思うがどうかと言われて、わたしも介護をしますと言いました。
しかし、若い時だったので余り深くは考えていませんでした。
自分はいい人になりたいとの思いがあるので、いい人になりたいと言う介護ということで見返りを期待する。
そうするお腹の中は地獄になる訳です。
間違いは相手に対して病気を治そうとした。
甘いものが好きだったが玄米を食べさせ様とするが、食べたくないということで思い通りにいかない。
ストレスがたまって悶々としました。
或る時ヒステリーの大発作を起こしました。
夫に頭からソースをかけましたが、それを見て大反省しました。
かっこ悪くて仮病を使って寝て夫が介護してくれて、翌朝夫が「所詮他人だものなあ 出来るだけの事をこっちもやるし、おやじにもやらせる」と言いました。
夫の弟も独身で同居していたし、介護もあるし、ストレスがたまりました。
老夫婦は夫が出張で飛び回ったり女性問題等で口もきかない夫婦だったが、あと3年ももたないかもしれない、親爺も罪滅ぼししたらどうかと夫が告げて、それから病院の送り迎え、背中のマッサージを毎晩やりました。
「いまさら何よ」といっていたが、3年後おばあちゃんが亡くなる時は「ありがとう」と言って感謝していました。

表現することをしたかったが、介護をやって来て我慢してやってきて、或る時何か自分の情熱を表現したいと思っていたところ、夢に田辺一鶴がでてきて新聞に道場を開くという記事が出てきて早速行きました。
家でやってみたらストレス発散しました。
私が家でやっていたら子供が直ぐ覚えてしまって、これは凄いということでちびっこ講談師としてデビューしました。
講談師として夫にも了解して貰いましたが、33歳の時でした。
前座から二つ目になり仕事が無くなり、池袋で男の介護教室があり、北欧の介護のビデオを見せられて、プロのヘルパーが快適な環境で介護しているのを見てびっくりしました。
介護講談を依頼されました。
実話を思いだしながら、明るい話を作り上げました。

その後、おじいちゃんが高齢者お見合いの会に入って69回もお見合いしました。
愛人の家で10年ぐらいして、認知症が酷くなり、白内障にもなりました。
大嫌いなおじいちゃんだが、誠実な優しい夫がいるのもおじいちゃんがいたからこそと思って、何か恩返ししないと一生後悔すると思って、明るく楽しい介護をしようと在宅介護をしようと思いました。
脳梗塞をおこして、愛人もお手上げということで、私の大丈夫だという一念から周りも納得しました。
大きな声を出したりするので、外に漏れない工夫をしたり、目薬の購入なども工夫してわざと無いと嘘を言って大急ぎで買ってきたふりをしたりして、献身さをアピールしたりしました。
私の持っている常識とおじいちゃんが考えている世界は違う。
おじいちゃんの世界も間違っていないということに気が付き始めて、おじいちゃんの世界に会わせるようにしました。
おじいちゃんが「たすけてくれー」というと「助けに来たぞ、じじい」というと「おーたすかった」と言って、認知症の世界と私の個性とが凄く合ったんです。

おじいちゃんとの会話の方が面白くなりました。
本音を言うと言うことは大事です。
最初のころは重苦しく疲れてしまってやる気が無くなる様な状態でしたが、段々「ありがとう、お前は天使だよ」というようになり重苦しさが軽くなっていきました。
介護して3年ぐらいすると、あの世と行ったり来たりするような話をしたりしています。
介護で一番大事なのは相手の喜ぶ会話をすることだと思います。
その人の歴史、どの時代一番楽しかったのか、苦労したことなどそういうのを把握しているとその人の満足する話ができる、そうすると介護は楽です。
最初の妻は原爆で亡くなり、2度目の奥さんで夫が生まれ、結婚して娘が生まれたわけです。
誰か一人欠けても生まれてこない、本当に偶然の重なりだと思います。
介護が無かったらおじいちゃんにも興味をもたなかったし、生まれてきたことに感謝して嬉しい楽しい感動を、日々自分のことにして生きていったらぽっくり逝けるかもしれない。
それを決めるのは自分、創意工夫するのは自分です。











2018年4月16日月曜日

林家彦いち(落語家)           ・【にっぽんの音】

林家彦いち(落語家)           ・【にっぽんの音】
能楽師狂言方 大藏基誠(案内役)
1969年生まれ、鹿児島県出身、国士舘大学文学部地理学専攻中退後、1989年林家木久蔵師匠に入門、1993年に二つ目、2000年には自ら作った創作落語でNHK新人演芸大賞落語部門大賞受賞、2002年真打ち昇進、冒険落語家としても有名。

落語はお寺の和尚さんから始まっているので、講釈の方は辻講釈などがある。
エベレストの5200mの所で落語をやりましたが、酸素が少なくほとんど声になっていなかった。(プライベートで行く)
酸素が半分でした。
時そば」 扇子を箸に見立てて、蕎麦をすする音。
「蕎麦」と「うどん」は微妙に違う。
「とろろそば」は又違う。(古典落語には出てこない)
普通海外では食べる時に音を出すのは失礼にあたるが、海外公演では音が出ると喜ばれます。
戸を叩く音、これも擬音で行う。
植木を剪定している音、開いたり閉じたりして剪定の音を扇子で行う。
雨が「ワーッ」と降って来るというが、おもむきでこれは音であってほしい。
京都で川舟に乗って酒を飲むと時間が「ほろほろ」と過ぎて行く、この「ほろほろ」ってたまらなく好きですね。
「ほろほろ」は様子であって欲しい。
酒を注ぐ時に「どぶどぶ」「ちょろちょろ」とか、行ったりします。

音が話の伏線になっている場合がある。
蕎麦のすする音は他の師匠に教わったりしました。
酒を飲む音も、喉を鳴らしたりするが、飲む量によって色々変化させる。
二つ目になると話をアレンジしたりするが、間のびしたりする時があるので、メトロノームを使ってやったり練習することがあります。
伝えたいところをリズムを壊すと、伝わりやすい。

創作落語を発表するが、隔月でやるが作らないといけない。
年間5~6本作ります。
「パラレルワールド」の創作落語 翼がある世界。
三遊亭 圓丈師匠に影響を受けていました。
最初唐突無稽な話をしましたが受けなくて、リアルなものを作ろうとして電車の風景の話を作りました。
今までに200ぐらいの話を作ってきました。
落語のある話の中で、花魁が客を追い払う時に中に立った喜助が右往左往するが、語る人によっては花魁の味方になる様な話っぷりになることもある、私もそうですが。
人柄がいい先輩がいて人をだます落語でも全員皆いい人で、意地悪な師匠の話はいい人までもちょっと意地悪になるんです。(性格が出て来ます)
話は同じ話でも長くなったり、はしょったりします。
お客さんの乗りがあまりない時は、くすぐりは言わないですね。
一言でガラッと変わることもあり、友達になれたという雰囲気がします。
そういった雰囲気は場所によっても違います。
国立はちょっと品がありますね。
弟子には前座のころから作らせます、その方が自由度があります。

演目「遥かなるたぬきうどん」 マッターホルンにたぬきうどんを届けるが、アイガー北壁を昇っているところから始まる。
扇子を2本使っているが、ピッケルの様子を表している。(2本の扇子を使う落語はこれだけ)
最小のもので最大の表現をする。
高田渡さん(ミュージシャン)が息子に「見えるものは皆のもの、見えないものが僕たちのものだ」といったが、この言葉は大好きです。
一番は想像力ですね。
古典落語で好きなのはシリアスな話は好きです。
今後挑戦したいと思います。
落語は笑うものだと思っているので、笑わせてなんぼだと思っています。
笑って楽しんでくれればいいと思います。












2018年4月15日日曜日

ヨーコ・ゼッターランド(スポーツイコメンテーター)・【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言

ヨーコ・ゼッターランド(スポーツコメンテーター)・【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言
元女子バレーボールのアメリカ代表選手ヨーコ・ゼッターランドさん。
父がアメリカ人、母が日本人でサンフランシスコで生まれる。
6歳の時に母親と一緒に日本に移住し、小学校から大学まで東京で暮らしますが、その後バレーボール女子アメリカ代表の入団テストを受けて合格。
バルセロナ、アトランタの2度のオリンピックにアメリカメンバーとして出場し、バルセロナの大会では銅メダルを獲得しました。
その後日本の実業団チームで活躍し現役引退後はスポーツコメンテーターとして活躍しています。

引退してから20年近くになります。
179cmほっそりしたスタイル。
バレーボール教室ほか東京オリンピックを控えて様々な競技の人たちとの交流もあります。
1992年のバルセロナ大会
女子は8チームが出場、EUN(旧ソ連連合)、キューバ、中国が3強との前評判だった。
日本はA組、初戦に相手がアメリカ、2-2となり最終セットを迎える。
控えのセッターとして私がいました。(アメリカナショナルチームに入って1年目)
9-11と日本が2点差に迫る。
日本は一挙5点連続ポイントを挙げて逆転14-11とマッチポイントなるが、14-13となり、日本が粘って15-13で勝利する。
最後のポイントは私が大林さんのバックアタックをはじいてしまいました。
23歳の時でした。
EUNに3-2、スペインにも勝ってAリーグ2勝1敗となる。
日本は5位となる。
アメリカはキューバに敗れて、3位決定戦でブラジルに3-1と勝って銅メダル獲得となる。

1996年アトランタ大会
日本、アメリカともほとんど同メンバーだった。
今回も私は控えのセッターだった。
4年間正セッターを目指して練習してきたが駄目だった。
12カ国、6チームずつのリーグ戦の後の決勝ラウンドに向かう。
日本は1勝2敗、アメリカは2勝1敗で戦うことになった。
第1セット日本は9-0でスタートするが、監督から行けとの指示がありました。
なんで今なのかと思ったが覚悟を決めて行きました。
アメリカのスパイクが決まるようになり11-11になり、その後4連続ポイントでアメリカが第1セットを取る。
その流れでその後2,3セットを取り、3-0でアメリカが勝つ。
日本は決勝トーナメントには行けなかった。
決勝はキューバが中国を破って2連覇を果たすが、アメリカは決勝トーナメントで7位となる。
自分自身では貢献できたのはアトランタの方が貢献できたと思った。

1996年秋に日本の東芝シーガルスに、翌年ダイエー・オレンジアタッカーズとプロ契約をして活躍することになる。
前年6位だったのが、見違えるようなチームに変わった。
予選ラウンドは1位ダイエー、2位NEC、3位イトーヨーカ堂、4位ユニチカ。
4チームによる決勝ラウンド、1位ダイエー、2位NECの一騎打ちとなる。
ダイエーはバレー部の休部が決定していたので最後の戦いであった。
第1セット15-11、第2セット15-10でダイエーが取るが、第3セット 8-7とNECがリードその後15-11となり 3-0で優勝する。
旗を振りながらウイニングランをしました。
その後チームが存続する事になる。
全日本選手権でも優勝するが、1999年の全日本選手権でも優勝して2連覇を達成する。
この試合で退団ということになる。
外国人選手枠で来ていたので、女子の外国人選手枠の撤廃のルールがあり、引っ掛かってしまった。
残念でした。
引退の時に2連覇で優勝できて本当に嬉しかったです。(30歳)

日本名は堀江陽子、父はアメリカ人、母が堀江方子、女子バレーボールの日本代表選手。
1969年サンフランシスコに生まれ、6歳で東京に来る。
文京区立第十中学校に入学、1983年全日本中学選手権で優勝、中村高校に入学、全東京メンバーとしては、国体優勝、中村高校では春高バレー・インターハイで3位入賞を果たす。
早稲田大学人間科学部スポーツ科学科へ入学、当時関東大学リーグ6部最下位にあったチームを2部優勝まで導く。

1991年2月に単身渡米し、アメリカナショナルチームのトライアウトを受験し合格。
引退後はスポーツコメンテーターとして、テレビ、ラジオ、雑誌をはじめ、講演、解説、バレー教室、エッセー執筆などで活動。

オリンピックに行けるチャンスだと思ってアメリカの代表の入団テストを受けました。
3番手のセッターを探しているということで頑張れば一番手になれると思って行きました。
アメリカの選考は公募すると言うことで日本とは違います。
体力トレーニング、インタビューを受ける時のメディアトレーニングなどもあります。
アメリカでは幅広いトレーニングがあり、練習内容はボールを持つ時間が日本の場合は多かったと思います。
他の球技に繋がるという共通点、球技に対する臨む姿勢、抱える悩みなどは他の競技でも共通する問題はあると思います。
単純には比較できないが、暴力、ハラスメントが一つの手段になってしまうのは、よろしくないことだと思います。
子供達を指導する機会が多いのでどういうふうにしていったら、どう可能性が少しでも伸びてくれるかどうか、指導の仕方普及の仕方ができればいいと思います。










2018年4月13日金曜日

上村淳之(日本画家)           ・自然の意思を描く

上村淳之(日本画家)           ・自然の意思を描く
祖母が国の文化功労者に認定され、女性初の文化勲章をうけた美人画の上村松園、父は花鳥画家でやはり、文化勲章をうけた上村松篁と云う日本画壇屈指の名門に生まれました。
淳之さんも先年文化功労者となり、祖母、父の仕事を更に深く豊かに追求する日々を過ごしていらっしゃいます。
淳之さんは花鳥画でも鳥の世界に魅かれ、奈良市の小高い丘で多くの鳥に囲まれて暮らしています。
鳥と共に生きているという一体感を大切にし、自分を鳥の化身と思えるほどに凝視してこそ日本独自の花鳥画の世界が描けると言う上村さんのお話を伺いました。

花鳥画をやろうと言うことで、オキナグサと言う野草が一本もなかったが、種が散ってようやく増えて他の野草と一緒に育ってきた場所が出来て、ようやく頃あいになる。
そうならないと絵の対象にはならない。
梅の課題で学生に描いてもらうが、枝を切って室内で書いたものは判る。
リアリティーのある写生にはならない、余白が生きてきていない。
デッサンは再現を目的とするものではないと言うことで、デッサンが出来ているということは自分の胸中にどれだけの世界がしっかり展開したかどうかによって、デッサンができたか出来ていないか、と云う意味に理解しました。
日本画と洋画の根本的な違いです。
感性の違い、自然に対する人間と自然とのかかわりあい方の違いによって、西洋画には花鳥画が生まれたことは絶対ないです。
日本に伝えられたのは中国の作品、文化が奈良時代に到来して日本で育まれました。
中国では文化大革命などでガラッと体質を変えて、花鳥画が日本にしか残っていない。

西洋の影響を受けた人にはもう余白の意味が判らない。
余白にはそのものが存在している世界を表す空間であって、花画であれば当然花の香りがしているし、春の空気が流れている、そういう空間でなくてはいけない。
当時3回生になると人体になるが、女の人が裸になって立っていることに物凄く気分が悪かった。
書く気がしなかったが、物凄く怒られました。
裸体は描いていません。
日本画でヌードの絵が出てくるのは戦後ですね。
西洋の方がリアリティーがある中で、リアリティーの有る花鳥画が無いか探し歩いていて、ヨーロッパの美術館を巡って帰ってきました。
判ったのは西洋には花鳥画は無いということでした。
鳥の絵はいっぱいあるがそれはイラストでした。

小さい頃京都に父が家にいて、父が小鳥の小屋を幾つも作っていましたが、鳥小屋に入って水の流れを作ったりして遊びました。
動物園の飼育員になりたいと思っていました、それほど鳥が好きでした。
第二次世界大戦がはじまり、空襲があり疎開させて生活が始まります。
親が猛反対でしたが芸大に進みました。(絵描きは生活が不安定なので)
今までも相当デッサンしたつもりでもまだまだなのでここから離れられません。
交尾期に入って、鳥が雄と雌の間柄が良くないと雌が突っつき殺される、雄が発情を促すために雌の頭を突っつくんですが、雌が発情期が来て居ないと殺すほど追いかけるんです。
動物園との交換が始まって家の種類が増えて行きました。
鳥は1500~1600羽、種類は280種類位います。
生きているもの(魚など)を食べる鳥に人口の餌を食べさせるのが大変で試行錯誤を重ねながらやってきました。
シギ・チドリは日本で一番最初に飼いました。(ドックフードを食べました)

鳥を描くことはひょっとすると自分を描いているのかもしれない、デッサンが出来たという実感が持てた時は自分の化身と思えれば非常にリアリティーのあるデッサンができます。
ヨーロッパなどの一神教と日本の多神教の違いで、ヨーロッパなどでいかに一生懸命に克明なデッサンをやっても鳥は鳥で、日本人がやると人間のような鳥になっていると私は思います。
モデルにいかにこちらがいたすかによって、リアリティーのある空間になるかどうかです。
デッサンを重ねていると段々よく見えてくる。
そうするとこれで絵になるなあと思うんです、しかも日を置いて(熟成)本紙にかかりなさいと私は教わりました。
若い頃は判らなかったが段々判って来るようになりました。
自分の化身で有るかのごとき思いの中で、自分が思いを鳥に託して描こうと言うのが花鳥画なので、雀なら雀になって一緒に遊んでいるという思いの絵になって初めてリアリティーのある空間が展開すると言っても間違いではないと思います。
その点がヨーロッパと違うというところだと思います。

よほど馴染んで来ないと駄目、よっぽど対象のものに惚れこまないと駄目。
向き合う中で感情移入されて美しい存在になる。
だから日常的に鳥と向き合っていないと駄目です。
鳥を見ていると全部が不思議です。
巣作りの雄雌の役割分担が決まっている、巣作りは全部雄がやり卵を産んだら雌が抱卵に入り、その後雛になると雄雌で餌を運ぶ、糞を袋にしてくわえて持ち出す。
そうしないと臭いを嗅ぎ付けて蛇がやって来るから。
巣が気にいらないと巣を雌が壊してしまう。(極楽鳥など)

一番残念なのは不忍池の鴨を見るのが大好きで見るが、今は池に鴨が来て居ない。
池が汚れるから追い出したということです。
新種を探しに行ったりとかあるが、まずは目先のものから大事にしてやれよと言いたいです。
日本画も洋式におもねるようなものが出てきたが、もう一遍原点に返って花鳥画を極めていきたいと思っています。





2018年4月12日木曜日

阿利美咲さんの母 早苗さん(世界パラ陸上日本代表)・一緒に走って、自閉症に寄り添う

阿利美咲さんの母 早苗さん(世界パラ陸上日本代表)・一緒に走って、自閉症に寄り添う
子育てをする自信がない、子供を愛せない、自閉症の子どもを育てている親の多くが抱える悩みだと言います。
先天的な脳の機能障害が原因の発達障害である自閉症は、言葉がうまく話せなかったり、特定なものごとに強いこだわりがでたりと、軽いものから重度のものまで症状も様々です。
徳島県吉野川市に住む、阿莉美咲さん(23歳)は重度の自閉症です。
美咲さんが幼い頃は多くの親と同じ様に、子育てや周囲の偏見に悩むことが多かったという母早苗さん、親子の関係を変えたのは一緒に走ることでした。
その後美咲さんは陸上にさらに力を入れる様になり、障害者のスポーツパラ陸上世界選手権に出場するようにまで成長、今は東京パラリンピックを目指しています。
どのように自閉症の娘と寄り添い、世界のトップアスリートまで育ててきたのか伺いました。

ロンドンパラ陸上に初出場。
今日の様な日が来るとは全く思っていませんでした。
皆が1回で出来ることを、10回でも100回でも練習して出来るようになるということを一緒に努力してきたという感じです。
3歳の時に妹が出来たが赤ちゃんゃんには興味を持たず、言葉もでなかったので病院に行って診断されました。
どうしたらいいか教えてくれるところが無いので講演会などにもいって学んでも生活のなかで役に立たず、呼んでも返事がないし、いつになったら返事をしてくれて一緒に色んなことが出来るようになるのかなと思って過ごしていました。
危ないことも判らないので目が離せませんでした。
周りからは障害があると言うことが判らないので怒鳴られたり、白い目で見られることが多かったです。
妹が美咲の事を好きと言っていたので、もっと好きになってもらうようにしたいと思いました。

美咲と二人だったら死んでしまおうと何度も思いました。
主人を亡くして、美咲がいろいろ問題行動を起こして、育てるめどが立たない、このまま生きていてもしんどいことが多いだろうなあと思って、生きていても傷つくことが多いと思いました。
愛媛県の療育センターの先生のところに紹介されて行きましたが、先生の子供が自閉症で独学で研究されて自分がやってこられたことを、悩んでいるお母さんに伝えたいと言う思いで、日本全国色んなところに講演に行かれて、たまたま鹿児島で会ってこれでやってみようと思いました。
走ってくださいと言われて、泣いているようだと散歩に行こうと言うような感じで始めて、小学校ぐらいからジョギングしてファミリーマラソンなどに参加して段々速くなりました。
小学校3年生の時には速くて一緒に走れなくなり自転車で付き添って走るようになりました。
走ることが生活の一部になりました。

小学校5年の時に、陸上部が出来て先生が長距離のチームを作ってくださいました。
全国大会に行くことができてオープン参加をさせてもらいました。
陸上は個人競技なので出来ないことは家で練習をして、一緒に付き添ってやっていました。
美咲が走ることで希望が出来て目標とかが沢山出来て、美咲が陸上をしていなかったら施設と家族しか知らないまま育っていたと思う。
美咲が頑張って手に入れたものなので、もっともっと輝かしてあげたいと思って、寄り添ってきました。
障害があるから駄目と思ってあきらめないでほしい。
絶対乗り越えると親が思わないと子供はそこを引いてしまうので。
中学、高校陸上部で、美咲が実績を残していった。
基本的な生活を整える、料理、掃除など私生活をきちんとできるようになって、次の道がひらけていくというのが、私は家族にとっていいことだと思います。
色々出来るようになると学校でも喜んでもらいました。

タイム設定、目標と結果、そういうところは意識して出来た所はほめてやり、行動もしっかりするとか挨拶をしっかりするとか、そういうことも一緒に教えてきました。
美咲の通訳の様な立場なので子供と一緒に聞いていました。
会話が少しでもできるように、挨拶は決まった言葉なので、言い聞かせました。
代表になったのは高校3年生の時です。
全国障害者スポーツ大会に出てそのタイムが強化選手レベルのタイムだったので、知的障害者の強化選手になりましたが、それから合宿とか遠征に行きました。
国際大会にも行くようになりました。
朝走って、軽作業をした後に、夕方また練習します。

これからどうなるのか不安もあるが、今を精いっぱいして一日一日が繋がって、何年間になっていくものと思います。
将来的には少しずつ自立していくことになるかと思いますが、今は目的が違うので結果を出すためにはきちんと管理して結果を出していきたいと思います。
特別扱いをしないと言うのと、皆に愛されると言うこと、大人になった時に穏やかに生活する、そのために毎日の生活を徐々に整えて行くと言うことだと思います。
白い目で見られる様な空気を感じることがあるので、障害があるとわかっても助けてあげようという社会になったらいいと思いますが、見て見ぬ振りが一番寂しいと思います。
障害者も特別扱いではなくて出来ることを増やしていって、両方が過ごしやすくなったらいいなあと思いますが。
教育者も障害に対する理解とか知識とか、持っていってほしい思います。
まず自分が子供を愛して、出来るようになるということを信じる、やらなかったら変わってはいけないので、子供の成長の為に丁寧にやり方を考えて、子供と一緒の目線で育てていったら周りもその努力も判ってくれるようになると思う。
色んな協力者が得られて、練習仲間もいて、指導者の方とも出会えて今の美咲があると思うので、一緒に前を向いていくことだと思います。
やらなかったら変わらない、やったら少しづつでも変わって行けるし、それが希望になって行くと思います。
東京オリンピックには東京、愛知、埼玉はどんどん若い選手が出てきていますが諦めずに狙って行きます。


















2018年4月11日水曜日

前田速夫(民俗研究者)          ・“新しき村”、百年の歳月が投げかけるもの

前田速夫(民俗研究者)      ・“新しき村”、百年の歳月が投げかけるもの
今から100年前の1918年大正7年当時の白樺派の作家、武者小路実篤が中心になり、宮崎県児湯郡木城村に「新しき村」が創設されました。
これは実篤が自らの理想を実現しようと提唱した農村共同体です。
開村して20年、農業生産もようやく軌道に乗って、これからという時に県営のダム工事が発表され村の最良の土地が水没する存亡の危機に直面しました。
この為に昭和14年に村をわかち、一部が埼玉県の毛呂山町に移転しました。
以後宮崎の日向の村と埼玉の東の村とが存続して今日に至っています。
新しき村は実際に村に住んで生活している村内会員と、村の外に住んで経済的、精神的支援をする村外会員で成り立っているのが特徴となっています。
前田さんは10年ほど前から村外会員として活動していますが、創設100年を機に『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』 と云う本を著しました。
ユートピアの共同体が100年間も続くことは世界でも例を見ないそうです。
「新しき村」の歴史を振り返り分析すると、今の日本や世界が抱える問題が見えてくると指摘しています。

大手出版の新潮社に就職、1968年(昭和43年)、初めから希望した月刊雑誌の編集部に配属されました。
前年から始まっていた武者小路実篤さんの長編自伝小説の担当を命じられて、毎月実篤邸に通いました。
当時実篤さんは80歳代の半ばでした。
原稿の受け渡しが済むと、奥さんがお茶を入れてくれて、実篤さんとは世間話を色々しました。
私の両親は戦前からの村外会員でした。
両親は実篤夫妻の媒酌で結婚しまして、家中実篤関係の書がごろごろしていました。
小さい時に「新しき村」の創立記念祭があり、毎年父に連れられて弟と一緒に行きました。
実篤作品はよく読んできました。
実篤詩集は愛読書でした。
当時街のお蕎麦屋さん食堂などには実篤の色紙、絵皿などがあふれていました。

1918年宮崎県の奥地日向の村、武者小路実篤と同士の17人が開墾した。
子供を入れると20人だったそうです。
1917年はロシア革命、1918年はシベリア出兵、日本各地では米騒動が起きていました。
国内外が騒然とした時代でした。
武者小路実篤は社会改造の理想を高々と掲げて青年男女が故郷を離れて裸一貫で集まってきた、そういう時代でした。
自他共生、人類共生、を目指す、農業を主にしたユートピア共同体でした。
宗教、イデオロギーとかとは全く無縁でした。
8時間の役務労働があり、各自自分のやりたい事、創作、芸術活動、劇団を作って九州を公演したりなどもしました。
「君は君、我は我なり、されど仲良き」 先生の言葉
普通共同体では、個は全体に奉仕するが、「新しき村」では全体が個に奉仕する、世界に類を見ない美質だと思います。
いまだに「新しき村」が新し理由だと思います。

「新しき村」の場合は100年今でも続いていて、世界的に見ても奇跡に近い様なものだと思います。
当時は批判、嘲笑に近い様な事が多かったようです、主に知識人ですが。
武者小路実篤は貴族の出身なので、世間知らずにできないだろうと言うことだった。
実際は若い人たちが集まって暮らしてゆくといざこざが起きる。
意識の違いが出てきて、村民の入れ替わりが激しかった。
武者小路実篤自身も執筆に専念すると言うことで村外会員になった。(7年間は村にいた)
20年かかって米が自給できるようになったその時に、ダム建設の為に村の1/3が水没してしまった。(一番いい土地)
水没後、一部埼玉県に移るが、ゼロからスタートで自活できるようになったのが創立から40年後、昭和33年ごろ、養鶏をやることでうまくいって自活できるようになった。
武者小路実篤先生が亡くなってからも発展して、65人ぐらいいた時もあります。
美術館、生活文化館が出来て創意と活気に満ちた時がありました。

100年続いてきた理由 3つ
①創立者が武者小路実篤で著名で理念がしっかりしている。
②村内会員、村外会員(経済的、精神的支援、新鮮な風を送り込んだ)2重の組織だったこと。
③村の人が向日性、楽天性。
埼玉県の毛呂山が本部に成っていて宮崎県の日向、東西にあります。
1980年以後、村民の高齢化、亡くなって来る方も出てきて若い方も入らないということになり村の人口が減っていって、衰亡の危機におちいてきている。
毛呂山は9人となり、宮崎では3人になってしまいました。

『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』 と云う本を出版しました。
出版の動機 4つ
①村内会員ではないのでためらっていたが100年続いてきたということについて、若い人などは全く知らないのではないかと思ったのが動機でした。
②戦前の「新しき村」については研究書はでているが、戦後の「新しき村」については皆無と言っていい。
③村の存続が危ぶまれる事態にまでなって来て、日本、世界が抱える問題をはらんでいると思う。
④グローバル化した結果、世界が液状化している、国家、民族、地域、家族の共同体が機能不全に陥っているし、格差が広がり戦争の脅威が増すばかり。
「新しき村」こそ今切実に求められている健全なコミュニティーのありかではないかと考えています。

10年前から村外会員になっています。
村で暮らしている人との問題意識は大きな隔たりがあります。
高齢者が大半で、その日その日を生活してゆくことが精いっぱいで、今後の村のことについて考えることの余裕がない。
原点に返ってと呼びかけをしています。
30代なかばから40代、武者小路実篤先生の初期の代表作はほとんどここで書いています。
「第三の隠者の運命」 国と国とが互いに相手国に脅威を感じて軍備を競う。
今のアメリカ、中国、ロシアの覇権を争う世界情勢そのもの、与党野党が国益の合唱。
私もユートピアの賞味期限は過ぎたと思っていたが、目の前の現実になって来ており、村の理想は決して過去のものではなく、今ますます必要になって来ていると思います。
少子高齢化、地方の衰退、過疎とか問題があるが、「新しき村」みたいなものが各地に生まれていって世界中に広がって行くと言うような夢を持っています。
「日々新しき村の会」を立ち上げて活動し始めました。
収益が見込める新事業は何か。
若い入村者を増やして後継者を育てるにはどうすればいいか。
深化、脱皮して行く必要があると思います。
ホームページから新しい情報を発信して行く。
その他行動案を考えています。








2018年4月10日火曜日

石飛幸三(特別養護老人ホーム常勤医)   ・エンジョイエイジング!

石飛幸三(特別養護老人ホーム常勤医)   ・エンジョイエイジング!
日本の高齢化が進んでいるといわれるが、2025年には団塊の世代と云われてきた方々の多くが70歳以上となって亡くなる人の数が多くなる多死社会が到来すると言われます。
人の死をどう受け止め、どう看取るのか、日本の社会が問われています。
石飛さんは都内の特別養護老人ホームの常勤医としての経験に基づいて、口から食べられ無くなって枯れるように自然に亡くなる死を、「平穏死」と名付けました。
そして誰にも必ず訪れる死から逃げずに老いを受け入れ、医療に縛られることも無く限られた時間を人間としての尊厳をもって楽しく生き切ろうと言います。
アンチエージングではなく老いを受け入れ、今出来ることをするエンジョイエージングの日々の中に命の最終章としてのその人らしい「平穏死」があると云います。
特別養護老人ホーム常勤医として高齢入居者の様々な人生を見守ってきた石飛さんに伺います。

特別養護老人ホームの入所者は平均年齢90歳、認知症9割、女性9割です。
日本の実体はほとんど核家族化しているので、介護するのは現実には大変なことで、その駆け込み寺が特別養護老人ホーム、だからみんなで支えなければいけない時代が来たんです。
実際には生活が成り立たない、ひどい場合は介護殺人が起きたりしているのが現実です。
われわれが想像する以上に現実は厳しい事が起きている。
24時間多職種共同で、入所者の一生をゆっくり坂を下って行ってる様子を把握して、残ったその人の人生を、どういうふうにみんなで支えてやるのがその人の本当の為になるのか。
坂を下らないで「頑張れ頑張れ」はあり得ない世界だから、人はいずれ亡くなる。

私は昭和10年生まれで、広島の郊外に育っていたので、B29が飛んでいったのを原爆を見ました。
終戦でガラッと変わって民主教育だと言いだした。
戦争を挟んで沢山の同胞を亡くして、兄もフィリピンで戦死しました。
命は地球よりも重いと言いだしたが、死ぬことを排除していった一面が残っていて切り替えが非常に短絡した状況だった。
命は地球よりも重いが、しかし我々は生き物なのでいつまでも生きられることはできない。
死は否定された、排除された、いつまでも生かさなければならないみたいなふうになっちゃって、迷い道に入ってしまった。
半世紀前私が外科医になった頃、がんは体から切り離さなければいけないと言う、当時そういう文化だった。
怪しいところは取り除かなければいけないということで外科医になって役に立とうと思った。
本当はがんは長く生きてきた印なんです。
動脈硬化も古くなってきた一つの証しです。

どこも治しようもない廃車寸前になったものを、部品修理を何処までもしなければいけないということは本人を苦しめることになる。
自分自身が還暦を過ぎるようになって、何処までも治さなければいけないということだけでは役に立たなくなる、廃車状況のものを何処までも治そうと言うのは、ほんとうにそれがその人の一回しかない人生の中で、治さなければいけないと言う義務感だけで迷い道に入ってしまうとかえって本人も苦しめることにもなる。
身体に管を付けられ牢屋みたいな状況になってしまう。
シシリー・ソンダースさんはイギリスでホスピスを作った。
その人の最終章のあり方があるんだろうと云うことで、本人に告知して本人も覚悟して、がんの末期の人が好きな葉巻をくわえたり本を読んだり、ピアノを弾いたり、それがホスピスですよ。
その人の最終章の人生が選択できる時代になりました。
段々医療で治せない人が増えてきた。
どういう言葉を掛けていいか言う言葉が出てこないなんて、人間として悲しい。
治すと云って「頑張れ頑張れ」ではおかしいと思った。
医者のもう一つの役割があるのではないかと思った。

特別養護老人ホーム常勤の医師が倒れて、替わりの人がいなくてそこに行けば現実が判るのではないかと思いました。
行ってみたら、従来の医療の考えと同じ状況が続いていました。
誤嚥性肺炎を起こしたりする、身体は受け付けられなくなってきている、しかししっかり食べるようにと云うことで、その人の必要以上にものを食べる事を要請される。
救急車を呼べば病院へは連れて行ってもらえる。
病院に行ってもしっかり食べられるような身体にはならない。
お腹の壁に胃ろうのキットをはめ込めば胃に入れられるが、口を通らないからおいしくもなんともない。
ただただ生かされている。
魂を抜かれる。
多少意識があれば「また持ってきたのか、腹いっぱいだよ」と思うが、そう言えないんです、機械扱いされている。
そういう現実を見て、どうもおかしいぞ、と皆感じていた。
こういう状態でその人の為になっているのか。
最終章に近い人が葉巻を吸ったり、おいしい物を食べたり、人間らしいじゃないですか。

医療者として生き方を考えなければいけないと思った。
真剣に介護していた家族があった。
18年介護して御主人がへとへとだった。
最愛の奥さんは認知症で18年在宅で看護していて、それは大変だったと思う。
お坊さんと人生談義して、自分も人生の本質を勉強してきた人だったから、その人が言った言葉が、ホームで食べさせようとして誤嚥して、救急車で病院へ連れていかれて、医師からもう口からは食べることは無理で胃ろうを付けましょうと云われて、「先生、お言葉だけれど自分の愛する女房は自分のことも誰のことも判らない世界に行っています。
それをただただ食べさせなければいけない、胃ろうを付けて私は恩を仇でかえすことになる」と云ったが先生は「命は大切だ、命を助けなければいけない」と言って、「胃ろうを付ければ生きられることができる」と云って「付けなければ1週間程度で亡くなる、方法があるのにしないということは、保護責任者遺棄致死罪になる」と若い医師が90歳近い御主人に云ったんです。
「ただただ生かすだけが本人への愛情ではない、ゆっくり坂を下ってゆく、それも愛情ではないか」と云いました。

呼ばれて行ってどっちが正しいか、こっちの方がよっぽど正しいと思った。
ご主人と一緒に説得して連れ帰って、亡くなるのは1週間と云われていたが、僅かな量だが好きなものを食べて1年半生きました。
本人が幸せに好きな坂を下りていけばいい、その事が皆が判ってきた。
静かに息を引き取り、やるだけのことをやった御主人はさわやかでした。
部屋の中から嗚咽が聞こえていたけれど、ぱたりとやんで、ご主人が職員に「世話になってありがとう」と言ってくれた時はみんなの心が通じた瞬間でした。
そこから変わりました。
最終章をどう看取るか、何が本当に本人の為になるのか、そこでみんな本質が判ってきました。
食べなくなって自然の麻酔がかかり眠って眠って夢の中で向こうに行けるんです、こういう仕組みになっているのかと思いました。
土に帰って行く、老木が枯れるように眠ってゆく、科学で生かせようとすることが本人の為になるのならいいが、かえってそれが迷い道にはいっていたが、ようやく皆が判ってきました。
生きている今を大事に、一日一日を大事に生きていこうと言うことを取り戻さなければいけない、エンジョイエイジングです。
アンチエージング、健康でプラス思考と云うことはあり得ない。
いずれは坂を下って行くので、その覚悟が必要です。

11年前は、最期をどうするか、まず本人の意思を一番にする、次に医者がまだ命を延ばす方法があるならば医者が決める、そこまでだった。
医療をするしない、医療が役に立たない状態もあるので、本人の最終章がどうあるべきか、みんなそれぞれ違う、そこに関わる関係者が皆意見がいえる、関係者が議論しなさい、と云うことになりました。
コンセンサスに則るようにしなさいと、云うことで大変な進歩だと思います。
2010年にまとめた「平穏死」に対する理解が進んできて有難いと思います。
ゆっくり坂を下っていけるように支えるのもリハビリの大事な役割です、そういう人がどんどん増えています。
本人の心を支える介護は大きな仕事であるが,皆が判ってきました。
エンジョイエイジング、その先には自然の摂理としての自然の死、「平穏死」に行けるといいと思います。
我々が土に帰るときには、いずれ食べれなくなって夢の中で静かに逝ける、これは「平穏死」、こういうふうに自然の仕掛けが出来ているんだとそれを知ってみんながほっとするはずです、みんな知るべきです。
今は生きているんだから、大事に今を生きよう、生き方を取り戻せると思います。



2018年4月9日月曜日

川淵三郎(日本サッカー協会相談役)    ・【“2020”に託すもの】この道の先にあるもの

川淵三郎(日本サッカー協会相談役)・【“2020”に託すもの】この道の先にあるもの
兄貴が義明?で、父が姓名判断で三郎と名を付けたのを後で知りました。
真ん中の兄貴が9年2月15日生まれで邦彦?、めんどくさいから三郎と付けたんだろうと父に言ったが、三郎は大成する名前だと言われたが、晩年Jリーグのチェアーマンをやってから野末珍平さんの本の姓名判断では、川淵三郎と云う名前は多くの人に助けられながら、大きな仕事をなす良い名前だと書かれてあって、親爺のいうことはまんざら嘘ではなかったと思いました。
24,5年前にゴルフの会を作って日曜は高いから平日にやろうと言うことで「さぼろうかい」をもじって「三郎会」を作りました。
日本サッカー協会(JFA)会長退任後は日本サッカー協会の名誉職を歴任しており、名誉会長を経て、2012年6月より最高顧問、2018年3月30日時点では相談役。
サッカー以外に大学の理事長、バスケットの改革に尽力、今は日本トップリーグ連携機構代表理事会長。
日本トップリーグ連携機構は日本の団体球技リーグによる組織(アメリカンフットボール,サッカー,ソフトボール,バスケットボール,バレーボール…等)
球技がオリンピックで活躍すると盛り上がるので、球技を強くするためにはリーグ戦を強化する以外道はないということで、日本トップリーグ連携機構と云うものを作って、ボールゲームを強くしようとして作ったのが13,4年前です。
お互いに協力し合ってレベルアップしていこうと言う会です。

バスケットボールはリオオリンピックの出場の為のタイムリミットがあった。
国際バスケットボール連盟が僕に頼んできたということは、多少強引でも後ろ盾があると言うことだと思いました。
サッカー界にバスケットが乗っ取られるんじゃないかなんて言われました。
協会の運営改革などについては、バスケットのルールを知らなくてもできる訳です、だから自信はありました。
Jリーグは1万5000人収容のスタジアム、Bリーグの場合は5000人収容のアリーナで80%の試合を開催すると言う条件を付けましたが、当時ショックだったと思います。
バスケットでは今ある体育館を改造して、5000人入れるアリーナを80%使えるBリーグとしてのチームを認めるようにとしたのは、これをやらないと絶対成功しないと思いました。
ここまでチーム数が増えるとは思っていませんでした。
最初日本に100のクラブが欲しいと言いました。
各都道府県に2つのクラブができれば、大体100個、そうすればJリーグが成功すると言ったら、誰も相手にされなかった。(当時は10個のレベルを考えていたのでは)
今は54クラブになりました。
地域に根差したスポーツクラブ作りは、Jリーグがスタートした時にしょっちゅう言っていたが理解してもらえなかったが、ようやく今理解してもらえるようになりました。

課長の時に或る支社の立て直しに行けと言われて、そこでの経験が後の組織運営に凄く役立ちました。
*「木戸をあけて」 小椋佳
あなたの後ろ姿にそっと別れをつげてみればあなたの髪のあたりにぽっと明かりがさしたよな 裏の木戸をあけて一人夜に出れば灯りの消えた街角 足も重くなるけれど 僕の遠いあこがれ 遠い旅は捨てられない許してくれるだろうか 僕のわかいわがままを解ってくれるだろうか 僕のはるかなるさまよいを 裏の木戸をあけていつかつかれ果ててあなたの甘い胸元へきっともどりつくだろう 僕の遠いあこがれ 遠い旅の終るときに ...
私の思いで深い曲です。

ツイッターで発信しています。
「矍鑠」(かくしゃく)と云う字を見た時に老人を対象にした言葉、この漢字の文字から年をとっても二つの目がしっかりして一人身になっていても金があると楽しい、と言っています。
読売の渡辺さんがTVの番組で「カントの純粋理性批判」と云う言葉をよく口に出したが、判らなくて調べたが、今までの全く違う理論を話をするのに、コペルニクスが地動説を表明したと同じ位180度違う理論の例として「コペルニクス的展開」と云ったんです。
常識に反するとも180度考え方を変えて、発想の転換をして新しい境地が開けると、これはいい言葉だと思って、Bリーグの時は15億円のことが問題になって解決策が見いだせなくていたが、15億円の事はゼロにして200億円、300億円の夢に向かってゆく発想が成功する道だと思って、「コペルニクス的展開」と云う言葉を使ってこれが生きた訳です。
「不易流行」 松尾芭蕉の言葉
俳諧は新しみをもって生命とするから,常にその新しみを求めて変化を重ねていく流行性こそ俳諧の不易の本質であり,不易は俳諧の実現すべき価値の永遠性,流行はその実践における不断の変貌を意味するとも説かれる。
一番のBリーグの地域に根差す、社会としての存在価値をどうクラブとしてアピールしていくのかが不易であって、不易の部分さえしっかりしていれば問題ない。
2005年宣言、「夢があるから強くなる」
この言葉は気にいっています。
全てのことに当てはまると思う。
何のためにサッカーの選手をやっているのかと云った時に、多くの人に感動と夢と希望と生きる勇気を与えたいと言うのなら、審判に文句を言ったり足をひっかけたりしているが、それで見ている人に感動と夢と希望と生きる勇気を与えているの、と言いたい。
何のためにサッカーの選手をやっているのかと問いたい。

AI化が進むと人間の余暇が増えて来ると思うので、どう生活していくのかとなるとスポーツを一緒にエンジョイすると言うのではなくて、健康であるということが一番だと思うので、今あるスポーツをやると言うことだけではなくて、まるで新しいスポーツを開発することがこれからのスポーツ界の課題だと思っています。
エリートだけのスポーツではなくて草の根のスポーツが大事で、富士山のように底辺が広がってレベルが相当上がっているように見えるが、全くそうではなくてスカイツリー型なんです。
ごく一部の突出したトップアスリートの人でしかない。
一般の人、子供等も益々体が動かない方向にしか行かないので、オリンピックなんかを中心にではなくて、草の根の事を考えないといけないと真剣に思います。
望まれている限りは世の中の役に立つことをやっていきたいと思います。













2018年4月8日日曜日

加藤みどり(声優)            ・【時代を創った声】加藤みどり(1)

加藤みどり(声優)      ・【時代を創った声】加藤みどり(1)
アニメのサザエさんを演じ続けて来年50年を迎えます。
声優を目指したきっかけや、苦労などについて伺います。

45周年の時に全国を回った時にフーン驚きだねえと云ってたんですが、それから園遊会にお呼ばれされて、天皇皇后陛下に50年頑張ってみますと言ったんですが、どうしようかと思ったんですが、約束が果たせそうでほっとしています、来年で50年を迎えます。
高校卒業後、松竹歌劇団の養成所に入る。
舞台の女優さんになりたかったので、全部教えてくれると言うので行きました。
NHKが放送劇団のタレントの募集をやっていると言うので、行ったら受かり、NHK俳優養成所に移りました。
終戦の翌年に小学校に入りましたが、1クラスは77人で6クラスあり、2部授業でした。
中学校は学年で400人ぐらいいました。
子供のころは野性の子みたいでした。
先代の水谷八重子さんに憧れていました。
松竹歌劇団の養成所では日本舞踊、バレエ、タップダンス、声楽など、全部やります。
70人ぐらいいてビリから2番目でした。
稽古はすさまじかったです、追いついてゆくのに精いっぱいでした。
その後NHKに行って劇団「三十人会」に入りました。

凄い明るい子だと言うことで、若山源蔵さんとお茶のひと時というラジオ番組に出演する事になりました。
若山さんには本当に色々と教えていただきました。
声と云うものはどういうものかと云うことを教わりました。
その番組の時に目の不自由の方から手紙をいただいて、素晴らしい声、可愛くて明るい声ですねと云う内容だった。
目の不自由の人は聴力には鋭敏で、その人からのものからこういうふうに褒められることは大変なことだから心してやるようにと云われて、若山さんは真剣に教えてくれました。
「一丁目一番地」、芸術祭参加作品等にも色々出させてもらいました。
10cm近くある厚い台本を1カ月前に渡されて全部覚えて来いと言われたりしました。
マイクの使い方などよく覚えておけと言われて見て勉強しました。
NHKでは色々学びました。
「天使の部屋」はNHK俳優養成所の女の子の卒業記念番組としてTVに出してもらいました。

アニメのデビューは東映の動画のプロデユーサーが面白いということで呼んでくれて、「少年忍者 風のフジ丸」「魔法使いサリー」「ハクション大魔王」とかに出ました。
仕事が次々に来て忙しかったです。
演出家の要求には答えていかなくてはいけない。
NHKの芸術参加作品の時に、少女の役があり、嵐の中でのシーンで何度も何度もやったが駄目だった。
滝沢修先生が来いといってくれて、「走ってきたらスーッとしゃがめ」と云ってくれて、一発でOKでした。
その時の出来なかったことに対して惨めだった、一生の惨めな思い出です。
その思いがあるからこそ、どんなことをしても稽古は休んじゃいけない、仕事を甘く見てはいけない、と云う思いがあります。
スタジオに行って出来ないと云うことは恥ずかしいことだと言うのは若山さんの教えです。
出来なければ出来るまでやれ、そのためには勉強しろと云うことです。
声に対しての使い方は長唄、清本など全部お稽古を続けていました、だから忙しかったです。
教える側も妥協しないので、よれよれでしたが、それが大事なことでした。
愛川欽也さん、大平透さんと一緒にやらせていただいて、トップの男性の声の仕事にちゃんとくっついて行きました。
NHKでデビューした時に古今亭志ん朝さんとの番組を一緒にやらせていただいて本当に運が良かったです。
運があるから努力が出来る、努力するからいつの間にか誰かが引っ張ってくれる。
そう思われないかもしれないが、ねちねち努力するタイプです。
声と云うものは作るものだ、だからお稽古ごとに行きなさいと言うことだと思います。
台本を読み込む力は大事で、そのためには本を読んだり、舞台やそのほかのものなどを見て勉強しないといけないところだと思います。
今声を鍛えるために義太夫をやっています。
小唄、清本、長唄をやって今は義太夫です。
『大改造!!劇的ビフォーアフター』では6時間声を出し続けるので大変です。
1969年に「サザエさん」に出会います。




2018年4月7日土曜日

高村薫(作家)              ・愛しき命を見つめて言葉を紡ぐ

高村薫(作家)              ・愛しき命を見つめて言葉を紡ぐ
1953年大阪生まれ、1993年に『マークスの山』で第109回直木賞受賞、その後も重厚な社会派サスペンスで数々のベストセラーを生み出してきた高村さん。
1995年に起きた阪神淡路大震災2011年の東日本大震災をきっかけにその作風が大きく変化しました。
近年のノンフィクションの空海を初め、仏や仏教をテーマにした作品を多く手掛ける高村さんに、二つの震災体験を通してどのように世界観が変わったのか聞きました。

阪神淡路大震災の当日、真っ暗のはずなのにドンと揺れて目が覚めると、外が明るいんです。
家がぎしぎし音をたてて揺れる、言葉がない。
本当に怖いと声が出ない。
自分の持っていた言葉世界が瞬間的に失われて、ほんとうに空っぽになってしまう。
人と云うのは自分が息をしていることもしばらくは気が付かない。
言葉を失ってしまったあとに人間が何をするかと云うと、新たに言葉をかき集めようとするが、うまくピッタリする言葉がない。
言葉をかき集めないと自分の存在が問われているわけで、その中でどういう言葉もしっくりこない中で、自分の中に開いた穴が埋められない。
不安、所在の無さが膨らんでゆく。
亡くなった方たちが体育館とかに並べられてゆく。
自分が生きてきてはじめて沢山の死者の気配を感じました。
気配を感じた時に、なんで自分が生きていたんだと感じました。
沢山の亡くなった方がいてこの差はなんだと思いました。
それを埋める言葉を探して行った時に、これは説明が付かない事、理屈で納得が出来ないことに対する一つのアプローチの仕方として、こういうことを説明しない仏教があるかもしれない。(?)
そこからほんの少しだけ仏教に近づいて行ったと思います。

不条理、偶然の重なりでしか見えない出来事に自分が遭遇したという事態を言い当てる言葉として仏教でいう縁起しかないとその時思いました。
縁起と云う仏教の伝統的な考え方で人間の事、世界の事を眺めるのが一番だと思います。
この世界のあらゆる現象も、存在も単独で成立しているのではなくて、原因が有り結果が有り縁があり、それが網の目のように絡み合って全ての現象や存在はなりたっている、と云うのが縁起の立場で割としっくりくる人は多いと思う。
キリスト教、イスラム教はこの立場に立たないで神の意志が入って来る。
ブッダの仏教は徹底した分析手法で苦悩の原因はどこにあるのか、掘って掘って、そこの根を断てと言うのがブッダの手法で、原因から結果に分析して、結果から原因に遡及するとか、行ったり来たりすることを繰り返すことによって自分の苦悩、根源を断つというやり方。
一般の人間は座禅をしないし、念仏も唱えないし、普段の生活の中で人間の生き死に、世界の成り立ちを縁起と云う言葉で納得するよりほかに方法がない。
そういう考え方があると言うことを知っただけでも大きい事だと思います。

震災とは関係なしに知り合いが病気で亡くなったり、母が亡くなったりしましたが、自分も老いてきて、死の事を考える。
その時に縁起と云う考え方があると、仏教の基本は生きる時は生きる、死ぬ時は死ぬと言う単純明快なところに立つことができる。
そういうふうに思えば、色んな災難に向き合う時に、向き合う事ができるというか、楽なんですね。
幸せ、不幸せ、生きる、死ぬとかを眺める目が本当に変わったと思います。
結論から言えば物凄く楽になりました。

バブル崩壊で不況は長期化、この暗い状況を救う知恵が仏教にあるのではないか、そんな思いで13年の歳月を掛けて書いたのが、『晴子情歌』、『新リア王』『太陽を曳く馬』
の3部作。
とっかかりは、先ず自分がどこから来たのかと云うことです。
今ここにいる、そしてこれからどこへ行くのか。
自分が今まで拠って立ってきた世界は何だろう、親がいてその親がいて、そして近代の日本の歴史に初めて目が行きました。
不況の中で漠という不安があり、阪神大震災が起きて、オウム真理教の事件、金融機関の破たん、自分たちの経験したことのない時代が来るなあと言いながらミレニアムを迎えて21世紀になり、色々なことが重なって一体自分はどこにいるんだろうと言う思いが有りました。
それを自分なりに確認したかった。

情報のやり取りが頻繁になると見なくてもいいものまで見てしまう。
非常に騒がしい状況で何が正しいのか、どうしたらいいのか、何も分からない、そういう中で確信を持って自分で納得してこうだと生きてゆくことができない、それが生きづらさなのかと思います。
今は病気になっても色んな選択肢だけが用意されて、病気になった人が自分で迷わなければいけない。
この薄暗い時代をどういうふうに生きていったらいいんだろうと、私なりに仏教と向き合ってきました。

東日本大震災、築きなおす過程にあった自分の世界が又崩れ去ることを経験しました。
日本の終わりを感じる様な衝撃でした。
私は密教に縁がなくて、共同通信社から空海を書いてみないかとの話が有りました。
空海は結果的に一番民衆に近い存在になった。
困った時の弘法様、信心する人の一番身近な神様が弘法大師だったということは痛切に感じます。
死者の事を思って流す涙は自分の喪失のダメージを和らげる効果が有るから、泣いたり祈ったりするんだと思いますけれど。
祈ると言うことは自分の悲しみを和らげる為の身ぶりだと思います。
東日本大震災をきっかけに書きあげたのが『土の記』
奈良県の山間部、妻を亡くした72歳の男が田畑を耕し余生を送る物語。
津波で押し寄せた海水は土をかっさらって行った、土と云うことでは東北も奈良県の山間部も共通している。
草、土の中には虫も、種も彼らも一緒に流されてしまった。
でも東北と地続きで続いている。
虫、草、鳥、いろいろな一つ一つの命にこの主人公は感応している。

どんなに覚悟、準備していてもいざそういうことが起きてみると又おんなじことをするし、おんなじように言葉を失うし、立ちつくすと思う、それが人間だと思います。
何が起きるかわからない、こういう世の中だから必要以上に構えることはないかなあと思います、構えても無理だと思います。
ゆるく考えたらいいのかなあと思います。
言葉を失ったら掻き集めて、その繰り返しをして、死ぬときまでは生きる、それしかない様な気がします。
死について考える、死の苦しみに接するのは実は生きている人間なので、生き残った人が死を考えるので、死の事を考えるとそのために生きることがある。
縁起と云う考え方があるからと云う訳ではないが、沢山の死を目の当たりにした時に、その隣に生きているものがいると、生きているものに目が行く、例えば草とか。
その生きているものが輝いて見える、自然な感情だと思います。
死ぬと言うことの経験の次に生きているものに眼を移すことで救われる、自分が楽になる。
自分の気持ちが楽になるという事は、自分の為だけではなくて隣の人に楽になった気持ち、態度、言葉で接することができるのかもしれない。
私の場合には楽になった立場でものを書く、そうやって沢山の死があったからこそ、その次に生きているものに目が行く、その連鎖があったし、いまも続いているのかなあと云う気がします。







2018年4月6日金曜日

竹中功(コミュニケーション講座講師)   ・会話のヒントはお笑いの世界に

竹中功(コミュニケーション講座講師)   ・会話のヒントはお笑いの世界に
昭和34年大阪市生まれ、同志社大学を卒業後、吉本興業に入社し、広報宣伝企画新人タレント育成の為の学院の開校など、さまざま仕事に取り組んできました。
現在はお笑いの世界で培った経験を活かし、笑いの大切さや不安を取り除くコミュニケーションの方法を教えています。
又お笑い芸人と慰問をしたことが縁で、定期的に刑務所を訪れ、受刑者を対象にした社会復帰の為のコミュニケーション教育にも力を入れています。

35年間勤めた会社を辞めました。
自分の時間をマネージメントをしたかった。
小学校の頃、ラジオを聞いていて深夜番組などにも手紙を出したりしていました。
笑福亭仁鶴さんが好きでした。
大学卒業して吉本興業に入社しました。
笑いの世界に関わりたいとは思っていました。
漫才ブームが有り東京進出して、その後全国で活躍するようになって、大阪では人が足りなくなりました。
製品(芸人)を製造しなさいと言うことになりました。
(商品(芸人)だから大事にしなさいと言うような捉え方でした。)
入社半年で学校を作ることになりました。
宣伝費も無くて、梅田にあった劇場に学校が出来ますと、看板を観て応募した男が浜田君です。
同級生に「まっつん」(松本)がいて、お笑い芸人になれるのだったらと言うことできたようです。
その二人ダウンタウンが一期生でした。

最初ぼそぼそ話していて大丈夫かと思いました。
段々明るくなって夢を語るようになりました。
お笑いで学校で学ぶという事は屋号が無いので、ノーブランド漫才と名付けました。
「松本」「浜田」という名前での出演は当時は認められなかった。
昭和57年に学院がスタートしましたが、何やっていいか分からずジャズダンスなどをしました。
チャンバラの殺陣、着付け教室、フラメンコ教室などやりましたがフラメンコは評判がよくなくて止めました。
夢、目標を語っている子は素晴らしい、育ってゆくと思います。
語ることで手伝ってくれる人が現れるもんです。
さんまさん、紳助さん、巨人さんも稽古場に来てくれたりしました。
彼らもまだ若かったので自分では弟子を持っていなかったので、アドバイスをしてくれたりしましたので、皆励みになりました。
10代の女の子だけをターゲットに劇場を作ろうと言うことになり、ノーブランドの連中を紳助さんが集めて一緒に仕事をしてくれたりしました。

みんなが一体感を持つような楽屋の雰囲気でした。
どこかではライバルだったが学びあうと云うことは大事だと言うことで楽屋の面白さはありました。
1年目では売れなかったら学校は辞めようと云うような感じだったが、新人がいろいろ出てきてくれました。
人と違うことをやろうと言う人は伸びて行きましたね。
良い所と悪い所見極めてコンビネーションを作って行くのが芸の面白いところなので、恥ずかしがり屋だったらそれを認めるのが芸の面白いところだと思います。
大阪の笑いと東京の笑いは違う。
関西は自分とか家族とかを笑い物にする、自虐、関東は他の物を笑う。
関西系の笑いは自分の失敗、弱点とか、不得意なところさえも武器になる。

吉本に在籍していた頃、東北も担当していて仙台、会津若松などにいたりしたが、秋田刑務所の慰問に行く機会が有り、90分のショーをやることになり、僕の担当が60分でした。
前の若手芸人が10分で降りてきてしまったので、せっかく集まってもらったので、喋っているうちに喧嘩などをする人がいる事に気が付いて、喧嘩などしないで男なら社会に戻ってから後輩などからあこがれる男を目指して下さいといって、それからその刑務所は喧嘩が無くなったんです。
山形の刑務所で釈放前の教育をすることになり、社会復帰の教育をします。
自動改札機の通り方とか生活、物価を学んだりします。
今6万人位刑務所に人が入っていて1名に300万円の税金がかかっています。
再犯が無いようにするのも大切です。
皆に望むことはこれからはしっかりと住む所を決めて、働くところを決めて税金を納めてください、と云うのが僕のきめ台詞です。

自分史を書こうと言っています。
そのためには自分にインタビューしないといけないと言うことでインタビューの仕方を教えます。
パソコンで10歳の自分自身に逢って自分にインタビューする。
1問目、2問目は僕が質問して学校での遊び、夏休みに家族でどこかにいったのか聞いて3問目からは自分で考えてインタビューする。
大人になったら何になりたいと最後に僕から聞いて書いてもらう。
大工になりたいと言った人が一人いたが、その人に拍手、他の人は駄目じゃないかとか10歳の自分に会ってもらう。
次に未来の自分に会いに行く、死ぬ前の自分に聞きに行く。
誰かに謝りたいとか御礼を言いたいとか言って来る。
そして現在について聞く、自分を知ると言うこと。
そうして書いてゆくものを増やしてゆく事で自分史が出来て来る。

100万円あげるからどうしたいかなど又問います。
そうすると眼を輝かして反応する。
刑務所内ではなかなか自分の意見を言う場面がなかったり、どう質問したらいいか判らないらないということもある。
そこからコミュニケーションと云うものを理解してもらう。
不安はだれも持っているので、引き出しに入れておいて、先にしなければいけないことを順番にしましょうと言っています。
自分にインタビューをすることで自分で考えると言うことが新鮮です。
彼らは答える側にはあるが聞く側に回ることはなかなかないので、聞くという行為は大事なので、訓練をして最近名インタビュアーになって来ています。
紙に書くと言うことも大事です。
添削したりして、そうすると段々記憶もくっきりとしてきて内容も具体的になる。
具体的にものを語ろうと言うことになる。
事件が起こったということは上手く言葉が交わせなかったり、結局暴力になったり犯罪になったりするのがあるので、それに気付くためにも自分が自分にインタビューして、インタビュー上手になると相手の気持ちを察することができるようになる。

相手を知るためには自分を知るという第一歩が自分史のインタビューだったんです。
自分は人とも違うし、自分は自分でも大事にする。
入っている人たちは褒めてもらった人があまりいないですね。
前向きな気持ちになってもらうには褒めたり、楽しい話をしたり失敗談をしたりするのが大事だと思います。
初犯の人は50%位再犯を犯すと云われているが、僕がやっている3年間では100名位授業受けているが再犯は一人も犯していません。
友達や家族が応援してくれていると思う、成果が出ているものと思います。
考えるよりも感じろと言いたいです。
家族で皆自分史を書いて見せ合いっこしたらいいと思います。














2018年4月5日木曜日

鬼頭隆(童話作家)           ・“おじん”が紡ぐ物語

鬼頭隆(童話作家)           ・“おじん”が紡ぐ物語
67歳、元々印刷業を営んでいましたが、子供の誕生日に何を贈ろうかと考えていたときに心の中に童話が浮かんで話をして聞かせました。
子供達の反応に手ごたえを感じた鬼頭さんは思いきって印刷業から童話作家に転進しました。
鬼頭さんに子供達がつけた愛称は「おじん」です。
鬼頭さんが紡いだ物語はこれまでに1000編以上にのぼります。
自宅で子供たちに童話を読み聞かせていましたが、小中学校に招かれて朗読することも多くなり、この30年間で1200校余りの学校を訪れてきました。
童話作家としての歩みを初め、物語を通して子供たちに伝えてきたメッセージについて、うかがいました。

当時毎朝6時半から子供達とソフトボールをして遊んでいました。
その時についたあだ名が「おじん」でした。
しかしその時の年齢は32歳でした。
小学校3年生の時に、担任の林先生が家に来ないかと云われていったときに、おまえは自分のことしか考えていない、お前がもっと友達の事を考えたら先生はもっと好きになれる、いい奴になれるのにと言われていた。
童話を書きだしたときに、ふっと先生の事を思い出して、先輩からもう先生は亡くなったが、先生が先輩と会うと鬼頭はどうしているといつも気にしていて、自分は教師として誰一人子供を救えなかったと云う思いがあり、先生は定年後懺悔の気持ちから木彫を彫っていたということを先輩から聞きました。
童話を書いていることを先生に知らせたかったと思いました。
「6年4組高島学級」という童話の高島学級と云うのは林先生、母親とかがが投影された作品です。
作品の母親ほど酷くはないが、自分の母親は物心付いた時には生むんじゃなかったとよく言っていました。
どうしてそう言っているのか判らなかった、いまだに判りませんが仕方ありません。

若い時にノートに詩を書いていました。
コピーライターになりたった。
印刷会社に入って営業に配属されました。
しばらくしてから独立をしました。
何をやってもむなしかった、やり甲斐を感じられなかった。
働く意欲が持てないでいた時に、転機がおとずれました。(32歳)
息子が5歳の誕生日を迎えると言うことで、今まで何を買ってきたんだろうと思っておもちゃ箱を見たら壊れていて埃だらけになっていて、怒ろうとした瞬間に、そうさせたのは自分ではないか、心ないプレゼントを与えてたと思って、自分の納得するものをと思って探したが、見当たらなかった。
本のコーナーの所に行って童話を長い間読んでしたら、一つの童話が思い浮かんだ。
家に帰って話をし出したら息子も姉も泣きだした。
翌日に娘が友達を連れて来て同じ様に話をしたらやはり同様に泣きました。
大人よりも子供ってすごいと思いました。
お金じゃないんだ、物語で泣くんだと思いました。
毎日毎日童話を読み、子供と付き合わなければ損だと思いました。
「健太と次郎」?という物語で可愛がっていた犬が死んでしまってお墓に埋めるが、おばあちゃんに星になっているのかなあと聞くとお墓の中で骨だけになっている、という。
次郎は土になって行く、お墓の所にタンポポが咲いているが次郎が咲かせたものなので、次郎は死んでも生きている、と云うような話です。

童話を書いていこうという事が強かったです。
新しい物語を書いてゆくとそのうちに、ご飯を食べることも忘れて夢中になって書いていました。
創作して入りこんでゆくことが楽しかったです。
書く時間が多くて、印刷の仕事はおろそかになり、仕事が無くなって来て収入ゼロになってしまいました。
或る時童話とはなんだという疑問にぶつかって、宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」の中のサソリの星と云う所に、自分の命を人に与えたら人が一日生き延びられる、自分が死んでゆく時には何の役に立たず死んでいってしまう、そういうことを書いてあってそれが衝撃でした。
「人の為に」それは林先生の言葉ではないか、「誰かの為に」林先生は言っていたな、自分は何もしていない。
生きると言うことは人の為ではなく自分の為にと思っていたのに、人の為にやっている人がいる。
宮澤賢治はどうせ作家だから童話と違って実生活はちゃらんぽらんに生きていたんだろうと思っていたが、調べて行ってみると、自分の生き方が童話と詩になった人と云うことを知った時には衝撃的でした。

宮澤賢治の本を全部読み終わって、探したら宮澤清六さんの「兄のトランク」という伝記が有って、それを泣きながら読みました。
御礼を言いたくて手紙には「とにかく感動しました、僕はこれで何とか生きていけます」と書いて返事は結構ですと書きました。
3年後の元旦に宮澤清六と書いた年賀状がきました。
そのお礼に手紙を書きましたら、遊びに来るようにと云う手紙をもらって、伺うとにしました。
家に伺った時に清六さんは妻に頭を下げて「この人を助けて下さい」と言って、「この国では童話で生きてゆくことは難しいのであなたが助けてあげてください、家では僕も姉も両親もみんなが賢治を助けてきましたから」といってくださいました。
私は金も稼がず子供を集めて暢気なもんだと周りからずーっと言われてきましたから、88歳の清六さんからまさか助けてあげて下さいと言われるとは思いませんでした。
その場に泣き崩れました。
「鬼頭さん童話で有名になろうとかお金儲けするとか、思わないでください。
童話を書いて行くことでお金になったり、本になったりすることはかまわないが金儲けにするため有名になる為にするということは駄目です。
賢治もそうしましたから」と云われ声をあげて泣いたのはその時だけでした。
どんなことが有っても童話だけを書いてゆくと、その帰り道に妻に言いました。

童話の内容としては子供達の置かれた環境の中から自分の体験とドッキングさせたものです、そういう形で書いていきました。
当時毎朝6時半から30~50人集まってきた子供達とソフトボールをして遊んでいました。
色々な子供達がいました。
両親ががんで亡くなっている子供、お母さんが男をとっかえひっかえしている子、朝帰りのお母さんの子、父親が家を出て行ってしまっている子、両親がいるのに寂しそうな子、恵まれた子供もいるし、そういった子が皆一緒です。
求めてるのはソフトボールをやりながら笑うことです。
その子を励まそうと思うと童話が浮かんできます。
1200位は書いてきました。
自分が子供の頃の寂しい状況を無くしたいと思って、寂しそうにしている子には大丈夫と云って励まします。

最後は希望の持てる展開になるような内容になっています。
希望を掴むことは自由ですから。
最初は朗読はしていませんでしたが、小中学校、高校などから頼まれて朗読会を行ってきましたが1000校以上回っていると思います。
体育館でやりますが、暗くしてありますが、子供達の心の眼が段々向いて来るような感じがしてくるのが判ります。
娘と一緒に行きますが、ピアノを担当してくれていて、伴奏のもとに童話を語っていきす。
娘がやってくれているのでピアノの事を気にせず子供たちに全力投球できます。
書き始めたころの作品もそのままになっているので、古い作品を今の感性で書きなおしたいと思ってやり始めています。
書きなおしたものは作品も長くなってくるし、内容も深くなります。


2018年4月4日水曜日

青柳秀侑(映画評論家)          ・今日観る映画が一番

青柳秀侑(映画評論家)          ・今日観る映画が一番
昭和35年神奈川県生まれ、茨城大学を卒業後、文化放送にアナウンサーとして入社、その後独立、映画評論家として活躍しています。
ラジオ深夜便では月に一回、日曜日の夜11時代にお薦めの映画を紹介する、「待ち合わせは映画館で」を担当。
このコーナーは先月終了。
青柳さんは平成7年から今年の3月までで22年間になります。
これを機に22年間を振り返っていただき、併せて映画との出会いや映画への思いをお話していただきます。

深夜便がなければ22年間も映画を観続けなかったかもしれない。
幼稚園の頃からおしゃべりでした。
高校生ぐらいの時にアナウンサーになろうと言う気持ちになって、語っていきたいという考え方が芽生えたと思います。
高校時代は運動会の放送、文化祭の司会などをやるようになってすこしづつ、喋ってるなあと周りに知られるようになりました。
大学時代はアナウンサーの研究みたいなものはなかったので自分たちで作って、初年度に水戸NHKのFM局を学園祭に呼ぶということを最初にやりました。
映画は子供ののころから見ていました。
川崎の駅前に映画街が有りました。
5歳のころに姉といっしょに観たのが「禁じられた遊び」でした。
強烈に記憶が残っています。
もう一本は「愛情物語」でした。
ディズニーの映画も「ワンワン物語」アニメも面白い、凄いなあと思いました。
父も映画が好きでした。
怪獣映画もよく観ました。

演劇は大学生に入ってから興味を持ちました。
演劇研究会で発声練習を丁寧にやったら芝居が面白くなりました。
映画と云うものは人の人生を見せてくれるもの、ドラマチック、アクション、恋愛でも、そこに人間が映っていて自分には合っているというふうに思いました。
ドラマを共有するのは当時映画館しかなかった。
映画と生身の人間が寄り添って一つの空間をつくっていくのはいいですね。
昭和59年に文化放送にアナウンサーとして入社。
隙をみては映画を観ていました。
試写会にも出かけられ、淀川さん、小森さん、荻さんとかを垣間見ました。
淀川さんは映画に関する色んな事を立て板に水と云った感じで喋っていました。
私がラジオで映画の話をするとは思っていませんでしたが、淀川さんは或る意味でのラジオの映画語りの先生です。
淀川さんも60歳ぐらいから映画教室観たいなものを始めるが、最初は下手だったと永六輔さんが言っていました。
伝えたい思いが有り、だから繰り返す言葉が強くて「さよなら、さよなら、さよなら」につなげってゆくんです。

淀川さんが臨場感あふれる語り口で喋っていたので、それを真似て見えるように映画を伝える様にしたくてラジオ深夜便の映画の紹介ではそういったふうに22年間やってきました。
「つぐない」と云う映画の中で、一般の人には判りずらいところは、自分の中に一回落とし込んで、咀嚼してなぞ解きをしてこうではないだろうかという形でリスナーに伝えられたらまたおもしろいと思います。
年間250本 30年ぐらい見ていたとして7500本、それ以上見ているので今までにおよそ1万本観ているが、覚えているかといわれると覚えていませんと云うしかないが、時々TVで流れていたり音楽が流れていたりすると、シーンがぽこっと浮かぶようなことが有ります。
自分の心に引っかかった場面、そういったものがあります。
「サウンドオブミュージック」もくじけそうになった時にみます、好きな映画です。
*「マイフェアレディー」から「君住む街で」(音楽)

ラジオ深夜便では心の機微、そういった映画を紹介したかった。
余り有名なものよりもひっそりと小さな映画館にかかっていてロングランを続ける様なものがいいと思って紹介します。
映画の中の人物に共感出来る様な映画もいいですね。
映画の作品の中にまで入れるような作品を紹介できたら一番いいなあと思います。
日常で退屈だと思ったら映画を観ればいいと思います。
3Dになって、存在しているという映画の楽しみ方も増えて来るんだろうと思います。
淀川さんに「今までに一番という映画をあげるとしたらどれですか」と云ったときに、「おまえは馬鹿だねえ、今日観る映画が一番になるかもしれないじゃないか」と云われた時に、勝手に決めつけることはいけないと思いました。
見どころは自分で探すものだと思います。
一生に一度出会える宝物の映画が有るかもしれない。
時代のふるいに掛けられて残っているものは見直す価値はあります。






2018年4月3日火曜日

森田和市(南信州観光公社市民ガイド)   ・伊那谷の桜守

森田和市(南信州観光公社市民ガイド)   ・伊那谷の桜守
長野県の飯田市、伊那谷の谷のお陰で木々が風雪に守られて樹齢200年を越える桜が残っているのではないかと森田さんは考えています。
花の時期は恋人に逢うようだと言う森田さん、今年79歳。
50年前に南アルプスの残雪を背に立つ八重桜の老木と出会って、それが桜とのきっかけになったそうです。
今は先人が残してくれた貴重な財産を次世代に残すとともに、伊那谷を訪れる観光客の市民ガイドとして活躍しています。

短い期間ですが、毎年恋人に会えるような思いです。
4月1日が伊那谷の開花予想になっていますが、もうちょっと早くなりそうです。
例年は4月4,5日が開花になっています。
200年以上を古木、銘木と云っていますが、118本あります。
全国的に見ても非常に多いと思います。
福島県、奈良県が多い。
長野県では天然記念物指定の桜の木310本あります、一番だと思います。
伊那谷で一押しは木の大きさ、樹齢と云う点では「安富桜」、安富さんという家老の屋敷があったと云うことでこう呼ばれている。
一本に支柱も無く450年と言われている。(太さ)6.4m
桜の木自体が美しい。
「黄梅院の枝垂れ桜」 飯田で一番ピンク色が濃くて枝垂れ桜では」一番です。
皆さん驚嘆の声をあげます、樹齢350~400年と云われます。
「麻績の里舞台桜」(枝垂れ桜) 通常花弁は5枚ですが、この桜は5~10枚がランダムに咲き、日本にはどこにもありません。
「黄梅院」は武田信玄の娘さんの菩提寺の為に作ったお寺です。

伊那谷は南北に長い谷で東に南アルプス、西に木曽山脈からの山並みが有り、山々に囲まれた温暖で風の弱いところになっています。
彼岸桜は材質がもろくてちょっとした強い風で折れ易いんです。
飯田を400年前に治めた脇坂安元脇坂安治という二人のお殿様が枝垂れ桜が好きで自ら種をまいて枝垂れ桜の苗をお寺などに送ったという伝説が有ります。(文書はないが)
400年ものの枝垂れ桜は脇坂様の残されたものだという気がします。
南信州は天竜川を挟んで、両岸にいくつもの支流が有り集落が有り人が住んでいました。
各集落のお寺に桜が植えてあると、農業用の使用木になっていて、明治5年までは旧暦だった。(1年が355日)
3年に1編、閏月が有って13カ月になっていたが、それでも高低差が有り、自分の集落にあった農業指標を見るためには、彼岸桜の開花を待って農作業を始めれば正確な農作業をすることができる。
そういう訳で重要な木であった。(桜以外にはない、梅では早すぎる)

市民ガイドとしてバスに同乗して桜の案内をしています。
観光会社から指名をされます。
市民ガイドの育成もしています。
「桜守の旅」を始めたのが2000年で18年になりますが、桜の位置から桜のイロハから教えています。
市民ガイドは40人ぐらいいて、今年も9人増えました。
リタイアした方が多いが、今年は40代の女性も参加してくれました。
一本でも多く桜を残したいと思っています。
いいものを残したいと思って、接ぎ木をしたりして苗木を作っています。
八重とか変化にとんだいい桜は種では残らないので接ぎ木をしてやらないと残らない。
江戸時代にいい桜が有ったという文献があるが、今は消えてしまったものがいっぱいあります。
品種のいいものほど接ぎ木しかない。
今まで3,000本育成しました。
難しくて50%付けばいい方です。「森田桜」として広めています。
これまで新しい品種を3種類見つけました。
文献にも載せられることができました。

50年前の5月1日に松本に向かう時に墓地があり一本の八重桜が咲いていて、満開でした。
その景色を見たときに心を打たれました。(29歳)
背景は南アルプスに白い雪が残っておりました。
夜中に桜の種を探して木に登っていたときに、おまわりさんからとがめられたこともありました。
桜のことばっかりやっていて、妻が子供を連れて出ていってしまった事もありました。
妻も60歳を過ぎてから好きになったと言っていて、この人から桜を取ったら何も残らないと思っていたんだと思います。
妻は今はよく協力してくれます。

桜の名所作りのアドバイザーもやっています。
単に桜を植えるだけではなくて色々アドバイスします。
天竜川に200本の桜を植えるにあたって、ソメイヨシノと云うこともあったがそれでは当り前な光景なので、八重桜を植えたらどうかと提案して実現しました。
もう20年たったので大分大きくなりました。
八重桜の街道は全国でも少ないです、注目もされ始めました。
一昨年9月に電話が有り、作る映画に協力してほしいと言われました。
「北の桜守」 蝦夷山桜があるが、種から育てられます。
台本では苗を送るとなっていたが、種の方がいいということで台本も変わりました。
吉永さんが桜の手入れをするシーンが有り、撮影現場にも立ち会いアドバイスもしました。
細かく色んな事を聞いて、吉永さんは役作りに熱心な方だと思いました。
桜も色々ある(約400品種)ので、色んな変化がある、花びらが八重、菊桜(100枚以上ある),桜に近づいてみるといろいろ変化がみられる。
木の下に行ってみると風情が感じられる。
桜切る○○(馬鹿)は、悪い切り方をしていけないということだと思います。
野放図では枝ぶりも悪くなってしまう。
桜の為に汗を流す後継者が欲しい。
苗木からと云うような人はあまりいない。
私は桜守ではなくて、桜に自分が守られていると思っています。















2018年4月2日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)    ・【近代日本150年 明治の群像】女義太夫 豊竹呂昇と竹本綾之助

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)・【近代日本150年 明治の群像】女義太夫 豊竹呂昇竹本綾之助
講談師 神田蘭
明治の文豪たちがはまって通い続けた。
現代は女流義太夫と云われている。

義太夫
江戸時代に前期は文化の中心は上方で、竹本義太夫が始めた浄瑠璃の一種だった。
浄瑠璃は三味線を伴奏として大夫が言葉で語る、音曲で劇場音楽。
口演は謡うと言うふうに言わないで語るもの。
浄瑠璃には色々あって○○節と言われて、義太夫は義太夫節と言われて、浄瑠璃の一種。
現在は義太夫節河東節一中節常磐津節富本節清元節新内節宮薗節(薗八節)の8流派が存在する。
人形浄瑠璃が基本だと思う。
女性の義太夫の活躍の場所は寄席だった。
声帯も違うので、女性だからできるという語り。
女性がやるのは素浄瑠璃だった。
落語の「寝床」で義太夫を披露するものがあるが。

女義太夫の講談による紹介
江戸時代の文化文政時代に寄席などで披露していた。
天保の改革で女芸人禁止令が出来て、寄席に出られなくなり、すたれていった。
明治10年、寄席取締規則により、女芸人が法的に認められるようになる。
女義太夫が一ジャンルとして、隆盛を極めて行く。
歌舞伎と人気を二分していた。
明治33年東京だけでも女義太夫は700人を越えていた。
パフォーマンスにあったと言われる。
若い女性が客席に向かって微笑みかけて、佳境に入って来ると頬を紅潮させ髪を振り乱し(ちょっとエロティック)、袖をめくって二の腕をだして、クライマックスになると、かんざしを客席に落とすという、「かんざし落とし」のパフォーマンスで観客を沸かしていた。
誰が拾うのかということで客席も沸いた。
はやし立てるお客様は学生、書生がほとんどだった。(追っかけが有ったと言われる)
夏目漱石、高浜虚子、志賀直哉などそれぞれにひいきにしている娘義太夫がいたと言われる。

当時2大スターと云われるのが、豊竹呂昇と竹本綾之助。
竹本綾之助は明治8年大阪で生まれる。
母は義太夫の三味線方で幼少から義太夫の芸を仕込まれ、11歳の頃上京、浅草の寄席で男のようにちょん髷姿で登場、名をあげて行く。(容姿端麗で且つ美声)
豊竹呂昇は明治7年名古屋に生まれる。
13歳で仲路と名乗り17歳で結婚、離婚を機に大阪に出て、1892年(明治25年)(18歳)、大阪の初代豊竹呂太夫の門へ移って『呂昇』と改名した。
呂昇は一人で三味線を弾いて、語ると言うことを行った。(弾き語りという斬新なスタイル)
絶大な人気があった。

文政8年の時に江戸では寄席が130軒あった。
天保の改革前211軒、天保の改革後、女義太夫は寄席に出られなくなった。
女義太夫ではイタリアのオペラ 狂乱の場があるがそれと通じるものがある。
「知られざる芸能史、娘義太夫」という本の中には
夏目漱石、「小川亭の鶴蝶」という娘義太夫を気にいる、と書いている。
高浜虚子、「竹本 小土佐 」に入れ込む。
自伝的小説『俳諧師』の中にでてくる主人公は「小光」に入れ込むが「小土佐」がモデルになっている。
志賀直哉、明治34年 「豊竹昇菊」、「豊竹昇之助」姉妹の義太夫が大坂から上京、志賀直哉は「豊竹昇之助」にのめり込むことが日記にも描かれている。

*豊竹呂昇の義太夫 「野崎村の段」

明治33年に学生が娘義太夫を聞きに寄席に出入りするのを差しとめる禁止令が発令された。
明治後半になると歌がはやり始めて、娘義太夫も陰りが出てくる。